十二章 第4話 オルクスの秘密
久しぶりにオルクス伯爵家の王都屋敷へとやってきた俺。エレナが勲一等の褒美に立ち入りを許可された王宮の書庫に行くというので一旦別れ、出迎えてくれた執事頭のホランに軽く挨拶を済ませる。
「伯爵様がお呼びです」
アイスブルーの目を持つ若き秀才は、瞳の色と同じ冷たさでそういった。どうやら自室で一息つく時間もないらしい。俺はそのまま父の書斎へと案内される。
「入れ」
ノックのあとに聞こえてきた声。ホランが扉を開け、俺だけが中に入る。
「……」
背で扉が閉まるのを感じつつ部屋の中を見回す。
(変な部屋)
書斎は相変わらず絢爛で、しかしちぐはぐだ。机や椅子は家の歴史に反して真新しい成金趣味なものばかり。そのくせ飾られた絵や壺といった美術品は俺でもいいものだと分かるほど、美しさと風格を兼ね備えている。特に壁の高い位置に掛かっている風景画など圧巻だ。
(屋敷の中、どこに行ってもこんな様子……本当に変)
まるで家の内装は金額だけ提示して適当な他人に買い集めさせ、趣味の物だけ徹底して自ら吟味したような……貴族的というよりも収集品にしか興味のないコレクターの屋敷だ。
(それが分かるのも、学院のおかげかな)
昔はまったく気にならなかった。家具だけは前世で少々拘っていたこともあり、ここにある物が悪趣味な二級品であると気づいたが、それ以外はあまりよく分からなかったのだ。そこにきて学院はあちこちに高価な美術品が飾られ、家具も一級の物ばかり。違和感を覚える程度には自然と目が肥えていたらしい。
さて、俺の父はというと、センスのない椅子に座ってセンスのない机に向き合い、書類に目を通しては署名していた。
アドニス=ララ=オルクス伯爵。濃い金色の髪に赤味の強い紫の目をした肥満体の中年。記憶にある通り彼は眉間に深い皺を刻み、今も何かに苛立ったような顔で紙切れを見ている。
「お久しぶりです」
お互い黙っていても埒が明かない。俺は軽くスカートを摘まんで礼をする。アドニスの目が書類からわずかに上がり、じろりとこちらを見た。
「……育ったな」
(野菜かよ)
挨拶もなく寄越されたのはそんな感想で、俺はつい心の中で突っ込んでしまう。生来の鉄面皮のおかげでそれが伝わることはなく、数拍おいて男はすぐに書類を読み直しだす。心なしか先ほどより不機嫌そうだ。
「……」
「……」
沈黙が続き、その間に彼は残りの数枚にも名前を書いて仕事を済ませた。それらの書類の角をきっちり合わせて丁寧に折りたたみ、封筒に納めて封蝋を垂らす。魔道具の熱に炙られた蠟の甘い木質な香りがふわりと漂った。
(なんの書類だろう……)
領地関係の書類とは思えないが、奴隷商とのやり取りをこんなに無防備に晒すとも思えない。税金とかだろうか。
訝る俺をよそにアドニスは指輪を外し、家紋の刻まれたソレで蝋を潰す。金色の指輪に赤い蝋がわずかにこびりつくが、スキル光を纏わせた布で彼が撫でると綺麗さっぱりだ。
「傷はどうだ」
事務作業を終えた男はそんなことを言った。まるで心配するような言葉。しかしその真意は別にあるのだろうと、これまでの経験からつい思ってしまう。
「おかげさまで、治りました」
「おかげさま?それは嫌味か」
社交辞令にすかさず返ってくるのは内側の苛立ちを多分に含んだ言葉。
「いえ、そういうつもりでは」
「それに治ったというが、傷痕は残ったのだろう」
「それは……」
「ふん、囀る割には治療院の連中も大したことがない!」
鼻を鳴らすアドニス。嘲笑ではない。そこにあるのもまた、怒りだ。まるでスキルからくる怒りに全てを支配されていたあの教師、ベルベンスのように彼は苛々し続けている。
「二度とそのような傷をつけるな。いいな?」
「気を付けます」
男は机の表面を指でコンコンと叩いた。俺はもう一度小さく頭を下げる。あえて作った傷でもないのにな。そう心の中で思いつつ。
(言ったところで仕方ないのだろうが……)
それでも従軍神官やボルボン司祭は頑張ってくれた。その結果がコレだと思うと、どうしても彼の言い様にはモヤっとしたものが残ってしまう。
「しかし、勲二等か」
俺の心中など知るつもりは端からないのだろう。彼は机の上で手を組んで、暗い笑みを浮かべてみせた。
(なんだ……雰囲気が変わった?)
「勲二等……ふん!そのような大功績、先代も先々代も残せなかったものだ」
アドニスと彼の父、つまり俺の祖父との確執は有名だった。武門の嫡男として育てたい先代当主と、全くと言っていいほど戦いの才能を持たなかった彼。教育は次第に懲罰に変わり、晩年は八つ当たりじみた指導が行われていたという。
加えて先代レグムント侯爵が始めた西側の技術思想取り込み路線。これに寄り親を妄信する先代オルクス伯爵が追従し、解離する現実と理想の穴埋めをただでさえ才能のなかったアドニスに求めたらしい。
「あの……」
「ふ、ふはは……」
「……!」
声をかけようとした矢先のことだった。急に彼が笑い声をあげるので、俺は驚いて肩を跳ねさせる。
「は、ははは!傑作だ、はははは!」
これまで一挙手一投足から怒りが溢れていた男が、いきなり嬉しそうに声を上げて笑う。それも大笑だ。気が触れたような唐突な変化。俺は背筋に冷たいものを感じた。
「ははは!私の代に引き継がれなかったオルクスの武名が、私とも先代とも関係のないところから芽吹いて見せたか……ふははっ、全くもって傑作だ……はっ、ははッ!はははッ、は、ふ、ふはッ!」
俯いて肩を震わせ、病的な笑いと独り言を漏らす父。声を上げて笑っている間だけは顔も笑んでいるが、息を吸い、息を吐き、言葉を形にするときには始終ストンと表情が抜け落ちているのだ。それは俺に奇妙な既視感を覚えさせる光景だった。
(発作的な笑い……耐え難い記憶に囚われた脱走奴隷が、こんな笑い方をする)
そう思えば、この憎悪に染まった笑みも分からなくはない。多くの奴隷にとって、自分を虐げたかつての主が凋落する様は一つの至高だ。禁止薬物のように退廃的で強烈な快感を呼び起こす。
アドニスにとって自分で断絶したはずのオルクスの武勇が俺によって証明されるのは、彼自身の否定であると同時にそれまでの血族を痛烈に否定することでもあるのだろう。血の繋がりと武人の宿命を強要されてきた彼にとっては、たとえ痛みを伴おうとも、これほど痛快なことはないのかもしれない。
(哀れなものだ……)
痙攣のように体を揺らして笑い続ける父を見て、俺は初めて悲しみと同情を抱いた。この男もまた、己の人生に捕らえられた奴隷のようなものなのだ。メルケ先生のように。アレニカのように。そしてトワリ侯爵のように。
(だからって違法奴隷商のコイツを許せるわけじゃないけど……)
メルケ先生の時もそうだった。結果に至った過程や背景は十分同情できるものであり、道を違えたことそのものに憐れみも覚える。異なった道を選んでくれていたらどれほどよかったかと、そうも思ってしまう。
(過ちの瞬間に、引き留めてくれる誰かがいてくれれば……)
しかし選んでしまった道の先、成されてしまった過ちという結果に対して……他人は報いを与えることしかできない。罰することでしか、止められないのだ。
「傑作だ、ああ、傑作だとも……いい気味だ、実にいい気味だ、はは……才能と血統は違う、そういうことだ……」
「才能と血統……?」
誰に向けたものでもない狂笑。そこに混じった気になる言葉に、俺はつい反応を示してしまう。
「……?」
俺の声が耳に届いたのだろう、アドニスがこちらを見た。まるでそこに俺がいることを忘れていたような顔だ。
「……あ、ああ、そうだ」
ぼうっとしていたのもわずかの間で、すぐに我を取り戻した彼は小さく頷いた。そして机の引き出しから小さな紙片を取り出す。それは薬包紙のようで、中に薄茶色の粉が入っているのが見える。
「……そこに水がある」
机上のグラスを見て空だったことに気づいたようで、アドニスはバツが悪そうに俺を見た。振り向けば確かに壁際の一角、書棚の隣の小机に焼き物のピッチャーがあった。俺はその中に水がたっぷりあることを確認し、父のグラスを取った。書類に水が飛ぶのを恐れてわざわざ離してあるのだろうから、机からは距離をあけて水を注いでやる。
「……」
礼の一つも言わずグラスを受け取った彼は一口含み、天井を仰いで茶色の粉を摂取した。よほど苦いのか、その顔が明らかな苦悶に歪められる。そのまま残った水を四度に分けて飲み干し、アドニスは息を深く吐いた。何とも言えない薬草の臭いが部屋に広がり、封蝋のウッドっぽい香りを押しつぶした。
「ご病気、ですか?」
聞かないのもおかしいかと思って問うが、返ってくるのは牽制するような視線だった。
「お前には関係ないことだ。二度と聞くな」
「……はい」
もう一度大きく息を吐いてからアドニスは己の手を睨む。自然と俺もそちらを見るが、特に変わったところもない普通の手だ。体形に相応の太い指とむくんだ掌。それだけである。
「本当に、どこからお前の力は来たのだろうな」
ポツリとそう呟いた。苦悩に満ちた声だ。彼のコンプレックスを刺激する俺という存在。その原因、彼がまさしく言った「どこから来たのか分からない強さ」……こればかりは、少し申し訳ない気持ちになる。
「こんなことなら、もっと……いや」
「?」
「……ふん」
まるで自嘲するかのように鼻で笑うアドニス。彼はそのまま肩を落として俺に言葉を投げかけた。
「能ある鷹は爪を隠すというが、お前は随分長く鋭い爪を隠していたらしい。そう思っただけだ」
葡萄色の瞳は手を見つめるまま動かない。最初に籠っていた怒りもなければ、笑い続ける姿に感じた狂気もない。しょぼくれた中年男性そのものにしか見えない。
「いえ、まぐれです。一層の精進を……」
「まぐ、れ……」
しかし俺が何と答えていいか分からず、口先だけの返事をしたときだった。
「まぐれ……?」
消えていた強い感情が急激に息を吹き返した。
「まぐれだと?」
まるで燃えやすい布の表面を火が舐め広がっていくように、怒りがその瞳に宿っていく。赤紫の奥にジリジリと熱が溜まり、萎んでいた体に制御不能のエネルギーが溢れていく。
「まぐれだと!?まぐれだとッ!!?」
今までで一番重い、煮えくり返るマグマのような声でアドニスは叫ぶ。
「まぐれで勲二等がとれるとでも抜かすかッ!」
「!」
机を強く叩き、椅子を蹴立て、こちらへと足を踏み鳴らしてやってくる。今にも胸倉を掴んで頬を張りそうな権幕。しかし彼はあと二歩の距離で見えない壁に立ち塞がられたように停止した。
「……お前はッ」
唇を噛み締め、男はその場で何度か足を鳴らす。前へ進めと叫ぶ怒りと、進むべきではないという理性の狭間で葛藤するように。
(自制、しているんだろうか……?)
「……ッ」
歯ぎしりが聞こえてきそうな怒りの表情のまま、彼は結局最後の二歩を踏み出さなかった。代わりに荒々しく来た道を戻って席に腰を落とし、拳で机を叩いた。二度、三度、四度と繰り返し拳を打ち付ける。
ダン、ダン、ダン……ダンッ!
ひときわ強く叩いてから、彼は溜めていた息をゆっくりと吐きだした。上がった呼吸が収まらないのか、深呼吸はしばらく続いた。そしてそれも落ち着いた頃、地の底を這うような低い声で言う。
「いいか、それはお前の力の証明だ。お前が得た力の、スキルの、証明なのだ!私と……の、証明なのだッ!」
言うほどに呼吸は再び乱れ、声は大きくなっていく。引き攣ったような息のせいで「私と、」の後は聞き取れず、それを聞き返す余地はない。黙っているしかない。黙って待ち、そしてその体に溢れる怒りが少しずつ失われていくのを見るしか。
「証明、証明なのだ……」
最後にはまた落ち込んだように椅子の上で背を曲げ、激情のない呟きをこぼすようになる。古典的な言い方をするなら消えかけの蝋燭のようだ。瞬間的には強く輝き、消えそうに小さくなり、不安定に明滅を繰り返す。
「だが、そう、力の証明をお前は成し遂げた……」
(力の証明?)
「見た目ばかりの役立たず……お前も失敗作だと思っていたが、そうでもなかったか」
失敗作というのは、俺やトレイスのことだろうか。それとも彼自身を指した言葉なのだろうか。小さな声で独り言ちるアドニスの目は虚ろだ。
「トワリ候も亡くなった今……私は、いい加減……」
意味の分からない言葉に続いて気になる名前が出た。そう思った途端、彼の目に光が戻る。今度は怒りの炎ではない。もっと切実に何かを求めるような、そんな意思だ。
「そうだ……何か、何か特別な力を得なかったか?勲二等を成し遂げるに足るような、特別な、特殊な力を」
その質問に俺の心臓は大きく跳ねた。この男と喋っていてそんなことは初めてであったが、内容が内容だ。特別な力と言われて思い当たるものは実際いくつもある。生まれたときから持っている使徒の力に始まり、先日手に入れた聖刻という新しい技術まで、実に色々だ。
(どういう意図だ?)
突然結果を出したことを訝しんでいるともとれる発言だが、奇妙な確信めいた響きが彼の言い方には含まれていた。俺は躊躇いつつも慎重に言葉を返す。
「……特別な、というのは」
「およそ自分が覚えるはずのないスキルや、スキルではない奇妙な力だ」
やはり、言っていることこそ明瞭ではないが何か具体的なモノを見据えて投げかけられた質問だ。そうでなくてはここまで間髪いれずに返すことはできないだろう。
「申し訳ありません、例えを頂いてもよろしいでしょうか」
俺は探り返すように尋ねる。そして返ってきた答えに、俺は声を上げそうになった。
「そう、だな……例えば血が燃える、とかだ」
(なっ……)
「いえ、ありません」
「そうか」
再び肩を落とす伯爵。俺はなんとか生来の無表情を貫きとおしたが、心の中では激しく動揺していた。
(なぜだ……なぜその話題が出る!)
確かにトワリとの戦いの最中、俺の血からは紫に染まった神炎が吹き上がった。あとから聞いた話によると、どうやら城のあちこちに散っていた血飛沫からも火の手は上がったようで、悪魔兵やキメラが焼き殺されていたという。
しかし血を燃やす魔法は存在しない。血や髪には魔力が多く含まれるので、不可能ではないだろう。しかしあえてする魔法使いを俺は知らないし、スキルでも聞いたことがない。そんな特徴的な能力をピンポイントに言い当てるということは、アドニスは知っているということだ。そういうスキルか能力があるのだと。
(神炎だったから、てっきり使徒としての能力だと思っていた……違うのか?)
俺の属性適正は火、光、闇。適正の高さだけで言うなら光と闇の方が上だ。しかしエレナにも度々指摘されるように、実際は火属性の親和性が最も高く発揮されている。真鍮色のはずの神炎が若紫に染まったことも、熱を持たないはずのそれをレイルやネンスが熱いと感じたことも、小さなことだが全て異常だ。
(血の発火……よく考えればあれは、ありえない現象だ)
血の魔力、使徒の性質、神炎の特殊性。そういうものを曖昧に捉えてこれまで気にしてこなかったが、炎の神の使徒でもそこまで多用しないほど難易度が高いとされる神々の炎の招来……それを死にかけの無意識化で発動させることができるだろうか?
(血が燃えたこと自体は、使徒とは関係がない?この男、何を知っている……)
ますます分からなくなったアドニスに俺は警戒心と、それに倍する好奇心を覚えた。
「近々」
「っ……はい」
思考に没頭するあまり、俺は彼の視線がこちらへ戻されていることに気付かなかった。無表情の仮面に狂いがないか意識しながら、慌てて傾聴の姿勢を見せる。
「ザムロ公爵閣下よりお誘いがあるだろう。必ずお受けするように」
「はい」
アドニスは疲れたように背もたれへと大きく体を預けた。
「それと学院で王子に近づけと言ったな」
「はい」
王子。その呼び方にまだ彼が、ネンスが王太子になったことを知らないのだと悟る。
(アベルが握っていなかった情報なのだから、当たり前か)
俺のそんな気付きと納得をよそに、彼は一つ深く息を吐いた。
「あれはもうよい。近づくも遠ざけるも、好きにしろ」
「はぁ……?」
心中を席巻していた緊張感とのあまりの落差に、つい気の抜けた返事をしてしまう。
俺の腕の傷から王子を狙うのは厳しいと思ったのだろうか。それを言うならオルクスの名を背負っている時点でだいぶ厳しいのだが……。
「ところでお前、『剣術』と『槍術』はどちらが得意だ」
「?」
怒りと狂気と消沈の連続で麻痺してしまったのか、一週回って凪いだような声で伯爵は言う。
「剣か、槍か、それともそれ以外が得意か?勲二等の功績、何をもって手に入れた」
「ん、剣です」
「……『剣術』か。レベルは」
「7です」
「そうか」
嘘だ。『剣術』はずっと前から10だし、それ以外にもいくつか派生スキルを上げている。特に紅兎を失ってからは『速剣術』や『重剣術』もかなり鍛えた。
「……」
「……」
特にそこから話を広げるつもりもないようで、会話は途絶えた。
「……ん、あの」
頭は早くもホランに追加で調べる指示をだすことに傾いている俺だが、出ていけと言われる前にこれは聞かねばということを思い出す。
「舞踏会の招待ですが」
「好きにしろ。どの貴族の舞踏会に出ようと報告はいらん。ただしザムロ閣下からのお誘いは必ず受けるように。それとドニオン女伯爵のパーティーには参加してはならん」
「わかりました」
この瞬間、初めてスムーズな意思疎通が図れた気がする。
「……お前、踊れるのか?」
ふとそんな事を聞かれ、あまりに普通の会話のようで、俺は驚いてしまう。
「……はい。『舞踏』はレベル8です」
「レベル8……そうか……」
彼は目を大きく瞠り、口元を手で押さえて数秒ほど何かを考えた。しかしすぐに視線を机へ落とす。
「以上だ。下がってよい」
「……?」
何の未練もないように打ち切られた会話。何が聞きたかったのかも分からず、俺はもう一度黙して頭を下げ、廊下へ出た。
(さて……気になることは増えたが、とりあえずはホランに会って報告を聞くか)
伯爵のことは結局外側から探るしかない。そう考えて協力者である執事頭に合うため俺は扉に背を向ける。待ち合わせの場所は邸宅に隣接して建てられた画廊だ。
~★~
アクセラが去ったあと、アドニスは一人じっと机の上を睨みつけていた。時折発作のように握りしめた拳を打ち付け、それでも晴れない怒りの分だけ強く奥歯を噛み締めて。その思考は真っ二つに分かれ、胸にがらんどうの穴が開いたようだった。
潮時だ。もう終わりだ。もう止めよう。そんな言葉を呟く、背を丸めた自分がいる。
何が潮時だ!何が終わりだ!今更止められるものか!そう叫ぶ自分もいる。
十六年かけて乖離していった二人のアドニスの対立は今日、自分の娘と会話をしたことで決定的なものになっていた。いつもはもう少し効果のある薬も、まったくといっていいほど役に立っていない。
「……ッ」
鈍い音がした。力を込めすぎて奥歯を一つ嚙み砕いたのだ。しかし何の痛痒も感じていないようにアドニスは口内へ溢れる血を嚥下する。
彼は机から視線を切り、書斎の隣にある隠し部屋へと足を向けた。本棚の置物を順番に回すと扉が開く、とても古典的な隠し部屋だ。
「……ごほっ」
埃っぽさに少し咳き込む。狭い隠し部屋にはうずたかく書類と本が積み上げられていた。その一角、小さな机の上には金庫があった。ダイヤルを慣れた手つきで回して彼が取り出したのは、かなり傷んだ羊皮紙の報告書だ。
「…………やはり、ない」
何度も何度も見返したのだろう、手垢で黒ずみ擦り切れた羊皮紙。それを捲って彼は呻く。
「ダンスなど、想定にない……ッ」
羊皮紙にはアクセラの名前とともに、いくつものスキルが「可能性」という言葉と共に書きつけられていた。『剣術』や『槍術』、『盾術』といった戦闘系、『絵画』のような芸術系、それに『算術』のような勉学や政務関連のものまである。中でも「可能性」が高いのは『槍術』と『算術』だった。そしてそこに『舞踏』の文字はない。
「私はダンスなど……セシリアもそうだ。リズムがとれなくて、私に輪をかけてダンスが下手で……」
譫言のような言葉を拾う者はいない。
「どうしてだ、どうしてっ……そう、そうだ!属性もたしか……」
さらに数枚、ガサガサと捲って彼は魔法適正の項目を見た。
火属性適正:血統、オルクス。推定形質、スカーレットドレイク。可能性、極めて高し。
光属性適正:血統、レグムント。推定形質、ホーンドオウル系。可能性、低し。
そこに書かれているのはたった二行。何度もその文字をなぞり、アドニスは片手で濃厚な金の髪を鷲掴みにした。彼の父が、先代伯爵が主家レグムントの白を受け継がなかったと忌み嫌った、黄金より深く輝くクセ毛を。
「……闇属性は、どこから来た?」
痩せればきっとアクセラやトレイスに似ているであろう、比較的整った顔立ち。そこに怒り、困惑、悲哀、そして苦悩が浮かぶ。
「しかし、しかし戦闘力は……どういうことなんだ!」
力が拳に込められ、羊皮紙が音を立てて歪んでいく。
「私は、私は間違って、いないのか?ああ、閣下、セシリア……私は、私は……ッ」
それ以上何をいう事も出来ず、書類を投げ捨てて机を力の限り殴りつけるアドニス。何度も打ち付けられた手の皮はとうとう破れ、一筋の血が滴った。濃い赤の液体は机に落ちて跳ね上がり、そして明るく燃え上がる。一瞬の火に照らし出された、打ち捨てられた書類。その表紙にはこう書かれていた。
『第三次血統解放実験・予測報告』
~予告~
アドニスの苦悩とアクセラの決断。
噛み合うことのない父子の思惑。
絵に込められた想いを知る者はいない。
次回、死神と乙女




