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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十二章 光陰の編
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十二章 第1話 一夜明けて

「……ん」


 ふと目が覚めた。


「……んぐっ」


 瞬間、俺は全身を襲う酷い倦怠感に呻く。

 足の指が痛い。ふくらはぎが熱い。太股が重い。腰はどうしようかと思うほどに気怠いし、脇腹はビリビリする。背中はじくじくと痛み、胸は筋肉が凝り固まってガチガチ。右腕は攣りそう。左腕はすでに感覚がなくなるほど痺れている。あとお腹の中の形容しがたい部分がチクチクとする。


(過去最悪の目覚めかも)


 げっそりした気分になるが、幸か不幸か記憶はすぐに戻ってきた。冬の大社交界。ダンスに次ぐダンス。告白への下手くそな返事。手合わせ。そして……。


「……んぅ」


 頭の上で小さく声がした。穏やかな寝息に混じった小さな声。視線を上げるとだらしない笑みで眠るエレナの顔があった。それを見て思わずこちらも笑みがこぼれる。


(可愛いやつめ)


 寝顔を見ているだけで胸の奥から気持ちが溢れてくる。昨日までもそうだった。大切な家族。妹で弟子。そんな今生の始まりから連れ添う片翼が今日も隣にいてくれることへの喜び。

 けれど今までとは違って、その静かな想いに混じってもっと躍動する感情があった。


(……恋かぁ)


 しみじみと心の中で呟いてみる。なんとも青臭い言葉だ。年経たアタマでは想像するだけで胸焼けがしてくる。しかしそれが嫌ではない。こんな陳腐なことを考えること自体が恥ずかしいというのに、やはりそれも嫌ではない。なんとも奇妙で、照れ臭く、蓋をしてしまいたくなるような感覚だ。


(まあ、悪くないな)


 なんて誰に向けたのか、つっけんどんなコトを思う。

 いつもならこのまま手癖で、跳ね回ったハニーブロンドの髪を撫でてやるところだ。だが生憎俺は今、彼女に抱きしめられて寝ている。ちょうどその大きな胸の谷間に顔をうずめるような形で。

 ちなみに左腕が痺れているのは彼女の下に敷かれているからである。


(ちょっとだけ姿勢変えて……)


「んあっ」

「!」


 急にエレナが艶めかしい声を上げるせいで、飛び上がるところだった。


「うへへ……あくへらひゃんのえっちぃ……」

「どっちがエッチか」


 思わず小声で突っ込んでしまう。それくらい昨日のエレナは凄かった。体力が無限にあるのかと思うほど旺盛で、端から疲労困憊だった俺は初日で死ぬかと思ったくらいだ。最終的には経験の量で耐えきってテクニカル勝ち(意味深)を収めたが……。


(あー……)


 思い返すと少しムラっとくる。エレナの体はとても綺麗だし、押し返している最中の彼女は狂おしいほどに愛らしかった。背中に爪を立ててしがみつかれると年甲斐もなく自制心が飛びかけたほどだ。

 ただおかげさまで、シーツの背中側が血だらけだと思う。首筋にも打撲のような痛みがあるが、これは容赦なく噛まれたせいだ。あとドコとは言わないが、時間が立つほどに痛いなとしみじみ思わされる。もう一つおまけに汗とか血とかそれ以外の色々で肌がベタベタする。


(やっぱり目覚めとしては最悪……滅茶苦茶シャワー浴びたくなってきたな。あと服着たい)


 ここでスルりと身支度に思考が向かうあたり、やはり俺の性欲はそこまで強くないのだろう。前世からそうだったし。


(あー……腕痛い)


「みゅ……」

「ん」


 ぴくん。エレナがわずかに体を揺らした。俺が再び視線を上にむけると、閉じられていた瞼がうっすらと開き始めたところだった。


「んぅ……しゃむい」


 わずかに目を開けた後、どこを見ているともつかない眼差しのまま呟くエレナ。俺に絡めていた腕を解き、もぞもぞと布団の奥へと潜り込んでくる。そのまま顔が俺の顎のあたりに来るほど潜って再び腕を背に回してきた。


「よしよし」


 なんだか可愛かったので、ちょうどいい位置に来た頭をワシャワシャと撫でてやる。彼女はしばらくムズがるように顔を押し付けて唸った。それからふいっとこちらを見上げて、眠そうな表情でもにょもにょと口を動かす。


「むぅ……おはよ」

「ん、おはよ。体、大丈夫?」

「うぅん……いたいけど、だいじょうぶ」


 甘えるように俺の首筋へ鼻先を押し付け、大分あやふやな呂律で頷いた。


「シャワー浴びる?」

「おふろがいぃ」

「ん……染みそう」

「じゃあしゃわーでいい」


 いいと言いながら彼女はまったく動く気配を見せず、しまいには小声でこう言った。


「おやしゅみ」

「おやすまないで。夕方からネンスのところでしょ」


 今日は全員が大人になったということで、ささやかな酒宴を開くことになっているのだ。参加者は親しい友達だけ。ドレスコードはいつも通り制服でよし。場所はブルーバード寮の一番大きい会議室だ。

 転生してからこちら、一度だけ林檎酒でやけ酒をした以外は長い長い禁酒期間のようなもの。実は前々からこの日が楽しみで仕方なかった俺である。


(仮にもネンス主催だし、学院の物資だからな。いいお酒があるだろう)


 などと想像を膨らませていると、エレナがぐいっと顔を寄せてきた。頬を膨らませて拗ねたような表情で。


「ベッドのなかでほかのオトコのはなしをするなんてぇ」


 何を言っているんだろうね、この娘は。


「女の子ならいいの?」

「もっとだめぇ」


 揶揄ってやるといよいよ顔をしかめ、そのまま顎をあげてこれ見よがしに唇を差し出してきた。恋人というより幼い子供のような仕草に苦笑しつつ、そっと唇を合わせてやる。


「ん」


 ただ唇で唇の感触を楽しむだけの優しいキス。数秒のながいそれを終えて顔を離すと、頬を染めたエレナがはにかんでいた。寒い冬の空気に二人の息が混じる。形が分かるほど温かい息が。


「にへへ……おはよ」

「はいはい、おはよ」


 俺も照れが混じって、彼女の頭を抱えるように撫でまわす。まるで犬猫にそうするように。


(呆けたと言われそうだが……幸せだな)


 そんな風に、大人(・・)の初日は始まったのだった。


 ~❖~


「さて」


 シャワーも浴びてさっぱりしたところで、俺たちはリビングのソファに落ち着いていた。朝だと思っていたのが実際は昼過ぎであったが、まあどうせ夕方の酒宴まで予定はないのでそこはいい。


「ルールを作ろう」

「ルール……?」


 俺の提案にエレナは首をかしげる。


「恋人ルール」

「あー、なんかあるよね。喫茶店で近くの席にいた女の子たちがそんな話してたようなきもするけど……アクセラちゃんの口から飛び出すと凄い違和感ある」


(安心してほしい、俺もある)


 いや、そうではなくて。これは俺の前世の友人、乙女の味方を自称する女装エルフSランク冒険者ネイザイアスの言っていたことだ。最初にこれだけはしないでほしい、これだけは守ってほしいというルールを定めた方がいいと。


「いや?いやなら無理にしなくていい」

「別に嫌ってわけじゃないけど、これまでわたしたち上手くやってこれてるしさ。今更それって要るのかなぁとは」

「ん、気持ちは分かる。ただこれまでは姉妹、主従、師弟、相棒だった。ここにルールはいらない」


 エレナは好奇心の魔物だし、天才ゆえに我の強い部分がある。しかし物分かりは良い方だ。

 もちろん口論をしないわけではないし、特に冒険者の相棒としては方針の取り方や目的の置き場所について対立が起きることもある。姉妹として小さな言い合いになることや、師弟として会話の噛み合わせが上手くいかないこともだ。


「問題なくやってこれたのは、仕掛けがある」


 たとえば姉妹として。俺たちは生まれた瞬間から共にある。言うなれば初めから一対の存在。2人が揃っていない時には必ず何か、小さな違和感のようなものが付きまとう。だから口論になってもすぐどちらかが折れて元通りになる。


(大体の場合は俺が年甲斐もなく意地を張るのに恥ずかしくなって折れるんだが)


 なんにせよ、最終的には妥協して収まりのいい状態に戻ろうとする無意識がある。


「まあ、そういうところはあるかな……?」


 主従は揉める間柄ではないし、あまり機能していないので割愛するとして……では師弟関係はどうか。これは先ほどの逆だ。自分で言うのもなんだが、揉める場合は十中八九俺が正しく、エレナが折れることになる。それは師である俺と弟子である彼女の絶対的な、立場ではなく経験や知識からくる、上下関係によるものだ。


「私はエレナに納得ずくで折れてもらいたい。だから本気で対立するけど、誠意を尽くす」

「わたしも納得したらすぐ折れるしね」

「納得させる側、する側が明確」

「むぅ、そう言われるとそうかな」


 一番揉めるのが冒険者の相棒としてだが、これは口論になる方が正しいので何の問題もない。方針の対立や目的の擦り合わせ過程など、言い合いになればなるほど結果的に粗がなくなっていくのだから。


「ここで大事なのはプロ意識。目標が複数あって順位が決まっていなくても、目標があることに変わりはない」

「それは当然だと思うけど……んあー、なるほど。段々分かってきたかも」


 エレナが天を仰いで声を上げた。


「目的があるからそこに向けて争ってるんであって、目的から外れるような喧嘩にはなりにくいってことでしょ」

「ん」


 あくまでなりにくいだけだで、それでも納得できない場合やどうしても目的を逸れてまで争うような事態になったときにはパーティ解散となるだろう。ただ目的意識、プロ意識というものがそれを防ぐタガの役割をしていることは確かだった。


「ん、じゃあ恋人としての私たちを考えてみて」

「むぅ……付き合って初日に言わされることじゃないと思うけど」


 聡いエレナは俺の言いたいことがほとんど分かったようだ。唇を尖らせながらも先を続けてくれる。


「いろいろあってようやく恋人になれたってことは、裏を返せば恋人である状態が自然なわけじゃないってことでしょ?」

「ん、正解」


 姉妹であることは止められない。それは人によっては呪いだろうが、俺たちにとっては多少の不和を無視して繋がれる強固な絆だ。それも、放っておいても力を発揮するタイプの絆なのだ。

 しかし恋人はそうではない。そうあるのが自然な関係ではなく、両者が意識的に望むことで生じるタイプの絆。メンテナンスフリーとはいかない。


「主従とか師弟とは根本的に違うよね。恋人は対等だもん」

「ん」


 エレナが毎回折れるという師弟としてのコミュニケーションの在り方は、納得をもって折れているから成立するのだ。恋人関係でどちらか一方が折れ続けるのは不満の不和の元凶である。


「最後の相棒との違いは分かる?」

「分かるというか、これが一番最初にしっくりきたんだけど……恋人でいることって目的じゃないもんね」

「その通り」


 冒険者は依頼をこなすという目的のために口論する。依頼を達成できない冒険者などただの武装したロクデナシでしかない。そこにあるのは理論だ。

 一方恋人はというと、この関係を維持することが目的ではない。好きだから恋人なのだ。二人の感情の産物として恋人という状態が維持されるのである。恋人だから好きでいようなどと、理論ずくめで維持を図るようになった時点で既に破綻している。


(子供でもいれば冒険者の理論に近くなるんだろうけど、とりあえずカラダは同性だしね……)


「対等な立場で、この気持ちを大切にして、恋人で居続ける。そのためにルールは必要」


 一番はまず揉めないこと。次に重要なのは、揉めたときに上手く決着をつけること。このためにもルールはあった方がいい……らしい。ネイザイアス曰く。


「分かってもらえた?」

「うん、今のはちゃんと納得がいった」


 頷くエレナに俺も頷き返す。少し乾いた口を飲み慣れた茶葉のミルクティーで潤し、お茶請けのサンドイッチを頬張る。具はターキーハムとチーズ。思えば昨日の昼以降、久しぶりの固形物の食事だ。


「というわけでエレナからもあれば、どんどん言って」

「うーん、そうだなぁ……」


 最後の一切れを香り高い液体で流し込み、テーブルに置いていた紙とペンを引き寄せる。


「例えば具体的にどんなのがあるんだろう?」

「んー……エクセルだった頃の友達は色々作ってた。お互いの交友関係に口出ししない、とか」

「それ、するもしないもないでしょ」

「ないね」


 エレナが困ったように眉を寄せる。俺と彼女の交友関係はダブりすぎているからだ。

 他にも俺たちの間で使えないルールがいくつか。例えば帰りはお互いを必ず待っておくというのも、学院では定番だと聞いたことがある。しかし同じ部屋に帰ってくる以上、特に意味のあるものだとは思えない。


「あ、これは?喧嘩は翌日まで持ち越さない、とか」

「むぅ……そこはちゃんと納得するまで粘りたいかな」

「ん。喧嘩はお互い納得するまでやめない、と」


 第一条が妙に好戦的な感じになってしまった。


「あと何があったかな……月に一回はデートをする」

「あ、いいねそれ!採用っ」


 そこからさらにいくつかのルールを書きだしていく。とはいえあまり多くは出なかった。先ほどは恋人関係がまったく新しい関係性だと言ったが、それでも生活に関する決め事などは姉妹として守ってきたものがあるからだ。


「ん、これでよし」


 仕上がった一覧を見て俺は満足して頷く。エレナはちょっと不満そうだが。


(エッチなことは翌日が休みの日だけ。風呂場で変な事したら寝室から三日は締め出す。ここら辺が効いたかな)


 ただ仕方ないと思う。年寄り面して引き下がるのはやめた俺だが、一週目の思春期をまさに経験しているエレナと比べたらそういう方面の熱意にはどうしても差が出てしまうのだ。あと単純に寝不足が怖い。


「むぅ」

「エレナはもうちょっと取捨選択を覚えた方がいい」

「むぅっ!」


 ヤりたいことをなんでも一晩でヤろうとするのは止めて欲しい。体力がもたないし、眠くて眠くてしんどいのだ。しんでしまいます、というやつである。


「これは使ってない方の寝室に置いておこう」

「はぁい。あ、じゃあ鎧の手入れすませちゃおうよ」


 エレナがずっと俺の寝室を使っているせいで、もう片方の寝室はすっかり物置になっている。鎧も予備の剣もそこだし、毛皮や角のような腐らない素材もいくつか置いてある。それどころか魔道具の試作品やそのための金属、野営道具、普段着ないドレスなども。

 今、その部屋の中央で主のような顔をしているのは俺たちの新しい鎧だ。ようやく完成して舞踏会の二日前に受領したばかりの、新品の鎧。手入れが楽しくて仕方ないのは俺もエレナも一緒である。


「あ、忘れるところだった!手紙がいっぱい来てたけど、先にソッチ見る?」

「ん……とりあえず見る」


 よっこらせとソファを立ったところでエレナが思い出したように言い、俺の返事にいそいそとリビングを出て行った。持って帰って来たのは一冊の本に匹敵するほど大量の手紙。


「量すごい」

「昨日の今日で貴族の人から沢山お便りが来てるみたいだね」

「……見ないわけにもいかない」


 苦笑気味の彼女からそれを受け取り、差出人の名前を確認してみる。するといくつも昨日言葉を交わした貴族の名前があった。中には名乗り合っただけの相手や、まったく知らない者も含まれているが。


「あー、勲二等の効果がここで出てきたってかんじかな?」


 エレナの言う通り、本来であれば反乱鎮圧の論功行賞で勲二等というのは凄いコトなのである。しかも俺の場合は勲一等の彼女と抱き合わせ。

 これまで上級生から政略結婚の打診や引き抜きの話程度で済んでいたのは冬の大社交界の前だったからに過ぎない。あと俺がオルクスの娘であることか。社交が解禁された以上は直接的なアプローチも増えてくるわけだ。


「すっごく愛想も振りまいてたしねぇ」

「嫉妬?」

「そ、そうだよ!」


 強がって偉そうに言うエレナが可愛く、ついつい片手で頭を撫でてしまう。


「でも選別どうしよう」


 全ての手紙に同じような対応をするわけにはいかない。丁寧に返事をすべき相手、うまい具合に距離を詰めなくてはいけない相手、適当にあしらうべき相手……中には黙殺した方がいい者もいるだろう。


「侯爵様に相談してみる?それともお父さま?」


 レグムント侯爵は四大貴族の一角。俺が頼れる筋としては最も有力な存在だ。しかし彼も親戚の優しいオジサンではない。


(自分のメリットになると思ったら平然と危ない相手のパーティーにでも送り込むタイプだしな……利用されること自体は嫌じゃないが、自衛は別の方法で考えた方がいい)


 一方、エレナの父にしてオルクス伯爵家の家宰ビクターは絶対に信頼ができる。ただしウチの領都ケイサルは遠い。手紙の往復をするだけでもそれなりの日数がかかる。


「ん……とりあえずビクターに手紙を」


 送っておかないことには返事も来るまい。


「それからこの二人、レンデルク子爵とペリドール伯爵にも急いで返事を書く」


 二人は昨日のダンスでとても印象の良かった貴族だ。それぞれに思惑や抱える事情はあるのだろうが、危険人物くらいは教えてくれるだろう。そういう大人としての義務を忘れない紳士だった。


「あとここら辺は保留」


 いくつかの手紙を選んでエレナに返す。まったく知らない相手だ。


「わたしの方で読んで、軽く調べてみたらいいんだね?」

「ん、よろしく」


 エレナはこれまで俺に絡んできた上級生の名前をちゃんとメモしてくれている。それにある程度のことなら学院の生徒に聞くなり、ヴィア先生に相談するなり、情報が集められる。そういうところは貴族の学院のいいところだ。


「ひっさりぶりに侍女っぽいお仕事だ!」

「ん、たしかに」


 言われてみればエレナがしている侍女っぽい仕事といえば、届け物がないか一階のボックスを見に行くくらいだったからな。あとはドレスとかの着付けだが、半分以上彼女の趣味が入るので仕事と言えるかどうか……。


「とりあえず返事書いて来る。鎧はパーティーから戻ってにしよ」

「りょーかい。わたしは……あう、やっぱちょっとお腹痛いから先にお手洗い行ってくるね」


 元気よく伸びをしようとして、思わずと言った様子で前かがみになるエレナ。


「回復使う?」

「なんかそれ、その、治らなくていいトコまで治りそうで嫌だなぁって」


 若干赤みを帯びた微妙な表情で言われてしまった。そして確かにと思ってしまう。


(いや、でもそんな簡単に治せるなら貴族の風紀がもっと乱れそうだし、大丈夫だと思うんだけどなぁ)


 恋愛神トーニヒカの神官魔法には、ナニをとは言わないが、ピンポイントで修復する魔法とかもありそうだ。しかし普通の回復でどうこうできるなら処女性を尊ぶ貴族の風潮も、根底からもっと違ったモノになっていそうなものだし。


「……」


 そもそも貴族のそうした風習は血族の一貫性を保つためのもの。だからこそ俺なんて幼少期の誘拐事件に際して「神殿で汚されていないことを証明してもらえ」なんてドン引きの命令を親父殿から食らったのである。


(まああれも父親が、手紙で、それも露骨に言ってきたからドン引きだっただけで、貴族としてはおかしな要求じゃないんだよな)


 大社交界やアレニカの噂事件を考えると、あくまで家と娘本人を守るための措置であることは納得できる。父親が手紙で命じてくる是非は何度でも問われるべきだと思うが。

 簡単に魔法で誤魔化せるなら、その全ての前提が覆ってしまう。


「アクセラちゃん?」


 考え込んでしまった俺にエレナが首をかしげる。その様子から痛み自体はそこまで酷いものでないことを察して安堵し、首を振ってなんでもないと伝える。


(とりあえず自分で試してみて、本当に大丈夫ならエレナにもしてあげよう)


「あんまり酷いようなら校医に見てもらって」


 無難な返事をする。


「むぅ、校医さん男の人だしなぁ」

「医者は医者。私なんてナカまで王立治療院の人に全部見られた」

「ナカって内臓ね?変な言い方しないの……まあ、治らなかったら考えるよ」


 肩をすくめてから彼女は思い出したように、小さくニマっと悪戯っ子の笑みを浮かべてみせた。それから自分の首筋をトントンとつついて言う。


「というよりアクセラちゃんの方が治癒魔法いるんじゃない?」


 自然と俺の手は示された場所に伸び、特徴的な弧状に配置された小さな傷の列をなぞった。綺麗な歯並びの痕跡だ。


「誰のせいだろうね?」

「えへへ、ごめんごめん。だから……」


 素直に謝ったかと思いきや、エレナはトトッと走り寄ってきて声を潜め、耳に囁く。


「今度は見えないところにするね?」

「んっ……」


(……はぁ、このガキは本当に!)


 とりあえず俺の首筋と同じくらい赤くなるまで頬っぺたを引っ張っておいた。


~予告~

冬休みの、大人としての始まりの日。

しかし明るい話題ばかりでもなく……。

次回、最初で最後の酒宴

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