十三章 第11話 ユキカブリの実
ひどく細い月の昇る夜。俺は王都ユーレンに流れ込むフラメル川のほど近く、公営の倉庫街へとやってきていた。
ここは昼間なら名だたる商会の従業員から個人商店の主、貨物船の作業員まで大勢の人と荷馬車が出入りする騒がしい区画だ。
しかし事故を防ぐため倉庫での作業、荷物の積み込みや運び出しなどは日のあるうちに限ると定められており、今は人の気配が少しもしない。
誰もいないはずの倉庫街だ。常夜灯の類は一つとしてない。かてて加えて今日は月すら頼りない朔の前日。
『暗視眼』の効果で薄緑がかった世界には、どこまでも続く画一的で無機質な赤レンガの蔵が浮かび上がっていた。それはまるで面白みのない風景画の中に捕まったようで、さしもの俺も少し不気味に感じるほどである。
カツ、カツ、カツと石畳をブーツで打つ音だけが聞こえる独りの行軍。ふと、そんな気配のない場所で何かの視線を感じ、俺は足を止めた。
「?」
倉庫と倉庫の間、暗闇の中をじっと見つめる。すると奥から諦めたような足取りで、ぬっと姿を現したのは少し太った猫だった。
「んにゃーお」
甘えているのか不満を垂れているのか分からない鳴き声に、俺は小さく苦笑する。
黒に赤茶色の混じった、いわゆる錆色の猫。そいつの目に漠然とした夜天光が映り込むと同時、冷たい川風が吹いて港特有の錆臭さを俺の元まで届ける。
「……ここは危ない」
なんとなくそう言うと、猫はまるで言葉を理解しているように顔を背けた。
「……んみゃおう」
尻尾をくねらせ、用ありげに闇の中にとことこと帰って行く。何か不吉なものを孕んでいそうな、ひたすら濃い闇の中に。
俺はそれを見送り、自分も後ろで括った髪を揺らして進路を戻した。今のうちに肘まであるレースの長手袋も外して。
「ん、ここ」
さらに歩くことしばし。どれも同じに見える倉庫の一つを前に、俺は足を止める。一度来たことがあったからよかったが、なければ捜し歩く羽目になるところだった。
そこは執事頭のホランが見つけだし、オルクスの違法奴隷と関りがあるのではないかと俺が張り込ませていた例の倉庫だ。今日は気取られてもいけないので監視の人間は下がらせているが、少し離れた倉庫の上には俺とエレナが造った簡易隠蔽魔道具が隠されていることだろう。
念のためドニオン女伯爵の脅迫状に書かれていた番号と壁に掛けられた倉庫番号が同じであることをもう一度だけ確かめ、邪魔な紙切れの方は折り畳んでスカートのポケットにねじ込む。
ぎぃ……。
端の方に取り付けられた鉄扉を押すと、それはやや錆びた音をさせて開いた。
倉庫への出入り口は二つ、この通用口と正面にある搬入搬出用の大きな鉄扉だけだ。正面のそれを開けると音が凄そうだと思って、こちらを使ったのだが……どのみち蝶番の動く最悪な音色は倉庫内によく響いてしまった。
「はぁ」
小さくため息をこぼして中へ足を踏み入れ、中にいた二人の人物の注意をこちらへ向けさせた。
「こんばんは」
柱に引っ掛けられたカンテラ。その揺らめく灯りに照らされた倉庫の中、俺は待ち人に軽く挨拶をする。
「あら、こんばんは。なかなか来ないから、失敗したかと思ったわ。お久しぶりね、アクセラさん。随分と可愛らしく成長したみたいで、ワタクシも嬉しいわよ」
ネットリした声で話しかけてきたのは人影の片方、ドニオン女伯爵だ。けして狭くはない倉庫を埋め尽くす勢いの木箱、その一つに無遠慮にもたれかかっている。
もう片方は横に侍る背の高い美男。侯爵家あたりの従者が纏うような上質なブラックスーツに身を包み、腰のあたりには優美な物を帯剣している。
「……」
感情の読めない薄い笑みを浮かべる男の、その立ち姿。そこに何か言い知れぬ重みを感じて意識を留める。
(何か、妙だな)
そう思いつつ、俺は視線を切ってドニオンへと戻す。今、この場で俺が対峙するべきは従者の方ではない。
(それにしても……そっちは随分とまあ、人間離れした見た目になったもので)
態々口に出しはしないが、それが俺の率直な感想だった。
お披露目のときに一度だけ会った事があるが、女伯爵はあれから驚くほどに太ったらしい。それも尋常な太り方ではない。俺は師の機械鎧に記録されていた宇宙戦争モノのホロフィルム、あれの醜悪な犯罪王を思い出す。
彼女はそんな巨魁ともいえる肉体を黒い上等なドレスに詰め込み、肌を大量の化粧品でコーティングし、その上から偽物の……とまで言うと語弊があるかもしれないが、かなり創作性の高い美しい顔を化粧で形成していた。
ここまでくると前衛的な芸術か、そうでないのならもはや視覚の暴力だ。
「こんな風に呼び出すことになったのは残念だけど、でもワタクシは長年アナタのお母さまの命を繋いできた。そう思えば、ちょっとした恩返しくらいしてもらってもバチは当たらないわよね?」
赤いファーで縁取られた扇子を口元にあてて嗤うドニオン。
まるで家族同然の付き合いをしてきた間柄のような口調だが、その親し気な言葉に反して作られた顔の中に納まる目はとても冷たい。濁った氷のように。
「……まずは詳しく教えてほしい」
「そうね、お互いに忙しい身だもの。一秒の無駄は金一粒の無駄だわ。けれど、話はとてもシンプルなの。一種の依頼だと思ってくれればいい。ワタクシはこれから魔の森へ向かう、アナタはその護衛をする。そういう依頼よ」
俺が聞きたかったのはセシリアについての詳細だったのだが……。
「ん、待って。護衛?それに魔の森?摘発にくる役人や騎士と戦うのではなく?」
「戦う?んふふ、面白い事を言うのね」
俺の質問に彼女は扇子の向こうで馬鹿にしたような笑い声をこぼす。鼻にかかった甲高さの裏に汚水が管を流れていくようなつっかえのある、実に耳障りな音だ。
「今回の件、国は威信をかけて潰しに来るわ。それは内部にいるであろうアナタが一番よく分かっているはず。それをいくら強いとはいえ、一人の人間に任せるですって?それも、こうして私の求めに応じて来たとはいえ、もとを正せば王太子の犬であるアナタ一人に?侮られたものだわね」
揺らめく灯りを映すその目に剣呑な色が混じる。
睨まれている俺はというと、彼女の発言にいくつもの引っかかりを覚えて困惑しきりだ。
(風俗摘発に力を入れるとは喧伝しているが、国家の威信をかけて?さすがに大げさすぎないか)
確かに真正面から捜査に入った人員を殺してしまえば、軍からより大規模な追討部隊が送られる可能性は高い。それは彼女の言う通りだ。
だがそれはこちらが反撃によってエスカレートさせたらそうなるというだけで、いわば次のステージにすぎない。それを、どうして初手から威信をかけて潰しに来ると思うのか……少し話が大きく伝わりすぎな気がする。
(それに)
俺が確実にネンスの配下としてこの件に関わっていると思っていて、それでもなおリスクを冒して引き抜きを敢行した理由も引っかかる。信用しきるつもりはないと言っておきながら脅し一つで屈するとも考えているのは、何かがズレているようで気持ちが悪い。
「対価として、ワタクシは貴女にユキカブリ農園の権利書を渡すわ」
「ん……?」
「北方に唯一残っている農園で、随分とワタクシに金貨をもたらしてくれた素敵なトコロだけれど……譲ってさしあげるのよ。感謝して頂戴な、んふふ!」
くぐもった不快な哄笑。口元は見えないがニチャニチャとした笑みが浮かび上がっていることだけは確実だろう。
だが俺は前衛芸術の形態変化に気を取られているどころではない。
(待て待て待て、なんでそこでユキカブリが出てくるんだ)
ユキカブリの実は鮮やかな赤色の丸い木の実だ。酸味が強くて食用には向かないが、二十年以上前に貴族や上流階級の間では観賞用として流行ったことがある。だがブームが去ってからは見かけていないとホランは言っていた。
確かにユキカブリの実はこの倉庫に納められていた。納入業者はドニオン女伯爵と繋がりのある北方の商会で、倉庫はオルクスが偽装に偽装を重ねて借りているもの。両家にとってその赤い実が何かの意味を持つことは確実だが……。
(……早いが、というか早すぎるくらいだが、潮時だな)
知ったかぶりをして話を合わせることもできなくはない。だが最終的に国外逃亡の幇助をするとなれば、いくらネンスでも許してくれまい。
加えて思っていた以上に不確定要素が多すぎる。ユキカブリもそうだし、不可侵迷宮たる魔の森に針路をとることもそうだ。
(ならこの場でセシリアの情報をできるだけ引き出した方がいい)
懐に入って証拠を漁るというエレナ発のプランは、残念だが変更だ。
そもそも全ては「金も身分もある彼女なら逃げないだろう」そして「それなら後で捕まえよう」という大前提があっての計画。
土台が崩れた以上、俺にできることは情報をできるだけ回収し、力づくで制圧すること。しかるのち、ネンスの配下に引き渡して極秘逮捕という形に無理やり押し込むことだけだ。
(よし、決めた)
事前に想定していた中で一番野蛮かつリスクの高い選択なのが気に食わないが、贅沢は言っていられない。
「よかったわねぇ、家族思いのアクセラさん?これでアナタのお母さまは永らえることができる。いつか親子で涙の再会ができることを祈っているわ。んまあ!そうだわ、劇にでもしたら今回の損失を補填できるかしら?」
「待ってほしい」
せせら笑うドニオンを遮る。
しかし彼女は嬉しそうに巨体をぶるりと震わせた。
「あら、大切な大切なお母様の命が助かるというのに、まさか不満でもあるっていうのかしら?ないわよねぇ、アナタは何より家族との愛を取る素敵な少女ですもの。ここに来た時点で、いえ、もっともっと昔から……アナタに選択肢なんてないのよ。分かるかしら」
俺の制止を躊躇いの表れと取ったか、ドニオンは扇子をピシャリと閉じてその奥の下卑た笑いを露にする。描かれた顔と笑みのサイズが合っていない、なんとも恐ろしい形相だ。
「なにも王太子を殺せと言っているわけじゃないのよ?明確に飼い主へ弓を引くとなれば受け付けない可能性もあるでしょうしね。でもワタクシからの依頼はただの護衛。何も知らなかった振りをして、ただの冒険者らしく行動してくれればそれでいいの。これはワタクシなりの、アタナへの配慮よ」
ドニオンのねっとりした声と持って回った言い方、挑発的ともとれる口調は余裕の表れか。
一方でそこに滲む焦りにも似た不快感は、分かり切った答えほどさっさと口に出させたくなるという一種の人情だろう。
いずれにせよ絶対的優位にあるという自負がゴボゴボと音を立てそうなほど溢れている。
だが続く俺の言葉を受けて、その表情にはヒビが……文字通りの大きなヒビが入った。
「ユキカブリの実が母の命を永らえるとは、どういう意味」
「……はぁ?」
数拍の間と気の抜けた声。
塗り固めた白粉のうち、口元の一部が歪んで割れた。
「ど、どういう意味って、それこそどういう意味かしら?お母様の今の状況を引き延ばすためにはユキカブリの実が必要なことくらい、アナタだって……!」
「ん、そこ」
「ど、どこよ!?」
目を白黒させる巨女を前に俺は肩をすくめる。
その仕草が癇に障ったのか、頬が引き攣り顔の罅が一気に広がった。
「今の状況というのが何を指しているか、まずそこが分からない」
「な、ふ、ふざけているの!?」
「ふざけてない。私はそもそも、母がどこにいるのかもしらない」
「……は?え、は、はぁああああ!?」
一拍の空隙を挟んで絶叫が迸り、倉庫の内壁に反響する。
ドニオンの化粧にミシミシとあちこち亀裂が入り、顔の大きさと合わない驚愕や焦りの表情が浮かび上がる。
「あ、アナタはお母様を奪ったオルクス伯爵を恨みに思っている、そうでしょう!?だからあからさまに伯爵と対立し、お母様を奪い返すために放逐しようとしている!そうなんでしょう!?」
「何の話」
意味の分からないことを言われて顔をしかめると同時、俺はようやく会話のズレの根本を見た気がした。彼女の中での俺の人物像がひたすら実物と乖離しているのだ。
「ひゅ……っ」
心底意味が分からないという俺の反応はこの鉄面皮ごしでもハッキリ伝わったようで、ドニオンは変な息をして表情を失った。
しかしすぐさま顔に描かれた薄く微笑む美女をメキメキと割って、奥から怒りが吹きだす。
「ジュメイィイイイイイイイ!!」
女伯爵が獣の雄叫びのような声で呼ばわったのは、隣に侍る美男の名だった。
「アンタ、言ったわよねェ!?アクセラ=ラナ=オルクスは家族思いで、彼女の行動原理は全てがそこにあると!オルクス家の処分を留保する代わりに王家の犬になっていると!すべてはッ、伯爵との対立はッ、顔も覚えていない母親を取り戻すためだとッ!取り戻してッ、思い描く幸せな家庭を手に入れるためだとォ!!」
並べ立てられる年頃の少女なら微妙にありそうな動機。
だが最初の一つ、家族のために動いているというところ以外は何も合っていない。かすりもしていない。
「ジュメイ!ジュメイ!ジュメイーッ!!ワタクシは調査の結果としてそう報告を受けたわよねェ!だからこそ今回の計画を決めたはずよねェぇえええ!!どういうことか、説明しなさいィ!!」
ドニオンの太い腕が扇子を足元に叩きつける。頑丈な床にぶつかり跳ね上がった木製の小道具は、男のスーツの足にぽすんと当たる。
怒りのあまり化け物のような顔になった主を前に、ジュメイなる男は微笑みを崩すことなく浅く腰を折った。
「どうやら配下の収集した情報が間違っていたようです。大変申し訳ございません、マイレディ」
一見すると優雅で誠意の籠った謝罪に見えるが、この状況では悪びれた様子もない厚顔無恥としか映らない。
「ジュメイぃ、オマエまさかワタクシを裏切ったんじゃないでしょうねェ?」
「もちろん違います、マイレディ」
今にも飛び掛かりそうな気迫で唸る巨女だが、それでもジュメイは涼しい顔。
ちらりと俺を見て笑みを深めてから、主の耳元に口を寄せる。
「情報が誤っていたことは申し訳ございません。しかしこの娘がやってきたということは、動機は違えども脅しは有効だったということです。そうでしょう、マイレディ」
「ぬぐ……ッ」
甘い声で囁く男の言葉にドニオンの動きが止まる。
壊れた顔面で俺をちらりと見て、再びジュメイを睨み、それを数度繰り返してから彼女はゆっくりと大きく息を吐いた。
「……いいでしょう、これまでの働きを考慮して保留にしてあげます。どういうつもりか、後できっちり説明してもらうわよ。二度目はないと思いなさい!!」
「マイレディのご寛大な判断、感謝いたします」
慇懃な態度で再び腰を折る男。動じた様子のない仕草は、こうなることが分かっていた者のそれだ。
他方、まさか矛を収めるとは思っていなかっただけに、俺はわずかに眉を上げる。
彼の言葉に理があると思ったのか、それともそれだけ内情が逼迫しているのか……。
(逼迫、だろうな)
腹心の部下に間違った情報を与えられていたとしても、普通は敵の主力と目される相手を引き抜く手紙を出したりはしない。少なくともそんな大馬鹿をやる人間ならここまで王都の闇に根を張れてはいないだろう。
では現実、のこのこ顔を合わせている今の状況が何を示すか。可能性は二つに一つだ。つまりそれすら含めて企みであるか、あるいはそんな博打に手を出すほど追い詰められているか。
俺は後者だと考える。顔に似合わず、というかある意味で顔の通りというか、ドニオンが演技派の女優であるなら別だろうが。
(今の怒りが演技だとは思えないしな……しかし、なぜそこまで焦る?)
俺やネンスが呆れかえった通り、証拠を消してじっとしていれば違法風俗の摘発などいくらでもやり過ごせたはずなのだ。
俺の人物像と母親に関する認識以外にも、まだ何かボタンを掛け違えている気がする。
「ドニオン女伯爵」
「……」
俺に名前を呼ばれた女はぎろりと睨み返してきた。
諦めた目ではない。ジュメイの語った俺に脅しが効いているという可能性と、より強硬的な策に出る手とを比べて思案しているのだろう。
(貴族的な読み合いや情報戦は苦手だが、戦場の駆け引きは俺の得意分野だ)
彼女の思惑を察した俺は両手を上げて争う意志がないことを示す。
「母の状況と、ユキカブリの実の関係を教えて」
「……どういうつもり?」
「それによっては協力を考える」
「今更そんなことを言われて、ワタクシが信じるとでも?」
肩をすくめてジュメイの言葉を、大概うさんくさい主張だが、後押しするよう口を開く。
「その男の集めてきた情報、大体間違っているけど二つ正しい」
「……」
「一つ、私が家族をとても大切にすること。もう一つ、ここに仲間も連れずに来たのは、手紙の内容が私に効いたということ。もし母に興味がなければ騎士を差し向けている。王太子の犬らしく」
ぎょろりとした目にむしろ疑念が強く宿る。すらすらと自分の弱み、脅しが有効であるということを自白する様は、彼女でなくとも怪しく捉えるだろう。
だが本当にセシリアを救いたいなら、そうと白状してドニオンから状況を教わり、そのうえで彼女の話にのるしかない。
(その程度は察してくれよ……?)
果たして、貧すれば鈍するとはいうが、そこまで愚鈍にはなっていなかったらしい。俺の思い描いているそれと同じ画を描いたらしい異相の貴婦人は小さく笑みを浮かべた。再起の可能性を見出したようだ。
「……いいわ。何が聞きたいの」
「まずは母の居場所」
それが分からない事には始まらない。
「簡単よ。オルクス伯爵の邸宅。この王都のね」
「うそ」
あっさりと答えた彼女の言葉を俺は否定する。もしそうなら屋敷を誰よりも把握しているホランが調べて見つからないはずがない。
だがドニオンは表情一つ変えることなく同じことを繰り返した。
「うそじゃないわ。王都の屋敷にお母様はいる。どこに隠しているかは知らないけれど」
「なぜそう思う」
「ユキカブリの実を態々屋敷に運び込んでいるからよ。この倉庫は面倒くさい手を踏んでザムロのジジイから隠してある。それなのに必要もなく屋敷に運ばせないでしょう?」
「なるほど」
言っていることは理屈としておかしくない。
だが引っかかるところが一つ。
「この倉庫を隠している……オルクスが、ザムロ公爵から?」
「ああ、そこは詳しく聞かれても困るわよ。あの二人の間のハナシだもの、ワタクシは知らないわ」
あと一歩のところで役に立たない女だ。
「……わかった。それで、ユキカブリの実はどう関わってくる?」
「んふ」
俺の問いにドニオンの口角が上がる。情報に食いついたことでチャンスを確かなものと感じ始めている証拠だ。
「アナタのお母様は特別な装置がなければ生きてはいけない状態に陥っているの」
「それにユキカブリが必要?」
「ええ、そうよ。装置で使う薬液か何かに必要なんですって。まとまった量の、それこそ農園でもない限り賄えない量のユキカブリがね」
薬液か何か。ということは、彼女はその詳しい用途を知らないのか。とにかくその供給がなければ厳しいということだけが分かっている。
(それならどうにかなる、か?)
チャンスの端を掴みかけた気でいるドニオンだが、本当の光明を見出しつつあるのはどうやら俺のようだ。
「装置と言った。誰が作った、どういう装置?」
少しでも女伯爵とセシリアの繋がりを明確に見極めるため、俺は質問を重ねる。
だが、返って来たのは意外すぎる回答だった。
「チッ、質問の多い……どういう装置かは知らないわ。でも、ふふっ。作者ならアナタもよぉく知っているわよ?」
虫唾の走るようなニチャついた笑みで女は言う。
「誰」
「トワリ侯爵。ああ、元侯爵になるのかしらね」
「!」
夏の終わり、あの反乱の最後の一日に、エレナが滅しきった哀れな異端者。その名前が出た途端、俺の脳裏に断片的な光景が次々と浮かび上がってくる。
地下の研究施設に並んだ黒節鋼の筒、筒、筒。充填された魂を溶かす禁忌の薬品。それが放つピンクの光と熟れ腐った果実のような臭気。手足を切り落とされ、チューブに繋がれた人間。彼らの瞳の暗い色。苦悶すら奪われた薄い恍惚の表情。
それは100年あまりの人生でもほぼ目にした事のない、人間を人間でなくするためだけの狂った研究施設……。
「あれが、王都にある?」
俺が茫然と呟く間も、おそらく装置自体をまったく知らないであろうドニオンは言葉を、供述を続けていた。それが自分の助かる道、俺を縛り付けるための縄を編む行為だと信じて。
「ワタクシとトワリはもともと商売上の取引があったの。アナタのお父様、オルクス伯爵とはそのツテで会ったのよ。ユキカブリを安定供給してほしいと頼まれてね」
ドニオンの顔が嘲笑に歪む。
「んふふ、随分とトワリは甲斐甲斐しく目をかけていたようだったわ……知っていて?負け犬が傷をなめ合う様は、南部産のいいワインに合うのよ」
「……ちっ」
自分が絶対的な成功者であると信じているからこその態度に、思考の奥へと沈みかけていた俺は思わず舌打ちをする。
だが確かにトワリ自身もかつて言っていた。オルクスは歪んだ哀れな男だと。自分とは違う歪み方だが、その複雑な内面にはシンパシーを覚えると。
「んまあ、正直何を考えているかは分からない男だけれど、あれで顔の造作は悪くないわよね。太っている分は見苦しいけれど、苦悩し、追い詰められ、やせ細っていく姿を想像するとちょっと楽しいタイプかしら」
「それが協力した本当の理由?」
「まっさか!」
俺の刺すような問いにドニオンは噴き出す。
「ワタクシ、ああいう女々しい男は顔がどうでも嫌いよ。でもオルクスにはワタクシの商品を買うつもりがあって、それを購うお金を稼ぐ意思があった」
「稼ぐ意思……」
「ふふっ。そうよ、身を粉にして稼ぐ意思がね。ワタクシにとってはそれだけで十分。貢がれる金貨の重さが全てなの。絞って絞って絞り切るその最後の瞬間まで、あの男はれっきとしたお客様よ」
「……なるほど」
彼女の語りが一段落したところで俺はゆっくり息を吐き、もう一度頷いた。
「なるほど」
ザムロとアドニスの間には強固な絆だけでなく、なにかしらのわだかまりがある。それはおそらくセシリアの現状に関するものなのだろう。
そこへもともとアドニスに共感を覚えていた生態錬金術の権威、トワリが接触をしてセシリアを生き長らえさせるための装置を作り上げた。
しかし装置を動かし続けるには当時、流行が終息して希少になっていたユキカブリが必要となる。トワリは、おそらく善意で、そのルートたりえたドニオンとの取次ぎをしたわけだ。
継続的にユキカブリの実を買い続けるのは、領地との繋がりを捨てたアドニスには厳しい。そこでザムロを頼っていれば話は違ったのだろうが、事実としてそうはならなかった。前述のわだかまりが原因なのか、他に何かあるのかは分からないが……。
(違法奴隷ビジネスはドニオンの紹介で始めた。アドニスの証言は、そういう意味か)
ユキカブリの実を買い続けるための資金源だったのだ。あの男は頼ったのだ、よりにもよってこの魔女を。
そう考えれば全ての辻褄が合う。例えば稼いだ金が、豪遊しているわけでもないのに、どこかへ消えていることにも。
「ようやく、理解できた」
「そう、自分の置かれた状況がようやく飲み込めたのね。嬉しいわ」
普段通り、感情の浮かばないフラットな声で応じる俺。
そこに何を見出したのか、調子を取り戻して勝利の予感を滲ませるドニオン。
「色々と行き違いはあったようだけれど、ワタクシの存在なくしてお母様の命は維持できない。そうともなれば、アナタが次にすべき行動は分かるわね?」
女は溺死したソーセージのような指を揃え、その手の甲を俺の前に差し出した。騎士が己の忠誠を示すように、そこに口づけをしろと言うことなのだろう。それはドニオンとジュメイの前で無防備を晒す行為であり、この場合は屈服を示すことになる。
「さあ、傅きなさい」
顔の残骸をさらに細かくしながら満面の笑みを浮かべるドニオン。焦りと混乱を脱し、小娘一人なら容易く御せるという慢心までも取り戻したようだ。
俺はその白くむくんだ手を一瞥し、それから彼女を真っ直ぐ見返して答える。
「断る」
「……っ!」
瞬時に怒りで塗りつぶされる顔面。焼き物のように白粉の欠片がばらばらと剝がれ、倉庫の床に散らばった。
「はぁあああ!?アナタ、自分が何を言っているのか分かっているのかしら!!」
怒鳴るたびに女の表情がどんどん剥落していく。
「分かっている。いや、今、分かった。よく分かった」
こいつだ。俺がアクセラとなってから長年追い回してきたオルクス伯爵の違法奴隷売買という悪行の始まりは、こいつなのだ。
改めてそう結論付けると同時、俺の中の魔力が大蛇のように力強くうねり始めた。
「君が……お前が災厄を、一番の邪悪を持ち込んだこと、よく分かった」
ビクターの人生を、トレイスの人生を、そして大勢の罪なき人々の人生を狂わせてきた根深いしがらみのスタート地点。
それはアドニスであり、彼の父である前伯爵であり、レグムント家やザムロ家でもあるのかもしれないが、大きな流れの中でこの女が転換点だったことは間違いない。それも最大の悪意を持った転換点だ。
「お前は今まで何人、そうやってグラス片手に貪ってきた」
アクセラとして生まれる前からあり続け、アドニスの所業を聞いて再び確かなものとなり、先日のフラッシュバックで強く燃え上がった……囚われ、甚振られ、人であることを否定された者の怒りの炎。その熱が、心臓の裏側から轟々と音を立てて燃え上がる。
「何人、失意と絶望の底に落としてきた……ッ」
手が自然と腰の物に伸びる。握った柄の柄巻が手に吸いつくような感覚。心臓の熱が鼓動に乗って体を駆け巡り、人差指の先の脈動となって雨狩綱平の鞘の中身に染み込んでいく。
「数えてみろ、何人だ!!」
「ひっ、し、知らないわよ!何をそ、そんなっ、急に怒り出して!!」
金切り声を上げるドニオン。慄いたように背後の木箱へ体を押し付け、俺を目だけで睨んでいる。
「ああ、もう!もう!もう!!意味の分からないコトをゴチャゴチャ言って……いいわ!手元に置ければ価値もあるかと思ったけれど、とんだ無駄足よ!!ジュメイ、こいつを殺」
「危ない!!」
「ぐぶッ!!!!」
喚く途中で潰れたような悲鳴を上げるドニオン。俺が雨狩綱平を抜刀して踏み込み、ジュメイが彼女の首を掴んで真横に引き戻したのだ。
それでも海色の刃から逃れることは適わず、堅い化粧の殻もろとも鼻の頭が薄く切れて血がにじむ。
「いぎゃああああああ!?ワ、ワタクシの、ワタクシの顔がァ!!」
尻餅を突いた先で大げさに転げまわる魔女。
「おさがりを、マイレディ!」
「な、ひっ、ひぃ、なに、何がッ!?」
腰の剣をジュメイが引き抜き、片手で構えて主を庇う。
「私はお前をぶち殴って、ネンスのもとに引きずっていく」
手の中の刀がちゃきんと鳴る。その無機質で澄んだ音が倉庫を満たす緊張感を一気に最高潮まで引き上げる。
「そっ、ば、バカな、おか、お母様がどうなってもいいって言うの!?」
殺せとまで言っておいて何を今さら。
「お前のようなクズと取引きはしない。もう決めたことだ」
「ま、待ちなさい!お母様が死ぬわよ!?嘘じゃないわ!!ワ、ワタクシが明日の朝日の昇る頃までに連絡をしなければ、ユキカブリの農園は焼き払われる手はずに……ッ」
「うるさい」
錯乱したように唾を撒き散らすドニオン。ここに至ってなお微笑む不気味なジュメイ。二人の悪党を前に、耳障りな声を断つように蒼銀の切っ先を突き付ける。
「明日の朝日?誰かの血を啜って生きて来たお前に、明日なんてこさせない」
暗い闇の中に、カンテラの火を吸って海色の刃が浮かび上がった。
「交渉は、決裂だ」
~予告~
諸悪の根源を見つけ、怒りに滾るアクセラ。
海色の刃が暗闇に振るわれる。
次回、倉庫街の戦い




