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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十二章 光陰の編
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十二章 第14話 アベルの疲弊

 昼食時にはもう少しあるだろうか。そんな時刻。

 今日は冬にしては暖かく、休み特有の緩い空気と合わせてなんとも長閑な雰囲気が学院には流れている。


(まあ、僕は全然のどかじゃないですがね)


 僕は今、大変忙しくしていた。

 あちらに行って人に会い、こちらに行って人に会い。三年生が参加自由のお茶会を開いていると聞けば顔を出し、どこかの貴族がパーティーを企画していると聞けば招待状を入手して潜り込む。直接招かれれば当然参加するし、持ち物や同伴者に指定のある場合はそれを集めてはせ参じる。

 とにかく忙しい。冬休みに入ってからこの方、どこが休みかと言いたくなるほどだった。


(でもまあ、これが僕の正念場ですからね)


 高貴なる情報屋。褒めているのだか揶揄しているのだか分からない、そんな名前で呼ばれるトライラント伯爵家。その長男として、継嗣として、顔繫ぎは重要な仕事だ。

 どれだけ広く顔を知られているか、どれだけ縁を結べているか。それが僕の価値を高め、情報の価値を高め、伯爵家の未来の価値を高めてくれる。


(今日の相手は少し難しい人ですが、頑張らなくては)


 僕は今レッドフォックス寮へ向かっている。これから会うのは南部陸路の要衝を治める子爵家の令息だ。内容は昼食を交えた懇親会。三年生でも気位が高く気難しいタイプと有名らしい。

 しかし彼の実家より南にあるトライラントとしては、避けて通れる相手ではない。我が家にとって陸路の商業活動は、自領での観光産業やフラメル川伝いの貿易に並ぶ重要な資金源。友好的な関係を作れるか否かで、十何年後の領地の経済が変わってくる。


(……正念場、ですから)


 暖気の原因、強く照り付ける太陽が昨日の雨の雫に反射して目を刺す。その眩しさに僕は思わず足を止めた。

 レイルやティゼル、ネンスくんやエレナさんは僕よりも早く、あの反乱のときに正念場を迎えた。これまで磨いてきた力を使って、見事にその難局を打ち破って見せた。アクセラさんを庇って始まったベルベンスとの闘いのときでもそうだ。


(今度は僕の番です)


 僕には戦う力はない。でもこれまで広い人脈を作るため、色々な知識を仕込まれてきた。

 それは各領地の主要な貴族の名前に始まり、特産物、気候、地政学的な価値にまで及ぶ。他にもトライラントに源流の一つがある我が国の大動脈、フラメル川に関する定量的、定性的なデータの数々。ここ十数年の記録的な災害と被害地域などもだ。


(土地の話、作物の話、災害の話……貴族の男性、とくに文官が語りたがる方向性は全部押さえてきました)


 礼儀だって厳しく躾けられている。立ち居振る舞いは言うに及ばず、単純なテーブルマナーから相手のミスをさりげなくフォローする台詞の数々まで、本当に広い礼儀を覚えさせられた。


(全部、全部、準備してきたんです)


 ここが僕にとっての最初の戦場だ。今が自分の真価を示す時だ。ずっと待ち望んだ、自分を証明する機会だ。


(ずっと、待ち望んだ……本番(・・)


 足は、動かなかった。

 急がなくてはいけないほどタイトな時間ではない。けど、無駄にしていいほど時間があるわけでもない。それなのに足は前に進もうとしない。


(なんで、止まるんですかね……)


 息を吸って、吐いて……その単純な動作一つがなんだか上手くできている気がしない。吸った空気を吐き出しきれず、それが胸の中に溜まっていっているような気分。少しずつ、ほんの少しずつ溜まっていくような。


(でも)


 そんなことで、立ち止まるわけにはいかない。

 レイルなら、ティゼルなら、ネンスくんやアクセラさんなら、戦場で立ち止まったりしない。


(時間だってないんです)


 王都のパーティーに参加できるのは冬休みの間だけだし、三年生は休みが終われば二か月ちょっとで卒業してしまう。その間に最大の成果を上げようと思うなら、今は遮二無二自分の役目を全うするしかない。


(だから、だから……)


 足に力を籠める。動くまいとする足を、ぐっと踏ん張って前に。


(だから、行かないと)


 そうして一歩を踏み出したときだった。


「アぁーベェーやぁーんっ!!」

「ふぉあっ!?」


 ドン、と背骨の絶妙な位置を強かに叩かれた。強制的に背筋が伸びるような、思考も何も吹き飛ばすような、とにかく強烈な一撃だ。

 背骨や肩甲骨のあたりがパキパキと鳴り響き、僕は優雅さの欠片もない声を上げて仰け反る。


「どや、ウチの整体パンチは!背骨シャキーンなったやろ?」


 陽気な東海諸島訛りで自慢しながら、僕の前にくるりと姿を現す小柄な少女。

 水色のマッシュルームカットに幾筋か紺色が混じる独特の色彩。背は僕の胸ほどもなく、パッチリと開いた琥珀色の瞳は猫を思わせる。


「ヴィ、ヴィオレッタさん……淑女がパンチするんじゃ、ありません」

「ウチ淑女やないもーん、ウチはウチやもーん」


 捉えどころのないほどに幼稚な主張。けれど不快ではなく、むしろ微笑ましい。

 僕は痛みにつっかえつっかえになりながら、無駄にいい姿勢で犯人を咎める。しかし当の襲撃犯はどこ吹く風といった顔で、うっすい胸を反らしてみせた。


「なんや今失礼なコト思わんかった?」

「思ってない、思ってないです」

「もう一発整体パンチしたろか?背骨ボキーンいわしたろか?」

「よく効くのは否定しませんが、いわさんでいいです」


 たしかに彼女の一撃は知らぬ間に丸まっていた僕の背筋を伸ばしてくれた。引っ張られて肩とか首とか、諸々の骨格的な物とか、あちこちが痛いけれど……でも昼食会の前に喝が入ってよかったのかもしれない。


(だからって二発目はいりませんけどね!)


「せやけど、えらい背骨ぐんにゃりいっとったなあ……お疲れさんやん」


 二発目の代わりにその小さな手のひらで僕の背中をパンパン叩くヴィオレッタさん。ついでに背中や腕を揉んでくる。上着越しでもあちこち硬くなっているのが分かるのだろうか。


「肩の凝るコトばかりしていますからね、最近」

「お家のためとか、将来のためとか、アベやんも大変やんな。ウチみたいな遊び人には皆目見当もつかへん世界やわ」


 などと言っているが、彼女も彼女でそこまで暇なわけではない。特に冬休みに入ってからは、ときどき外泊許可をとって王都に出向いているらしい。


(親バカな義両親が会いに来てほしいって言うから……っていってましたけど)


 しかしその割に、戻ってきたときには酷く疲れている様子だった。ときには少し荒んだような目をしている日もある。なんにせよ、とても子煩悩な育ての親と休日を過ごしてきただけとは思えない雰囲気だ。


(ああ、でも家に戻って僕みたいに貴族の付き合いをしているのかもしれませんね)


 彼女は虚飾を嫌う性格をしている。着飾ってダンスを踊ったり、心にもないことを言って相手の機嫌を取ったり、そういう貴族らしいことが苦手で仕方ないのだ。

 ヴィオレッタさんはもっと自由に、気楽に、心のままに生きていたい……というようなことを日ごろから時々、口にしている。まるで猫のような生き方だ。


(……なんだか、いつか全てが嫌になって、本当に猫になってふらりと消えてしまいそうな)


 そんな訳の分からない思いが降って湧いて、僕の胸をざわめかせる。

 あり得ない空想の類だが、どこか現実味を覚えるのは僕自身が息の詰まる思いを抱えているからだろうか。もしその空想が現実になったとき、僕は同じように猫になってふらりと付いて行くのだろうか。それともその猫を捕まえておこうとするのだろうか。


「アベやん?」

「え、ああ、すみません……ちょっと考え事をしていました。何か言われてました?」

「もう、しっかりしぃや?」


 呆れたように目を細めるヴィオレッタさん。


「今晩ヒマしとるんかって」

「今夜ですか。ええ、大丈夫です。今日の予定はこの後の昼食会だけですから」


 そう答えると彼女は眉をハの字にして「あー」と声を漏らした。


「移動中やったんか。それはえらい邪魔してしもたな」

「いえ、まだ時間はあるので」

「ほんまに?ほんならまあ、ええねんけど……」


 彼女はほっとした様子で頬を掻く。


(……)


 その照れたような笑みに、胸がぎゅっとなった。

 いつもは傍若無人ともいえる勢いで僕をあちこち連れまわす癖に、こういうときだけは常識的でしおらしい。そんなギャップが健気というか、振り回されても嫌いになれない理由だ。

 とはいえいつまでも優しい気持ちに浸っていられるわけではない。


「えっと、それで夜に何か……残り三つのお願いですか?」

「あー、ちゃうちゃう、ちゃうねんけど……」


 手をパタパタと振ってから少女は一瞬言い淀んだ。


「その、あれや、あれ」


 両手の白い指を胸の前で合わせて忙しなく揺らしながら、明後日の方向へ視線を逸らすヴィオレッタさん。

 ウロウロとする視線は猫というより小鳥の様だ。


「どこぞの眼鏡がまぁた頑張りすぎとるんとちゃうかなー思てな、蒸しパン作ったるさかい、また二人でお散歩せえへんかなーと……息抜きも必要やん?っていう……どない?」


 琥珀色の目が僕に戻ってくる。

 小首を傾げると水色の髪束がはらりと動き、霜焼けのように赤くなった耳の先が覗いた。


(あ、それ、可愛い……です……)


 なんてことはない一瞬の姿だけど、僕は鼓動が早くなるのを自覚する。きっと僕の頬も赤くなっているのだろう。


「ア、アベやん?」

「え、あ、ああ……」


 声を掛けられ、慌てて逸れた思考を引き戻す。


(えーっと、えーっと……そう、む、蒸しパンです……蒸しパン……)


 彼女とは既に何度か夜の散歩に出かけている。そのたびに作ってきてくれるのが、東海諸島伝統の蒸しパンだった。


(でも、実際美味しいんですよね、ヴィオレッタさんの蒸しパン。お腹に優しいですし)


 この小さな手で丁寧に生地を捏ねてくれているのだと考えると、なんだかくすぐったいような気もする。


(特に玉蓬の入った蒸しパン……飾らない香りとわずかな苦味がクセになるんですよ)


 甘さが強くないのもいい。僕はどちらかというと薄い味付けの方が好きなのだ。

 柔らかく、薄甘く、ほんのり苦く、香り高いモチモチのパン。ソレを頬張りながら、目の前の友人と夜の学院の散歩道をふらふらとする。少しお行儀が悪く、でもとても穏やかな時間だ。


(ああ、そう思えば、まだまだ頑張れそうです)


 ヴィオレッタさんのころころ変わる表情と距離を感じさせない方言、ソレに触れる時間は、忙しい僕にとって大切な癒しなのだ。


「いいですね。気分転換にもなりますし、胃も休めたいです」


 僕の好みに反して昼食会や晩餐会、立食のあるダンスパーティーなどで提供される料理は大抵が濃くて重い。高級な肉はお腹にどっしりくるし、香辛料も胃に優しくない量が使われている。しかも相手の顔を潰さないように完食は絶対条件。


(食べる量を調節できる立食ならまだいいんですが、着座のケースが圧倒的に多いですからね……)


 そしてそうなってくると、胃の調子に並んで気になるのはお腹周りだ。

 僕はレイルたちのように剣を振り回すわけではないので、消費量が圧倒的に少ない。超過した栄養はどこへ行くのか……考えるだけで恐ろしい話だ。


(……大丈夫ですよね?)


 それとなくお腹に手を当てて感触を確かめる。


「……ちょっとは歩かないと太りそうですし、散歩の件は渡りに船です」

「あはは、気にしとったんかいな。ほんでも、太ったアベやんも可愛えと思うで」


 ヴィオレッタさんは笑みを浮かべて僕のお腹をポンポンと叩いた。


「いやいや、どう足掻いても可愛くはないでしょ……まん丸になった僕ですよ?」

「え!?」

「え?」


 冗談だと思って笑ったら目を剥いて疑問顔をされた。


「いや、丸いのん、可愛えやん?」

「丸ければなんでも可愛いわけでは……え、というか、ヴィオレッタさん、丸い物が好きなんですか?」

「まん丸なモンが嫌いな人間なんておらんで?」


 本気で意味が分からないという顔で首を傾げるヴィオレッタさん。


(なんて純粋な目で……)


 何の気なしの会話からその人のディープな趣味が見えてくることはよくあるが、これは意外中の意外だった。しかしこれ幸いと僕は心のメモに彼女が丸いモノ好きだという、ちょっと変わった情報を書き留める。


(今度何か丸いものを贈ってみましょう……理由は何がいいでしょうか)


「まあでも、僕が丸くなったって可愛くないですって」


 プレゼントの口実を探しながら、念を押すように言う。しかしなぜかヴィオレッタさんは目を見開いて声を上げる。


「そんなことあらへんて!考えてみいな、まず温和な顔で、メガネで、ぽけーっとしとんのがアベやんやろ?」

「え、待って、前提に大きく異議を唱えたい!」

「却下や、却下!ほんでそれが蒸しパンみたいにムッチリふんわり、パンパンに丸ぅなって……な?な!?」

「なって言われても……」


 想像してみる。パンパンのムッチムチに膨らんだ僕の顔を。


「いや、いやいや、いやいやいや……共感できる要素ないんですが!!普通にちょっとキモい!」

「嘘やろ!?え、センスなっ!センスがないでアベやん!アカンで、丸いモンは可愛えんや!これは真理なんや!!」


 どこでスイッチが入ったのか、彼女は僕のお腹にバシバシと手の甲を打ち付ける。


「考えてもみい!蒸しパンもケーキも、お天道さんもお月さんも、みーんなまん丸や!」

「え、いや……」

「つまり丸いモンは可愛えんや!冬場の小鳥もまん丸やんけ!」

「たしかにそれは可愛いですけどっ、同意しますけどっ、じゃあ僕がその列に並ぶかって聞かれると……」

「なん、やと……ッ」


 愕然と僕を見上げたあと、彼女は鋭い視線で独り言ちる。


「こうなったら実証するしかあらへんか……ウチが毎日責任持ってアベやんの食事を高栄養高吸収のデブ飯にするしか、あらへんのか……!?」

「あらへんことないです!全然ないです!!っていうか何の責任ですか!?」


 とんでもない企みに僕は数歩引き下がった。

 日々の会食が効いていて、ヘルシーな蒸しパンでも結構お腹一杯なのだ。高栄養高吸収とやらの食事を詰め込まれたら僕は太る以前にお腹を壊すか破裂してしまう。

 一瞬脳裏に浮かんだのは土に首まで埋められ、ひたすら餌を食わされるガチョウの姿。


(フォ、フォアグラ……フォアグラにされる……っ)


 土に埋められて口にステーキを詰め込まれる姿を想像する。いや、肉は消化に良くないからちょっと違うかもしれない。いやいや、そもそも彼女が作るとしたら東海諸島料理だろうか。いやいやいや、そういう話じゃない。


「……あれ、でもそうなるとヴィオレッタさんが毎日食事を作ってくれるんですか?」


 単純な疑問だった。本当に、単純な。

 しかしそれを聞いたヴィオレッタさんは企み顔を止め、ポカンと僕を見上げてしまった。半開きの口から艶めく口内のピンクが見えた。


「ハ、ハハハ……何を言うとんねん、ハハッ」


 彼女はしゃくりあげる様に笑う。非常に強張った笑みで。


「いや、そういう話なのかなって」

「ハハッ、何を言うとんねん、ハハ、ハハハッ」


 何故かもう一度同じことを言われた。異常にぎこちない声で。


「いえ、ですから、毎日ヴィオレッタさんが食事を作ってくれるんですかって」

「あぁあああああああああほぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「わっ!?な、なんで……ごふっ!?」


 突如何かが破裂したような絶叫。同時に放たれるツッコミというにはえげつない勢いの一撃。鋭い手刀はえぐり込むように腹へ着弾し、僕は鈍く呻いた。


「う、ご、ご……」

「に、二回も三回も言うんやないわ!!そ、そんな、そんな台詞ッ!!」


 体をくの地どころかL字にして悶絶する僕。しかしそんなことは関係ないとばかりに、彼女はがら空きの背中をバンバンと叩きまくる。


「そ、そういう意味とちゃうわ!そ、そう聞こえたかもしれんけど!ちゃうったらちゃうねん!その……ちゃうねん!」

「痛っ、痛いです、痛いですから……っ」


 お腹を守りつつなんとか叩く手から逃れる。彼女は追撃こそしてこなかったが、ダンダンとその場で足を鳴らす。耳といわず頬と言わず、見えている肌が全部真っ赤になっていた。


「え、えっと……なんだかすみません。毎日はご迷惑です、よね……?」


 まったく何に怒られているのかも、どうしてトマトのように赤くなっているのかも、何一つ分からないがとりあえず謝る。とりあえず謝って、それからよく考えると冗談にしてもずうずうしかったかなと反省する。


「そうですね、結構頻繁に作ってもらっていますし、負担をかけすぎていました」

「えっ?い、いや、ちゃうで!?そういうんとちごて……」

「え、違うんですか?」


 そう言う事かと納得した矢先に否定されて僕は混乱する。

 そしてどういう意味なのかと、彼女の琥珀の瞳を覗き込んだ。


「や、近っ、あ、ち、ちが、違う、ねんけど……あの、その、つ、作るんにやぶさかとか、そういうんとはちょいちごて、あの、あ、あ、あぅ……」


 爆発しそうなくらいに赤みが増していく彼女の頬。猫のような形のいい目に涙まで浮かびだす。


「え、ヴィオレッタさん!?」


 咄嗟に彼女の目元へ手を伸ばしてしまった。


「ひゃあーッ!!ちょいもう無理堪忍してッ!!」

「ごぇっ!?」


 目にもとまらぬ速さで彼女は僕の手を叩き落し、そのまま流れるような動作で激重ツッコミをもう一度放った。当然クリーンヒット。僕は自分でも聞いたことのない音を口から出し、膝から落ちる。


「と、ととと、とりあえず今晩は作ったるさかい、ほな!ほななぁー!!」


 石畳に蹲る僕に残されたのは、腹部に沁み込む衝撃の余韻と、彼女の纏う仄かな香水の残り香だけだ。


「いってて……なんなんですかぁ……」


 毎日料理を作ってくれるか。その言葉が東海諸島でメジャーなプロポーズの文句だと、涙目の僕が知ったのは随分、本当に随分と先のことである。


 ~★~


 時間は過ぎ去り夕方。傾いた太陽の輝きが学院の外壁に遮られる頃。


「……」


 昼食会が終わった僕は高い位置で帯を成す金の光の下、とぼとぼと帰り道を歩いていた。

 昼食会とそのあと別の上級生に誘われたお茶会ですっかり日中は過ぎ去ってしまった。


(かなり足元を見られましたね)


 お茶会の方は気楽なものだったが、思い返せば思い返すほどに昼食会では見くびられてしまった。

 貴族の距離感を理解するのは難しい。例えば料理のグレードや飲み物の種類。例えば呼び方や話題の選び方。例えば服装や宝飾品の取り合わせ。いくつもの要素が絡み、どれがどうだったからこういう扱いなのだ、と見極めるのにもノウハウがいる。


(服装は制服なので仕方ないですが……それ以外のあらゆる部分で、今日の彼は僕を随分と舐めていました)


 まず食事だが、レッドフォックス寮の食堂から取り寄せた普通の昼食だった。

 わざわざ応接室に招いて昼食会をするのにありえないことだ。食堂に依頼して特別なメニューを手配するか、商店街から見栄えの良い物を取り寄せるのが礼儀というものである。


(まあ、ステーキとか取り寄せられなかったのは、僕の胃にはありがたい話ですけどね)


 もちろん皮肉である。そしてもちろん、口には出していない。

 飲み物もなかなかどうして昼食会の態を成していなかった。

 ああいう場ではいくつか選択肢を用意して選ばせるのがホストの務めだ。けれど「お茶でいいか」と聞かれることすらなく、銘柄すら分からないような紅茶を出された。

 利き茶ができるほど詳しくはないが、高いものではないはずだ。それなりの味だった。


(僕のことは終始「君」でしたし)


 一番気に障ったのはこれ。


 ―やあ、ようこそ。伯爵家の君、来てくれて嬉しいよ―

 ―君、法学の成績がいいんだって?―

 ―クラスメイトが第一王子なんてツイてるよね、君―

 ―そうだ君、今度は誘ってくれよ。予定が合えば行くからさ―


 彼は一度も僕の名前を呼ばなかった。最初から最後まで「君」と呼び続けたのだ。

 話題も僕自身や彼のことではなく、ネンスくんやエレナさんのことばかり。露骨に興味がない、眼中にないと宣言されているようなものだ。


(それだけ僕が軽く思われている、ということでしょう)


 家格だけを考えるならこちらは伯爵家、あちらは子爵家。しかし貴族の世界は単純な爵位の上下で全てが決まるわけではない。資産、事業、実績や縁故からくる発言力……複雑に要素が絡まりあう。

 その一面である商業では、向こうの方が圧倒的に強いのだ。なにせあの家は陸路の難所である山岳地帯、そこに設けられた切通しの数々を所有している。その通行に関わる利権は凄まじく、そこらの伯爵家など目ではないほどの力を持っている。


(うちはそこらの伯爵家(・・・・・・・)ではないですが……それでも)


 トライラントに流れ込む王都や北部の産物のうち、水運に適さない物は全てかの領地を通ってくる。それに対して国内で人気を博す湖の産物は、なにもうちから買わなくても入手できる。伯爵家が保有するのは湖の北半分だけなのだから。


(結局は僕の実績不足、それに行動……っ)


 相手は二年間、学院の成績や社交界での人脈作りで実績を積み上げてきた三年生。僕は家柄以外の重しが何もない、吹けば飛ぶような社交界の新人。

 彼は家柄を過度に持ち込ませない学院のルールがあるうちに僕をやり込め、マウントを取り切って優位に立とうとしているのだ。そのくらいは分かる。


(分かりますけど、あそこまで露骨にされると……)


 僕は敬意を以て接した。先輩ということで何かと会話の中ではあちらを立てた。周囲のことばかり言われても朗らかに返事をしたし、不躾な質問は角が立たないようやんわりと流した。

 けれどあちらは徹頭徹尾それに応じないことで、ふんぞり返る自分とへつらう僕という構図を作り上げた。


(……)


 面白い物で、人は一度決まった関係を容易には崩せない。余人の目のない昼食会でも一度そういう態度がまかり通るとお互いの中で決まってしまうと、外のパーティーでやられても言い返しにくくなってしまう。


(さすがに今日ほど露骨じゃないでしょうけど)


 しかしそれこそが罠だ。あれだけ露骨にされればこちらも怒りをあらわに跳ね返そうとできる。けれど今回よりずっと温和に、一言「この前は悪かったね」なんて添えてこられたらどうだ。これは実に突っぱねにくい。

 そうこうするうちに先輩後輩というより少し頭の上がりにくい関係……そのレベルを人前でとらされ、周知の事実となっていく。


(ハッ……ヴィオレッタさんが嫌いそうな、くだらない虚飾とパワーゲームです)


 自分で自分の思考を嘲笑う。

 それが分かっていて今日の昼食会、僕は見せかけの敬意を捨てられなかった。加減を間違えてとんでもないミスをしたらどうしようか。そんなことが脳裏を掠めるだけで何もできなくなった。


(……アクセラさんなら、一言で切って捨てられるんでしょうか)


 思ったって仕方がない。だって僕はアクセラさんじゃないし、彼女のように生きることはできないのだから。


「……ぐっ」


 情けない話だ。奥歯に思わず力がこもる。今すぐ帰って洗面器を水で満たし、顔を浸けて声の限り叫びたい。そんな気分だった。


(でも、皆だって大なり小なり、きっとそんな思いをして、自分の力を証明しているんです……)


 アクセラさんを羨ましいと思うこと自体、浅ましいことだ。だって彼女はその代償に死にかけたのだ。僕は、ただ馬鹿にされただけ。


(……それで羨んだり憧れたりするのは、いけないことだ)


 そう思って弱音を飲み込む。飲み込んで、お腹の深くに押し込めて。

 けれど落ちた肩はなかなか上げられなかった。足取りの重さも、なくなりはしない。


「お、アベル!」


 惨めな気持ちのままブルーバード寮への道を歩む僕に、背後から大きな声で駆け寄ってくる人影が一つ。


「……レイル?」

「おう、お疲れ!」


 幼い頃から変わらぬ明るい笑みを浮かべてレイルは僕に追いつき、ほっと一息ついてみせた。燃えるような赤い髪には珠の汗が、まるで糸に通されたガラス玉のように輝いている。


「鍛錬帰りですか?」


 しょげた姿を見せるわけにもいかない。僕は背筋を無理やり伸ばして長年の友人の顔を見た。


「おう、アクセラに練習場でどつきまわされてきたところだぜ」


 最近彼やティゼル、ネンスくん、アティネさんはアクセラさんに稽古をつけてもらっている。かなりハードらしいとだけ聞いているが、詳しくは知らなかった。


「それはお疲れ様です。で、急いでどうしたんですか?」

「いやな、アティネの奴が今晩一緒にメシ食わねーかって言いだしてさ。アベルとは最近あんまり喋れてないし、誘おうぜってことになったんだよ」


 言われてから思う。たしかに舞踏会の翌日に集まってお酒を飲んだあの日から、一度も彼らと食事に出かけていない。お茶会やカード大会やボードゲームもしていない。

 誘われることは何度かあった。けれど大体の場合、先約があった。顔繫ぎのために外せない約束が。


「す、すみません、今日もちょうど先約が入ってしまって」

「あー、そっか……お前も大変だな、あっちこっち行って」


 レイルは眉を下げ、残念そうに僕の肩を叩いた。


「仕方ありませんよ、それが僕の務めですから」

「まあ、そうだよな」


 彼は自然に頷いて見せた。

 猪突猛進なようでいて、自分たちが貴族として色々な責務を負っていることを誰よりも理解しているのがレイルだ。とても眩しい資質だと思う。


「あ、その、皆さんは最近、どうですか?」


 会話が途切れるのがなんとなく嫌で、考えもせずにそんなことを聞く。


「どうですかって言われても……アティネがいつ誘っても忙しいじゃない!って怒ってたぜ」

「それは、その……」


 聞いておいて間違いだったことを察した。


(だってそんなこと、言われても困るじゃないですか)


 そんな思いが胸に沸く。だってヴィオレッタさんとレイル、遭遇するのが逆だったらっ僕は彼の誘いに乗ったのだから。今日はたまたま彼女が先だったのだ。タイミングの問題で、仕方のないコトだ。


(言われても、困ります)


 顔にそういった思いが出てしまっていたのか、レイルは似合わない類の笑みを浮かべて僕の胸に拳を当てた。


「気にすんなって、オレだって稽古優先ってときはあるしさ。上手いコト言っとくって」

「……すみません」

「いや、いいんだけどさ……大丈夫か?」


 ふとレイルが僕の顔を覗き込む。


「え……な、なんでですか?」

「いや、なんでってこともねーんだけど……なんか気になっただけだぜ」

「!」


 内心の驚きを出さないようにするのが大変だった。

 レイルのこういう勘の良さは、彼がネンスくんの部屋に移る前までよく味あわされてきた。とはいえルームメイトでなくなってもう数か月経つし、このところは会う機会も減っていた。それなのにこの一瞬で勘づかれるとは……。


(いえ、レイルが直観的というか、野生的に聡いのはもっと昔からでしたね)


 なんだか長い付き合いが全て昔のことのような気さえする。それだけこの数か月は、反乱の日からの日常は、早くて忙しいものだったのだろう。


「いえ、別に、問題ないですよ?」


 結局僕は誤魔化すことを選んだ。別の選択肢を考えなかったわけではない。けれど今の僕が今の彼に相談するのは、なんだかちょっと嫌だったのだ。僕はもう少し、僕だけで頑張ってみたいのだ。


「そうか?じゃあいいんだけどさ……でも何か困ったら言えよ」

「ええ、そうします」

「おう……あ、やべ!ディーンにも声かけねえと……じゃあオレ戻るから。また空いてる日、教えてくれよ!」

「え、ええ、また」


 慌ただしく手を振って、レイルは来た道を走って行ってしまった。

 なんだか少し、自分がどこにいるのか分からなくなる……そんな冬の夕方だった。


~予告~

苦悩するアベル。

道を見失う彼を前に立ちはだかるのは……なぜかアティネで。

次回、迷い断つ言葉

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