十二章 第31話 復讐者たち
冬休みも終わりが目前となった夜、俺とエレナは富裕街のとある宿に泊まっていた。恒例の夜会を頑張ったご褒美、面白宿行脚だ。
今日の宿の一押しポイントは部屋の中に馬車があって、その中が丸ごとベッドになっているというところ。家具や壁紙も森の中をイメージしたつくりになっている。今は時期を考慮して雪景色風のアレンジまでされていて、とても楽しい。
一通り宿の装飾や仕掛けを楽しみ、その後もイロイロ楽しんだのだが……疲れて眠ってしまったエレナと違い、俺は横になっても目が冴えて眠ることができないでいた。
「……はぁ」
一時間ほど意味もなく馬車の天井を眺めていた俺だが、諦めて沈み込むほどの柔らかいベッドから身を起こす。眠っているエレナを邪魔しないよう、音を立てずにタラップを降りた。
それから自分の荷物を漁り、一通の手紙を取り出した。今日の夜会でも懲りずに煙草倶楽部の面々と喋っていたのだが、すっかり馴染となったその中の一人から譲ってもらった。
これは紹介状だ。王都最高峰の奴隷商、システィオ商会への。
「……」
ぱさっとローテーブルに紹介状を投げ、ソファに腰を落としてそれを見る。質のいいクリーム色の紙に商会のエンブレムであるマリーゴールドの箔押し、ほのかに甘い香りも焚き染めてある。高級感漂う紹介状は、貴族の間でも希少なものだ。
システィオ商会は貴族向けの高級奴隷を扱う店であり、完全紹介制をとっている。王都に構える老舗なのだから、そうは言っても貴族なら誰でも紹介状くらい持っているだろう。そんな風に俺は思っていたのだが、ここの会員であるというのは結構なステータスらしい。しかも会員なら誰でも紹介状を出せるわけではないとあって、入手には難儀した。
(まさか目玉と交換条件で手に入るとは思わなかったけど)
これをくれたのはとある裕福な子爵だったが、彼は先日アベルが参加した美食家のパーティに出席していたそうで、当日随一のゲテモノとして供されたアビサル系魔物の目玉を大変気に入ったそうだ。
個人的に冒険者を雇って採取させたりもしたらしい。ただ味にどうにも満足いかない。あのとろける触感、かすかな臭み、そして濃厚な甘味。全てを完璧に満たせた者は一人としていなかったとか。
(まあ、王都の冒険者はアレを食べないから、単純に取り方が分からなかったんだろう。あとはエレナの冷凍魔法の恩恵だな)
しかしCランク魔物の目玉によほど子爵は胃袋を乗っ取られたらしく、彼は諦めきれず食材を持ち込んだアベルに相談した。何を差し出したか知らないが、アベルは彼を俺たちに紹介。アビサルの目玉に慣れ親しんだケイサルの冒険者なら顎が外れるほどの報酬を提示してくれた彼に、俺はこの紹介状を要求したわけである。
(一回くらい、この国の真っ当な奴隷商に行っておかないとな)
もし陛下がうまく立ち回ってくれたなら、近いうちに俺は違法奴隷商を潰す作戦に参加することになる。否が応でも悲惨な違法奴隷の実態に向き合うことになるだろう。
俺の原点であり、通過点であり、そしてある意味終着点であるその光景に。
(その前に……)
そう、その前に、人間の品性の底を見る前に、適法な環境を見ておきたかった。この国で一番高級な奴隷たちと、それを売る人間の姿を。
百年以上前に俺を飼っていたアピスハイム貴族たちは腐敗しきっていたが、このユーレントハイムには奇妙なほど人間的に真っ当な貴族が多い。そんな彼らに深く食い込んでいるシスティオの奴隷たちの様子を見ることで、絶望に囚われない自分の気持ちの余裕を作っておきたかった。
「……でも」
小さく呟いたときだった。部屋の真ん中に鎮座する馬車ベッドでごそごそと動く音がした。視線を向けると、開いた形で固定された扉からひょこっとエレナが顔を出す。目は八割閉じたままで眠そうというよりまだほぼ寝ている。
「あくせらちゃん……?」
「ん、ごめん。おこした?」
「ううん、おてあらい」
そう言って彼女はもぞもぞと馬車から降り、トイレの方へとおぼつかない足取りで歩き去る。
「ふふ……」
ぽてぽてとした足取りを思い出して少し笑う。それから握りしめていた拳を解き、白く冷たくなった指をこすり合わせて血を通わせる。
無言でソファに座ったまましばらく過ごしていると、さっきよりはしっかりした歩調でエレナが戻ってきた。彼女はベッドに戻ることなく、ぼすんと俺の横に座る。それから甘えるときの猫のように、体から力を抜いてだらんと俺にもたれかかった。
「ふわぁ……それで、どうしたの?」
顎を俺の肩に乗せて訊ねるエレナ。耳元の吐息をくすぐったく思いながら、俺はできるだけ軽い調子でそれに答える。
「いよいよだなって」
「むぅ?……あぁ、これか」
顎の軽い動きで彼女が招待状に目を向けたのを察する。
「気がはやくない?」
「ん……勘だけど、もうすぐ事態が動く」
「アクセラちゃんのカンは、あたるからねぇ……」
エレナがふーっと鼻から溜息を吐く。
「くすぐったい……」
「ごめんごめん。でも、こわいの?」
「どうだろう……私は、前線から遠のいて久しいから」
直球な質問に俺は少し言葉を濁してから息を吸う。吐いて、もう一度吸う。そして胸の内にさっきからずっと居座り続けている感情を、なんとか言葉にしてみる。
「たぶん、怖い。奴隷の子供だった頃の記憶とか、旅の中で見てきた色々なことへの怒りとか、そういう……エクセルとして一度飲み下して、乗り越えた感情に振り回されるのが、怖いんだと思う」
違法奴隷の解放、奴隷商との闘い、その最前線から遠のいて長い時間がたった。全てが記憶と化した今、目の前にソレを見て俺の中の復讐者だけが生々しく蘇る可能性が……それが一番怖い。
いや、そういえば一度だけ今生でも違法奴隷商と対峙したことがあったか。オルクス領にいた頃、たしか三年ほど前のことだ。あの時は……。
(だいぶ、イライラした記憶がある)
今回の相手は王家のお膝元で長年、尻尾を掴ませずに営まれている違法奴隷商だ。数日でケリがついたあの時の比ではない。確実に、俺は恐れている通りの感情と直面するだろう。
「そっか」
エレナのそっけない答えが少しだけ俺に力をくれる。気持ちの籠ったそっけなさだと伝わってくる。複雑な思いの中、あえて選んだ「そっか」なのだと。
「だから……作戦中はあんまり、エレナには見られたくないかな」
俺はエレナに自分の来歴や体験をそれなりに話している。しかし奴隷だった頃の詳細や、どれほど酷い物を見て来たかを伝えたことはなかった。それは辛い記憶だから封じておきたかった、ということではなく……エレナの教育に悪いと思ったからだ。
鍛錬と称して骨をへし折り、人殺しの覚悟を求め、自らの死を直視させる。そういう世間一般には虐待と言われても仕方ない事をしておいて今更かもしれない。しかし逆を返せば、それでも絶対に知らないまま育った方がいいと思うような、そういうコトが行われている。
それを、エレナには教えたくなかった。
「……」
「……」
「……ん、覚悟を決めさせておいて、言うことじゃない。ごめん」
しばしの沈黙を経て、俺は自嘲気味にそう言う。自分の感情に矛盾があることは理解しているつもりだが、それを解消できるかは別の問題。そういう中で口を突いた言葉だった。
けれどエレナは体を俺に預けたまま、鼻先を首筋に埋めてぐりぐり動かした。
「べつにいいよ。隣にいるだけが、寄り添う覚悟じゃないしね」
「……」
「アクセラちゃんにとって、それはとっても根の深い問題でしょ?」
「……ん」
「もし別動隊があるなら、わたしはそっちに参加する。ないなら近くの宿で待ってるよ」
「……ありがと」
手を上げて抱き着く彼女の頭を撫でる。わしわしと、少し乱暴に。
するとエレナは俺の手から抜け出し、肩を掴んでソファの背に押しつける。今度は前から抱き着き、ごそごそと寝間着のまま俺の足に馬乗りになった。乱れた蜂蜜色の髪の隙間から悪戯っけのある緑の瞳が俺を見ていた。
「むぎゅ」
両手で俺の頬を掴んで彼女は笑った。ニヤっと、気障っぽく、芝居のように。
「それで帰ってきたら抱いてあげるよ」
「……ふふ、なにそれ。普通、抱かせてあげる、じゃない?」
「ううん、私が抱くの」
頬を掴む彼女の手に力が籠る。
「凹んでるときのアクセラちゃんはネコだからね」
突然のよく分からないセリフ。俺は顔を固定されたまま微かに首を傾げた。
「ねこ?」
「そ、ネコ」
「にゃーの、ねこ?」
「ぐ、かわいい……!」
エレナが何かを堪えるような顔で身をよじる。
「エレナ?」
「あ、いや、そうじゃなくて、アティネちゃんに教えてもらったんだけど……」
ネコ、タチ、リバとバリ。聞いたことのない単語の説明が俺を襲う。アティネが友人から借りて読んだ小説の専門用語だとか、なんだとか。
「うちの子にナニ教えてんの……」
「あはは」
暗紫の少女を思い出し、俺は深々と溜息を吐く。
「あ、いまアティネちゃんのこと考えたでしょ……めっ」
「ん、理不尽が過ぎる」
それから俺たちは少し、まったく関係のない話をした。理不尽ルールに引っかからないように、お互いの話をいくつか。思い出のことや、もう一度食べたい料理のことや、ふと気づいたクセのことなんかを。
(前からよく喋る仲だったけど、最近もっと喋るようになったな)
ふとそんなことを思ったら会話が途切れた。なんとなく無言のまま、早苗色に輝く大きな目を見上げる。
「……ね」
エレナが顔を寄せて囁く。毛先が頬にかかってくすぐったい。
「目、覚めちゃったしさ……」
「……ん、明日は予定もないし、いいよ」
背中と頭に手を回し、ぐいっと抱き寄せてから囁き返す。
「えへへ、やった。じゃあアクセラちゃんネコね」
「それ、そうやって決めるものなの?」
「いいからいいから。予行演習だと思って。ほら、にゃーって言って」
なんとなくコレは違うんじゃないだろうか、と思いながら溜息。
「一回だけね……にゃー」
「んーっ、かわいい!」
耳元で絶叫するエレナに抱き上げられ、俺は馬車の中に連れ込まれた。
……とりあえず、声が枯れるくらい猫の真似をさせられたとだけ。
~★~
アクセラたちが睦み合っているのと同じ頃、新市街にある何の変哲もない二階建ての一室でのこと。夜だと言うのに灯りもついていない書斎らしき部屋で、一人の背の高い人物が椅子に腰かけていた。
派手なピンクの髪を右側だけ反り込みにした、顔の整った男性。しかし装いや化粧はどちらかというと女性的。そんな彼、あるいは彼女はすらりと長い足を汲んで机の上に乗せ、窓の向こうの星空を倦んだ目で見ていた。
「……」
何をするでもなくただ座っているこの美丈夫は、ユーレントハイムの人間ではない。名前をダルザといい、南方にて国境を接するジントハイム公国の特務機関「琥珀の歯車」に属する工作員であった。
以前、アクセラたちが夏休みに立ち寄った港町スプリートにて、「燃える斧」なる凶賊を操っていた魔法使いたちの首魁である。
「ダルザ様」
「……入りなさい」
書斎の外から聞こえてきた声に、倦怠感と甘さを滲ませた返事をする。音もなく扉を開いて入ってきたのは特徴のない顔をした男だ。
「定時報告には早いわね」
さして興味もなさそうにダルザは男を振り向く。その動きにつられ、中身のない左の袖が揺れた。
「ギバク様が天領北部で仕込みを行っていたマーセナリオークですが、討伐されました」
「あら」
小さく声を漏らした美丈夫に、男は報告書を差し出す。スプリートでの会敵でダルザを庇いアクセラの刃に倒れた副官、『琥珀加工師』ギバク最後の仕事の顛末について書かれた報告書。それを受け取って読み始めたダルザの顔は、すぐに薄く歪んだ。
ギバクの置き土産、マーセナリオークは彼らの技術で人為的な進化を経た変異種のオークだ。天領北部ドゥーナス丘陵に住まう岩オークたちの指揮官として凶賊「燃える斧」の仕込みと並行し行われた工作である。
深紅の鎧とオークらしからぬ知性、そして彼らの与えた特別な武器を操る規格外の脅威だったが、報告書によるとシネンシス王太子主導の作戦によりあっさり始末されてしまったらしい。
「はぁー……まあ、しかたないわよねぇ。豪華すぎるわよ、面子が」
一通り読んでから紙束を机上へ投げ捨てるダルザ。討伐隊はBからDまで幅広い人材が登用されていたが、潜伏の長い彼にとってはいずれも聞いたことのある冒険者ばかり。それもクセの強い連中を上手くまとめあげ、極めて高度な組み合わせで運用したことが押して図れる。
「やるわねぇ、王太子ちゃん」
「難民定住も予想外でしたが、これほど迅速に王太子が救援を行うとは……読み間違えました。申し訳ございません」
金細工のイヤーカフスを指で撫で、感心しきりのダルザ。だが、生粋の諜報員である男の方はそうもいかない。深々と頭を下げて許しを請う。
ただ主はどちらかというと研究者であると自身を定義しており、これに手をひらひらとやって軽く応じた。
「いいのよ。あの王太子ちゃんが実務をやり始めたのはここ数か月から一年ってとこだし、ない情報は集めようがないもの」
「しかし今回のことで王国側もマーセナリオークの存在には違和感を覚えるでしょう」
「それも大丈夫よぉ。だってアレはスキルマップと精髄琥珀がないと作れない種類。本当なら存在しない魔物よ?言ったでしょ、ない情報は集めようがないって」
「で、ですが精髄琥珀も回収できず……っ」
「だーかーらー、アレが何かなんてどう足掻いても調べられるわけがないじゃない」
食い下がる部下にため息を吐きながら、彼は机の引き出しから革袋を一つ取り出した。赤いマニキュアを塗ったゆっび先で口紐を緩め、報告書の上にコロコロと中身を吐き出させる。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……四つね」
親指の先ほどの琥珀が四つ。中には虫も気泡も入っていないが、代わりにキラキラ輝く銀色の粒子が封じられていた。
「ギバクが死んだ以上、アタシたちだって精髄琥珀の加工はできない。だからいくつあっても、そんな難しい使い方はできないわ。四つが八つになっても、大差ないってこと」
部下を安心させるように微笑みむダルザ。彼はその長く、しかししっかりとした指で琥珀を摘み、袋に戻していく。
「分かりました。その、ありがとうございます」
「いいのよ。で、それだけ?」
「あ、いえ。新しい指令書が届きました」
男はポケットから小さく地味な封筒を取り出す。宛名も差出人もないそれは彼らにとっての故郷、ジントハイムから非合法なルートで送られてきたものだ。
書状を手に取って開くダルザ。普段より随分簡潔かつ分かりやすく書かれた内容に、彼の整った顔は段々と険しさを増していく。
やがて読み終わった彼は書状を握りつぶし、そのまま机に拳ごと叩きつけた。
「どういうことよ……撤退って、どういうコトよそれ!!」
「読んで字の通りです、ダルザ特務大尉」
「「!!」」
思わず叫んだ感情だ、まさか返事があるとは思っていなかった。
主従はバネ仕掛けのようにそれぞれ杖とナイフを構え、声のした暗がりを睨む。
「失礼、驚かせましたね」
まったく悪びれた様子のない言葉とともに、目元以外真っ黒の装束に身を包んだ怪しい男が闇からにじみ出る。
「お疲れ様です、ダルザ=フォン=オベール特務大尉。指令書と同着とは情けない限りですが、本国より貴官の撤退支援をするよう命じられてきました。そこの彼と同様、裏方ですので呼びやすいようにお呼びください」
一息で己の立場を明かした黒尽くめは慇懃に腰を折って見せる。
「……あっそう、じゃあ本国の犬で」
「……」
意趣返しのつもりか、暴言とも取れる内容をさらりと口にしながらダルザは席に腰を落ち着かせた。彼の部下はナイフをしまい壁際に退避。そして黒尽くめは、さすがに睨むような視線を美丈夫へ向けていた。
「冗談よ、シンプルに影と呼ぶわ。で、事情は説明してくれるんでしょうね?」
「もちろんです。まずはダルザ大尉、五年にも及ぶ潜入任務と諸々の工作、お疲れ様でした」
剣呑な視線を引っ込めた影は、翻って深い敬意を声に滲ませる。
「その書状にある通り、本国は貴官の功績を高く評価しています。肉体強化剤である湖楽から魂熟薬を完成させ、精髄琥珀の実証データを多く集め、そしてあのトワリの反乱に加担することで盤石だった王国に難民問題という大きな内憂を植え付けた」
「半分くらい偶然よ」
影がダルザに抱く尊敬は偽りではないのだろう。その証拠に気怠げな本人の言葉にもゆっくりと首を振って否定を示す。
「あの狂った錬金術師があれほどのコトをしでかせた最大の下地は、まさに貴官が完成させ、提供した魂熟薬です」
「……ふん」
「そうした成果の数々を統合的に評価し、本国は貴官の地位を一気に大佐へ引き上げる決定を下しました。独自裁量の部隊を新設しこれを与える、とも。それに銀の砂時計を授与すべきだ、という意見も出ています」
「ぎ、銀の砂時計……っ」
影よりも影のように黙して立っていたダルザの部下の男が息を飲む。
「大盤振る舞いね。でもアタシは歯車に所属する、いわば腰掛け軍人よ?」
「それだけの功績です。ただ、抜擢の理由の一つでもありますが……歯車本局は貴官への反対派が主流となっています。妬み嫉みの類ではありますが、この辺りで本格的に軍部へ栄転というのも道ではないかと」
名乗りと見た目のわりに饒舌な影は、もしかすると印象以上に若いのかもしれない。熟練の裏方というには、英雄扱いの自分を前に浮足立って見える。見た目よりやや年を重ねているダルザはそのように感じた。
一方で本職でないとはいえ長年潜伏している自分と、間違いなく本職の部下の背後をいとも容易くとったことは事実。高等なスキルを持っているのは間違いない、と判断する。
「スキルマップ至上主義の弊害かしらね」
「何か?」
「いいえ、何も」
ダルザは小さくため息を吐きながら首を振る。それから細い顎に赤い指先を当てて影を見上げた。
「ねえ、影。アタシ、残りたいのよね」
「……それはさすがに無理かと」
影の声に驚きと失望が混じった。
「貴官の活躍で王国の内部は揺れています。それに南方を守っていたコーキンス辺境伯が不祥事で隠居し、防衛線には少なくない動揺が生じています」
その話は潜伏組の二人も知っていた。というよりマークしている相手に関わることである。情報筋を辿って誰よりも早くその展開はキャッチしていたくらいだ。
そうとは知らない影は明確に嘲笑を含ませて続きを口にする。
「なんでも身内が大きな事件を起こしたためだそうで、馬鹿な事をする国です。国境の守りは一線を退いてなお睨みを利かせるあのご老人に大きく頼っていたというのに……やはり神々に頼り切っていると思考が惰弱になっていくのでしょう。あるいはどうせ何とかなると思っているのか」
「……かもしれないわね」
曖昧に頷くダルザ。彼の鼻は若さと同時に危うさをも嗅ぎ取っていた。
「とにかく、そうした事情で我が国は国境での活動に注力するべき時期なのです。ダルザ大尉ほどの上級スキルマップ所持者を遊ばせておく余裕は、さすがにありません」
「そう。ならアタシ退役するわ」
「……は?」
あっさりと返ってきた言葉。影は停止する。
「……冗談にしては面白くありませんね」
一気に視線を険しくする黒尽くめを前に、赤い唇がニッと不穏な笑みを形作った。口元は笑っているが、目は笑っていない。
「冗談?そっちこそ冗談は止してほしいわね。アタシがこのクソ長い潜入任務を受けたのは、全部ゼーゼルのためよ。まだ帰れない」
「ゼーゼル……?」
影は瞬時の思考を挟む。そして思い当たる名前を思い出した。
「ああ、貴官の前任だったグラハイト中佐ですか」
ゼーゼル=フォン=グラハイト。ジントハイム軍中佐にしてダルザの前任者、つまり王国内での破壊工作と離間工作、そして湖楽と呼ばれた初期型の魂熟薬開発を行っていた男だ。
彼は貴族出身で陰湿、しかも性癖が捻じ曲がっていて軍部でも嫌われていた。
「あの趣味の悪い御仁の仇討ち……意外ですね、貴官ほどの技術者があのような低俗な人間を慕っているとは」
影が薄く笑った瞬間だった。突如として強烈な魔力が部屋を満たす。肌を刺すような敵意の高まりに、黒尽くめは思わず腰からナイフを引き抜く。刃まで黒く塗られた大型のナイフだ。
「口には気を付けろよ犬風情がッ!!」
柔らかい口調も女性的な仕草もない。品性すらかなぐり捨てた怒りの塊としてのダルザがそこにいた。
「……それが貴官の本性か」
重圧の中で吐き捨てる影の言葉に、ふっと魔力が鎮まる。
「あらやだ失礼」
まるで魔道具のスイッチを付けたり消したりするように、犬歯を剝き出しにしていたダルザの態度が元に戻る。
「でも人の恋人を馬鹿にするなら怒鳴られるくらい覚悟してほしいわね」
「恋人……?なるほど、そういうことか」
敬語の消えた口調で黒尽くめは頷く。
「それでやたらオルクス伯爵令嬢に対する攻撃許可を申し出ていたのだな。たしかに彼はあの少女に関わって命を落としたと聞いている」
「そうよ。だから復讐を遂げるまでアタシは帰らない。帰らないと反逆罪っていうなら、もう二度と帰れなくていいわ」
話は終わりだとばかりに突き放し、ダルザは机の上の手紙を手に取った。そしてそれを口の端に咥えて半分に破き、重ねてもう半分に、そしてもう半分に破く。ぱっと投げられた八つ切りの指令所がしょぼい花吹雪のように床へと落ちた。
「はいそうですか、と言うとでも?」
「逃がしてくれるなら命は取らないけど?」
挑戦的なセリフに挑戦的な返事。影の目が嗤った。
「貴官ほどの学者が忘れているとは嘆かわしい。私のスキルアーツをそちらは把握していない。そちらのスキルアーツは確かに高等で希少だが、スキルマップは本国が把握している」
抜き放っていたナイフを逆手に握って構える影。ダルザは面倒くさそうにそれを眺め、彼の部下は主を庇うような位置に立って同じくナイフを握った。
「そしてもちろん、私もそれを見ている。それがスキルアーツを修める者同士にあって、どれほどのアドバンテージか……最終勧告だ。前言を撤回し指令を受諾しろ、特務大尉。私は強いぞ」
ブワッと青紫のスキル光が影の肉体を包み込んだ。
「ああ、そのことだけどね」
ダルザがおもむろにビンッと人差し指を弾いた。
「なにを……ぎっ!?」
悲鳴。影の体は突如硬直し、そのまま直立不動の姿勢を強制される。
「五年もあるのよ、スキルは独自に進化させたわ」
その返答がよほどショッキングだったのか、影はまだ動く目を大きく見開いた。そして己を縛り上げる謎の重圧に呻きながら、ありえないと口元を震わせる。
「ス、スキルマップに、従がわないスキル、など……貴様、思想汚染を……っ」
「この国もバカだけど、アンタたちもバカよね」
美丈夫は人差し指を立てたまま今度は中指を弾く。ビンッと。
目に見える変化はないが、拘束された影の口から悲鳴が漏れた。
「技術の根幹は柔軟な思考でしょ?自分たちで自分たちの可能性を狭めて、何が技術と科学による神秘の駆逐よ。笑っちゃうわ」
「さ、三大公様の方針に、異を唱える気か……貴様が英雄なものか、国賊め……!!」
「はいはい、ナショナリズムは結構だけど、柔軟性を失った時点で当初掲げた精神に噛み合っていないってことを理解してほしいわね」
呆れた調子で更に薬指が弾かれ、彼の右手には三本の指が立った。ビンッ。
今度も変化といえば影が苦悶の声を上げ、その場で身震いをしたことくらい。
「アタシはゼーゼルに色々な事を教えてもらった。自分で言うのもダサいけど、アンタたちよりよっぽど歴史にも軍事にも詳しいインテリなのよ?」
影のスキルが何かくらいアタリがついている、とも告げるダルザ。
「さて、アタシの退役を認めてくれるなら逃がしてあげる。あくまで止めるって息巻くんなら、このまま殺す。どうする?」
「……はっ、見くびってもらっては、ぐひ、困るッ」
全身を貫く正体不明の鋭い痛みに息を切らしながら、なおも影は濁った瞳でダルザを睨みつけた。狂信的に何かを信奉する者特有の目だ。
「私はお前のようなッ国賊とは……ぐぅ、違うッ!大公閣下の信頼に応えッ、正統なスキルマップをッ、ぎぃ……継承するぅぐぁあッ、ジ、ジントハイムの、男だッ!!」
がくがく痙攣しながら最後に影は嗤った。
「変態親父にッ、飼われて、喜ぶオトコオンナには、ひ、ひへ、分がらばっ……!!」
言い終えるより早く、ダルザが三本の指を折り曲げた。ビッビンッとなる響く音。
瞬間、男の手足が螺旋状に開いた。まるでそういう仕組みのように、内側からぐるりと。同時に胴体や顔の肉も複雑に開き、水樽をかち割ったように血が噴き出す。
「ほんと、思想に染まると状況判断が甘くなってダメね。最後だからーとか思わず、もうちょっと発言に気を付ければ楽に殺してあげたのに」
大量出血しながらも、まだ影は生きていた。激痛で意識を失ってはいるが、それでも死んではない。これから死に切るまでに何度も意識を回復し、痛みと絶望に苛まれての気絶を繰り返すのだ。そういう加減でダルザは彼を破壊していた。
それから彼は、自分の成した残虐に頓着することもなく、視線を青褪める部下の方へ向ける。
「ねえ、アンタはどうする?別に抜けるって言われても、戦友を殺したりはしないけど」
「……いえ、私もゼーゼル様にはよくしていただきました。お供します」
逡巡を経て首を振った部下にダルザは破顔した。
「あらやだ嬉しい。じゃあ悪いんだけど、こいつ捨てて来てくれないかしら。フラメル川に投げ込んだら魚の餌になると思うから」
彼の指さした先、影は全身の筋肉という筋肉、腱という腱、神経という神経を刻まれながらも何故か倒れることなく姿勢を維持している。
「あ、顔は潰しておかないとダメね」
思い出したように呟き、ダルザは中指を軽く二回曲げ伸ばし。聞こえるか否かの音が鳴る。さらなる血が部屋を汚し、影の鼻や耳といった個人が分かりそうな部位が破壊された。
「さぁて」
清々とした気分を胸に、意識を切り替えるため指を鳴らすダルザ。そこでようやく無残な死に体の男は床に崩れ落ちることを許され、自身の血の海に沈んだ。
「しがらみもなくなったことだしぃ……あのクソメスガキを殺す算段、付けましょっか。捨て終わったらマクサランド子爵に連絡をお願い。もっと中枢に近い情報が必要だからね」
上機嫌にそう言うと、ダルザは椅子を立って荷物をまとめ始める。
「新しいセーフハウスに移るから、そっちで合流しましょう」
「はっ」
「やっと楽しくなってくるわー!」
声を弾ませ、ピンク髪の復讐者は満面の笑みを浮かべた。
これで十二章はおしまいです。
お付き合いありがとうございましたm(__)m
アクセラはついに新しい相棒となる刀を手に入れました。
エレナもエレナで悔しさを糧に新たな魔法を手に入れました。
子供たちは大人の入り口から一歩踏み込んで、
呼応するように大人たちの暗躍が浮かび上がてきて……。
台風一過の静けさであり、嵐の前の静けさでもあり。
そんな複雑な味わいのある章になっていたらいいなと思っています。
次の章ですが、ちょろちょろTwitterで言い訳しているとおり、難航しています。
もしかすると予定の一か月休暇を過ぎるかもしれません。
Twitterと活動報告でバッチリご報告いたしますので見放さずにいてくれると嬉しいです。
物語はこの章でしっかり仕込みをした内容をはずみに、一気に進んでいきます。
ぜひ、お楽しみに!
8月5日(土)十三章第1話
※たぶん恒例の間章を特別連続更新!とかは無理ですゴメンナサイ
2024/07/27変更:ダルザは隻腕である
修正前)清々したとばかりにダルザが両手を揃えてパンと鳴らした。
修正後)清々とした気分を胸に、意識を切り替えるため指を鳴らすダルザ。




