十二章 第13話 ご褒美とお仕置
~予告~
社交界はアクセラだけの戦場にあらず。
こちらもまた、意外な苦闘を強いられていた。
次回、アベルの疲弊
舞踏会が終わったあと、俺とエレナはレンデルク子爵家の馬車に乗って富裕街を移動していた。
冬の大社交界のような夜通し続く舞踏会ではなかったが、それでもすでに夜更け。ネンスにもらった金の懐中時計で見れば十時過ぎだ。もう王都の門も学院の門も閉まっており、帰れる時刻ではない。
「貴族街に行くんじゃないの?」
馬車の行き先が王城のある中心方向ではなく、どちらかというと一般街に近い外側だと気づいたのだろう。エレナが不思議そうに首を傾げる。
「オルクス家には泊まらない」
「あれ、そうなんだ……?」
短期の休みで王都に出た学院の生徒は、学院に帰れる時間に用事が終わらなかった場合は実家の王都邸に泊まるのが常だ。同性の友人がいるときは、そちらの家に泊めてもらうことも少なくはないが……今日の俺たちの目的地はまったく別にあった。
「それより、エレナの収穫は?」
俺はそっと『完全隠蔽』を発動させて訊ねる。
「え?あー……イオテラ伯爵夫人のサロンで紹介してもらって、結構たくさん踊ったかな。あとアクセラちゃんのことを一杯聞かれたよ。例えば……」
俺が煙草の煙を我慢している間に、彼女の方でも顔繫ぎはちゃんと進められたらしい。それなり以上に可愛がられた様子でもあるし、とりあえず大舞踏会のときの遅れは取り戻せたと思っていいだろう。
「それで子爵夫人が……」
「ん」
しかし面白いのが、俺とエレナでは奥様たちからの扱いが明確に違う点だ。
俺はどちらかというとサロンの仲間というよりダンス仲間といった立ち位置。敬意を払ってもらっているし、自由にサロンへ顔出ししてもいいと言われているが、あくまで外部の人間という距離感にある。
それに対し、エレナの話からは彼女たちが俺の可愛い妹のことを、サロンの一員として迎え入れようとしているのが分かる。なんとなくだが。
(俺が本質的に男だからか、それとももっと政治的な理由があるのか……)
サロンで戦争や政治といった生臭い話はしない。それがルールだ。とはいえ権力者やその妻が集う場、その力は政治と密接に関わっている。
簡単な良い悪いでは表せない話だ。そうした側面があるからこそ、大きなサロンの庇護を得るのは貴族社会ではバカにならないメリットになる。そのことは学院内でのアレニカの立場の変遷を見ても明らかだろう。
(ただエレナはあくまで俺の乳兄弟。貴族社会でこの関係は最も重要視される、伝統的なものだ……サロンからの束縛もそこには及ばないはず)
しがらみは増える。面倒ごとも増える。気を使わなくてはいけない場面だってぐっと増すだろう。例えば予定を組むとき。例えば相談されたとき。例えば対立が起きたとき……。しかしどれもこれも、人が人の中で生きて行く以上は避けられないことである。
それに虎穴に入らずんば虎子を得ずともいう。貴族の世界という深くて広い虎穴に入るなら、イオテラ伯爵夫人のサロンはロープと最低限の明りが用意されたマシなルートだ。
「あ、それと面白い話が聞けたよ」
ふと思い出したようにエレナが言う。彼女はまるで河原で綺麗な石でも見つけたような、うきうきとした顔で俺を見てくる。
「面白い話?」
「そうそう。黄金剣って分かる?」
「黄金剣……名前だけ聞いた」
「あ、じゃあよかった」
嬉しそうなエレナ。ドレスを覆うコートの膝の上で指を組んで身を乗り出す。シフォン生地に包まれた豊かな胸がぐっと動く。
「黄金剣っていうのは、冒険者の異名なの。それもAランクパーティのリーダーで、本人はあと数年でSランク認定されるんじゃないかって話。名前はオーウェン=グランダーバルトっていうんだって」
オーウェン=グランダーバルト。出身は不明。全員が金色の装備に身を包んでいるという麗々しいAランクパーティ「金蘭の探索隊」のリーダー。剣士。王国の西に隣接する広大な不可侵迷宮「魔の森」にアタックをかけ続けている。
エレナが教えてくれたその黄金剣なる冒険者の情報は、確かに俺たちが今まで持っていなかったものだ。ただ、イマイチ情報としての価値が判断できない。なにせ活動範囲も被らないし、特に引き込めそうな要素も見つからないのだ。
(サロンでその話題になった意味も分からん)
「あ、それはね……すっごく顔がいいんだって!」
「……」
実にしょうもない理由で、俺の肩は自然と下がる。
けれどエレナはいつになく高いテンションで聞いた話を披露してくれる。
「金色の鎧に負けないくらいキラキラした美形だって話だよ」
「ん……」
「冒険者らしくない丁寧な人で紳士的だって、貴族の女性の間では大人気らしいよ。イオテラ伯爵夫人もファンでね」
「んぅ……」
「でも人気なのにパトロンはナシ。ファンに無理を言ったりもしないし、令嬢や夫人との線引きを間違えるようなポカや不祥事もナシ。そのくせちゃんと一人一人を相手してるんだって」
「……ふぅん」
俺は煙草倶楽部の面々が渋い顔で話題を流した理由を察した。
(まあ、うん)
男とはとても狭量な生き物だ。自分に近しい女性が、特に身内や恋人といった特別な感情を向け合う女性が、他の男の話をするだけでモヤっとするのである。その相手が自分より何かしら優れているならなおのこと。
(かく言う俺も、絶賛モヤっとしてるしなぁ……)
別に、ただの報告なのは分かっている。それにエレナは地頭がいいわりに報告が苦手だ。綺麗に纏めるということがあまり得意ではない。自分がとりとめのない長話を全て飲み下して理解できるからなのだろうが。
(だから別にエレナがその男に興味を覚えて、それで長々話しているとは限らないわけで)
けれど、なんとなくモヤっとするのだ。モヤモヤっと。
「でもね、本当にすごい冒険者なんだって」
そりゃあAランクだ、すごいだろう。その物語に心躍らせる気持ちは分かる。だがやはりつまらない気持ちは拭えない。目をキラキラさせて他の冒険者の、他の男の活躍を語られるのは。
「それで……」
「エレナ、他の報告は?」
「あ、ごめん、長くなっちゃったね。すぐ切り上げるから」
珍しく、本当に珍しく、俺は彼女の話を遮った。
振り上げていた手を慌てて下ろすエレナ。その嬉しそうな瞳に再び俺が映る。鉄面皮に白い髪の、冷たい顔をした少女。今はそのニュートラルな顔もどことなく不機嫌そうに見えた。
「その黄金剣って人ね、ちょうど王宮に刀をもらいに行く日のお昼にギルドへ戻ってくるんだって!」
「……会いに行きたい?」
話の流れからそうくるだろうなと分かってはいた。俺のやる気はまた一段下がる。
(珍獣を見に行くだけ……と思ってもいいけど、なんだかなぁ)
エレナはそういうモノに興味がないのだと思っていが、そういう感性は他の女性たちと変わらないらしい。そんな風に思ったりもしたのだが……しかし、彼女の口から飛び出したのは想像とまったく違う言葉だった。
「会いに行くというか、喧嘩売りに行かない?」
「……んん?」
「喧嘩、しよーぜ?」
なぜかちょっとレイルっぽく言うエレナ。あと絶対レイルはそんなこと言わない。
「えーっと……?」
これまでの話と繋がらない物騒な提案。その真意を測りかねて首を傾げる。一方でエレナの方は話の何が伝わっていないのか分からないような顔で俺を見ていた。
(喧嘩に繋がるような話あったっけ……エレナが怒るような、苛だつような……)
「んー……あっ」
脳裏で言葉にしたことでようやく、目の前の点と随分遠くの点が繋がった。
(俺か、苛立ってるのは!ストレス発散のためか……!?)
「あ、理解した?」
「……理解した」
理解した。したと同時に、モヤモヤしていた自分が恥ずかしくなった。
彼女は先日、俺がこぼした戦いへの不満を汲んでくれたのだ。だからAランクの実力者だという黄金剣の情報を集めてきたのだろう。俺がぶつかれる相手として。
(妙に嬉しそうだったのは……たぶん獲物を取ってきた犬猫の「ほめて」的な空気だったんだな)
その心遣いが嬉しく、同時に少しピントのズレた解決策で微笑ましくもなる。そしてほのぼのとした気持ちが生まれるほどに、小さい嫉妬心を抱いてチクチクと口の端を歪めていた自分が矮小な存在に思えてしまう。
「あー……」
俺は言葉を失い、自分の顔を両手で押さえて呻いた。それから指の隙間からエレナを見る。彼女は満足げに笑っていた。
「ありがと……まあ、その、喧嘩売るかは別として」
「えへへ。でもエクセル様って強そうな人に片っ端から喧嘩挑んでなかったっけ?」
「……挑んでた」
それを言われると彼女の出した結論も突飛とは言えないか。それこそ自分の武勇伝を語って聞かせていたことが巡り巡ってやってきたわけで。一層強く顔を手で覆うしかない俺である。
(でもなぁ、その黄金剣は貴族の奥様とお嬢様に囲まれているわけだろう?)
その中に突撃していって「俺と喧嘩しようや」はさすがに……。
「でもありがと」
「いーえ……ふふっ」
顔を覆ったままもう一度お礼を言う。するとエレナはなぜか俺の頭をグシャグシャと撫でてから、もう一度笑みを浮かべた。少しだけ意地の悪そうな、ほんのりと艶めかしさのある、意味深で状況にそぐわない笑みを。
「……?」
「あ、それといくつか政治の話も聞けたよ」
それについて問う暇もなく、話題はするりと次のものへ移る。
「サロンで?」
「ダンスで若い男の人とも結構踊ったんだけど」
「……ん」
性懲りもなく帰ってきた胸の中の霧を手で追い払いって頷く。
「その人たちが政治の話をしたがったから、色々聞いてあげたんだよね」
さきほどの嬉しそうなものとは打って変わって、困ったような苦い微笑みでエレナは語る。聞いてもいないのに世情や政治、軍事を話題にしたがる男が四人から五人ほどいたのだと。
(あー、いるよな。そういうのを語れるアピールで男としての価値を演出しようとする若造)
分かる人間からすると恐ろしく薄っぺらいように見えるので、止めた方がいい奴だ。
案の定、エレナは割いた時間のわりに得るものが少ない会話だったとこぼした。情報の質も鮮度もあまりよくなかったと。
「詳しくないわたしでもそう思うんだから、アベルくんあたりが聞いたら鼻で笑ってると思う」
「どっちかというと、嫌そうな顔しそう」
「あー、たしかにそっちかもね」
情報屋としてストイックになり切れない、しかし稼業に誇りを持つアベルのことだ。なんとも言えない嫌悪の混じった表情で相手を睨みつけるに違いない。
「とりあえず重要そうな話題は二つかな。南の国境で緊張が高まってるんだって。これはまあ、わたしたちにはあんまり関係ないけどね」
ジントハイム公国と国境を接す南側だが、その守護者であったコーキンス辺境伯がベルベンスの一件で隠居を余儀なくされた。もちろん将としては前線をとっくに退いていた老人だったが、その存在は敵味方にとって大きなものだったのだろう。
「開戦するかも?」
「どうなんだろう?」
二人で首を傾げる。
もしそうなれば経済への影響は計り知れない。トワリの反乱で既に上がっている食料価格などを中心に、シャレにならない問題がおきる可能性もある。
「把握してるかもだけど、ビクターに知らせておこう」
「うん、あとで手紙にするよ」
食料高騰は穀倉地帯を抱えるオルクスにはチャンスであると同時に、かじ取りを間違えればとんでもない憎悪を集めかねない危機でもある。
(そこの差配は俺ではさっぱりだ、ビクターにしてもらおう)
「もう一つは?」
「こっちはガッツリ関係のある話。やっぱりレグムント侯爵とザムロ公爵、急接近してるって噂は広まってるんだって」
これは少し前にアベルから買った情報と同じ。仮にもトライラント家の彼が、友人である俺に安値とはいえ売った情報。それを馬鹿ボンボンが口にするということは、情報の鮮度が落ちるのがとても早いということを意味する。
「思ってたより大々的に動いてるのかも」
「隠していないっぽいよね」
相手はこの国の貴族界に君臨する四大貴族の二家だ。隠すつもりならそれこそトライラント伯爵家の本職が本気にならないと、何の情報も得られないだろう。
それが実際はこの通り。もしかすると隠していないどころか意図して広められているか、両家ですら隠せないほど派手に動いているのかもしれない。
(……)
鼻の奥がヒリつくような感覚。乾いた臭いが脳裏をめぐる。
「ちょっとまずいかも」
「どうして?」
「分からない」
エレナの質問に俺は首を振る。強いて言うなら戦場の勘働きだ。しかしそんな俺を見て彼女は深刻そうな表情を浮かべた。
「アクセラちゃんの嫌な勘、当たるからなぁ」
「当たらないといいけど」
表面だけをなぞらえて考えるなら、これは決して悪いことではない。
オルクスはレグムントを裏切ってザムロについたから嫌われている。その敵対派閥同士が融和に舵を切ったからといってあっさり許されるほど簡単ではないが、しかし今ほど難しい立場でなくなるかもしれない。引き続き白眼視される可能性はあっても、悪化する要素は特にないハズ。
また、レグムント侯爵は裏切り者のオルクスを再び傘下に収めようと、俺やビクターにあれこれアクションを取ってきたわけだ。ザムロ公爵も懐が深く、慈悲を持った人物として知られている。両者の間で穏便に話が済む可能性は、決して低くないだろう。
「それでも嫌な予感がするんでしょ?」
「する。凄くする。戦争が近づいてくるときの、鼻の奥が痛くなる感じ」
その感覚に薄っすらと興奮を覚えているあたり、俺は本当にロクデナシの類なのだと自覚させられる。
「対立がなくなれば、良いこと尽くめな気がするけどな」
「対立してて欲しい人たちもいる。問題は、私たちがどちらか」
一番厄介なのはそこだ。俺たちは果たして、両家が対立を止めて喜べる側なのか?
「むぅ……父様からの返事、早く来るといいね」
「ん」
それはそれとして、俺自身もう一度侯爵と話す必要があるかもしれない。
交渉はヘタだし頭もいいとは言えないが、感覚は鋭い方だ。顔を見て話を聞けば浮かび上がってくるコトもあろう。
「あー……それにしても疲れた!」
エレナは難しい話はもうおしまいだとばかりに、背もたれに大きく体を預けて息を吐いた。
「あしらいにくかった?」
「話聞くだけなら、勝手に喋ってくれるから簡単だったよ。でもすっごく鬱陶しかった」
珍しくエレナが本気で嫌がっているというか、嫌悪感を露にしている。
「特に最後の一人、女に政治は分かるまいとか言われた」
「ん……」
煙草倶楽部やサロンを除けば、この国の公の場において性別というのはあまり重要視されない。どちらかというと持っているスキルや家柄の方が重く、それさえ満たすのであれば当主の座に立つ女性も一定数いる。
(でもそれが分からない馬鹿もいる)
「貴族じゃないって分かった途端に高圧的になるし、侍女なら大人しく高貴な僕に従え!とか言い出すし……貴女の侍女じゃないんだけどね!?ほんと、三回くらいぶん殴ってやろうかと思った」
「よしよし、我慢できてえらい」
今度は俺がエレナの頭を撫でる番だ。今日は本当に頑張ってくれたので、可愛くセットされた髪へ丁寧に指を入れる。
(しかしまあ、ああいう手合いは、自分の持っていない属性は全部下だと思ってるからなぁ)
貴族が上、平民が下。男が上、女が下。政治や軍事が上、それ以外は全て下。立場がではない、人としての価値がそうだと思っている。だから料理人や執事、侍従、侍女を軽んじる。
(そう考えると、今日の煙草倶楽部はかなりまともなメンツが揃っていたのか……レンデルク子爵の手腕だろう)
「あ、あとね!もうデタラメだらけの歴史引用を連発してマウントとってくるの!!ちゃんと勉強してからにしてよって思うよね!?」
「どうどう……なんかそっちの方が重要そう?」
「正直、一番不愉快だった!」
俺が考え込んでいる間にもヒートアップしていたエレナは、最後にそう吐き捨てて腕を組む。小鼻を膨らませて怒る姿は、こう言っては何だが、ただ可愛い。
結局、その一点で露骨に不機嫌になったエレナに相手も苛立ちを見せ、頃合いを見ていたイオテラ夫人が割って入ってくれたそうだ。あちらもあちらで、社会経験を積ませてやろうと思っていたのかもしれない。さっそく夫人のサロンに加わったメリットは発揮されている。
「ごめんね、ありがと」
「いいよ……っていうか、オルクス家の問題はわたしにとっても家族の問題だし」
少し照れたように俺の手へ頭を押し付けるエレナ。俺はしばらく、髪型を崩さないよう気を付けながら撫でてやる。
「あ、そうだ。アクセラちゃん」
「……ん」
ふと思い出したように、会話が途切れたところでエレナが切り出した。その愛らし顔には少し前の時と同じ、何かを楽しんでいるような笑みが浮かんでいる。純粋というよりはほんのりと無邪気な毒を含んだような、見る者を惹き付ける笑みだ。
「さっきさ……」
と、その時だった。馬車がすっと速度を落とした。彼女がその変化に気づいて笑みをひっこめると同時、完全に停止。数拍遅れて車内に御者のノックが響いた。
「?」
「ついた」
首を傾げるエレナを急かして馬車から降りる。御者が置いてくれたタラップを踏んで地面に足を着ければ、目の前にある特徴的な建物が嫌でも目に入った。
「わ、わぁ……なんか凄いね」
唖然とするエレナ。
俺たちの前には絵本に出てくる貴族の家のようなものが建っていた。そう、あくまでようなものである。
カラフルな色瓦で葺かれた屋根、無節操に様式を取り合わせた豪華な壁の装飾、意味不明な像の並ぶ前庭、全身甲冑の騎士がずらり……歴史ある貴族の館が持つ引き算の美学ではなく、足し算の圧力とでもいうべき存在感だ。
「なんていうか、こう……」
「成金の家?」
「うぅん……くどいけど、でも嫌味な感じはしないよね」
「ちょっとワクワクしない?」
「それはする。なんだか舞台のセットみたいで」
エレナの言う通り、この建物には一種の芝居臭さがあった。よく見れば一部の植物は偽物だし、石像のモチーフも神話だったり歴史上の人物だったり統一感がない。居並ぶ甲冑のデザインも実用性に乏しく、本物の騎士や警備にしては武の気配を感じなかった。
「面白い宿、探しておいた」
「え、あ、お宿なんだ!?」
目を丸くする恋人の腕を取って、俺は騎士甲冑の整列するアプローチへ足を向ける。すると甲冑の警備員たちは刃引きされた剣を眼前に掲げてポーズをとる。
「「「ようこそおいでくださいました、お嬢様」」」
揃った声でそんなことを言う。
本物の騎士なら剣を掲げる最敬礼は、式典でもなければ王族相手か死んだ仲間にしかしない。当然、俺たちもほとんどされた記憶はない。だが平民が騎士の礼と言えば真っ先に思い浮かべるのはコレだろう。
全てがハリボテや舞台の背景のような場所だが、作り物めいた過剰な貴族らしさはそんな立ち居振る舞いにも込められていた。
「どう、面白いでしょ」
「あはは、すごい!なんかほんとに舞台に迷い込んだみたいで面白いね!!」
エレナの感性に合ったのか、彼女はおかしそうに体をまげて笑う。
前に観劇したとき、こういう大仰な演目を楽しそうに見ていたのを覚えていてよかった。
「この近く、ちょっと変わったステッキを扱う店がある」
「え、そうなの?」
「ん。明日見に行こ」
腕を組んで出迎えの甲冑たちを通り過ぎ、巨大なシャンデリアに照らされたホールでチェックインを済ませる。矍鑠とした執事風の老人に部屋へと案内されながら明日の予定を伝えると、彼女はぎゅっと俺の腕に体を寄せてきた。
「嬉しいけど、どしたの?」
「忙しい合間のデート。嫌だった?」
「ううん!すっごく楽しみ……けど急だなって」
歴代当主をイメージしているのか、威厳たっぷりな壮年男性の肖像画が並ぶ廊下を抜ける。意味の分からない場所に配置された金縁の姿見や大理石の胸像、変な形の壺、それに魔道具らしき物体。華美で趣味的な演出が凝らされている。
(よくできてるなぁ)
「お嬢様、こちらが本日のお部屋でございます」
「ん、ありがと」
役者のように気取った、キレのある動きで先導する老執事風。彼に示された二階の角部屋の鍵を受け取る。金に大粒の宝石……のようなただの石があしらわれた鍵だった。
執事もどきにも小声のやり取りは聞こえているだろうが、さすが高級宿のスタッフ、お礼に頭を下げると眉一つ動かさずに去っていった。
(部屋に入るまで去らずにいるべきなんだけど、まあそこは本職じゃないしね)
ここを教えてくれたアベルいわく、意外と本物の貴族が息抜きに利用しているとか。こういう演技っぽさが逆に人気の秘訣なのだろう。本物との違いからくる一種の滑稽さがウケるようだ。
「どうぞ」
鍵を開けて道を譲る。
「ありがと……うわ、お姫様の部屋!?」
扉を潜ったエレナが驚いて声を上げた。
部屋のおおまかなレイアウトは俺たちの寮と似たようなものだが、ベッドはピンクのレースの天蓋とカーテンに覆われていた。テーブルも椅子も色分けされた花の彫刻が施され、壁紙は水色だがメルヘンチックな森の絵が描かれている。
「すごいけど、お姫様だけど……方向性が迷走してない?」
「ん……非日常は感じられるから。ちょっと子供部屋っぽいけど」
「あー、それすごく分かる」
お姫様的な可愛いデザインに極振りした部屋は、幼少期に一度訪れたマリアの私室に似ていた。さすがにここまで過激にガーリーでメルヘンではなかったが。
(まあ、子爵の娘も伯爵の娘も、世の一般人からすれば姫ではあるか)
そこはまあ、些末なことだ。なにより俺もエレナもこういう部屋で育っていないので、ちょっと面白いことに変わりはない。
「この宿と明日のデートは、エレナ頑張ったから、ちょっとしたご褒美」
「えー、いいのに……でもありがと」
「これから舞踏会の翌日はずっとこう。変わった宿に泊まって、翌日は買い物か簡単な冒険でデート」
「いいね!がんばれそうっ」
あのレンデルク子爵の舞踏会ですら、エレナが相手したような馬鹿はいるのだ。この冬から春にかけて、もっと馬鹿の相手をしなくてはいけなくなる。そのためのエネルギー補充のようなものだ。
「あと王都の屋敷だと、恋人っぽくできないから」
「た、たしかにね……」
二人そろってコートを脱ぎ、クローゼットにしまう。それから子爵に貰ったドレス姿で見つめ合い、俺は彼女の手をとって引き寄せた。よく温まった部屋の中で、少し冷えた体を抱きしめる。
「……えへへ」
「……ん」
自然と笑みが零れた。俺たちはそのままお互いの温度を共有するように密着してしばらく過ごした。
「……そういえばアクセラちゃんさ、さっき言いかけたんだけど」
「ん?」
ひとしきり抱きしめたあと、エレナの声が頭上から降ってきた。何事かと軽く仰け反って彼女の顔を見上げる。そこには馬車の中で彼女が見せた挑発的な笑みが浮かんでいた。
「アクセラちゃん、わたしが男の人の話すると、ちょっとムッとするよね」
「……」
藪から棒にそんなことを言われ、俺は言葉に詰まった。その反応を見て彼女の笑みが深まる。俺はそこでようやく、その表情の意味を悟った。
「……私が嫉妬するの、楽しんでるでしょ」
「うん、楽しい。すっごく楽しい。楽しいし、嬉しい」
背に回された腕に籠る力が増す。俺はそのニヤニヤとして表情に恥ずかしいやら気まずいやらで、体温がカッと高まるのを実感した。
じろっと睨み上げるが彼女の余裕は崩れない。一種の嗜虐心を瞳に揺らめかせながら、彼女は俺の額に自分の額を押し当てた。そして囁く。
「ね……今日のダンスでわたし、二回も口説かれちゃった」
「……ん」
わざと、見せびらかすように、そして俺を煽るように、そんなことを言うエレナ。
「すっごくべた褒めされたんだよ。聞いたことのない台詞で。貴族だけあって、語彙はとにかく豊富なんだよね。中身はおいておいてさ」
エレナの口角が上がる。普段は絶対浮かべない、熱と湿度を持った表情。そこに俺はわずかな媚びを見た。
「……ふぅん。いろんな褒めかたしてほしいんだ?」
乗ってやろうじゃないか。そう思って口角を無理やり引き上げた俺だが、思ったより低い声が出た。
「えー、そういうわけじゃないけど、でも……きゃっ」
もったいぶったような口調でそれ以上の何かを言うより早く、俺はエレナを引っ張った。体の位置を入れ替え、そのままカーテンの奥のベッドへ押し倒す。
「いいよ、釣られてあげる。まどろっこしい煽りなんて、しなくていい」
これからもっと煽るつもりだったんだろう。けれどそんなモノは聞きたくもない。だから押し倒したエレナの上に登り、腕を押さえ、額に額を着けて早苗色の瞳を覗き込む。
「えへへ」
目論見が成功したからか、いつも通りの緩い笑みを浮かべる俺の恋人。俺は少し乱暴に彼女の顎を指で掴んだ。そっと目を閉じるエレナ。それを無視して、横を向かせた。
「あ、あれ?」
「キスすると思った?残念、まずはおしおき」
戸惑ったように目をパチクリさせている少女の、形のいい耳に唇を寄せる。そして息に乗せる程度の小声を出した。
「今日のエレナ、素敵だね」
「ふにゃっ!?」
予想外の行動だったのだろう。華奢な体が俺の下で跳ねた。
「髪も綺麗に巻けてる。化粧も上手。とっても素敵」
「ふぁ……っ、ちょ、ちょっとまって!あの、これ、な、なに……!?」
「うるさい、黙ってて」
顎に添えていた手を動かし、口を全て塞いでしまう。
「今日はお望み通り、ずっと褒めながらしてあげる。脳みそ溶けても知らないから」
「んーっ!!」
ただならぬ気配を察して咄嗟に逃れようとするエレナだが、体術の覚えのある俺から逃れることはできない。自分で始めたプレイなのだから、たっぷり楽しんでもらおう。
柔らかな産毛に息を吐きかけるように、俺は彼女の耳へ囁く。
「瞳、綺麗。好き。可愛い。好き。素敵。好き。いい香りがする。好き」
「んっ、んんーっ、んぅー!!」
蜜を流し込むように。その奥にある彼女の脳に、魂に、言葉を注ぎ込むように。空いた手をドレスにかけながら。
「好き、好き、好き、好き」
その夜は、東の空が白むまで明けなかった。




