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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十三章 瀉炎の編
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十三章 第8話 ドニオン女伯爵

 富裕街の一角にあるゼブル地区はいわゆる歓楽街だ。娼館や賭博場、酒場、逢引き宿などが建ち並ぶ、王都で最も金の動く場所の一つ。

 その享楽の地のメインストリートから一本入ったところに、ドニオン女伯爵の絢爛な邸宅は構えられていた。土地の少ない王都の、それも旧市街……そんな場所にも拘わらず、夜会用の別館と庭、さらにはプールまでついた恐るべき豪邸だ。

 女伯爵はゼブル地区に巨大な娼館を三つも所有しており、近隣の大都市にもいくつか同様のシノギを確保している。それが生む莫大な金はそのまま彼女の力となり、役人や兵士にも少なからず彼女の息がかかったものが紛れ込んでいる。

 豪語するに曰く、金と女を転がして手に入らないモノは何一つない。


 さて、そんなゼブル地区の支配者ともいうべきドニオン女伯爵は、総大理石の別館で三日と空けずに夜会を開くことでも知られている。普段は表に出てこないような各方面の有力者が顔を出し、値千金の情報や繋がりが得られる夜会だ。

 だがまともな貴族がそこに参加することはない。それは各方面の有力者と言うのが、道徳的にも法的にも問題のある人物ばかりだから。そして夜会が毎度、あまりに退廃的だからだ。


 マクサランド子爵そうした問題のある金持ちの一人として名を連ねる男だ。閉鎖的でプライドが高く、しかも中央や南部に対して反抗的な者の多い北方貴族の一員だが、ドニオンほどではないがそれなりに成功している男といって差し支えない。


「ほうほう、それは面白い話だ。もう少し聞かせて頂けますかな?」


 彼は今、大きなソファーに座って懇意にしている伯爵から話を聞いているところだった。右手には金の盃に外国の酒を、左手には隣にしなだれかかった下着姿同然の高級娼婦の尻を掴んで。


「いやなに、それで孫の言うにはな。アクセラという娘、どうやら自分の専属侍女を手籠めにしているようでのう。ほれ、あのエレナという、勲一等の魔法使いじゃよ。乳の大きさの割に純朴そうな娘じゃったが……ヤることはヤっておるわけじゃ、ふへへ」


 話し相手の伯爵がニタリと笑う。黙っていれば好々爺のような顔つきの老貴族だが、港湾労働者に対しての非合法スレスレの金貸しを経営している人物だ。中身はお察しというところである。


「しかし女同士とは。美人だと聞きますが、なんとも勿体ないですな」

「なんじゃ、マクサランド子爵ともあろう男が浅いのう。見目の良い少女同士を交わらせ、それを見ながら飲む酒は格別じゃぞ?」

「結構なご趣味で」


 苦笑を浮かべつつマクサランドは隣の娼婦を抱き寄せる。


「私はこの者のように肉付きのよい女が好みでして」

「んん!」


 肉が余っているということはないが、くびれた腰にはまろやかな柔らかさのある娼婦だ。金の指輪を填めた太い指をその露出した腹に食い込ませれば、彼女は押し殺したような嬌声を上げて子爵を楽しませた。


「恥じらいのある鳴き声がまたよい。 そうは思われませんか」

「はっ、浅いのう。まったくもって浅い」

「創世教の使徒が聞いたら激怒しそうな話をされておいでですな、閣下がた」


 平行線となった二人の会話に入ってきたのは品のいいブラウンのスーツを着込んだ男。違法ではないがまだ規制されていないだけ……そんな脱法の興奮剤などを扱っている際どい商会の会長だ。


「おお、お前か。なに、創世教会はあれで柔軟じゃからな。宗教的な結婚は執り行わぬと言っておるが、わざわざ見つけ出して糾弾しようとは思っておらんじゃろうよ」

「羨ましい限りです。わたくしの商売は教会や国との追いかけっこでございますからな。我々のことも見つけ出すのをやめてくれればどれほど良いか」


 それは無理だろう、と三人は声を大にして笑い合う。


「しかしわたくしの聞いた話では……ああ、太い客の一人が戦神神殿でオルクス伯のお嬢さんを見たそうなのですがね」

「ほう、戦神神殿で?」


 マクサランド子爵がわずかに身を乗り出す。


「ええ、パレードの日にね。わたくしの客は常用している商品のおかげで随分と鋭い聴覚をお持ちなのですが、話題の剣士を見たとあって、彼女と神官の会話を盗み聞きしたのだそうです。どうやらオルクス伯のお嬢さんは使徒の勘気を恐れて顔を合わせないようにしているとか」

「なんじゃ、意外と気が小さいのう」

「一騎当千の剣士と魔法使いといっても思春期の子供、愛だの恋だは隠れてしたいんでしょう。ククク……」

「こうして我々悪い大人の酒の肴にされておりがますがね」

「それはほれ、有名税というやつじゃよ」

「はっはっは」


 会長と老伯爵がバカにしたようにほくそ笑む。

 しかしマクサランド子爵はむしろアクセラの評価を上方修正した。一介の学生とはいえ二人は先の反乱、それも異端者を相手取っての戦いで貢献大と判断された身だ。社交や外交の一環として使徒に引き合わされる可能性もある。そんな危険を察知して神殿に逃げ込んだというのは大したものだ、と。


「しかしまあ、アクセラという娘。あれは父親に似ておらんな」

「ええ、たしかに」

「そうなのですか?わたくしは両閣下ほどオルクス伯爵を存じ上げないので……」


 マクサランド子爵は老伯爵と共に会長へ頷いて見せた。

 彼も娘の方には直接会ったことはなかったが、噂に聞くアクセラはずば抜けた美人だ。レグムントの白い髪とオルクスの淡い紫の瞳を持つ、人形のように冷たい表情をした少女。

 対するオルクス伯爵は常に渋面を浮かべており、子爵自身と同じく肥満体形。髪は濃い金だし、目も濃い赤紫だ。


「タネが違うのではないか?」

「さすがにそれは……」

「見た目もじゃが、オルクスは外聞など気にせぬからなぁ。そのくせ慎重で儂らにすら商売の繋がりを探らせんほどだ。気味の悪い男だわい」

「なるほど。その点、お嬢さんはコソコソとしているわりにこうして話題に上ると」


 会長の相槌を受けて伯爵の口元がぐにゃっと歪む。


「ふひひ、子供よな。王家の関心を買ってさえいなければ儂が手元で飼いたいほどの浅はかさじゃ。きっと壊し甲斐があるわい」

「「……」」


 乾いた肌を薄っすら染めてニタニタ笑う老人に男たちは顔を見合わせ、そのまま口を噤んだ。老伯爵の異常な性癖は有名で、二人とも本格的にそこへ首を突っ込む気はないのだ。


「あー、さて。私はそろそろアチラで楽しんでまいります」


 妄想に更ける変態老人に一言断りをいれ、マクサランドはこれ見よがしに娼婦の腰を抱いて立ち上がった。

 この夜会用の別館には地下室があり、賓客はそこのベッドルームで休憩することができるのだ。もちろん給仕の真似事をしている娼婦や男娼を連れて。ちなみに彼ら、彼女らはドニオン女伯爵の店の商品であるが、この夜会ではそれらが無料で抱ける。


「おうおう、楽しんでくるがいいわい」


 気分がよさそうな伯爵と逃げ遅れた会長に見送られて子爵は会場の奥へと向かう。屈強な男が警備する扉を潜ると休憩室に繋がる階段が現れるので、女と連れ立って彼は進んだ。


「ふぅ……変態どもめ」


 誰もいない通路になった途端、人付き合いのための仮面を脱いで子爵は深々息を吐く。

 腕の中には豊満な肉体を黒い下着然とした卑猥な衣装に押し込めた美女がいるが、彼がそのことを気にする素振りはない。精々が手慰みにその尻を揉んでいるくらいだ。

 実のところ子爵はお喋りが好きな方ではない。特に抱く女には単純な抱き心地のみを求めており、伯爵に言った恥じらい云々もどちらかというとそうした考えからくる本音であった。そのため彼が選ぶ娼婦は無口な者が多い。


「しかしこれで随分アクセラ=ラナ=オルクスの情報は集まった」


 物のように付き従う娼婦以外は誰もいないのをいいことに、子爵は独り言を続けた。

 地下に設けられた休憩室は一つではない。だがその用途からいずれも高い防音性を誇り、廊下で何を言おうと聞こえないのだ。


「集まったが、使える情報かというと……ふぅむ」


 怪我の後遺症で酒が飲めないこと、侍女を大変に可愛がっていること、その侍女と肉体関係にあること。マクサランドの目から言って有用そうなのはこの三つだけだ。


「先般死の縁を彷徨ったときに子が産めなくでもなっていれば……いや、強請たかりが狙いではない以上、それも無意味か」


 それ以外に分かったことと言えば、勲二等の評価に違わず異様な剣の腕前をしていること。火属性の魔法を使えること。スキルを用いない独自の戦い方を納めていること。そのくせスキルも珍しい物を色々と持っていそうだということ。


「何一つ弱みがないではないか」


 強さが嘘ではないと分かったことは、ある意味では有用かもしれない。だがそんなことは彼のクライアントもよくよく承知の話で。


「まったくダルザの奴め、厄介なことを押し付けおって!」


 マクサランド子爵は己のことを、一種の国際的な商売人だと考えていた。物も扱うが、彼が売り買いするのは主に情報だ。そう、あのトライラント伯爵家のように。

 ジントハイム公国の工作員であるダルザやその一派と付き合うのも、北のティロン王国と付き合うのも、彼にとっては大事なビジネス。そこに鎖国しているとか、紛争中だとかそんなことは関係ないのだ。

 いっそ取引相手の手広さにおいて、彼は例の一族をも上回っている自負があった。


「だが、面倒な仕事ほど金になる。ふん、我が身の勤勉さが誇らしいわ。む、この部屋は空いているのか……来い!憂さ晴らしだ、今日は尻が倍に腫れるまで使ってやる!」


 皮肉を吐き捨て、マクサランド子爵は休憩室へと消えていった。


 ~★~


 人の皮を被った獣たちが肉、酒、色によがり狂うドニオン伯爵邸別館。その隣に立つ三階建ての本館には数々のドレス、宝飾品、帽子や杖……女伯爵お気に入りの品を集めた寝室ほどもある衣裳部屋がある。

 その奥に用意された鏡台の前の大きな椅子に、異様な見た目をした人物が座っていた。ヘルダ=カーシャ=ドニオン、この屋敷の女主人だ。

 膨れ上がった肥満体を、艶めく赤のドレスに詰め込んだ女。それも並の太り方ではない。顔の輪郭は脂肪で曖昧になり、足も関節で余った肉が垂れ下がっているほどで、オルクス伯爵やマクサランド子爵など比べ物にならないくらいの有様である。

 だというのに目鼻立ちはやけに美しく、くっきりと整っている。肌も赤子のように滑らかだ。もしつぶさに見れば、それが高度な化粧によってつくられた偽物の顔と肌であることに気が付くだろうが……。

 波打つ黒い髪は魔道具の灯りを受けて優雅に照り、甘く切ないような絶妙の香を放っている。その自慢の髪だけは、どうやら本物らしかった。


「どういうことよ……」


 美醜の概念が崩壊しそうな顔を忌々し気に歪め、ドニオンは声を震わせた。

 彼女の視線の先では老境に差し掛かった執事が可哀そうになるくらい怯えて立っている。


「そ、その、それは……」

「ワタクシはどういうことかと、そう聞いているのよっ!!」

「ひ、ひぃ!」


 鏡台に置かれていた小物入れを投げつけられ、執事は悲鳴をあげる。


「アンタ、今ワタクシがどういう状況に置かれているか、分かってないのかしら!?」


 苛立ちを表すようにひゅーひゅーという呼吸音を漏らしながら、女主人は射殺さんばかりの視線で彼を睨みつけた。


「可愛い可愛いフリットワーズの話だと、国がワタクシのビジネスに首を突っ込んでくるっていうじゃない!違法風俗の一斉摘発なんて、舐めたマネさせてたまるもんですか!!」

「し、しかし閣下、これまでも摘発は何度かありましたが、閣下のご商売に影響がでたことは一度も……」

「はぁ!?アンタに商売の何が分かるのよ!」

「ひ、も、申し訳ございません!」


 宥めようとした老執事の頭に鏡今度はブローチが飛ぶ。


「ぐっ……!」

「規模が違うのよ、規模が!」


 老執事の言う通り、これまでも潔癖な役人や大臣が王都の風紀を正すと息巻いて娼館を摘発することはあった。しかし彼女は、経営する数多の娼館の半分近くが違法かスレスレのグレーゾーンであるにもかかわらず、大きな打撃を受けたことはなかったのだ。

 それは今回のように、王宮内に彼女の味方をする人物がいるから。そして貿易商会や認可済みの娼館という、まともな方の商売をうまく隠れ蓑にしてきたからだ。

 もちろん実際に情報から時流を読み、隠し通してきた手腕はドニオン女伯爵の才覚によるものである。つまり経営者としても、悪党としても、彼女は確かな実力を持っていた。

 その才覚が、今は最大級の警告を発している。


「財務大臣補佐のフリットワーズが警告しに来るってことはねぇ、相当大きなカネが動いてるってことなのよ!今までのおままごとみたいな風紀の取り締まりとはワケが違うのよぉ!! 」


 エメラルドと銀の装身具が当たった場所を押さえて数歩引き下がる彼に、ドニオン女伯爵は続けて揃いのイヤリングを浴びせた。こちらも大きな石があしらわれたもので、執事服の上着に当たって痛そうな音を立てる。


「お、お許しください、ヘルダ様!」

「伯爵閣下とお呼び!」

「閣下!伯爵閣下!どうかお許しを!」

「許しが欲しければとっとと計画を潰してきなさい!財務省、法務省、騎士団に軍部!あるだけのツテを全部使って!金も積んで!全力で骨抜きにするのよ!!」


 執事の顔が明らかに青褪める。


「し、しかし、王太子殿下が陣頭指揮を執られるのであれば、その、普段は受け取ってくださる方も拒否される可能性が高く……」

「なら適当な女をあてがって王太子を直接篭絡しなさい!」

「そんな、学院の中に娼婦を送り込むのはいくらなんでも無理でございます!」

「だったら貧乏貴族の娘を買って内側から篭絡させればいいだけのことでしょう!?うちの地下ならどんな芋臭い田舎娘でも一週間で男を抱き落とす淫魔に仕立て上げられるわ!そのくらい考えなさいよ!」

「い、一週間で!?そんなことをすれば……」


 ドニオンはぎろりと執事を睨み付ける。

 屋敷の地下には裏の店で提供する過激なサービスのため、仕入れた人間を男女関係なく徹底的に壊す施設が用意されている。常識を、羞恥を、感度や価値観を壊して淫靡で尊厳の欠片もない、純粋で退廃的な「性」という売り物に作り変えるための施設だ。

 彼女はこの部屋のことが仕事以上に気に入っており、時間を見つけては壊れ行くヒトを眺める趣味に興じていた。通常は一カ月かけて行われる加工を一週間で行うとどうなるか、お伴をさせられていた執事は理解していた。


「うるさいわね!どうせ急場をしのげればいいのよ、王太子を篭絡したら裏で野垂れ死のうが狂って死のうが構わないわ!」

「ひっ」


 悲鳴を漏らす執事にもう一組のイヤリングを掴んで投げつける。


「失敗したらオマエを地下にぶち込んで、ナルヌクの枯れ専クラブ に売り飛ばしてやるわよ!分かったらさっさと行きなさい!」

「はいぃいいい!!」


 もはや顔を土気色にした老人が転がるように出ていく。

 それを睨みつけていた女伯爵は、扉が音を立てて閉じると同時に頭を抱えた。


「どうするのヘルダ。どうするのヘルダ。どうするのヘルダ」


 小さな声で呟く。


「ハニートラップ対策くらいはしてるはずだわ。強引にでも一度抱かせてしまえばこちらのモノだけれど、失敗する可能性もある。骨抜きにできなければ……いえ、最悪は裏の店を全て畳んで、勿体ないけれど商品も処分してしまえばシラを切り通すことも可能だわ」


 恐ろしいのは真偽官だが、ドニオンにはそれを躱すアテがあった。


「……いえ、おかしい」


 ドニオンは子飼いの男、財務大臣補佐フリットワーズが持ち込んだ国庫の金の流れを目で追う。


「いくら王太子が指揮をすると言ってもこれほどの規模でしょう?あの王や宰相どもが何も入れ知恵しないとは思えない。だとするとこんなに早く情報が来るのはいくら何でも杜撰すぎる。つまり……」


 考えられるのは二つ。一つはフリットワーズが内通者だと特定されていて、金銭についての欺瞞情報を握らされている可能性。そしてもう一つはこの作戦そのものが欺瞞情報であり、もっと別の作戦が裏で動いている可能性。


「……まさか」


 ここ半年ほどの王都の変化、情勢の移り変わりを思い起こしたドニオンは一つの可能性に思い当たる。それは彼女にとって最悪の事態だった。


「裏で動いているのは、昏き太陽の一斉摘発……?」


 そうと気づいた(・・・・)瞬間、衣裳部屋に女伯爵の金切り声が響き渡った。


「クソ、クソ、クソ!そっちが本命なら王子の篭絡なんて何の意味もないじゃない!!」


 指が閉じ切らないほどに指輪を着けた手でバシン!と鏡台を叩くドニオン。

 バシン、バシン、バシンと天板を叩く彼女の顔に、細かい罅が入る。赤子の肌のようになるまで塗り固めた高級な白粉がカバー力の限界を迎えたのだ。その地割れのような跡からは怒りで赤黒く染まった地肌が垣間見えていた。


「どうするヘルダ、どうするヘルダ!まずは資金を退避させて……いえ、そんな時間はないハズだわ。まずは金輪屋に連絡を」


 ドニオンの脳裏にニタニタと笑うピエロのような小太り男が浮かぶ。ユーレントハイムを震撼させたセクト「昏き太陽」の代表的なメンバーであり、非合法な商材を手札に各地の貴族から遺跡や出土品を買い取っていた商人、金輪屋の顔が。

 しかし同じく「昏き太陽」の資金を支える女衒(ぜげん)は、そこまで口走ってから蒼白になる。


「あ、あああああっ!!金輪屋のヤツ、西に行っているタイミングじゃないの!?なんで肝心なときにぃ!!使えない木偶人形めェ!!」


 絶叫とともに薙ぎ払われる太い太い腕。香水瓶が床に落ちて砕け、女伯爵の髪からするのと同じ甘い香りがむわっと広がった。


「ジュメイ!ジュメイ、来て頂戴!」


 甲高く叫んでみせれば、衣裳部屋の片側を埋め尽くす冬用コートの群れを掻き分けて一人の男が姿を現す。隣の隠し部屋に潜んでいたのだ。

 長い黒髪を背中に流し、伯爵の前だと言うのに帯剣した、青年というには少し年を重ねた美男。ドニオン女伯爵を知る者が見れば、いかにも彼女好みの男だと納得しただろう。


「はい、マイレディ。ジュメイはここにございます」


 漆黒のスーツが汚れることもいとわず長身をかがめて膝をつき、ジュメイと呼ばれた男は柔らかな声で主に答えた。甘いマスクに相応しい穏やかな笑み。しかしその目は異様に冷たい。


「ジュメイ、聞いてちょうだい!」


 ドニオンは腹心の部下であり、護衛であり、最愛のツバメでもある男に全てを話した。

 もたらされた厄介な情報、その裏で進行する自分を陥れるための陰謀、折悪く国を離れている協力者……それらを全てぶちまけ、ひとしきり悪態を吐き終えた上でこう続ける。


「魔の森に向かうわ!」

「承知いたしました」


 ええ、ええ、と相槌を打ち続けていたジュメイはその言葉に驚く様子もなく頷く。


「段取りはいかがいたしましょう。急いだほうがよいかと愚考いたしますが」

「そうね。二週間……いえ、一週間で資産を全て隠して移動するから、アナタはその間ワタクシの警護をなさい!」

「もちろんです、マイレディ。この身は拾って頂いたときからマイレディの剣であり盾。地獄の底までお供致しましょう」


 男の筋張った指がそっと剣帯の柄に触れる。短剣とショートソードの間くらいの、やや短い特注の剣だ。ドニオンの財力によって誂えられたコンクライトの一振りで、売れば屋敷が建つほどの品である。


「さすがジュメイね、頼もしいわ!」

「しかし、資産を全て逃がすとなると気取られる恐れも……」

「ダメよ、金は全て動かすわ。この世の全ては金、金、金!金がなくては始まらないのだもの」


 金貨さえ積み上げれば人の心を変えることもできる。変わらない心があっても、変わるように強要することができる。何をするにも金貨は必要で、逆に言えば金貨を上手く積めば何だってできる。それが彼女の哲学だ。

 命が掛かっている状況で一枚も取りこぼさずに動かすという判断がアッサリ出てくるあたりは狂気だが、ジュメイも十年以上ドニオンに仕えている身だ。それ以上抗弁することはなく深々と頷いて主の指輪の一つに唇を落とした。


「マイレディがそれをお望みなら。では移動についてですが、そうですね、魔の森までの警護にはもう一人か二人ほど手練れが欲しいところです。この身はマイレディの剣であり盾ですが、剣一振り盾一枚というのも心もとないでしょう」

「んまあ、そうかもしれないわね。傭兵か、冒険者崩れでも雇うかしら?ツテならあるわね」


 主人の言葉にジュメイは首を横へ振る。


「いえ、今回ばかりは直接的な金で動く人間は信用できません。相手は王家です」

「たしかに、連中の資金力はさすがにワタクシでも勝てないわ」

「そうではありません」


 再び首を振るジュメイにドニオンは怪訝な顔をする。


「取るに足らない者ほど、自分の命に高い値をつけるものです」

「んまあ、そういうことね!命惜しさに依頼を中途半端に投げられるのは困るわ」


 彼女が計画しているのは長距離の逃避行だ。それも後ろからは騎士団と軍が迫り、捕捉されれば戦闘も視野に入れる必要がある。これを承諾させるには直接的な報酬ではなく、忠誠心や恐怖といったもっと逃れにくい理由付けがいる。


「でも心当たりがないわ、直接的なお金以外で動かせる弱みを持った人間なんて」


 自分より大切なモノを持つ人間ほど、間接的に金貨を積むことで動かしやすい。単純にその大切なモノを、弱みを、金貨で得た暴力で脅せばいいだけなのだから。

 そうドニオンは考えているが、実際にするとなると調査にも仕込みにも時間がかかる。そして時間こそは彼女が金で買えないと自覚している唯一の資源だ。

 主の弱気に数度頷いたジュメイは「それならば」と、とんでもない提案をした。


「マイレディ、例の勲二等の娘を使うのはどうでしょう?」

「ジュメイ!?あの娘は王太子の息がかかって……」


 ジュメイは穏やかな微笑みを頬に浮かべたまま「大丈夫です」と言った。整った顔が余計にそう思わせるのか、極めて酷薄に見える微笑みだった。


「そこを利用するのです。マイレディはあの者を縛る手札をお持ちでしょう?」


 アクセラ=ラナ=オルクスは優れた剣士であり、一人で魔物の群れを相手取れるような耐久力と殲滅力も持った逸材だ。手元に置けるのならこれほどの戦力はなかなかない。王太子に信頼されているというのも、抱き込めれば無二のカードとして機能する。

 そうしたジュメイの主張もドニオンは十分理解できた。もともとそういう側面があるからこそ女伯爵の方も、アクセラを執拗に夜会へ誘っていた部分がある。だが、この局面でそれが実行可能かどうかはまた別の話だ。


「た、たしかにオルクスに違法奴隷業を斡旋したのはワタクシだから、その命脈は手の中にあると言えるわよ?けれど、あの親子は仲がいいとは……」

「伯爵の方ではありません、夫人の方を使うのです」


 囁きにドニオンの顔がはっきり困惑を浮かべた。


「伯爵夫人と娘だって面識がないでしょう?」

「ええ。しかしアクセラ=ラナ=オルクスは家族思いだともっぱらの噂」

「……そういえば、そう聞いているわね」


 アクセラの社交界での評価は概ね良好だが、異質な存在としても受け止められていた。

 この冬にデビューした勲二等の少女は、多くの貴族にとって関心の的であった父親との対立については匂わせるに留めた。その代わりに彼女がしていた話といえば冒険譚か謎の子育て相談、そして家族の話。

 中でも特に多かった弟がいかに優秀か、愛らしいかという姉馬鹿全開の自慢話だったらしい。家族の話題はそれだけでなく、乳兄弟について、屋敷の使用人について、果ては領都の民や冒険者ギルドの人間についてもそのカテゴリーで嬉しそうに喋っていたという。


「一騎当千の強さ。民草すら慈しむ高潔さ。そして家族を愛する心、ねぇ……」


 善良な貴族アピールで、あるいは政治哲学において、領民を家族だと評する貴族は少なくない。だが海千山千の紳士淑女の目から見てもアクセラの身内自慢は裏がなく、楽し気で、愛情に満ちていたというのだからホンモノなのだろう。


「自ら弱さを溜め込むなんてホンモノのお馬鹿さんか、あるいは聖女にでもなったつもりかしら?」


 そういうあり方が鼻につくという者もいるし、貴族としてあるまじき惰弱さだと怒る者もいる。だがどちらもドニオンには当てはまらない。


「噂通りのいい子ちゃんなら、母親の件を使えばあるいは」


 ドニオン女伯爵の頭脳はわずかなチャンスをそこに見つけた。だがそれがいかに危険な賭けかも思い出し、理性と直感の間で顔を歪める。


「迷っている時間も人手もないのが痛いところね……」


 渋面が続くほどに白粉の罅が増していく。醜悪の上に無理やり作り上げた美貌が崩れていく様は、彼女の栄華が傾いていく様子を暗示しているようであった。


「ご安心ください、マイレディ」


 綻んでいく主の手を擦ってジュメイが微笑む。


「まず支度をなさいませ。資産を動かす間にこの身が数名率いて少女の弱みを探してきましょう。本当に母親が脅迫の鍵になりうるのか、見極めるために」

「それは、だけど……」


 なおも渋るドニオンにジュメイは甘い声で囁き続ける。


「お忘れかもしれませんがこの身は大砂漠に住まう砂塵の民、クルソス氏族の末裔。エクセララと深い繋がりのあった一族です。彼奴らの使う技術、とくに刀を使った戦いには慣れております。万が一、気取られたとしても遅れをとることなどありません」


 彼は立ち上がり、ドニオンの黒い髪を手で掬い取って口づけた。


「心配には及びません。無理に調べることは致しませんし、最悪は脅迫する案を捨ててこの身だけで護衛をいたしますので。どんな時でも、盾となる準備はできています」

「そ、そんなことはできないわ!ワタクシの愛しいジュメイ!アナタを本当に盾にするなんて……」


 覚悟の窺える微笑にドニオンは慌てて男の手を取った。


「大丈夫です、何があってもこの身はマイレディとともにあるのですから」

「ジュメイ……!」


 感極まったように声を震わせるドニオン。

 ジュメイは安心させるようにもう一度微笑み、最後に紅で描かれた唇へと口づけるのだった。


「大丈夫、大丈夫ですよ、マイレディ」


~予告~

束の間の平穏、嵐の前の静けさ。

三人は久々の冒険に出る。

次回、アレニカ教導


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