十三章 第14話 罪の先へ
夜 の倉庫街に風が吹く。フラメル川を渡ってくる、湿り気を帯びた風が。
「すぅ、はぁ……」
紫伝一刀流・呼吸法、武息の一「制息」
風を吸い、魔力を体の奥へと送り込む。体内の魔力と練り合わせ、魔力糸にするのと同じ要領で血液にも似た濃い液体へ変える。
「すぅ、はぁ……」
酸素が肺を通り、血液に溶け、心臓から全身へ押し出されて行く。そこに魔力の血も混ぜるイメージ。心臓の鼓動に合わせてどくどくと、手足の末端に至るまで巡らせていく。服や靴、髪留めに至るまで血管と神経を根付かせていくように。
最後は指先から柄を通って雨狩綱平の茎へ染み込み、鎺を過ぎ、刀身を駆け登る感応。濃密な魔力は白銀に濃い青をさっと一塗りしたような海根鋼を淡く光らせ、金筋や打ちのけの浮かぶ極めて華やかな大湾れの刃文に濡れたような輝きを与える。
「これは、なんだ……?」
ジュメイが何かを感じ取ったように目を細めた。
夜風が海色の刃に触れて二手に分かれるのすら分かるような、頭と心臓と刀が一直線でつながったクリアな感覚。それが訪れたところで、俺は体中の骨という骨、筋肉という筋肉、全血管と全神経に流し込んだ魔力を一気に聖刻として励起する。
ヂ、ヂヂ……バチッ……!
エクセルの貴色たる若紫と深い煌めきを宿すべっ甲色。二色の雷が景気のいい音とともに弾け飛び、四方に迸って空気を焦がす。
「!」
闇夜を打ち砕くような光にジュメイが身動ぎする。だが、関係ない。
「いくよ」
「ふはっ!ええ、早く見せてくださいよ。貴女の本気とやらを!!」
意識を集中させる。
「ふぅー……はっ」
紫電一刀流・呼吸法、武息の二「駆息」
吐き切った息を瞬間的に吸い込む。新しい酸素と魔力が流れ込み、視界に映る万物が鮮明になる。一歩目は柔く踏み出し、二歩目で体を強く押し出す。爆発的な加速感が訪れると、ジュメイの顔が目の前にあった。
「……!?」
半拍以下の遅れで真横に跳ぶジュメイ。彼のいた空間を袈裟に斬り捨て、通り過ぎ、倉庫街のタイル敷きをブーツで強く踏みしめ停止。片手を地面について支えとし反転、再び踏み込む。
「早いッ」
彼は驚きつつ、二撃目にはきっちり反応してきた。
ゆらりと、ギリギリ切っ先を躱せるだけの動きで下がり、すぐさま前へ出て……。
「シッ!」
肘と手首のバネだけで放たれる極限の速拳。腕を引いて寸でのところへ綱平をねじ込む。
ジュメイはなおもぐいっと大きく詰めてくる。再びの左拳。速度を警戒して守りの姿勢を崩すまいとすると、その一撃は途中で内側に曲がった。
「!?」
顔ではなく肩狙い。気づいた瞬間、マナアーマーを展開して魔術を相殺。魔法の障壁がはじけ、風弾でも破裂したような風圧が生じ、それが俺の体を煽って押し下げる。
「はっ、今のが当たりませんか!」
逆らわず身を退いていたこともあり、シャツ一枚の距離で逃れきった。
嬉しそうに、悔しそうに笑うジュメイへ返礼がてら刀を放つ。不安定な姿勢から右手一本で斬り付けた一刀。それを奴は左拳で打ち払った。
バチンッ!とけたたましい音をさせて逸らされる綱平。刃筋は立っていたが、爆発したような反発に押し返された。
「シッ」
右拳が腹の方から顎目がけて飛び上がってくる。俺は弾かれた右腕の勢いのまま、右足も引いて顔の位置を下げた。ヴン!と蜂の羽音をさせながら空振るパンチ。
すかさず引き戻される右腕。ボディの捻じりを利用した左拳が真横からしなりくるも、腰を落として回避。
「ふっ」
二連撃を掻い潜った俺は左手を柄に沿え、退いた分を取り戻す勢いで突きを放つ。立ち上がりのバネを使った鋭い刺突だったが、ジュメイの足からミシミシと音がしたかとおもうと、奴は真後ろに吹き飛んだ。まるでバッタの魔物のように。
「ぐ……!」
短い呻きが男の口から漏れ出た。大振りな技を外した無理な姿勢から、魔術の力で強引に後ろへ飛んだ。その負荷は骨格に重く圧し掛かっているはず。
それでも距離は俺の武器になると理解しているから、着地した先から躊躇いなく刀の間合いへと攻め込んで来るジュメイ。
「やっ!!」
「シィ!!」
そうはさせまいと綱平を閃かせる。寸前、革靴でタイルを踏みつける男。速度を殺し切れていないその腹を薄く斬る。それでも彼はそれを回避できたものと判断し、ジュメイは欠片の恐れも見せずに推力を足へと転化。重い回し蹴りを放った。
「!」
早い。完全な回避は不可能。そう察するが早いか、俺は両足を蹴って勢いをつけつつマナアーマー越しの腕で受ける。
「うぐっ!!」
左に重力が生じたような急激な加速に軽い体は錐揉みしながら吹き飛ばされる。だが自慢の動体視力は上下を見失っていない。『獣歩』を発動して回転を制御し、誰かの倉庫の壁に足から着地。足裏にみしっとレンガの悲鳴が伝わる。
蹴られる方に跳んだおかげでダメージもそこまでではない。
「らぁっ!!」
真上のジュメイへ壁を蹴って更に跳ぶ。
手首を狙った最少動作の斬り上げ。奴はそれを左手のスナップで叩き落し、右、左、右、左と連続して拳を打ち出す。
パン!パン!パパン!パン!
肘をぎゅっと体に寄せ繰り出す最も素早いラッシュ。蜂の羽音を引き連れたそれを綱平で次々に叩き落す。接触の度に奴の手に刻まれた魔術と刀を包む聖刻のエネルギーが衝突、破裂する。
「フッ……!」
思わず小さく笑ってしまう。やはり赤い魔術による出と戻りの速さが異常。動作の起こりに魔術回路へ高出力の魔力を流すことで、瞬間的に通常より高い倍率を実現しているものとみた。
が、原理が分かってもそれで相手が遅くなるわけでなし。聖刻の筋力でもってしても綱平を軌道上にねじ込み防ぐので精一杯だ。
そのうえ、打ち合う合数が増えるほどに腕が痺れてくる。
「クルソスの振動魔術……面倒極まりない!」
連中の得意とする魔術は二つ。
片方が風音魔術・蜂嵐。武器の一撃を弾くほどに圧縮した風の刃を手足へ纏わせ、巡らせ、高速振動させる術式だ。風属性特有の高い破壊力と目に見えない攻撃可能範囲の広さ、二つの特性を遺憾なく引き出したシンプルだが優秀な魔術である。
もう片方が鋼鉄魔術・布鉄。金属繊維を混ぜた衣服の硬度を操るというもので、地味だが身軽さと堅牢さを同居させる、こちらも厄介な代物である。
不可視の刃と柔軟な鎧の組み合わせは単純に優秀。だがマナアーマーで攻撃力を削げる俺にとっても面倒なのは、この蜂嵐の放つ振動そのものだった。
打ち合う武器に無視できない悪影響を及ぼすのだ、こいつは。スキルと魔力の強化があるとはいえ曝し続ければ刀が刃毀れし、最悪は折れてしまうだろう。
(対策は覚えているが……これ、キッツいな!!)
百何十年前のクルソスとの戦いでもその特性に悩まされた俺たちは、当然ながら対抗する技を編み出していた。それが今やっている、流鉄の応用で振動を方々へ逃がすという技術。
だが俺たちもビックリ人間だが人間ではある。刀の振動を腕から足、地面へと自在に逃がせるわけではない。よって、さすがにこの密度でこられると腕にかかる負担が凄まじい。
「そうは言いつつ、楽しそうですねぇ!」
強めに弾き返したところで後ろに跳んで距離を稼ぐ。
しかしジュメイは獰猛な笑みを浮かべて同じ勢いで踏み込み、ピッタリと張り付いてくる。当然ラッシュも途切らせてはくれない。
「く、ははっ!楽しいよ!君は楽しくない!?」
「ふ、ふふっ!楽しい……楽しいですよ!!」
紫の輝きを纏って逃げる俺と、赤の輝きを引き連れて追うジュメイ。
暗闇の倉庫街で光の線を描きながら、俺たちは高速で立ち回りを演じる。
「あはっ……!」
「ふふっ……!」
ガンガン、バチバチとおよそ刀と拳を打ち合っているとは思えない音を撒き散らしての攻防。拮抗する速度の中で離れては詰められ、詰めては離れられ、立ち位置を入れ替えながら間合いを奪い合う。足を踏み鳴らし、踏み込み、退き、激しいタップダンスでも踊る様に。
「ぐっ!」
蜂嵐の反動と振動は一撃一撃が重い。爆風を殴りつけているような衝撃だ。
握る手の感覚が段々と馬鹿になってきて、集中力が乱れ始める。
「そこ!!」
「ん……ッ」
右腕を引き戻したジュメイの体が更に一歩前に出たことに対応が遅れる。ほぼ同時、反応しきれない速度で右肘がバネ仕掛けのように飛び出してきた。
「ぐがっ」
肘打ちを鼻に喰らう。パキッと乾いた音がし、苦みにも似た鈍痛が走った。粘度ある熱い液体が鼻から溢れるのが分かる。
(痛ってぇ……ってうぉ!?)
すかさず左腕のストレート。歪む視界で半身に躱し、剣の軌道を変え、伸びきった腕を巻き込む。
「まずい!」
皮膚を浅く裂いた時点でジュメイは全身で後退。このまま腕の肉をぞろっと削いでやろうと思ったのだが、そうはいかないらしい。
「……はっ、これはこれは」
生まれた一時の空白の中で、男は綺麗な顔を驚きに歪めて自分の両手を見た。彼の白手袋はあちこち破れ、滲んだ血液に染まり、まるで襤褸切れのようになっていた。
「こうも容易く破られるとは……ミスリル繊維入りなのですが」
「蜂嵐が弾けるとき、衝撃を受けた布鉄が一瞬だけ勝手に硬化する。弾くたびに刃を少し、引いてやればいいだけ」
「ふふっ、言うは易く行うは難しの見本ですね!」
俺もこの隙に柄を握る手を開き、ぐっぱとやって感覚を取り戻す。あまりに強く握りこんでいた指は固まってなかなか伸びてくれなかったが、伸びたら伸びたで冷え切ったところへ血が流れ込む熱感と痒さが襲ってくる。
(楽しいが、そろそろ決めないとな)
速度は互角。筋力は俺の方が上だが、力任せにやると殺してしまう。
それにマナアーマーは魔力の消費がエグい。聖刻との併用は制限時間付きだ。
なにより忘れがちだが、ドニオン逮捕はこっそり済ませなくてはいけない。
(神様、仏様、国王陛下さまっと)
心の中でやり過ぎている自分の後始末に渋い顔をするであろう国家元首を拝んでおく。
「残念だけど、切り上げさせてもらう」
「そうはさせませんよ!」
ジュメイは最初のお面のような微笑みが思い出せないほど強烈な表情でタイルを蹴った。
ギャリっとブーツの下の地面を強かに踏みつけ、俺も前に出る。
「やああああ!」
「ィイイイイ!」
雫からの逆雫、手首を返して平突き、足を引いて弧月、切っ先を翻し袈裟の斬り上げ。紫伝一刀流の技を散りばめた、紫の流星のごとき連撃。それを真っ赤なもう一つの流星がロング、ショート織り交ぜた超高速の拳打で弾いていく。
硬質な戟の音がオーケストラ演奏のように我々の耳を打つ。白手袋の残骸が弾けて火花と散り、聖刻のスパークが小さく迸って闇を焼く。互いに相手を捉え切れない攻撃が小さな傷を生み、あたりには鉄の臭いが広がる。
この瞬間、俺は間違いなく転生してから最も技巧的な攻防を繰り広げていた。
「シィイァ!!」
振り抜くようなハイキックを紙一重で除け、軸足を狙って刃を放つ。それをジュメイは後ろに倒れるように重心を移して跳躍。だが回避の距離は短い。切り返して二の太刀を見舞ってやる……そう思ったとき、腕が付いて来ないことに気付く。
(やばっ……ッ)
度重なる振動にやられて腕の筋肉が軽い痙攣を起こしていた。
下げた重心を前に戻すジュメイ。何度も見たバックステップをステップにつなげるあの歩法。今度は俺が後ろに跳ぶが、逃げ切るより先に再びのハイキックが俺のブレストプレートを撃ち抜いた。
「ごはっ」
軽減されてなお馬車に突撃されたような衝撃が俺を襲う。加速に血の気が引き、意識が薄まるような感覚があった。それでも気合で集中力を取り戻す。目の前には既に追い打ちのため全力で踏み込んだ彼がいるから。
「貰いましたよ!!」
次手は速度を活かした膝蹴り。そうと悟るや否や、無理に息を吸わず、ただ刀を上段に掲げた。そして腕を、胸を、腹を、一気に引き絞る。
紫伝一刀流・柄貫の変化『杵砕き』
追い付くなり繰り出される杭打ちのような膝蹴りに、刃ではなく柄尻を落とす。
「ぃぎっ……!!」
膝の骨と腱が彼我の膨大なエネルギーで板挟みとなり、何かが破けるような異音を立てた。ジュメイの口から激痛を堪える声が漏れ、ガクンとその場に足を屈する。
「やあっ」
反発を利用してすぐさま刀を八双に掲げ、綱平の青い刃を彼の肩口へと振り下ろす。
しかし、その一刀がジュメイを捉えることはなかった。
「ぐ、ぅぐうぉおおおお!!」
苦痛に満ちた絶叫を放ちながら、彼は両腕の筋力だけで跳び上がったのだ。すれすれで刃を回避する男。斬り降ろしを避けられた、そう理解したときにはもう顔の横に革靴の甲があった。空中で身を捻って、まだ生きている方の足を薙ぎ払ったのだ。
「が、あっ!!」
紙一重の隙間にマナアーマーを差し込むだけ差し込んでソレを受ける。顎の付け根と首で嫌な音が鳴り、激痛に視界が暗転しかける。しかし上手く受けることができた。脳震盪は起こしていない。
ギラリと革靴越しに男の姿を捉える。
「!」
それを察したジュメイは蹴り足で着地するなり、バランスを崩して倒れる力さえ利用し刀の間合いから逃げた。俺はその時点で既に彼の足のあった位置を斬り払っていたが、結果は風とスラックスの裾をわずかに断つのみ。片膝の筋肉が破断しているだろうに、素早くていい判断だ。
(だが、今の間合いは完全に俺のものッ!)
海色の刀を肩に担いで腰を落とす。わずかな距離を十全に、贅沢に使うため、聖刻のスパークを纏う足でタイルをこれでもかと踏みつけ加速。
「しま……あぐッ!?」
ジュメイは逃れた先で踏み止まろうとして、片足では叶わず崩れ落ちる。それでもすぐさま体勢を立て直し、残る足に全ての力を込めて前へ踏み込んだ。最後の一撃は渾身の右拳。
「ぉおおおおおおおおおおおお!!!!」
血まみれの手の甲で薄荷色の魔術回路が暮れ始めの一番星のように輝いた。蜂嵐の刃を纏った鋭いパンチ。徒手の間合いに俺が入ったところをピッタリ捉える形で放たれたそれへ、俺は馬鹿正直に突き進む。
「やぁあああああっ!!」
体に引き付けた腕で柄を抱き込むようにして、全身で綱平の刃を振り下ろす。後先考えない一太刀。聖なる力を纏った刃と魔術にきらめく拳は激突、抵抗は一瞬。雨狩綱平は中指と薬指の間から斬り込み、白手袋の残骸ごと肘まで抜けてずばっと肉を斬り捨てる。
「ぐぁあああああああああああ!!」
ジュメイの絶叫が倉庫街を震わせた。
びしゃり、湿った音を立てて腕の半分が地面を打つ。
「……」
男の横を抜けた俺は、血に汚れた頬を拭う。振り向けばジュメイは片手片足を破壊され、タイルの上に倒れかけていた。それでも無事な膝と額をついてどうにか耐えているのは、執着でも愛着でもなく意地の問題だろうか。
「ぐ、ぅ、うぅ……」
歯を食いしばって呻く、その丸まった背中が薄く痙攣している。立ち上がる様子は当然ながらなく、勝負は決した。
俺は落ちた腕を拾い、地面に額を付けて荒い息を吹く彼のもとに急ぐ。
「私の勝ちだ。繋いでやるから、ちょっと待って」
反応があるとは期待していない。腕を中途半端に削いでしまった分、出血はともかく、普通に斬り落とすより痛みはずっと酷いはずだ。
だから返事をまたず、手の中でぶらぶらとしている腕の断面を雨狩綱平の水で軽く洗い流し、腕の残った側の断面に押し当てた。そして納刀して空けた自分の片手を重ねて魔力を流す。
「天にまします我らが主、この手に御力を宿らせ、傷つく者を癒す術を与えたまへ……」
聖属性魔法上級・ハイヒール
久しぶりにこってりと長い詠唱を行う。すると書架に咲くラベンダーを思わせる紫の光が傷口に灯った。二つの面に分かたれていた腕の肉は、光が収まるころにはぴたりと合わさっている。
「が、あぐ、うぅ……」
喉の奥から漏れてくるような声が段々と納まる。腕が削げた痛みも、噴き出した血も戻らないが、傷口が消えて一気にマシになったのだろう。
「ん、我ながら綺麗な断面だった」
傷がぐちゃぐちゃだと上級の聖属性魔法でも直せなかったり、神経が繋がらなかったりする。その点、俺の刀傷は綺麗でくっ付きやすいと評判だ。俺の中では。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ。な、なにを……」
身を起こす気力もないのか、タイルに額を押し当てたまま脂汗を浮かべて俺を見上げるジュメイ。
「君は……君に、罪を償った先があるのなら、腕は必要だから」
そう言って砕けた膝にも同じ魔法を施す。解放創ではないし、なにより砕いた直後だ。骨も綺麗に治ってくれるさ。
「先、ですか……裁かれる私に、あるとおもいますか……?」
自嘲するように問う男。
俺はそんな彼にどう答えようか少し迷い、言葉を選んで口を開いた。
「これから君は逮捕され、裁判にかけられる。その判決が出たときが君たちの悪事の終わり、ドニオンの配下としての道の行き止まり」
「でしょう、ね……」
「でも大抵の場合、人生はそこからも続きがある。長い償いの人生になる。償いだけで終わる人生かもしれない。けど、そうでない何かがあればいいなと……私は思う」
ドニオンのような救いようのないクズ、あまりに多くの悲しみを振りまいた悪党にその先の人生はない。あってはいけない。
もしかすると国は彼もまたそうあるべきだと判断するかもしれないし、これまでこの男がどう生きて来たのかを知らない俺には応とも否とも言えるものではないだろう。
だが、もしそうでないとするなら……
「その先に、まだ君が戦う悦びを目指したいと思うなら、私を訪ねるといい」
とまあ、俺はつくづく戦士であり、師匠であるわけだ。
「……そう、ですね。考えておきますよ」
彼はゆるゆると息を吐き、そこでようやく体の強張りを解いた。ごろりとその場で横になり、貧血で白くなった顔で俺と空を見上げる。
「マイレディに、ドニオン女伯爵閣下にも先はあるのでしょうか」
「ない。あってはいけない」
その問いかけに俺はキッパリ首を振った。
あの女は悪意が強すぎる。罪状もこの調子では凄まじい件数と内容になるだろう。この国の法も、貴族の社会も、なにより民も、彼女を許すことはないはずだ。
「そうですか」
あの薄い笑みすらない本当の無表情を浮かべ、ジュメイは細く呟いた。
「君は……」
本当にドニオンに対しても、薄弱な愛着しかなかったのか。そんな疑問が浮かんだが、俺は結局それを口にしなかった。
彼は俺に敗れ、彼女はこれから地獄を見るのだ。その感情がなんであるかを考えた所で、きっと誰も幸せにはならない。
「取り調べはきつい。今は眠った方がいい」
代わりに俺は彼の目元を手で覆い、闇魔法で眠りの園へとおいやった。
「アクセラちゃん、おつかれさま」
立ち上がり、折れた鼻を魔法で治した俺に聞きなれた声がかかる。
振り向くと例の倉庫の出入り口にエレナが立っていた。
「ん、洗って」
「はいはい」
ハニーブロンドの魔法使いが大杖を軽く一振りすれば、血と埃に塗れていた俺の衣装は一瞬だけ水浸しになる。その水はまるでスライムのように衣服と肌を舐めて汚れを取り、用が終わると一人でに側溝へと向かっていった。
「ドニオンは?」
「バッチリ捕まえてあるよ」
「ん、完璧」
なぜエレナがここに居るかと言うと、彼女は俺がジュメイと戦っている間に裏側から倉庫へ忍び込んで、ドニオンを制圧していたからだ。
出入り口は正面にしかないが、土魔法で一部のレンガを引き抜けばどこからだって侵入可能……そういうわけである。
「でもあんまり暴れるから雷でバチッとやっちゃった。あの人、骨が脆くなってるみたいでさ。自分の力で骨折しそうだったんだよね」
極端な不摂生のせいなのか、あるいは薬物などの影響なのか。なんにしてもありそうな話だった。
「あとはこれで……」
エレナは肩掛けから箱に納められた小さなベルを取り出す。貴族の邸宅や高級店で人を呼ぶときに使うあの魔道具だ。
ちりん、ちりん。エレナの手元で涼やかな音がする。このベルを用意したのはネンスで、不確定要素の多い今回の件を不安がって持たせてくれた。倉庫街の外に王家の息がかかった者たちが詰めており、鳴らせば後処理をしに駆けつけてくれる。
「二人はその人たちに逮捕してもらうってことでいいんだよね?」
「ん。ネンスに報告は……明日でいっか。成否だけ伝えておけば」
「むぅ、いいんじゃないかな?わたしもさすがに帰って寝たいし」
彼女はドニオン制圧だけでなく、風魔法で俺たちの戦闘音が倉庫街から漏れないようにもしてくれていたのだ。かなり派手にやった分、疲れたことだろう。
「さ、帰ろ?」
「ん、帰ろう」
向こうの方からカンテラ片手に走ってくる男達を認め、俺とエレナは肩をすくめてその場を後にした。
~★~
数時間後、未明。
ゴト、ゴト、ゴト。
王都の闇に重たい音をさせながら、頑丈な馬車が二台連れだって走っていた。
外から見ればそれはどこかの高級な貸し馬車にしか見えないが、その内実は全く違う。窓は偽物で実際の開口部はなく、唯一の扉は六つもの鍵で施錠され、椅子には手錠を繋ぐための金具が生えている。人目に曝したくない罪人を運ぶための特別な馬車だ。
「ね、ねえ。ここは富裕街でしょう?」
その特別な馬車の乗客が声を上げた。ブクブクと太った肉体を黒いドレスに詰め込んだ、巨大で醜悪な老女。ヘルダ=カーシャ=ドニオン女伯爵。
ネンスの手配した王家の息のかかった者たちによって、彼女は倉庫街で秘密裏に逮捕されたのだ。今は王宮へ移送する途中である。
「ねえったら。富裕街なら、アナタ、ワタクシの店に寄って下さらない?すこし身支度だけして向かいたいの。王宮に上がるならお化粧くらい、直させてもらえないかしら。ねえ?」
緊張を含んだ猫なで声で向かいに座る三人の男達に言う。彼らはそれぞれこの馬車専任の騎士、真偽官、そして法務官だ。ただし、全員が筋肉質な肉体に簡易的な鎧をまとっており、しかも腰には短剣と室内杖を装備していた。
「も、もちろんお待たせする間のおもてなしはさせて頂くわ。アナタ達も聞いたことがあるでしょう?ワタクシの店は最高の体験をお客様に用意しているのよ?今まで得たことのないような快楽を約束するわ」
身を乗り出そうとするドニオン。しかし金具にキツく固定された鎖がその動きを戒め、微動だにすることさえ許さなかった。
「ぐっ……こ、好みのタイプはおあり?肉感的な美女かしら?それとも華奢で可憐な少女?獣人もいるわ。野性的なコから従順なコまで。こ、好みがないのなら色々試してもらってもいいのよ?時間の許す限り、いいえ、時間なんて忘れるくらいに!」
目を覚まし、馬車に乗せられたときからドニオンはこうやって懐柔を試み喋り続けている。だが三人は一切の反応を返さず、まるで彫像のように腕を組んで瞑目している。
彼女がこれまでやり取りをしてきた欲望に忠実な役人たちとは違い、ここにいるのは王家と国家への確固たる忠誠心を抱いた者たちばかりだ。
「そ、そうだ!アナタたち、奥様はおられないのかしら?それだけ立派なカラダなら、若い奥様の一人二人いるわよね?げ、激務を支える奥様にプレゼントを贈ってみたらどうかしら。そうすればきっと夫婦の間は……ッッッ」
ガチッ!突然ドニオンは音を立てて歯を食いしばった。三人が目を開けて様子を窺う。
「な、なによ、そんなの……」
じゃらじゃらと鎖を鳴らして女伯爵は震える。その顔は憤怒に染まっていた。
「こ、このワタクシが、露天商のような口上を……きぃいいいい!!」
ドニオンは一流の商人であると自負している。それがどうにか生き残るためとはいえ、祭の露天商を思わせる売り文句を口にしてしまった。そうと気づいた瞬間、媚びも何も吹き飛んで激烈な怒りが彼女の思考を塗りつぶした。
「ゆ、ゆるさない……許さないわよ、アクセラ=ラナ=オルクスッ!!」
吼える女。三度鎖が軋み、その巨体を椅子に縛り付ける。
「……」
真ん中に座る真偽官がオパールのように色の揺らぐ不思議な目で隣の騎士を見る。そこにはハッキリ「黙らせられないのか、こいつ」と書かれているが、騎士の方は小さく首を振って応えた。
曲がりなりにもまだ貴族家の当主、それも上級貴族である伯爵だ。これ以上の手荒な真似はできない決まりだった。
「許さない!許さない!許さない!」
狂ったように叫び続けるドニオンだったが、馬車が急停車したことで前につんのめる。首元の鎖が大質量の肉体を椅子に引き戻そうとして、彼女はぐぇっと濁った声を漏らした。
「……なんだ?」
「分からん。おい、どうした?」
首を傾げる法務官。騎士は真偽官の肩を押しのけ、その後ろにある薄いスリットを開いて御者に声をかけた。が、帰って来たのは耳慣れた御者のだみ声ではなく、赤く塗れた細い切っ先だった。
「がぶぁっ……!?」
声を向こうへ通らせるため口をスリットに寄せていたのが騎士の不運。レイピアよりは分厚く、片手剣よりは細いくらいの剣身に喉を貫通され、頚椎を断たれた彼は即死した。
「え、えっ、あ、なにがっ!?」
「て、敵襲!敵襲だ!」
自分の肩に手を置いたまま脱力する同僚に真偽官の反応が遅れる。
法務官は短剣と杖をベルトから引き抜き、施錠されたドアに手を伸ばす。
「ま、待て!こちらから出ない決まりだ!」
「しかし……!!」
我に返った真偽官がスリットから距離をとりながら法務官の手を押さえる。
「応戦はしない!外の担当に任せろ!」
「だが!」
「いいかっ、この馬車は八枚の装甲に対物理、対魔法の強靭な付与が施されている!この中は安全なんだ!それにこんな富裕街のど真ん中なら、すぐに異変を察した増援が来るんだぞ!!」
「仲間を見捨てるってのか!?」
「そうじゃない、馬鹿野郎!」
なおもドアを開けようとする法務官を体ごと抑え込んで真偽官は怒鳴った。
「考えろ、俺たちの役割を!信じろ、外の仲間を!この女を絶対に王宮まで護送する、それがこの任務の」
そこまで叫んだところで、真偽官の声が途絶えた。法務官の手も止まった。スリットから真横に振り抜かれた剣は黄金の斬線を描き、突き刺さったままの騎士や馬車の装甲もろとも、残る二人の首を斬り落としたのだ。
ムッと立ち込める濃密な血の臭気。ざりざりと嫌な音をさせて剣が、金色に輝く剣が壁の向こうに引き抜かれていく。
「……ッ」
音の途絶えた馬車の中、ドニオンだけが息を殺してそれを見ていた。
コツ、コツ、コツと足音がした。馬車を正面から横手に回り込んでくる、おそらくヒールの音。それが扉の前で止まる。
一呼吸の静寂。そののち、ガァン!!と凄まじい音が馬車の中に轟いた。
「ヒィッ!?」
大きく揺れる車体にドニオンが悲鳴を漏らす。
だがガァン!ガァン!と音はお構いなしに続き、やがて金属をねじ切る異音を残して扉が外へ吹き飛んだ。誰かが人間では考えられない筋力でもって、鍵ごと扉を引き抜いたのだ。
「は、はは……そ、そうだったわ、そうだったわね!まだアンタがいるんだった!!」
開口部からひょっこりと顔をだした人物を見て、ドニオンの顔に表情が戻る。
彼女を見つけると馬車の中に乗り込んでくる襲撃者。とても小柄な人物で、黒いドレスに黒い軽鎧を纏っている。さらには喪服のような黒いベールで顔を隠しているのだが、見た目で分かるのはそこまで。なにかしらの魔道具を使っているのか、目を離せば髪色や雰囲気といった情報が頭から抜けてしまうのだ。
それでもドニオンが彼女の素性を理解できたのは、何度か会ったことがあるから。それと鎧の胸に刻まれた紋章のおかげだ。創世教会が使う複数あるモチーフのうちの一つ、太陽の刻印。しかし本来は深紅か真鍮色を使うその紋章は、地金と同じ黒で染められていた。
「く、ふふっ!いい子ね、お人形さん……金輪屋のヤツ、ちゃんと手を打っておいてくれたんだわ!!」
そう、その黒い太陽の紋章こそ異経典信者「昏き太陽」の印である。
「さあ、この鬱陶しい鎖を外してちょうだい。それから後ろの馬車の役立たずもね。それが終わったらワタクシを魔の森まで護衛よ。わかったわね?」
矢継ぎ早に指示を出すドニオン。彼女は一転して己の勝利を確信した。
魔の森まで逃れればあとはどうとでもなる。資金の大部分を逃がす算段が整っているのだから、当然のことだった。
「……ちょっと?」
しかし一向に動こうとしない黒鎧の女に、ドニオンは顔をしかめた。
「ちょっとってば!もしかして壊れてるんじゃないでしょうね!?ここまできてそんなの最低よ!!動きなさいよこの木偶人ぎョぶっ」
金の軌跡が馬車の中に閃く。
ドニオンの視界がぐるんと周り、黒鎧の女と四つの死体を見上げる構図に変わる。
四つの死体。騎士、真偽官、法務官、そしてドニオン。
「……?」
その意味を理解するより早く、業突く張りの女伯爵の意識は闇に落ちた。
「……誰が木偶人形やねんな、気ぃ悪ぅ」
濁ったガラス玉のようなドニオンの目玉に立ち去る襲撃者の姿が映り込む。
水色。血生臭い場所に似合わぬ涼やかな色を、魔道具に惑わされない死人の瞳だけが見ていた。
~予告~
その情報は隠すにはあまりに大きく、
さりとて放置するにはあまりに重かった。
次回、ドニオンの死




