十二章 第30話 公爵と侯爵
王都ユーレン中枢に立つ、古いが美しい豪邸。家紋を染め抜いた鮮血色の旗を掲げるそこは、建国からこの国を支える四大貴族の一角たるザムロ公爵家の王都邸であった。
時刻は昼を過ぎた頃。よく整えられた庭には葉を散らした樹木ばかりが立ち並んでいるが、朝の小雨に冬の貴重な日光が反射して美しい。
「遅い……」
そんな趣ある庭の景色に視線を向けることもなく、応接室の豪奢だが品のいい椅子に体を沈めたまま、男は小さく呟いた。当主であるジョイアス=カテリア=ザムロ公爵……ではない。初老にさしかかってはいるが、公爵よりは一回りか二回り若かった。
立ち上がれば背の高いであろう紳士で、見れば誰でも高価なものだと分かる仕立てのいいスリーピースを纏っている。だが彼の本質がジェントルマンではないことも、やはり見れば分かることだった。
「人を呼んでおいて待たすとは、どういう神経してやがる」
ぼやきながらローテーブルに置かれたカップを摘まみ上げ、熱いお茶をぐいっと飲み干した。すぐに控えていた使用人がお代わりを注ぐ。男はそれをぐいっと飲み干し、使用人はもう一杯注ぐ。そんなやり取りを三度もすればポットの中身は空になってしまう。
「美味い茶だな」
「侯爵閣下のお口に合いましたなら、光栄の至りにございます。すぐにお持ちいたしますので……」
「いや」
男……ヴォイザーク=ロロア=レグムント侯爵はそう述べる使用人を片手で制す。
「メインディッシュが来たらしい。水だけ置いて下がっていいぞ」
彼が言い終えたと同時、軽く扉をノックする音がした。使用人はあまりのタイミングに僅かばかり眉を上げ、すぐに表情を消して扉を開けた。
ぬっと姿を現す巨躯の老人。獅子のたてがみのような金髪を持つその男こそ、この館の主人に他ならない。
「メインディッシュとは儂のことか、ザーク。扉の向こうまでお前の心待ちにする声が聞こえていたぞ」
「ぬかせ、それは提供の遅さに文句を言っていたからだ」
年齢に見合わない生命力あふれる笑みを浮かべ、ザムロ公爵は歩み寄って手を差し出す。侯爵も席を立ってその手を取り、固く握手を交わした。
「すまぬな、遅くなった」
「本当だぞ、ジョイアス。呼びつけておいて遅刻とはな」
「許せよ、儂はお前と違って忙しいのだ」
「言ってくれるぜ」
スキル至上主義、血統至上主義の保守派と言われるザムロ公爵。
新機軸の導入を進める実力主義の革新派と言われるレグムント侯爵。
国内最大級の派閥のトップである二人だが、その実、個人レベルでの仲は悪くない。むしろ親しいことは、軽口を交わし合う様子からもよく伝わってくることだろう。
「彼の言った通り、水だけ置いて下がってよい」
「承知いたしました」
テーブルセットの上座についた主に言われ、使用人は保冷の魔道具と大きなガラスのピッチャー、それにグラスを二つ配置して部屋を出ていく。
「なんだかこの数か月、お前の顔ばかり見ておる気がするな」
「ご挨拶だな。見たくないなら呼ばなければいいだろう」
言いながら侯爵は二人分の水を注ぐ。
「見たくないとは言っておらん。だがお互い、領地に籠っていることの多い身だ。調子が狂うと思っただけのことよ」
「それはそうだろう。今までと同じ調子でいられるはずもない。今仕込んでいることと、その結果を思えばなおのことな」
「まあ、そうであるな」
老いてなお覇気を失わない槍の名手は、その大きな手でグラスを持ち上げ半分ほどを呷った。
「ふぅ……トワリの馬鹿者が遺した土地が、色々と問題だらけでな。水を飲む暇もない」
「そいつはご愁傷様だが、わざわざ御前会議に乱入して鎮圧に噛んだのだろう?」
「自業自得だとは思っておるさ」
自嘲して公爵はもう半分を飲み干す。黙って侯爵が水を注ぎ足す。
「なら忙しいご老体のために、早いところ本題に入るとしよう」
「若いのに感心なことだ、ザーク」
「若くはないぞ、若くは」
ザムロ公爵の茶化しにレグムント侯爵が笑って返す。二人で笑みを分かち合ったのち、老体はコトリとグラスをテーブルに置いた。それが合図であるかのように、場の空気がぐっと引き締まる。
「さて、これまでの話し合いで儂とお前は随分と腹の探り合いをしてきた。お互いの性格を鑑みるに、よく辛抱が持ったと讃え合いたいほど慎重にな」
「お互いに派閥のトップだ。いきなり胸襟を開いてというわけにはいかんさ」
「その通り。しかしもう十分だと思わんか」
軽く身を乗り出して問うザムロ公爵。その赤珊瑚のような瞳にはいつも以上に明確な意思と決意が宿って見えた。言葉の通り、大きく一歩踏み込もうとする意志と決意が。
「……たしかにな。俺もアンタも、願っているのはこの国の維持と発展だ。その願いが王家と四大貴族、五家の誓いに則った誇りあるものであることも、疑う余地がない」
歴史のある国には珍しく、ユーレントハイムの中核をなす五つ家は建国からの志しと誓いを揃って胸に抱いている。少なくとも記録に残る限り、これが失われたことは一度たりともない。
一種の奇跡。政治的理想論の具現。そんな状態にあって、しかしそれぞれの方法論は必ずしも噛み合ってはいなかった。特にここ三代の両家は敵対派閥を形成するほどで、どちらかが堕落したわけではないからこそ解決も困難なものとなっていたのだ。
「左様。方法論こそ違えど、目指しているところは同じだ。そしてこれまでの話し合いで、その方法論についても随分と理解が得られたように思う」
「最初に和解しよう、擦り合わせを行おうと言われた時は何事かと思ったがな」
「初めというならこちらもだぞ、レグムント侯爵よ。先代が技術思想などと言い出した時は、父も私も訳の分からない物を仕入れてきたと思ったものだ」
だが、と公爵は続ける。
「エレナ=ラナ=マクミレッツ……あの少女を見て先見の明がどちらにあったかは判じたな。加えて学院の一年生、彼らの飛躍的な成長にも関わっているとなれば、認めないわけにもいくまい。お前の父も、お前も、実によい目を持っていたというわけだ」
「……素直に受けっとっておくとしよう」
トワリ侯爵の反乱を経て、両派閥の和解を持ち掛けたのはザムロ公爵の方だった。その切っ掛けは反乱で活躍した少女たちであり、彼女たちとレグムント侯爵の関り。つまり、少なくとも傍目には、三代掛かりの対決は侯爵の先見性と働きかけによって終わった形だった。侯爵家の勝利とも言い換えられよう。
アクセラというイレギュラー中のイレギュラーを把握している当の侯爵はといえば、かなり微妙な表情だが。
「なんだ?」
「いや、なんでもない……それよりだ、和解と同盟の話は」
「ああ、技術思想の導入を推進するという形で、儂も我が派閥も協力しよう」
「……そうか」
非願成就、とまではいかないが、望外の前進だ。長年欲しつつ、半ばあきらめていた対立者からの言葉。それに思わず侯爵の頬が緩みそうになる。しかし強靭な意思と顎の力で表情を鎮めつつ、冷静に残る懸念へと目を向けた。
「そちらの方法論はどうなる。並存可能ならオレの方も協力するというのが、そもそもの申し出の根幹だろう」
「そうだな……しかし、すまぬな。まだ見せられる段階まできていない」
しごく残念そうにザムロ公爵は首を振った。
「あと二月……いや、一月で目鼻を付けてみせよう。それまでしばし待ってくれ」
軽く頭を下げる格上にレグムント候は具合の悪そうな表情を浮かべた。
「それは構わないが、ここまでアンタが歩み寄っているのに、現状の仕上がりを見ただけでノーとは言わないぞ?」
「もちろん義理に生きるお前がそのような事を言うとは思っておらん。だがまあ、儂にも見栄があるのでな」
「なるほどな」
意地と言われれば食い下がるのも野暮だ。そう判断した侯爵は肩を竦めてその話題を流した。そして次の大きな議題へと会話を進める。
「オレの掲げているもう一つの人権意識の改革については反対か?」
彼の掲げる革新は二本の柱からなる。一つがスキルとは違う系統の力、技術とその思想の導入。そしてもう一つが、奴隷や人間以外の人類種に対する人権意識の醸成。
もちろん南北に構えるトルオムとジントハイムという、喫緊の軍事的脅威をも見据えている。だが全ては魔の森の西側、これらを標準として発展する大砂漠の諸国家、アピスハイム、ガイラテインの連帯を想定してのこと。祖国を未開の蛮族扱いさせないために、あるいはロンドハイムのような思想的孤立に陥らせないために、レグムントは策を巡らせてきた。
「反発が予想されるのは事実だ」
ザムロは頷く。彼の派閥には許可を得ているとはいえ奴隷商を経営する貴族もおり、また血統主義の弊害として選民意識を持つ者も多い。
「厳しいか」
「厳しい。だが構わぬ。そちらも進めよう」
「……なに?」
予想外の返答にレグムントの眉が上がった。それに対してザムロ公は眉間をもみほぐしながら、深々とため息をついて見せる。
「儂も人のことをあまり言えるような男ではないがな……トワリの後始末をしていて痛感させられた。人間が人間にやってよい事には限度がある。たとえそれが奴隷でもだ」
歴戦の勇士が老いた男の顔で言う。あふれ出る生命力がふっと消えたような弱々しい声だ。覇気と情によって覆われていた身の内の後悔と狂気が透けて見えたように感じ、レグムント侯爵は己の目を疑った。
「よく勘違いされるが、儂は血統主義者であっても人間至上主義者ではない。獣人やそのほかの種族を軽んじるつもりなどありはせんのだ。むしろその驚異的な身体能力、特別な感覚……それらは国のためにより活用されるべきだとすら考えている」
「あんたがそういう人間なのはよく分かってるさ」
ザムロ公が彼を知らぬ者からそのように勘違いされるのは、血統主義の名のもとに集まってくる派閥のメンバーにそういった連中が混じっているから。そしてその者たちの声が大変に大きいからであった。
「であるが、彼らには彼らの考えと主義が、そしてそこに至るまでの過去がある。それには寄り親といえど、おいそれと口を出すべきではない。儂はそのように考えて、あまり煩くは言わずに来た」
変わらず低く落ち着いた、しかしその奥に確かな熱量を感じさせる声で公爵は言う。
「だが今回の有様は、あれは、あまりだ。意志に反して他者の魂を弄るなど、神々と人への冒涜に他ならぬ。そうした行為、そしてその土壌となる人を人と思わぬ在り方は是正されるべきだ」
決して語気を荒げることはなく、それでいて力強く彼は結んだ。
聞こえたレグムント侯爵はふっと口元を緩める。
「アンタとこの問題の枢要を共有できているようで何よりだ。ここが噛み合わねば、話にもならないからな」
「ただし」
椅子の上でわずかに前へ重心を傾けた侯爵を、公爵は傷跡だらけの大きな手で制す。次に何を言われるのかレグムントも察したのだろう。嫌な顔をして背もたれに体を預け直した。
「先ほど言った通り、反対する貴族には反対するだけの理由がある。過去と想いもだ。だからこそ、今お前が派閥に敷いているような苛烈すぎる粛清路線には賛同しかねる」
「そうは言うが、意識改革を行うのであれば腐敗した貴族は排除する必要がある。奴らは居るだけで新時代の禍根になるぞ」
「そのこと自体に異を唱えるつもりはない。だがやり方が過激すぎるというのだ」
「そういうアンタのやり方に問題がないと?」
「ないとは言わぬさ」
それはこれまで両家当主たちが対立を続けてきた中で、最も相容れることができなかった争点だった。
一方のジョイアスという男は情に厚いことで知られ、許すことで相手を計ろうとする傾向があった。彼は自派閥に緩い連帯を求めつつ、厳格な最後の一線による秩序の維持を行ってきた。
他方のヴォイザークという男は義理を重んじることで知られ、直截な問いと試練で相手を計ろうとする傾向がある。彼の派閥は高い忠誠心と手厚い保護により成り立ち、お互いがお互いの期待に応えることで維持されてきた。
「そもそも、儂とお前では派閥の役割が違う」
「それは、そうだな」
ザムロ派は人の弱さをよく理解し運営されている現実主義的な集団であり、腐敗の危険を常にはらみつつも多くの貴族に支持され、この国の基盤を軍事的な部分で担ってきた。
レグムント派は人の気高さを信じて運営される理想主義的な集団だ。腐敗を許さず質実剛健であるがゆえに民に支持され、国内の自浄作用を強く促進してきた
「派閥の統合を行うわけではない。その線引き、しかと守ってくれような?」
「分かっている。渋々の合意ではあるがな」
派閥の役割を出されると、貴族である以上は軽々に否定もできない。レグムントは本人が言った通り、極めて不本意そうに頷いた。
「さて」
重たい話題が二つ片付いたところで、レグムント侯爵が再び体を椅子に沈めた。疲れたように目元を揉み解す様は年相応の老いを感じさせる。
「ここで一つ、避けては通れない三つ目の話題に触れるとしよう」
その言葉にザムロ公爵は首を傾げる。
「他に話しておくべきことがあったであろうか?」
「いや、一応決着のついている話ではあるのだが……オルクスのことだ」
それまで上機嫌だった金髪の偉丈夫は不快気に唇を引き結んだ。
「蒸し返すつもりか?」
「そんなつもりなどない。ない、のだがな……」
この会談において、両家のもう一つの懸念こそがオルクス伯爵家だった。
建国の時代からオルクス家はレグムント家の腹心であった。それが現当主アドニスに変わるや否や、何の相談や交渉もなく派閥を離脱。あろうことか対立派閥であるザムロ側についたのだ。
貴族が寄り親を変えるというのは重大なことだ。なにせ彼らの地位を形作っているのは、それまで積み重ねてきた先祖代々の歴史と功績なのだ。そしてそれは寄り親や派閥の他家と密接に繋がっている。急な鞍替えはそうした物を捨てることに他ならない。
しかもヴォイザークの率いる派閥は高い忠誠心と強固な倫理観で結束する少数精鋭型。義理を無視して鞍替えをしたあげく、領政をおろそかにし、あまつさえ違法奴隷の商いをしているとあちこちで噂されるオルクス伯爵は許し得ぬ相手であった。
特に違法奴隷商の件は証拠さえ出てくれば縛り首確定の大問題。それだけにオルクス伯の味方は在籍するザムロ派にもほとんどいない。いるとすれば利害関係のある後ろ暗い者か、ここにいるジョイアスただ一人である。
「経緯はどうであれ、あれは今や儂の派閥。前回の話し合いにておおよそのプランまで立て、確認を済ませたと思ったのだが?」
「その通りだ。その通りなのだが、何と説明したものか」
なんとも歯切れの悪い態度にザムロ公は身を乗り出す。
「一度、前回の合意と計画を確認する」
「ああ、うむ」
困ったように頷く侯爵。
「まず真っ先に結論だが、オルクス家は儂の派閥に残留。当主にはトレイス=フォル=オルクスを据え、我々二派閥の迎合と諸々の状況を鑑みる形で派閥としての赦しを与える」
極論、オルクスにそれなりの筋を通させた上でレグムントが許すと言えば白眼視は解決する。
これまではザムロとの関係やアドニスの動向により、その筋を通すと言う部分がネックとなっていたが……アクセラとエレナが反乱で活躍し、王子とも深い絆を育み、闊達なダンスを社交界で披露して築き上げた好感度という財のおかげで随分ハードルは下がっていた。そこに今回の対立解消である。あといくつか条件を揃えるだけで事態は好転するだろう。
「現当主アドニスについては儂が説得し、息子に家督を譲って身を退かせる。奴から得た情報で我々が違法奴隷商を段階的に攻撃。関係は公的な証拠を残さず、粛々と闇に葬る」
繋がりが立証されなければいくら黒く見えても断罪はされない。そうすることでオルクス家の身代が吹き飛ぶことは防げ、アドニスも死を免れる。
もちろん法的にはアウトだが、国王さえ説得で切れば、それを捻じ曲げて押し通すだけの権力が二人にはあった。
「お前はもはや、あの領地に興味がない物だと思っていたが……やはり手元に戻したくなったか?」
「それは変わっていない」
レグムントにとってオルクスは初期の技術の実験農場的な役割を持っていた領地。それが派閥復帰を求める大きな理由である。
しかし皮肉なことに、アクセラの活躍をうけてザムロが迎合を提案した今、ヴォイザークにとって無理に手元へ戻す必要のない地でもあった。なにせ大手を振って技術思想を取り入れられるのだ。
「ではなんだ、派閥の忠誠心が災いしたか」
「いや、派閥の連中もオレとアンタが許すと言えばそれ以上は言うまい」
「ではなんだ?」
いい加減焦れてきた様子の赤い瞳に睨まれ、国内有数の武闘家はへの字にした口を更に歪めた。
「懸念は……アクセラだ」
「娘か。だがなぜ懸念事項なのだ」
二人の計画は言うだけなら簡単だが、実行するにおいては非常にデリケートで複雑な作戦を伴うものだ。その中でアクセラの位置付けと扱いに関しては、まだ両者の間であまり話が進んでいない部分であった。
「おそらくアレはそうした政治的で曖昧な決着を望むまい」
義理堅いがさほど情に厚いわけではない。そんなレグムントという男にしては感情論的に聞こえる言葉に、ザムロは眉を片方だけ上げてみせた。
「こういう言い方はあまり好む所ではないが、彼女が望むか否かは関係がなかろう」
そこまでの配慮はしてやれない。そういう意味を込めて公爵が言うと、侯爵は重苦しく首を振った。
「それがそうともな……説得を誤れば最悪、アレと一戦交える必要もある」
「なんと」
単身で魔獣を屠る少女だ。Bランクどころか戦闘力だけならAランクでも通用するだろう。それが敵に回る可能性に、ザムロの声は一転して重くなる。
それから何かを思い出したように息を吐いた。
「……マクミレッツの倅が後ろにいるのであれば、己の父に恨みを抱いて育っていても不思議ではないな」
ビクター=ララ=マクミレッツはオルクス家の家宰であり、主家のために貴族位を捨て去った異常者だ。それが二人にとっての認識である。
そしてザムロから見て、彼には確かに伯爵を殺す動機があった。なにせ二人は乳兄弟の関係。それは実の兄弟より重い絆で繋がれた仲であり、単なる主従の枠には収まらない。堕落する伯爵を誅殺する意志に憑りつかれていたとして、何ら不思議ではない。
しかしこの推測にレグムントは再び首を振る。
「いや、あの男が娘たちに憎悪を仕込むとは思えない」
侯爵の知るビクターはそういう男ではない。真面目過ぎる故に思い詰めると何をしでかすか分からない、という点は同意する。しかし子供たちをその道具にはまずするまい。そういう確信があった。
「ますます分からぬな。ならばなぜアクセラ嬢が障害足りうると思うのだ」
「アクセラがアドニスを憎んでいるのは確実だからだ。明確な罰もなく彼が隠居するのを見過ごすとは思えん……それどころか、自分の手で斬る腹積もりでもおかしくない」
「なに……!?」
「いや、あの性格を考慮するに、おそらく自分で斬り殺す前提で動いているだろうな」
アクセラの正体が何であるか、そして彼女の後ろにいる神がどういう存在であるか。それを考えれば考えるほど、侯爵は血濡れらえたエンディングしか思い描けなくなっていく。
「まてまて、待たぬか!話がおかしいぞ!」
当然そんな事情を知らないザムロは、かつてないほど狼狽えていた。
「アドニスと娘は共に暮らしてもいないのだぞ?確かに奴がいい父だったとは儂も言わぬが、殺意を抱くほどとは思えぬ!」
だが、と言葉を噛み締めて続ける公爵。
「お前がそう言うということは、何かしら根拠があるのであろう」
ローテーブルに身を乗り出し、レグムントの瞳を睨みつけて問う。
「む……それは、まあ、そうだな、思い当たる節はある。有り余るほどにある」
ならば言え、と戦場に立つかのような威圧を宿して睨む対峙者。当然といえば当然だ。この場で筋を通していないのはレグムントの側である。
それにオルクス伯爵アドニスのこととなるとジョイアスが過激な反応をするというのも、前回の話し合いで十分身に染みていること。
「ぐ……」
ジリジリと肌を焼くような敵意。久しく感じていなかった戦いの気配に、しかしレグムントはまったく心躍らない。むしろ「だから触れたくなかったのだ」と心中で悪態をつく始末である。
しかしザムロへの立てるべき筋としてアクセラという脅威については触れざるを得なかった。放置すれば何が起きるか分かったものではないからだ。一方で彼女がアドニスを憎む最大の原因、すなわち技術神エクセルの第一使徒であるという事実を口外するわけにもいかない。
必然的な板挟みが音に聞こえた戦士を苦しめる。
「それは……い、言えん!」
数秒の攻防の末、レグムント候は手を挙げて降参を示した。
「言えぬだと!」
「こればかりは言わんと誓った以上、言えん!義理を欠くことになる!なにより、その、とにかく拙いのだ!!」
「……」
ザムロの勢いが鈍る。
目の前の男の性格と頑迷さは誰よりもよくわかっているつもりの彼だ。ヴォイザークが自分への説明という筋とアクセラの秘密を守るという義理の間で悩み、義理をとると決めて口を開いた。そうと分かった時点でいくら詰め寄っても覆ることはないのだと察したのだ。
「それにだ!」
レグムントは緩んだ圧を貫くように声を上げる。
「アンタもどうしてそこまでオルクス伯の助命をしたいのか、その理由を語らんではないか!最も効率が良いのはアクセラとトレイスを立て、伯爵に全てを負わせたうえで討たせることだと……それはアンタもよく分かっているだろう!」
「ぐ……!」
今度はザムロが呻く番であった。
「息子の影を見ているのは分かっているが、まさかそれだけではないだろう!?」
その問いに真っ赤な瞳がジロリと白髪の男を見返した。
「……ああ、そうだ。儂はアドニスに死んだ息子たちの影を見ておる。それを言われると返す言葉もない。そしてそれだけではないのも事実……はぁ、儂も誓ったのだとしか言えぬわ」
地響きのような返事を経て、公爵は纏った圧倒的な覇気を完全に霧散させた。
「……感謝する」
呻くレグムント。ザムロは億劫そうに手を振ってその話題を流させた。
「現実的にどうするかを考えたほうが、まだ実りがあるというものよ」
「そうだな……アクセラの手綱を握れるとは思えんが、俺の方から一度この騒動を預かれないか働きかけてみよう。陛下にも話をつけにいく」
「陛下も絡んでいるのだったな。ああ、頼む。オルクスの問題で儂が望むのは、アドニスを生きて退かせることだけだ」
疲れ切った様子で二人はグラスをつかみ、中身を一気に飲み干した。水はすっかりぬるくなっていた。
「……だがあの娘の最終的な意志と行動だけは、ほぼ制御不能だと思っておいてくれ。最悪は脅してでも止めるが、それでも駄目ならもう駄目だ」
「もう駄目、とは?」
投げやりに肩をすくめる剛の戦士に古将は問う。
「俺はあの男のために命を張らんということだ」
そして返ってきた言葉に、今日何度目かの驚きを込めたため息を吐き出した。
「よほどの暴れ馬なのだな」
「ふん、気を付けろよ。翼の生えた暴れ馬だぞ。鋭い牙と爪も生えてやがる」
諦め調子で茶化す侯爵の言葉は、公爵の耳にやけに残った。
こうしてアクセラの翼は、本人もあずかり知らぬところで自他共に翻弄する大風をおこそうとしていた。
次回はいよいよこの章の最終回です。
そのあとはまた一か月の休暇を頂きますので、よろしくお願いします。
告知はTwitterと活動報告、両方でやります。
↓一応予定↓
8月5日(土)十三章第1話
※たぶん恒例の間章を特別連続更新!とかは無理ですゴメンナサイ
※本文が大変難航しています、遅れたら許してやってください……。
~予告~
貴族、神官、そしてアクセラ。
それぞれの思惑が渦巻く王都。
一際深い闇の底で、爪を研ぐ獣がもう一体……。
次回、復讐者たち




