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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十二章 光陰の編
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十二章 第15話 迷い断つ言葉

 冬休みの冷え込む昼前。平坦な灰色の空の下、僕は学院の敷地を一人で歩いていた。足取りは軽く、ついつい弾んでしまう。

 やがて見えてくるのは左右に棟を広げる赤レンガの建物、レッドローズ女子寮だ。深紅の冬薔薇(ふゆそうび)の生垣が乾いた空気の中でも艶やかに咲き誇っている。


「ごめんください」


 お昼にはまだ早いが、朝というには遅い。出かける人は粗方出かけてしまったであろう時間帯。ロビーには警備の人間と寮付の侍女が一人いるだけ。外観の華やかさに対して寂しい限りだが、それでもしっかり暖房が施されていてほっとできる。


「ロイツ男爵令嬢のヴィオレッタさんがおられたら取り次いでください」

「はい、畏まりました」


 侍女は一礼し、警備に一言残して二階へと上がっていった。


(いますかね?)


 特に約束をしているわけではない。

 今日は本当なら有力な法衣伯爵家の子息である先輩とお昼がてら親交を深める予定だったのだ。それが先方の都合で日程が変更となってしまった。

 だから空いた時間で会えたらいいなと思って、少し足早にここまでやってきたわけだ。


 待つことしばし。楚々とした足取りで侍女は階段を下りてくる。そして僕の前に立ち軽く頭を下げた。


「申し訳ございません、本日は王都へお出かけのようです」

「そう、ですか……分かりました、ありがとう」


 残念な報せに僕は肩を落とす。


(でもまあ、仕方ないですよね……彼女だって暇ではないんですから)


 自分にそう言い聞かせて踵を返す。

 しかし連日連夜の顔繫ぎで僕は相当に疲れていたのだろう。あの陽気な声が聞けるかと思って聞けなかったという落胆は、僕の胸の中にずっしりと来た。まるで物理的な重さのように、ずっしりと。


「あ」


 だからと言ってどうすることもできない。悄然とした足取りでレッドローズ寮の扉を潜って外へ出ると、さっきまでの薄曇りは突然の雨に変わっていた。最悪である。

 降り始め特有のむわっと広がる雨土の香りを吸い込む。それから通行の邪魔にならないよう横に退け、軒先で空を窺いながら考える。


(戻って傘を借りましょうか……いえ、もういっそ歩いて帰ってシャワーを浴び、ゆっくり本を読むのも……読書なんてあとにして、寝てしまいましょうか)


 数歩動いて扉の向こうの女性に言えば、傘くらい来客用をいくらでも貸してくれるだろう。しかしそれすら億劫で、僕は石畳を濡らす雨粒を眼鏡越しに追いかけて時間を浪費した。


(そういえばヴィオレッタさんは傘を持って出たんだろうか)


 ふと思ってしまう。水色の髪をした小柄な少女は今頃何をしているだろうか、と。

 だからだろうか、後ろから声をかけられたときに彼女を思い浮かべてしまったのは。


「アベル?」


 そんな訳はないのに、慌てて振り向く僕。

 寮の扉から顔を出していたのは、アロッサス姉弟の姉の方だった。


「……なんだ、アティネさんですか」


 僕の尋ね人よりも更に小柄な姫は、白い制服の背中に暗紫の髪を下ろしていた。一つか二つに括っていることが多いから、少し新鮮な気もする。随分とお淑やかに見えるような。


「なによ、なんだとはご挨拶じゃない!」


 しかし見た目は所詮見た目。彼女は声を荒げ、美しい青の傘で僕の足を小突いた。


「いてっ、あ、すみません、つい……」

「まったく、失礼しちゃうわ!だいたい何やってんのよ、こんなとこで……」


 不審者を見る目で僕をジロリと見上げた背の低い友人は、すぐに事情を察したようだ。


「アンタ、傘がないの?」

「ええ、一瞬前まで降ってなかったので」

「言えばいいじゃない……マルメラっ、悪いけどもう一本傘貰えるかしら!」


 アティネさんは扉の内側に向かって声を張る。仮にも子爵令嬢がどうなのかと思わなくもないが、まあ彼女はずっとこんな感じなので周囲も今さら気にしないのだろう。


(使用人の名前、把握しているんですね)


 荒っぽい癖に妙なところで細かい。それが彼女の魅力だということは、僕自身よく分かっていることだが。


(魅力、ですか)


 内心で何の気なく使ったその一言。それは僕の意識に、薔薇に生える三角の棘のように刺さった。

 アティネさんは魅力的な人だ。

 暗紫の髪と瞳、褐色の肌からくるエキゾチックな美しさ。低い身長と不釣り合いに豊満な胸。それらを品よく纏めあげて演出する服飾センス。

 しかも正義感が強く、懐が深く、情に厚い。面倒見もすごくよいので、派手な見た目やサロンに属さない立ち位置にも関わらず、女性人気が結構あると言われている。


(ティゼルやレイルだって、そうです)


 アティネの美しさが鋭角的で剛的なものだとすれば、ティゼルはより柔的なものだろう。微笑みを浮かべ、スマートに立ち振る舞い、捉え処のない性格で女子生徒を惑わす。

 けれど彼も芯の部分では姉と同じだ。友人のために一歩踏み込むことができる、高潔な騎士の精神を宿している。

 レイルは言うに及ばないだろう。驚くほど真っ直ぐで、臆面もなく綺麗事を口にする。そしてそれを自ら貫き通そうとする。いつだって折れず、曲がらず、誰かのための太陽であり続ける男だ。


(他の皆も、それぞれ魅力的な人ばかり……)


 ネンスくんも、エレナさんも、マリアさんも、アクセラさんも。


(……僕は)


 すっと、視界が暗くなっていく気がした。


「お待たせいたしました」

「……」

「あの……?」

「……」

「ちょっと、アベル?」

「……」

「アベル!」

「!?」


 名前を叫ばれ、僕は飛び上がった。周りを見れば傘を持った困り顔の女性と胡乱な目を向けるアティネさん。白昼夢のように思考の底へと落ちていた僕は慌てて紺色の棒を受け取った。


「す、すみません、ありがとうございます。その、アティネさんも、ありがとう」

「……」

「ア、アティネさん?」

「……フン、丁度いいわ。アンタ暇?」


 僕のお礼にはうんとも返さず、彼女は僕を睨み上げてそう訊ねた。

 もともと釣り目がちな少女ではあるが、今は明らかに不機嫌だと分かるほど目が釣っている。


「え、ええ……まあ、そう、ですね」


 早速傘を広げながら僕は頷く。

 予定は無くなったし、尋ね人も不在だった。これで暇でないと言うのは嘘になる。

 それに僕は冬休みの前後からずっと食事に誘われているのに、一度も応じていないという引け目があった。


「じゃあ付き合いなさい!」

「構いませんけど……どこへ?」


 首を傾げる僕を無視して、彼女は青い傘を開き雨の中に踏み出すのだった。


 ~★~


 やってきたのは学院内の商店街にある、少しオシャレな喫茶。

 何度かヴィオレッタさんとも来たことのある店だ。甘い物とお茶しか置いていないが品揃えは学内一の豊富さで、放課後になると女性で埋まる人気店。白い木目調の内装がきらきらしい。

 ただやはり今日はガラガラだった。王都にも気軽に出られる冬休み、それも昼前。当然である。


(それなのに、なんでこの席なんでしょう……)


 アティネさんが選んだのは一番奥、小物などが飾られている棚のすぐ横に設けられた席だった。ケーキのショーケースからも、他の客席からも、店員の視界からも外れる不人気な位置。

 そんな席にあえて陣取り、彼女は店員を呼んで魔法の詠唱のように注文を始めた。


「紅芋のクリームパイ、シュークリーム、三色マカロン、白栗のモンブラン、アプリコットのムース、アーモンドケーキ、冬桃のパンナコッタ……あとカスタードプリンでお願いするわ。お茶はロングー茶葉をポットで」

「……僕はヨーグルト、蜂蜜あり。お茶は胃に優しいハーブティーがあればそれのホットを」

「は、はい」


 メニューにある甘味を大量に頼むアティネさん。店員はやや引いた顔をしながら去っていった。


「その、本当にそんな量食べるんですか?」

「うっさいわね、食べなきゃやってらんないのよ」

「……」


 吐き捨てるように言う彼女。ほんのり山形に引き結ばれた唇は、内側に溜まるフラストレーションの強さを表しているようだ。


(アティネさん、イライラすると食べる量が跳ね上がるんですよね)


 大丈夫ですか。そんな言葉が喉元まで上がってくる。けど聞いた瞬間に「大丈夫なわけないでしょ」と叩き返されそうで、その台詞は音になる前に飲み込んだ。


「…………」


 そして、僕はそれ以上何も言えなかった。彼女の近況をあまり把握していなかったから。

 何が原因でイライラしているのか知らないから、声を掛けようがない。


(そういえば、友達の近況を一つも把握してない……はあ、こんな調子ではダメなのに)


 内心でため息を吐いた瞬間、まるで心を読んだようにアティネさんが口を開いた。


「アンタこそ、また胃が参ってるんでしょ」

「あ……はは、クセが分かるのはお互いさまでしたね」


 僕が彼女の悪癖を知っているように、彼女も僕の体質をよく知っている。

 僕は胃がそこまで丈夫ではない。重い食事が続いたりするとすぐに調子が悪くなる。だから最近の食事はヨーグルト、蒸しパン、軽いチーズを使ったリゾットなどのローテーションだ。


「お待たせいたしました」


 店員が僕のヨーグルトを持ってきてくれた。それとアティネさんのオーダーのうち、冷たくてすぐ提供できるものを何点か。あとは二人分のお茶だ。


「パンナコッタもよかったかもしれませんね」


 スプーンで白く不定形の昼食を掬い取りながら言う。


「実は舞踏会の翌々日……アクセラさんがお酒で倒れたあの夜以降ですね。あれからもう毎日人と会っていて、会食会食また会食です。胃も悪くなるというもので」


 一口食べ、その酸味と甘みを味わってから飲み込む。傷ついた胃に染み渡るような清涼感だ。


「……」


 テーブルを挟んだ向こうでは険しい表情のままアティネさんが桃色のヨーグルトとプリンの中間のようなお菓子を食べ始めた。


「ご招待いただけた舞踏会は可能な限り出ているんですよ。日中は三年生を中心に顔繫ぎですし……僕らの社交が解禁されてから彼らが卒業してしまうまでの、短い期間しかこのチャンスはありませんから」


 思い返すだけで息が詰まるような過密スケジュールだ。


「でもある意味、僕にとっては待ちに待った本番(・・)です。トライラント家の男として、今が頑張り時ですよ。だから充実しています。胃は痛いですけどね」


 このところずっと気を遣う会話ばかりしてきた反動だろうか、すらすらと言葉は口を突いて出てきた。


(ああ、ちょっと胸の中が楽になります……)


 貴族たちの多くは好意的で礼儀正しく、社交初心者の僕には特別親切にしてくれる。けれど決して甘くはない。それに僕をはるか下に見て、露骨な態度をとる相手も多い。

 そんな中で日々を過ごすうちに、僕は吸った空気の一部をずっと胸の中に溜め込んでいるようなしんどさを抱えていた。


(言葉を選ばなくていいという意味ではヴィオレッタさんとの時間もそうなんですけど……)


 けれど彼女と会うときはできるだけ愚痴を言わないようにしている。それは配慮というより、ただ純粋に楽しい時間にしたいからという、僕のエゴだ。ヴィオレッタさんは友達というより、もっと違うものな気がするのだ。


「やっぱり歓待の食事とお酒が堪えているんでしょうね。予定のない日は節制で、東海諸島風の蒸しパンがご馳走ですよ」


 喋れば喋るほど食べるのが遅くなる僕と違い、黙々とパンナコッタを平らげた彼女はカスタードプリンに手を伸ばす。カツンと底まで一気に差し込まれたスプーンが音を立てた。


「あ、聞いてくださいよ、一昨日の予定の酷いのなんのって。まず朝は3-Aのご令嬢たちのサロンで、次は子爵の王都でのブランチ、直後に偶々出会った縁戚の男爵に誘われ昼食、夕方からは美食家で有名な伯爵の晩餐会だったんですよ?一体何食分食べたのか、考えるだけで恐ろしいです」


 まくしたててから、華の香りのするハーブティーで口を潤す。


「そうだ、その後も煙草俱楽部の方からお酒に誘われたんでした……もう本当にお腹が弾けるかと思いましたよ」


 苦笑を浮かべてアティネさんを見るが、彼女はじっと僕を見つめて……いや、睨んで、プリンを食べている。


「……」

「……」


 沈黙が降りる。彼女はくすりとも笑わない。僕の知る彼女なら盛大な溜息を吐きつつ、労ってくれるはずなのに。「アンタも大変ね」なんて言って。


「……あの、アティネさん」

「何よ」

「やっぱり誘いを断り続けたから、怒ってますか?」


 恐る恐る尋ねる僕。しかしカツ、カツ、カツとスプーンが陶器の器を掠める音だけが返ってくる。硬質な無言の時間。そこに僕は責めるようなニュアンスを感じた。


「その、言い訳みたいに聞こえるかもしれませんが、本当に先約があって断っているんですよ?」


 沈黙に耐えかねて僕はそんなことを言っていた。疑われているとは思っていないのに。そんな風に邪推する人ではないと、分かっているのに。


「今話したみたいに、あちこちの貴族や三年生と顔繫ぎをしているんです。どうしてもあちらの予定を優先すると、僕は四六時中走り回ることになってしまって……」


 なぜか、自分で否定した以上に言い訳っぽい言葉が口から溢れる。


「も、もちろん僕だって皆と食事はしたい。お茶会やカードに誘われたら嬉しい。面倒な顔繫ぎなんて投げ出して参加したいです……気を遣って、遣われて、それで、時には馬鹿にされて……そんなことやってるより、皆の方に参加したいですよ」


 言い訳に混じった本音。自分が吐いた言葉が自分の耳に入って、余計に強く胸を締め付ける。アティネさんは何も言っていないのに、僕の胸の中で勝手に何かの蓋が空き、嫌な気持ちがあふれ出す。


「僕がいったい、冬休みの間に何人訪問したと思います?伯爵4人、子爵9人、男爵7人と三年生が13人ですよ?お茶会とか、そういう団体は入れずです。同じ人を何度か尋ねることもあります。時間なんて……時間なんてないんですっ」


 止まらない。まさに蟻の一穴というやつだ。さっきの苦労話と同じだ。胸の中に溜まった圧力に押し出されて台詞が出てくる。言葉を吐けば吐くほど、もっと苦しくなって吐き続けてしまう。


「そう」

「……っ」


 そっけない返事。スプーンを握る手に力が籠る。


「僕は、僕はッ、今ここで、自分を証明しないと、いけないんですッ」


 荒くなった息。じわじわと溢れて、すぐに言葉に詰まるほど流れ出す感情。気が付くと僕は泣いていた。


「レイルやティゼルやアティネさんみたいに、ネンスくんみたいに、エレナさんやアクセラさんみたいに……この本番(・・)で、証明しないと……期待に応えられると……そうでないと、僕は僕の価値を見失ってしまう!」


 皆は証明してみせた。自分が積み重ねてきた物を、反乱の時に。

 ネンスくんは指揮官の資質と、王族としての重大な責任を。

 エレナさんは魔法使いとしての並外れた技巧を。

 アクセラさんは剣士としての絶対的な実力を。

 レイルとティゼルは騎士としての不退転の覚悟を。

 アティネさんは貴族としての高潔な義務を。


(僕は?僕は何を積み重ねてきたんですか?僕は何を示せるんですか?)


 教会にかくまわれている間、僕もあれこれ手伝いをしてはいた。戦えない女性や平民の有志とともに。でも、それは彼らでもできることで、僕だからできたことではなかった。僕以外の誰だっていいコトだった。


(結局、僕はあの時、頭を打って伸びていただけじゃないですか)


 僕は役目を果たせなかった。価値を証明できず、誰の期待にも応えられなかった。


(それが、それが……)


「悔しかったのね」

「!」


 いつの間にか涙とともにテーブルへ落としていた視線。穏やかな声に、思わず上げて前を見る。

 アティネさんは真っ直ぐに僕を見つめていた。不機嫌な顔でも、怒った顔でもなく、意志の強い瞳で、ただ真摯に。


「……はい……悔し、かった、です……っ」


 彼女の不思議な声音に、僕は頷いた。

 労わる様な、寄り添うような、けれど手は触れずにただ見守る様な、優しくとも甘さのない声だった。


「悔しかった……」


 反乱の時だけではない。ベルベンスがアクセラさんに落第を突き付けたときも、クラスの人たちが立ち上がろうと決めたときも、そして戦いになったときも……僕は何もできなかった。ただ急いで先生を呼びに行くしか、大人の力を借りるしか、できなかった。


「悔しかったですよっ」


 カランと音を立ててスプーンがヨーグルトの器に落ちた。


「悔しかったですよッ」


 皆が、僕の大切な、誇れる仲間たちが、彼らにしかできないことをしている。なのに僕がしたことは、いつだって誰でもできることだった。彼らに誇られる仲間でありたいのに、僕はいつも数歩後ろでどうでもいいことをしている。そんな気持ちだった。


「だからアタシたちを避けて、ヴィオレッタって子と一緒にいるの?」


 深く深く、僕の胸に突き刺さるその問。けれど僕は抵抗しようとは思わなかった。無抵抗にそれを受け入れた。だって、それが一面において事実だと、僕自身が思っていたから。


「……はじめは、違ったんですよ」


 出会った切っ掛けは違った。本当にただ単純な偶然。僕が頭を打って記憶をなくしていて、彼女がその一部始終を見ていた。そんな偶然の巡り合わせでしかなかった。


「今でも、違う思いはあるんですよ」


 一緒にいて楽しいのも、つい目で追ってしまうのも、嘘ではない。たぶん僕は彼女に恋をしている。それはきっと間違いじゃない。勘違いでも、言い訳でもない。本心から彼女の在り方に、人柄に、口調や仕草や姿の一つ一つに心を奪われている。

 でも。


「でも……そうですね。僕は彼女といることで、隠れているんだと思います」


 目を逸らしても逸らせないほど、理由は明白だ。


(彼女は、僕を誇りに思ったりしないから)


 期待されることは嬉しい反面、とても重くて苦しいことだ。きっとそれは皆だって味わっている思いで、だからこそ、自分だけが屈してしまうことが恥ずかしかった。その恥ずかしさから少しでも遠ざかりたくて、僕は彼女に笑顔の裏に隠れているのだ。


「本当は分かってました……だって、隠れ切れないから。本当に逃げ出してしまえば違うんでしょうけど、隠れるところまでが僕の精一杯だったから」


 僕が舞踏会からずっと忙しくしている本当の理由は、僕が舞踏会の大部分を抜け出してしまったからだ。

 隠れた先で彼女と無垢で楽しい時間を過ごした。けれど本番というなら、あの夜こそが本番の始まりだった。それを僕は甘い考えと足りない思考で遊び惚けてしまった。


「必死に挽回しようと走り回っているだけです……は、はは……当たり前ですよね、馬鹿にして軽んじる人がいるのも。これではまるで放蕩者です」


 自分が情けなくて、いっそ笑えてくる。

 頭の中にこんがらがって、塊になって、それでも正視することを避けていた僕の過ち。それは吐き出してしまうと長いようでいて短い、単純で愚かなものだった。


「放蕩者でもいいじゃない」


 冷たくなった手で目元を覆い項垂れる僕。アティネさんがかけてくれた言葉は予想外のものだった。


「……え?」

「自分がイイトコのお坊ちゃんだからダメだって思うだけよ。いいじゃない、放蕩者でも。ティゼル見なさいよ、あの下半身で生きてるバカな弟を」

「いや、ちょ……」

「とっかえひっかえ女の子抱いてるような奴よ?あれが放蕩っていうの。しかもあの放蕩具合でも別に何とかなってるじゃない」

「そ、そんな、その……」


 急に展開される友人への強烈な罵倒に僕はポカンとしてしまう。混乱しすぎて涙も引っ込む勢いだ。口からは意味のない擁護未満の音が出ていく。


「大体ね、お金と権力をアホみたいに持ってるんだから、貴族なんて大なり小なりどっかルーズで壊れてるのよ。アンタの家だってそういう奴のポカを集めて力にしてるトコあるんだし……潔癖すぎるわ!」


 キッと鋭さを取り戻すアティネさんの瞳。迫力のある声とともに僕の方へ綺麗な指が伸び、反応する間もなく弾かれた。額を、結構な力で。


「痛っ!?」


 僕は思わず仰け反る。


「そんな奴らに軽んじられて凹むな、とはさすがに言わないけど……一人で抱え込んでぐにゃぐにゃ言うんじゃないわよ!」

「そ、そんなこと言われてもっ」

「うっさい!」

「痛っ!!」


 もう一発デコピンを打ち込まれた。


「アタシに口答えするのはいいけどね、自分にゴチャゴチャ言い訳するのはやめなさい」


 痛みに怯んだ隙に真っ直ぐ、確かな口調で突きつけられた台詞。言い返そうとしていた僕は言葉に詰まった。僕の反論は、反論などという相手に向けたものではなく、自分に向けた言葉の裏返しでしかない。そう言われた気がしてしまったのだ。


(……自分に、言い訳)


 自分ではたと気づいてしまったからには、どうにもそれ以上に言葉は出てきようがない。

 なにせこれで考えに考えてまで言い返す言葉を探せば、今までの僕の有様よりさらに惨めな僕に成り下がるのだ。それが分かってしまうのだ。


(……)


 僕の体から力抜ける。

 自己弁護でも卑下でもない、ただ否定したいだけの言葉を探す自分にはなりたくなかった。


「アタシが怒ってるのは、もちろんアンタが付き合い悪いからじゃないわ」


 アティネさんは僕の額を二度も弾いた指で、今度は僕の額に優しく触れた。


「アタシとティゼルが一番アンタの悩みを理解してる。高貴なる情報屋なんて言われる家の息子で、家の仕事に誇りを持ってて、でもバカみたいに甘くて人情家で全ッ然向いてない!」


 正面切って向いていないと言われ、しかし反発も反感も浮かばない。ただ無抵抗に受け入れるのとも違う感覚だった。なんだか、少しだけ許されたような気がした。


「そういう噛み合わなさで悩む気持ちは、アタシたちが誰より分かってる。そうでしょ?」


 その言葉に僕はどうしてそう感じたのか分かった。

 アロッサス姉弟がそれぞれ魔法使いと騎士になるよう育てられ、しかし資質の食い違いで悩んでいた。進むべき道と持って生まれた性質の食い違い。向いていないと言ってしまえばそれだけの、本人にしか分からない葛藤。

 彼らと僕らは、それを共有できる仲だったはずなのに。

 そのことを僕は知っていたはずなのに……。


「夏にね、アンタの家から実家に戻ったとき、アタシたち大喧嘩したの。剣まで持ち出して、決闘形式の大喧嘩よ」

「!?」


 急に飛び出してきた物々しい単語。

 しかし目を剥く僕を無視してアティネさんは淡々と続ける。


「アタシはもう無駄な足掻きは止めて役割を入替えようって言ったの。ティゼルはそんなにすっぱり諦められなくて、あとは売り言葉に買い言葉」

「それは、その、そうでしょうね」


 いきなり言われて「じゃあそうしようか」と言える訳がない。


「でも騎士の道を長年迷いながら歩いてきた弟より、短期詰込みで鍛錬したアタシの方がフィジカル強かった。押し切ってギリギリの勝利。ホント、バカみたいでしょ?」


 彼女は空気を入れ替えるようにアプリコットムースを切り取り、頬張ってから自嘲気味に笑う。


「もちろん、向こうの方がスキルも技もあるから、手加減したんでしょうよ」


 それでも、迷いの有無と資質の違いが努力を一蹴した形だ。ティゼルのショックは相当だったろうし。目を伏せるアティネさん自身もきっと。


「あとは勝者の権利で話を飲ませて、二人で新しい形を模索してきた」


 そう言って彼女は仕切り直すように濃い赤のお茶を飲む。


「もう一例出してあげるわ」

「……?」


 二口目のアプリコットが形のいい唇の奥に消える。


「自分を証明するのがどうこうって言ったわね。それで言うと表彰はなかったけど、アレニカもあの戦いで狙撃の腕を見せつけたわ」

「え、ええ。少しだけ聞いています」


 氷の砦の方で魔導銃を片手に、レイルやディーンくんたちと同じかそれ以上の活躍をしたらしい。僕は話の流れが読めないまま、それを思い出して頷く。


「あの子、戦士じゃないわよね」

「ええ」

「淑女として、というか平たく言うと政略結婚の道具として育てられたわけよね」

「そうですね」

「一緒じゃないかしら?」

「……」


 そういう風に言われれば、少し似ているのかもしれない。


「期待されてるものを取り換えて生きることにしたアタシとティゼル」


 カチャ。フォークが皿に置かれ、独特の音を響かせた。


「期待を捨てて新しい道を選ぼうとしてるあの子」


 アティネさんの手がカップを包み、赤い水面に波紋が立った。


「別にアンタが誰かと同じようにする必要はないわ。全然別の手を考えるもよし、とりあえずこのまま突っ走るもよし。逆にアレニカみたいに投げ出すんでも、アタシはその選択を馬鹿にしたりしない。卑下に走るアンタ自身みたいに、せせら笑ったりもしない」


 一口飲んで、ソーサーに戻す。

 それからもう一度真っ直ぐ僕の目を見た。


「でも同じコトで悩んだ友達を、少しは頼りなさいよ」


 アティネさんは腕を組んで背もたれに体を預け、実に偉そうな態度で言った。


「アタシにはティゼルがいて、ティゼルにはアタシがいる。アンタには優秀な姉も手間のかかる弟もいないけど……アタシたちがいるでしょ」


 それが彼女の一番伝えたかった言葉なのだろう。そしてそれは、伝わった。

 僕の胸の深いところへ真っ直ぐに届いて、変になっていた心臓のどこかを柔らかく直してくれた。そんな感じがした。


「アティネさん…………そう、でしたね……そうでした」


 自然と口元が笑みの形になる。なんだか酷くほっとしたような、そんな気持ちだ。

 また涙が溢れ、手で拭う端からまた溢れてくる。


「ハンカチくらい使いなさいよ、まったくもう」


 呆れた様子で彼女が差し出してくれたハンカチ。白い布に赤紫で花の刺繍が施されたそれを借り、頬を流れる雫を拭った。


「あ、あとアンタね」

「は、はい」


 止まらない涙をハンカチに吸わせていた僕は、半年近く感じていなかった穏やかな気持ちで耳を傾ける。


「顔色最悪よ」

「…………え?」


 突然の言葉に固まる。


「鏡、見てないでしょ?三年のサロンでオバケみたいって言われてるわよ。せめてクマ隠しなさい」

「……え!?」


(え、なんですか……アティネさんは、僕の涙を変な事言って止めるとか、そういう趣味があるんですか……?)


 先ほどのティゼルへの罵倒と合わせてそんな思考が浮かんでくるが、トンチキな事を言っている場合ではない。慌てて涙の残りを拭い去ってから僕は前のめりになる。


「そ、その、それは直接聞いた話とか、ですか……?それかこう、恐らくそうなんじゃないかなとか、そういうレベルの」

「んなコト、アタシが言うわけないでしょ」

「で、ですよね」


 思い返せばサロンで会う女性たちの笑顔、引き攣っていたような気もしなくもない。


「え、あ、あー……そんな、寝不足でも体調が悪くても、頑張って行っていたのに……」

「馬鹿ねぇ。裏目に出てんのよ。適度な休息が一番効率をあげてくれる、ってアクセラが言ってたわ」

「うぐ……」


 あの鬼のように強いアクセラさんの助言ともなると、反す言葉がない。


「まあそれはメイクでどうにかなるわ。アタシが教えてあげる」

「あ、ありがとうございます」


 本当にありがたい申し出。けれど男としての抵抗感か、思い浮かぶ姿は真っ白な顔に真っ赤な頬の、絵にかいたようにヘタクソな女装をした僕の顔。


(いや、詳しくない僕でもアティネさんは化粧上手だと分かるし、大丈夫……いやいや、とりあえず一回ふざけてやりそうな気も……)


「何を百面相してんのよ。ちゃんと道行く男子が片っ端から振り向く美少女に仕上げてあげるわ!」

「いやいやいや!!待って、待ってください!そういう方向!?」

「嘘に決まってるでしょ」

「……はぁ、もう」


 アプリコットムースを切り分け食べる彼女に、僕は姿勢を正し、改めて頭を下げた。


「僕、ちょっとおかしくなってましたね。本当に助かりました」

「いいわよ。っていうか、ちょっとズケズケ言い過ぎたかなって思う部分もあるし……まあでも、随分マシな顔してるわよ」


 スイーツ用の小ぶりなカトラリーを指でもてあそびながら、彼女はぶっきらぼうに言った。


~予告~

勲二等の褒美を拝領するべく王城へ登るアクセラ。

彼女を待っていたのは未知の素材からなる青藍の刀だった。

次回、雨狩綱平

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