二章 第14話 懐古の疼き
オルクス伯爵家嫡男、トレイス=フォル=オルクスの突然の快癒は屋敷を衝撃に包んだ。おそらく10歳の誕生日は迎えられないと言われていた重病人が、ある日突然外出許可まで一足飛びに良くなったのだ。大騒ぎにならないわけがない。
とはいえ彼の存在は少なくとも領都ケイサルではほとんど誰も知らないものだ。姉のアクセラすらあまり知られていないのだから当然と言えば当然のことである。数少ないトレイスを知る者は屋敷の住人以外だと医者のノイゼンと教会のシスター・ケニーだけ。すぐさま家宰であるビクターによって箝口令がしかれ、騒ぎもその内側で抑えられた。
大騒ぎになった原因は突然の快癒そのものだけではなく、その原因にもあった。最も新しい大神である技術神エクセルが直々に加護を与えて彼を救ったからである。神が直接人間にそうした施しをするのは非常に珍しいことだ。そもそもオルクス伯爵家は生前のエクセルとも神となってからの彼とも何の縁もゆかりもない。なぜ彼の神がその嫡男を救ったのか、それが大きな疑問となった。
「申し訳ありません、私はあまりエクセル神について存じ上げないのです」
屋敷の責任ある立場の者と外部の関係者が集まって話し合う席で、まず真っ先に尋ねられたこの街唯一の聖職者であるシスター・ケニーは力なく首を振った。
「それでも知っている範囲のことを教えていただけませんか?私たちはそのお名前くらいしか分りませんので」
ラナに促された彼女は困ったように眉を寄せて、それでも知っている限りの事を語った。
「まず司っておられます技術というものですが、スキルに頼らない力とのことです。これについては私より皆様の方がお詳しいと思います」
ラナやイザベル、アンナをはじめとするこの屋敷の使用人はそのほとんどがスキルに頼らない技をなにか1つは身に着けている。これは彼等彼女等がレグムント侯爵領でそういった教育を受けてきたからなのだが、その思想について詳しい由来などは多くを学んでいなかった。
「人としての生まれは隣国アピスハイム王国で、その、ブランクの奴隷として誕生されたそうです」
「ブランクの……解放奴隷か脱走奴隷でいらっしゃった?」
「後者と伝え聞いています。その後の詳細はあまり存じ上げていないのですが、奴隷解放と技術の普及を掲げて活動されていたそうです」
奴隷解放が隣国でかねてより進んでいることは教育レベルの高い彼等も当然知っていた。ブランクへの差別を減らすような活動が行われていることも、レグムント侯爵より教えられている。
「その後は多くの奴隷とブランクを連れてアピスハイムよりさらに西の大砂漠へ都市を建てられたそうです」
シスター・ケニーはそう言って言葉を切った。彼女が人間だった頃のエクセル神について知っているのはわずかな話だけだった。次に口を開いたのは神としてのエクセルについて知っていることを語るためだ。といっても本当にこれも短い内容なのだが。
「エクセル神は技術の最高神であられると同時に奴隷の守護者でもあられます。目立った奇跡やお告げなどをされたということはなかったかと……」
「トレイス様が最初、ということでしょうか」
「それではなぜトレイス様だったのかは分らず仕舞いになってしまうね」
イザベルとビクターが首をひねる。現にトレイスは快癒しているのだから深く考える必要もないかもしれないが、神のすることに理由がないということはまずありえない。神意を見落として見放されでもすれば今度こそ嫡男は死んでしまうだろう。そんな警戒が彼等の胸にはあった。1人を除いてであるが。
「その、私が口を出すことではないのかもしれませんが、そう神々のお恵みを疑われない方がよろしいのではないかと」
神官であるシスター・ケニーにとっては当たり前の見解だが、それまで沈黙を貫いてきた賢者レメナは否定する。
「神に仕えるシスターはそうじゃろうが、我が身とその周りがかわいい儂ら俗人はそうもいかんでのう」
いつも通りの言葉遣い、声音、そして言葉だ。しかし老いた魔法使いの目はここにいない誰かを睨みつけるかのような気迫をたたえ、言葉の奥には燃え盛るような激情を秘めていた。普段の飄々とした雰囲気とはかけ離れたその気配に、室内にいた全員の背筋に寒気が走る。まるでこの場にだけ冬が戻ってきたような気さえした。
「神々には神々の思惑と計画がある。そのためであるなら彼奴らは簡単に人の生を狂わしおる……安易にその恩恵に縋れば、いつ手痛いしっぺ返しを喰らうとも分らんのじゃ」
「そ、そんなことは!」
「儂は昔、喰ろうたわい。喰ろうて友を亡くした」
重々しい、そしておどろおどろしい響きを孕んだ声でレメナはそう言った。そのあまりに深い怒りと憎しみの念に、偏に神を信じるシスターもそれ以上言い返すことはできなかった。
「じゃが」
誰もが言葉を失くし押し黙っていると、皆を委縮させた当の本人が再度口を開いた。その声にはさきほどまでの圧はなく、なにかを考え込んでいるような趣が感じられた。
「じゃがな、エクセル神ならあるいは信じてみるのも一興かもしれん」
「え……」
直前までの態度とは真逆の言葉に珍しくビクターが声を洩らした。
「わしは神を信用しておらん。じゃがエクセル神は神になって日が浅い。その感覚も未だ人に近いじゃろう。実際これまでも新たに神に列せられた者は数百年ほど振る舞いが神らしからぬ人間臭いものじゃったと記録されておる」
そんな話は誰もしらなかったが、彼はわざわざ食客としてのあらゆる権利を放棄してまで大きな書庫を建てさせた男だ。賢者と呼ばれて久しい身でありながら、表舞台から姿を消して日々知識を漁ることを趣味としているような人物だ。彼が言うならそうなのだろうと誰もが納得した。
「その、助けていただいた身でこういうことを言うのは気が引けるのですが」
恐る恐るといった調子でラナが声を上げる。
「エクセル神が人としての感性を残しておられるとして、どうしてそれだけで信用してもよいとおっしゃるのでしょうか?」
目的のためなら何でもするという者は神でなくとも山といる。エクセルという男がそういった人物でないと証明する手立てがないのに、神となって日が浅く人間的であるからと信用することは難しい。そういった意味での問いだった。
だがレメナはふと昔を懐かしむような目をして首を横に振る。
「あの御仁なら大丈夫じゃよ」
まるで面識ある誰かについて思い返すような口振りであった。
「エクセル神をご存じなのですか?」
シスター・ケニーが驚いて尋ねると、老賢者はまたしても首を横に振って否定する。
「儂が知っておるのは昇神するはるか前、まだ気の向くまま一人旅をしておられた頃のエクセルという御方じゃよ」
エクセルが1人で旅をしていたというのは今からおよそ80年ほど前のことである。齢70ほどに見えるレメナが言っても誰もしっくり来ていないような顔をしていた。
「儂はこれでも混血じゃからな、成長も老化もただの人間よりは緩やかじゃわい」
「そ、そうだったのですか?」
「ビクター、お前さんも知らんかったのか」
「はい、まったく……」
これでもレメナと長い付き合いを持つビクターだが、知っていることはそう多くない。というより、賢者レメナの半生を知る者はほとんどいないのだ。知られているのは一時期王宮に仕えていたこと、それ以前に賢者の称号を得ていたこと、長い間放浪の旅をしていたことくらいで、現在オルクス伯爵家に食客として滞在していることやその経緯についても身内と呼べる者以外はほとんど知らない。
「まあ、そのことはいいんじゃがな……彼の御仁とは少々縁があってのう」
「ああ、そうです。エクセル様のことでした」
「そこまで深い付き合いではなかったし、おそらくあちらも覚えてはおられんじゃろうがな。できることはやってみずにおれん方じゃったよ」
レメナはトレイスの快癒がエクセル神による非常に複雑な加護の賜物だと察したとき、まず真っ先にそのことを思いだした。そして今回もたまたまできたからやってみたのだろうと。
「それにな、あの御仁は子供を見捨てられんのよ」
彼は怒りの表情と同じく滅多に見せない、とても優し気な眼差しをしてそう言った。
「というと?」
「儂が出会ったとき、あの御仁はとてつもない強敵と戦っておられた。態々挑まなくてもよいような、死ぬ可能性の少なくない大きな敵を相手にのう。それもすべて、その場におったたった1人の子供を救うためじゃ」
「その、強敵というのは?」
「それは言えんわい。儂の昔の話も絡んでおるからのう」
一度言葉を区切った彼の目から優しい雰囲気が消え、普段の深い思慮とうかがい知れない感情が戻る。
「儂に言えるのはあの御仁が神になられても変わらぬ心を持っておられるのなら、なんの心配もいらんじゃろうということよ。はたしてどうなっておられるかはまさしく神のみぞ知るという所じゃが」
口を挟んだ割には投げやりな結論で締めくくったレメナに一同は困惑の視線を送る。この賢者は賭けてみろと言っているのか、そうでないのか。
「……信じるしかないだろうね」
三度下りた沈黙を破ったのはビクターだった。
「エクセル神が人としての感性を持っておられようとおられまいと、我々にできるのは信じて祈ることだけだ。もちろん、救っていただいた意味を見逃さないよう細心の注意を払いつつね」
「そうなってしまいますね」
結局彼の言ったことが一介の伯爵家の人間にできる限界であった。
話し合いの空気が実質保留という方向に流れ始めたとき、ふとイザベルが手を上げた。
「あの、我が領にエクセル様の教会をお招きするというのはいかがでしょうか?布教の一助となれれば、せめてものご恩返しにはなると思うのですが」
しかしこの提案にビクターとシスター・ケニーが首を振った。
「新しい神の教会をお招きするには国王陛下にお許しを頂かなければいけない。そうなればトレイス様の身に起きたことも公にしなければならなくなる。家を継がれる際に色々と言ってくる輩がいないとは限らないのが今のこの国の政情だからね、できることならこの件は内密にしておきたいんだ」
「それに技術神様の本山は遠く西のエクセララですから、教会をお招きするためには「魔の森」を迂回して我らが聖王国を経由しなければなりません」
「魔の森」へ入って生きて帰れるのは人間の限界を打ち破った超越者たちだけ。それを迂回するとなると北側に位置するティロン王国を通って北限であるガイラテイン聖王国を通る道しかない。南にもジントハイム公国という国があるが、そちらは長らく鎖国しているために通りようがなかった。
「そもそも技術神信仰自体がこの国ではあまり受け入れられておらんからのう、坊ちゃんのことを考えるなら二重の意味で黙っておいた方がよいかもしれん」
レメナの言葉に一瞬首をかしげたイザベルだったが、すぐに意味を理解して顔をゆがめた。彼等が職業訓練を受けたレグムント侯爵領では、領主であるレグムント侯爵の意向でスキルに頼らない仕事を覚えさせられる。それは領主一族が継いできたとある特殊なスキルに故のあることなのだが、同じことをしている領地はこの国に1つとしてない。
ユーレントハイム王国という国は伝統的な、「魔の森」の西側で言うなら時代遅れな国だ。幸か不幸かロンドハイム帝国という西側共通の軍事問題を抱えていない東側は軍事力をそこまで求められたことがなく、結果的にスキル以外の力を渇望することもなかった。
そんな地形と国際関係の結果、貴族たちには黴臭のする古臭い思想が色濃く残っている。ブランクは神に見放された者、獣人族は獣の血が入った下等な者、神々に与えられたスキルこそ絶対的な価値を持つ、と。
唯一の救いはその思想が貴族階級以外にはあまり根付いていないことだろうか。これもまた軍事力が低いがゆえに、一切差別なく人材を扱う冒険者ギルドが強い影響力を持っているからだろう。なんとも皮肉な話だ。
そして技術もまた力だ。直接触れなければその強さを理解しにくい、スキルとは全く違う力。元奴隷でブランクの男が広め、獣人の多くが学んでいるという力。この国では上層部が流入に対して否定的であるのも仕方ない。
「あ、でも教会内に神像を設置することは可能かもしれません」
シスター・ケニーが思いだしたようにそう提案する。すでに建てられた教会がその施設内で何をするかは教会側の勝手だから、と。
「なんにせよこのような奇跡、教会としては上に報告せざるを得ませんので……」
広めたくない伯爵家側の意向も分るが、聖職者として神の御業を理由なく隠匿はできない。そういうことである。
「ええ、それは承知しています。ただしエベレア司教に直接伝えていただければ助かります。それと神像を設置すると言う件、ぜひお願いします」
エベレア司教はレグムント侯爵領の創世教会を束ねる高位神官だ。先代オルクス伯爵からの仲で、なにかとビクターが教会関係で困ったときは世話を焼いてもらっている人物でもある。アクセラとエレナの祝福式もわざわざ執り行いに来てくれた。
「はい、それはもちろんです」
シスター・ケニーもエベレア司教は身内と言っていいほど近しい間柄。この領地に赴任したのもその縁があってのことだった。
「お話中たいへんすまんのですがなぁ」
一連の話題がとりあえずの決着を見たと判断したのか、それまで一切口を開くことのなかった男がしゃがれた声をあげた。無数の皺が過ごしてきた時を物語るかのような老人、医者のノイゼンだ。
「お家のことやら神さん方のことやらは小生には分りかねますんで失礼させていただきますがぁ、ちょいとご令息の今後の話をばさせてもらっても構いませんかなぁ?こいでも小生は主治医ですけん」
この老人も老人で各地をふらふらと旅歩いていたクチだそうで、その訛りはもはやどこのものともつかない。しかし患者はこのまったりした口調に安心感を覚えるらしい。
「これは失礼しました。それで、トレイス様の今後とは?」
「いやいやぁ、大したこっちゃない……って言うたらちょいと語弊があるんですがなぁ、まあ、そんなに気の要ることじゃぁないですけん。安心して安心して」
「は、はぁ……」
気楽そうに笑って手をひらひらと空に躍らせるノイゼンは懐から数枚の紙を出した。診察結果を書いた紙と正式な診断書だ。
「一応経過観察っちゅうことになるんですがなぁ、まあ、なんなら今日から外をば連れて行って差し上げてもええんですよぉ。長年色々やってますがなぁ、やっぱり神さんにはかないませんなぁ……ご令息にスキルをばお与えになっただけではねぇんですよ、神さん」
「と仰いますと?」
「これまでできとった怪我やらぁ、のうなっとった体力やらぁ、そういった一朝一夕には戻らんようなモンまでかなり治して下さっとんですわぁ。お偉い神官さんの治癒魔法数回分はかかるモンでさぁ」
少なくとも司教以上にしか使えない上級聖魔法だとノイゼンは補足する。一同は改めてエクセルという異国出身の神が殊更手厚く彼等の主家の嫡男を救ってくれたのだと認識した。
「ではもうトレイス様は……?」
「まあ、大事を取って2日に1度ほどは診察させていただきますがなぁ、それ以外はもう何をされても自由ですよぉ。ああ、でも食事だけは今日明日ほど柔らかくて滋養のあるモンにしてくだせぇよぉ、のうなっとる血全部は戻ってねぇし、胃が慣れとらんのでなぁ」
「え、ええ、もちろんですが……そうですか、もうご自由に……」
今まで魔力を除去した部屋以外での活動を一切禁じられてきたトレイスが外を歩いてもいい。この何年も彼を見てきたノイゼンがそうお墨付きを出した。ビクターやラナ、そしてとりわけ彼の世話をすることが多かったイザベルはとうとうこらえきれずに涙を流し始めた。
「よかったです、本当によかったですね……!」
もらい泣きしながらシスター・ケニーがそう言い、ノイゼンも朗らかな笑みを浮かべた。苦笑気味にその輪に加わるレメナを含め、全員が心に一抹の不安を残しながらもひとまず安堵と喜びを分かち合うのだった。
~★~
ユーレントハイム王国中西部に位置するオルクス伯爵領で神の奇跡が少年を救ったのとほぼ同じ日時。場所はオルクス領やレグムント領を経て王都に流れ込むフラメル川の源流の1つを擁するペストラーク辺境伯領、その地下深く。
「やーっぱりここにあったんですネ?探しましたヨ」
明かりもない、狭苦しい石室に嬉しそうな声が響く。性別の判断しづらい声だった。
「さ、お仕事お仕事」
真っ暗な部屋の中心に鎮座する腰丈の石柱、その中心に填めこまれた球体にその者は触れる。
ブゥン……
厚みを感じさせない不思議な音がしたかとおもうと、部屋の壁に青と赤の線で複雑な模様が描き出される。その光に照らされた部屋に、しかしもう人影はない。
「くく……ロゴミアス様、懐かしい方……私と踊ってくださいナ」
そんな聞く者のいない言葉だけが、残りわずかな闇から聞こえた。
どうも、最近非常に忙しくしている作者です。
当分ストックがあるのでいいと思っていたのですが、
意外と少なくない?とも思い始めました。
新しい部分はちゃんと書いてますのよ?
でも拙作はひっじょーに時間がかかるのですよ。
なんでかって?作者の記憶力がポンコツでセリフの統一チェックに時間が・・・(笑)
~予告~
トレイスを救った奇跡は同時にある男の記憶に火をつけた。
今明かされる賢者の昏く険しい・・・嵐の如き過去!!
次回、賢者の雷
レメナ 「見よ、まるで人がゴミのようじゃわい!」
アクセラ 「ノリノリ・・・」
※※※変更履歴※※※
2019/1/29 土地の名前が一部間違っていた問題を修正




