十三章 第36話 蒼相氷
「子爵閣下を守れ!!」
数名の騎士が飛び出して、血を流して倒れるルオーデン子爵を庇う。
真側に立つ黒騎士の威圧感を無視した凄まじい胆力と献身だ。
彼らが真上に構えたヒーターシールドに青いスキル光が灯る。
「ヴゥウウウウ……ッ!!!!」
その光に刺激されたように猛々しい唸りを双角ヘルムのスリットからあげ、黒騎士は己の得物を振り上げた。
大剣にしても長すぎる漆黒の剣が、内側からの燃えるような濃い赤のスキル光に炙られ輝く。
ガァン!!
たったの一振りで騎士のスキルは砕け、盾がひしゃげて吹っ飛んだ。
「ヴゥッ!!」
「拙いっ、氷よ!!」
巨剣は目の錯覚を疑うほどの速さで引き戻され、カバーの間に合わない騎士たちに振り下ろされる。
ゴシャッ!!
ギリギリでわたしの生やした氷の柱がそれを受け止めるけれど、一撃でかき氷にされて辺り一面にぶちまけられた。
「各員、援護せよ!深淵は我らが王の御旗のもとに!!」
パーマーさんの怒号。黒紫の輝きが波紋を描いて友軍を包む。
強襲を受けた混乱やざわめきが水を打ったように消え、軍属にしか効かない『深淵の統率者』がわたし以外の全員を一つの巨大な生き物に変えた。
「ヴゥウァウウッ!ヴゥウウウウウウウウ……ッ!!!!」
黒騎士はそれを見て怒り狂うように身を震わせ、天へとくぐもった咆哮を放つ。
そこに殺到する短弓の射撃。黄色いスパークを纏ったそれは鎧を貫くことを期待したものではなく、当たればよかろうなデバフの雨だ。
「ヴォウッ!!」
出鼻をくじく量の攻撃に抵抗を貫通され、麻痺のスキルが彼を襲った。
ビクッと巨体が痙攣した隙を突いて、足元に居た騎士の一人が盾も剣も捨てて子爵様を抱え上げる。そして猛然とこちらへ走る。残りはその背を守る形で同じく走りだす。
彼らの鎧に当たるデバフのボルトは、黒紫の光に弾かれて床に落ちた。パーマーさんのスキルには同士討ちを防ぐ力もあるらしい。
「後送!」
「応!!」
陣に辿り着いた救出部隊。瞬時に発令される命令。
たった一言に即応し、重傷者を怪我人が担ぎ上げて元来た通路へ退却しだす。
「麻痺を絶やすな!」
斉射から間を生じさせない交互射撃に切替える軍人さんたち。
けれど黒騎士は高い抵抗力を持ってるのか、黄色いスパークをねじ伏せるようにじりじりと腕を動かす。それに呼応するように、鎧も剣同様に奥底から赤く光り始める。
「ヴゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!!!!」
地鳴りのような唸り。膨れ上がる赤光。絡みつく雷は枯草を千切るように振り払われる。
強烈に嫌な予感がしたわたしはすぐさまその太い足を氷で固定した。
ほぼ同時に前へと踏み込む黒い巨体。氷など存在しないように砕いての突進だ。
「速いッ!?」
わたしの目にすら残像が浮かぶ超加速で一気に間合いを詰め、黒騎士は長すぎる剣を真横に薙ぎ払った。
子爵様が最初に提案して止めた盾二列陣形、その前列が中盾のスキル光を連結させこれを受ける。
ゴォン……!!
激突する青と赤のスキル光。二色の触れ合う場所から火花が盛大に飛び散った。
「ヴゥウウウウウウウウウウウウウウ!!!!」
「「「「うぉおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」
インパクトの場所から後列へと、連結効果で全ての騎士へ衝撃が分散して浸透。それでもギャッと床が甲高い悲鳴をあげ、男たちが押し込まれる。
しかし『深淵の統率者』の黒紫がぶわっと膨れ上がって前列を支え、一瞬の拮抗を作り出す。そこへ後列で二度、青い光が瞬いた。それはカウンタースキル発動の合図。分散して受け止めたはずの物理エネルギーが、青い輝きと共に前へと跳ね返る。
ギャオン!!
接触点から強烈な反撃として放たれる重い波動。
正面から食らった黒騎士の鎧にビシビシとヒビが入り、人間離れした巨体が大きく数歩も押し下げられた。巨剣を担ぐ腕も無傷ではなかったようで、ゴッと切っ先が床を打つ。
「交代せよ!弓、援護!」
絶好の攻め時。そう思ったのに、パーマーさんは鋭い声で違う指示を出した。
「え!?」
「盾が持ちません!」
驚くわたしにパーマーさんは短く答えてくれた。
ボルトの残数を気にも留めない斉射が再び黒騎士を襲う。同時に前列の騎士が盾を引いて真後ろへ下がり、後列がその隙間を縫うように前へ出てスキルを連結させる。
ザッ!ザッ!と足音すら揃う無駄のない、全員がお互いの動きを把握してるような交代。その中で確かに前列だった騎士たちの中盾がほぼ真横に割断されてるのを見て、指揮の意味を理解した。
(そうか、軽装寄りだから攻守の層が薄いんだ!でも、だったら……!!)
わたしは密かに取り出しておいたブーストクリスタルを握り込む。
矛が足りないならわたしが、矛になればいい。悪魔さえ焼き殺す火魔法で一思いに頭を、そう思って杖を掲げようとしたところで……。
「いけない!!」
パーマーさんに強い力で腕を押さえられた。
「なんで!」
「鎧のベルト部分、何かしら紋章の形跡があります!もし貴族なら、貴女が殺せば問題になる!!」
「そんな!?」
言われて視線を飛ばす。またも黄色のスキル光を打ち破り、今度は剣を大上段に掲げる黒騎士。たしかにそのフルプレートの腰鎧には、紋章の欠けたベルトが巻かれてる。
今回の作戦は貴族も逮捕対象だが、殺しまでは許可されていない。上位貴族がやるならまだしも、平民のわたしがやれば王国法に背くことになる。そういうことだ。
(それはっ、法律的にはそうかもしれないけど!!)
生まれて初めて本格的に身分制度を鬱陶しいと思った。
でも今はそんなことを考えるときじゃない。
「ああもうっ、ならどうやって倒すんですか!」
「拘束に専念してください!」
「こ、拘束だけなんて……!」
「お願いします!なに、すぐに後送した者達が第一、第二部隊から増援を引き連れてくるでしょう。ここは焦らず、ひたすら消耗させましょう!」
彼の言葉の通り、前列はもはや黒剣を真正面からガッチリと受け止めてはなかった。デバフや麻痺、酩酊といったバッドステータスを押し付ける反射技を主体に、ひたすら盾の損耗を押さえるスキル運用で耐えてる。
「ヴゥウウウウウウウ!!」
絶え間なく押し付けられるスキル効果。黄色い稲妻に緑のモヤ、薄くまとわりつく青の光を赤く色づく鎧で打ち消し、黒騎士は身体能力任せに剣を振り回す。
その一撃一撃が当たれば即死級の威力と勢い。だがハエでも払うような大味な力攻めだけで押し通れるほど、正規騎士の連携は甘くない。
騎士たちは確かに危なげなく対応してる。
(拘束だけで、消耗戦……いけなくは、ないのかな)
頭に上ってた血が少し下りてくる感覚。
子爵様がやられて、自分で思ってる以上に動顛してたのかもしれない。
それに、とパーマーさんは暴れる敵を睨みながら囁いた。
「力も速度もまるで魔獣ですが、反応が妙に鈍く動きも単調です。おそらく薬物で戦意や身体能力を上げているのでしょうが……あれではスタミナが持ちませんよ」
きらりと黒紫の光がその目に浮かんでる。
彼の持つ『深淵の統率者』は極めて高度な指揮スキルらしい。ルオーデン子爵が全幅の信頼をおいたソレが観察の末に叩き出した分析なら、わたしも信用すべきだろう。
「たしかに、そうですね……」
いつでも強引にとどめを刺す準備だけしておいて、従うのが最良。わたしはそんな風に結論付ける。
並行して『静寂の瞳』による分析もしていけば、おのずと答えは見えてくるだろう。
「わかりました。でもチマチマ足止めするのは好きじゃないから、一気に押さえます!」
「一気に?え、ええ。分かりました、それでお願いします!」
盾の損耗は抑えられても、スキルを連発する騎士の体力だって無限じゃない。隊列を組み替えて負担を減らすにも時間とタイミングの限界がある。それに、さすがにボルトの残数が心もとないのか、弾幕だってやや薄くなってる。
倒すにせよ、倒さないにせよ、今がわたしという札の切り時に違いはないはず。
「ヴゥ!!」
何度目かの麻痺がかかった瞬間、わたしはスキルを総動員して瞬間的に膨大な演算を実行。三つの魔法を用意し、そのうち二つを荒々しく黒騎士に投射した。
「水よ、溢れろ!清く凍れ!!」
水魔法初級・マジックスプリング
水氷混合魔法・トゥルーフリーズ
膨大な水が黒騎士の頭上に湧き出し、どぼん!と巨体に降り注いだ。それが漆黒の鎧を流れてしまう前に、混合魔法で凍らせる。
出来上がったのはスライムのように全身へ絡みつく、躍動感のある巨大な純氷の枷。
けど当然、そこで終わりじゃない。
「圧力と温度、それに魔力……結晶を再設計して……いける!」
不純物を含まない頑丈で溶けにくい最も純粋な氷へ、最後の魔法を重ねる。
「氷の原理は我が手に寄らん!」
ごっそりと魔力が抜ける感覚。キュリオシティのクリスタルから青白い閃光が迸る。魔眼を持つわたしにしか見えない、濃密な氷属性の閃光が。
キキュキュキュィイイイイイイ……!!
聞いたことのない耳障りな音が廊下に響き渡った。まるで何かの生き物がか細く鳴いてるような音色は、大男を縛り上げる透明な結晶体から聞こえてくる。
(本で読んだ流氷の鳴き声って、こんなかんじなのかも)
ふとわたしは関係ないことを思う。でもたぶん、現象としては同じものだ。
騒音をまき散らす氷塊に薄い青みが混じり、解けたわけでもないのに総量が減ってシルエットが細くなる。
氷属性論理魔法・フェーズトランス
氷の結晶は圧力と温度に応じて形を変え、性質もがらりと変わる。条件によっては百度を超える熱い氷なんてものも作れてしまう。それは氷の相変異と呼ばれる現象で、エクセララですら検証できてない異界由来の高度科学だ。
それを知識だけで強引に魔法化したのがフェーズトランス。
「ヴグッ!!」
黒騎士が身動きを取ろうとする。体積の減った氷の中なので、多少は藻掻けてる。でも壊すことはできない。コレはただの氷とは根本的に違うからだ。
鉄より遥かに頑丈な、薄青く輝くこの氷。この世界にはまだ存在しない超科学の結晶。火魔法における青い炎と同じ、単純な魔法の向こう側にある物質。わたしの実験中の切り札。名を、蒼相氷 。
(でも、長くはもたないと思う……!!)
相手は麻痺とデバフの雨あられを喰らってもすぐに回復するようなタフネスと、中盾とはいえ騎士たちの連携スキルを一撃で砕くような筋力を備えた人型の化け物。しかも殺してはいけないという厄介な制約付き。
のんびり構えてる余裕はない。
「下がるなら今です!あと、さすがに連発できませんから!」
「分かりました!総員、一つ前の通路まで退却し遅滞戦闘隊列を構築するっ!増援はもうすぐ来るぞ、持ち堪えろ!!」
すぐさまわたしの意図を汲んで支持を出すパーマーさん。
一斉に黒紫の光で結ばれた騎士と軍人さんが動き始める。
その時だった。
バキンッ!!
ブーストクリスタルを砕くような音がした。
わたしじゃない。だって、それはなぜか、後ろからきこえて。
意識がぐっと引っ張られる感覚。時間が緩やかになり、視野が狭くなる。
びちゃっ。
横から熱い、何か液体が吹き上がって、わたしの顔に飛び散る。
なにか、そう言う魔道具のスイッチを切ったみたいに、青紫の輝きはふっと消え。
司会の外でがらんと音が、盾が床を打つような音がした。がらん、がらんと次々に。
「……氷ッ!!」
訳が分からない中で直感に従い、振り向きざまに魔力を固めて氷の盾にする。
バキンッ!二度目の音がした。氷が弾け飛ぶ。加減抜きで展開した、騎士の盾にも匹敵する氷が、たったの一撃で。
何が起きたのか分からない。分からないが九死に一生を得たらしい。その認識に、時間が急激に速度を取り戻す。
「そ、聳えろ!」
ばくばく言う心臓の命じるままに分厚い氷の壁を屹立させる。
アイスシールドごと壁が通路を飲み込む間際、その向こうに居たのは見たこともない、灰色の魔導銃らしきものを握った男性が見えた。
「パーマーさん!後ろに敵が……ッ」
叫んでから気づく。広さを取り戻した視界に、敵以外がようやく映る。
(え……立ってるの、わたしだけ?)
純氷の中でもがく黒騎士以外の全員が倒れてる。騎士も、軍人さんも、宮廷魔法使いも。
かすかに呻いて、生きてはいる。でも動かない。白目を剥いて、痙攣して、泡を吹いて。
「あ……」
そしてパーマーさん。頼もしい指揮官は、穏やかそうな顔の上半分が無くなってて。
綺麗な白い歯が並ぶ下顎だけが、首の上には残ってて。
「あ、あぁ……!」
ようやくわたしは、自分の頬に……髪や肩にも飛び散ったものが、彼の血だと理解した。
吐き気と共に訳の分からない感情が噴出した。頭の中の全てを塗りつぶす、怒りとも恐怖ともつかない激情の塊。ソレに突き動かされるように、氷の壁の向こうへ杖を向ける。
ガシャン!!
まさにそのタイミングで壁が割られ、粗い硝子のように砕け落ちる。
そこへ流し込む火焔の魔法。
「燃やし尽くせッ!!」
割れた氷を蒸発させ、魔導銃の男性を真っ赤な津波が襲う。
魔力量まかせのフレア。オーバーキルの一撃。
けれどそれは彼に届く前に水の膜に遮られてしまう。
「それなら……あぐっ!」
向こうにも魔法使いがいる。そう判断し、すぐさま属性を切り替えて攻撃を放とうとした瞬間だった。頭の中を直接揺らされるような不快感に襲われ、イメージが崩れた。
「ふむ、奇襲は失敗か」
言葉に反して無感動な声。ブーストクリスタルを握ったままの片手で頭を押さえ、そのもとを睨みつける。火焔の途絶えた廊下には、いつのまにか七人もの敵の影があった。
一人は軽装の戦士。目元を覆う曇りガラスのゴーグルと、粘つく不快な笑みが特徴的。
三人は魔法使い。男性が二で女性が一。どこかで見たことのある金属の杖を持ってる。
二人は黒尽くめの斥候。気配が異様に薄くて、もしかしたら暗殺者かもしれない。
そして最初の男。七三に分けられた金髪以外に特徴のない、平凡すぎる顔をしてる。
「旦那ぁ、だぁから一発目で本丸を落とそうって言ったんダヨ」
黒ゴーグルの戦士が訛りのある口調で嗤う。
「厄介な指揮官を部隊もろとも一網打尽にできそうだったので、咄嗟にな」
「日頃の訓練の成果ってやつカ?なはは、裏目に出てンじゃねえカヨ」
「プロとして恥ずかしい限りだ」
言葉のわりに悪びれもしない魔導銃の男。
やっぱり彼がパーマーさんを……他の皆もそうだ。
「なにを、したの……!」
「言うと思うか?」
冷たい返事。わたしはそれを聞きながらもう一度、周りの魔力を動かそうとする。
でもできない。まだ頭の中を揺らされるような感覚が続いてて、うまく魔力が纏まらない。
「さて、エレナ=ラナ=マクミレッツ」
ぐわんぐわんする頭を押さえるわたしに、魔導銃の男が一歩踏み出して言う。
「お前にはここで死んでもらうぞ」
~★~
ドドッ!!
夜空を引き裂く二連の赤い閃光。私のいる浄化塔から一直線に飛んだ炎の弾丸は、土の壁とその奥に居た敵魔法使いに立て続けて着弾。ローブの男性を丸焦げにした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
荒い呼吸をなんとか抑えながら、バーガンディ商会の前庭で繰り広げられる戦いを睨む。
私は今、エレナのいる西側の作戦目標にかかりきりになっていた。
「なんでこんなに抵抗が激しいんですのよ……!」
四方の戦況が見渡せる私には、この標的がいかに異質かよく分かる。
北の三か所は粛々と、一度も火の手が上がることなく制圧が進んでいる。南もそうだ。
東だって最初の戦闘で放った雷光収束砲が戦意を挫いたのか、散発的で消極的な抵抗しか起きていない。
(それなのに、バーガンディときたら!)
さらに追加で二人ほど焼き、友軍を狙う弓兵も打ち落とす。
それでも敵の勢いが衰えないのだ。屋敷からはまだまだ増援が出てくるし、中には東で暴れた大柄な弓兵クラスの達人も混じっている。
(多すぎますし、強すぎますわよ!この数と質、それに戦意の高さ……まるで最初から騎士団や軍と事を構えるつもりだったようにしか思えませんわ!!)
新たに射角へ捉えたタンクを撃つ。一射目と二射目で大盾を弾き、三射目でヘルメットごと頭を吹き飛ばした。
(ふぅ……!)
息を入れなおす。
必要に駆られてか、殺すことには段々慣れてきた。けれど一人殺すごとに精神が擦り切れていくような疲労感は、これだけは拭えない。
(それにしても……ええ。あのタンクも、やっぱりおかしいですわね)
タワーシールドにフルプレートメイルなんて、騎士のような装いのタンク職がそれなりの数で配備されているのだ。普通じゃない。あんな護衛、こんな治安のいい場所にある商会が雇う必要はないはず。
(なにか意図があるのかしら?でも、なんの?そもそも誰の意図……?)
まるで怪談話を聞かされているときのような、気色の悪い感覚が背筋を伝う。
そんなときだった。
カチャン……。
「!?」
背後で音がした。私は援護射撃を中断し、身を翻して部屋の中を見た。
直径六メートルほどしかない円形の部屋には、当たり前だが私以外に誰もいない。
ではなんの音だったのか。目を凝らすが、すぐには分からなかった。
「……あら?」
空耳だろうかと自分の耳を疑い始めた矢先、 きらりと光る物体を発見した。
目を細めると、床に転がるそれは小さな金属の欠片だという事が分かる。鈍く縁を輝かせるコインめいたそれには見覚えがあった。ギルドなどで買えるリハイドレーターというドリンクの蓋だった。
「あんなもの、あそこにありましたっけ……?」
口に出した途端、強烈な違和感に見舞われる。
ここは神殿の管理する神話級魔道具を祭った塔だ。普段は神官と一部の王宮関係者しか立ち入らない、制限された神聖な場所なのだ。
一体誰がそんな場所でリハイドレーターなど飲み、あまつさえその蓋を捨てて帰ると言うのか。
(いえ、いいえ、そうじゃない。そうじゃありませんわ)
もうかれこれ一時間近く前だが、私は作戦が始まる前に部屋の確認を一通り済ませた。
全ての窓からの景色を確かめ、四方に対応した赤笛を置いた。
ベルトを繋いだあとも窓と窓を行き来して導線を覚えるよう努めた。
そのときにゴミを見た記憶はない。たぶん、ない。
(まさか……誰か、居る?)
その結論に達した瞬間、ゾッと冷たい感覚が首筋を駆け上ってきた。
「……ッ」
思わず悲鳴を上げそうになって、慌てて口を押える。それから唇をキツく結び、右手をゆっくりと腰のホルスターに動かした。左手はパイプに引っかけていた赤笛を拾って口へと運ぶ。
(拙い、怖い、拙い、怖い、拙い、怖い、怖い、怖い!怖い!!怖いッ!!)
頭の中が真っ黒な感情で塗りつぶされる。手が震えて笛を取り落としそうになる。
それでもなんとか咥えた魔道具で、緊急事態の符丁を息の限り吹こうとして……ぐい!
「いやッ!?」
何かに力強く引っ張られた。私の抵抗なんてものともしない筋力。奪い取られる笛。
メキッと音がして魔道具の欠片が床に散らばり、同時に腕を締め付ける圧力が緩んだ。
ダンッ!
咄嗟に抜いたスワローズダイブⅢを目の前の虚空に向けて発砲。私の前腕ほどもある中近距離用魔導銃から飛び出した火弾は、ボッ!とすぐ何かにぶつかって弾けた。
「っ……!」
跳ね返ってくる火の粉に目を閉じつつ、自由になった腕を引き戻す。
何もないはずの場所で火が燃えている。けれど私はそれを眺めるようなことはせず、すぐに螺旋階段へと走り出した。
「うッ!!」
直後、全身を襲う後ろ向きの圧。踏み出した以上の力で背後へ引っ張られて息が詰まる。
(しまっ、ベルト……ッ)
落下防止のベルト。焦りと恐怖に失念していたそれを掴まれ引き戻されたのだと、そう理解したときにはもう背中から床に投げ出されていた。
「あっ、うぐっ!げほ、げほげほっ」
モルタルの粗い表面に服がバリバリと悲鳴を上げ、衝撃に呼吸のリズムが狂った私は酷く咳き込んだ。
「おういおい。こいつは威勢のいいメスガキじゃあねいか、ええ?」
「はぁ、はぁ、はぁ……くっ!」
息を何とか整えながら見上げる。
敵はすぐそばにいた。黒い布で目元を覆った男性が傍らに立ち、隠された目でじっと私を覗き込んでいた。
ねっとりと絡みつくような口調と歪んだ口元。布越しに注がれる視線。それは生理的な嫌悪感を強く搔き立てる男だった。
(この人、どこから!?)
その答えはすぐに分かった。暗くて気づくのが遅れたが、奇妙なことにその全身は斑に透明化しているのだ。
それもただの透明化ではない。少なくとも『暗視眼』の作用する視界では、こうして目の前に立っているのに、この距離であっても……それでも、背景と完全に同化して見える。そんな極めて高度なものだ。
黒い包帯に包まれた手でパンパンと体を払い、こびり付くように残った火を消しながら彼は言う。
「しっかし折角の一張羅が穴だらけだぜい、なあ?」
一張羅。その言葉を意識しながら見ると、燻ぶっていたのが彼の体ではなく厚手のトレンチコートのようなものだと分かる。見えるようになったのも全てコートが焼けた部分で、黒く焦げた縁取りができていた。
透明化の魔道具なのだ、あのコートは。だとするとアクセラさんやエレナのインビジブル発生魔道具よりも数段上の性能。それはつまり、私を見下ろす彼がそれだけの逸品を入手できるような存在であるという事で。
その想像にさっと血の気が引いていく。
「確認なんだがよう。雪花兎のガンマンだなあ、ええ?」
「うぐっ」
重い何かがお腹の上に乗せられる感触。動けないように軽く踏みつけられたのだ。
異様に長い腕が伸びてきて、首元に触れる。素肌を包帯のざらついた感触が撫でた。
「ふぐっ」
私は歯を食いしばって悲鳴を嚙み殺す。
「初々しいねい」
男はそんな反応を味わうようにねっとり指先を動かし、ペンダントのチェーンを摘まんだ。次の瞬間、ぶちっと小さな衝撃が襲う。引き千切られたらしい。
「ふひゃっ、正解正解」
ペンダントトップは雪の結晶を背負う兎の意匠。それをジロジロと見てから輩は嗤った。
「人違いでさえなけりゃあ、もう仕事は終わったも同然だなあ。ふひゃひゃ、楽勝楽勝」
透明なトレンチコートの中からもう一本の腕が出てくる。その手には半分ほど飲み終わりのガラス瓶がぶら下げられていた。薄っすら青い液体はリハイドレーターだろう。
「しっかし、お前らいいよなあ。俺様の育った辺りにはギルドがねいもんで、手に入らねいんだよう。羨ましいことだよなあ、全く。ごく、ごく、ごく……ぷはあっ」
一息でそれを飲み干し、空の瓶を後ろに投げ捨てる男。
ガシャン!!
軽い動作に反して弾丸のように飛んだガラス瓶は、視界の外でけたたましい音を立てて砕けた。
「う、くぅ……!」
心臓がどくんと大きく脈を打った。恐怖で頭の中がパンクしそうだった。
決定的で致命的な運命めいた何かがにじり寄ってくる、その気配を肌で感じる。
抗えないのだと、足先から、指先から、じわじわと無力感に染まっていく。
(でも、でも……負けて、堪るもんですか!)
それらを必死に押し込めて、私はキッと襲撃者を睨み上げた。
「あ、貴方がどこの誰かは存じ上げませんが、レディを引き倒して、あげく踏みつけるなんて……随分とお育ちが、よろしいのね?」
引きつって上擦った皮肉。声が震えるのは抑えきれなかった。
それでも私の抵抗の意思は彼に伝わったようで、下半分しか見えない顔に驚いたような気配が滲む。だがすぐにそれはこけた頬に浮かぶねっとりとした笑みに溶け崩れた。
「気丈だねい。いいぜい、そういうの。そそるじゃねいか、ええ?」
いいねい、いいねいと訛った口調で呟きながら、彼は自由になった両手で焦げたトレンチコートを脱ぎ捨てた。
「……ひっ!」
私は思わず悲鳴を漏らした。固めた決意が折れそうになる。
コートの下にあったのは真っ黒な体だった。腕を覆っていたのと同じ黒い包帯が全身にぎっちりとキツく巻きつけてあって、それ以外に服らしい服はなにも身に着けていない。
筋肉質で異様に手足の長い全身がそんな異様な有様で、けれど一か所だけ、股間だけは銀色の金属鎧を装着しているのだ。
(へ、変態ですわ……ッ!!)
先ほどまでとは別種の恐怖だった。例えるなら無数の虫が蠢く穴に腕を入れさせられたような、体の奥から身震いのくる恐怖感だ。
「普段は獲物で遊ぶなってえ、言われるんだがよう」
男がどこからか炎のようにうねった刃のナイフを取り出す。
そして腰を折り、倒れた私に顔をにじり寄せてきた。
お腹の上の足がぐっと重量を増して、いよいよ息が詰まりそうになる。
「今回はたっぷり、たぁっぷり遊んでいいぜいって、そう言われてるのさあ」
切っ先が喉にチクリと宛がわれたかと思うと、それは皮膚一枚を斬り裂かない力加減でゆるゆる動き始める。喉から鎖骨へ下り、チェーンの残骸を踏み越え、そして襟の合わせ目へ。
(この男、私を……ッ!?)
直感的に目の前のケダモノの意図を察し、手足にギュッと力が籠る。
「へひゃひゃ。まあ、そういうこったなあ?」
大きく歪んだ唇の端から涎が溢れて顎まで滴る。
その粟立つ雫がポタリと頬へ落ちた瞬間。
「~~~ッ!!!!」
嫌悪感が限界を超えた私は声なき絶叫を上げた。
「あひゃひゃっ!愉しませてくぶばッ」
哄笑を上げようとした男の腹で真っ赤な炎の花が咲く。
狭い場所で生じた強烈な爆発は彼を天井へ、私を壁へと吹き飛ばした。
ガリガリとモルタルに噛みつかれて火傷跡の残る手や頬、手首や額が削れる感触。
ドン!と壁の青海波に叩きつけられる衝撃に耐え、私はフラフラの足で立ち上がった。
(な、なにが……あ、いえ、私、こ、強張りすぎて引き金を!?)
恐怖と嫌悪で体に力が入って、うっかりトリガーにかけた指を閉じてしまったのだ。
銃使いにあるまじき失態。だがおかげで変態から離れることができた。やった私自身にとっても不意打ちだったことで、あの男に気取られなかったのだから、怪我の功名というやつだ。
「い、今のうちに」
「おういおいおい、痛いじゃねいのう?」
「……ッ」
声がする方を見る。黒包帯の変質者は天井と壁の交わる角にいた。
壁に背を向け、両手を後ろに回し、まるで裏返しになった蜘蛛のように張り付いていた。
ぞわっと肌が粟立つのを自覚する。
「な、何から何まで気色の悪い方ですわね……ッ!」
悪態を吐きながらベルトのカラビナを外す。私とスワローズハントⅡ改、そして塔のパイプを繋ぐ命綱が脱落して床を打った。これで動きに支障はない。足の震えさえ無視できるなら、だけれど。
「気色悪い?気色悪いかあ?あひゃひゃっ!俺様の芸術的な能力の美しさとエロスは、お前みていなメスガキにゃあ理解できねいかあ!」
何が面白かったのか、大笑いを始める黒包帯の男。
片手を壁から離してバシバシと己の額を叩いてみせる。
「いやそりゃそうだあ、そもそもお前ら神の羊じゃあ理解るワケがねいやなあ!!いひゃひゃひゃひゃっ!!」
「か、神の、羊?それは、一体……」
聞き慣れない言葉に、今それどころではないと思いつつも、つい目を細める。
「はひゃ!」
彼は私の疑問にちろっと舌を見せる。
にちゃにちゃと笑みを深め、それから額を叩いていた方の手で私を指さした 。
「さあてさてさて、なんだったかねい。いや、そんなつまらねい話はどうだっていいじゃあねいか!」
壁についている方の手の中で、奇妙に波打つ刃のナイフがぼわっと光った。見たこともないくすんだ黄色の煌めき。スキル光、だろうか。
「俺様は苦痛の大天才、拷問官アンドレアス=アイデクセ……敬意を込めてAAと呼ぶことを許してやるよう!いいかガキ、お前が今から死ぬまでに刻み込むのはこの名前と、そして俺様の『|捕食獣模倣:闇守宮(TSA07:モディファイ・ゲッコー)』の恐ろしさのみ!!」
男の両頬に縦線が刻まれる。こんどは濁った茶色のスキル光が灯り……メキョッ!
縦線は亀裂となり、ほどなく開いた。それは目以外のなにものでもなく。
「最後の大仕事の始まりだあ、あひゃひゃひゃひゃひゃッ!!」
縦長の瞳孔を持つ異形の双眸で私を睨む男は、そう宣言して哄笑を垂れた。
先週は休載となり、申し訳ありませんでした。
今週からは通常更新に戻ります。ご安心ください。
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