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間章 第二話 違法奴隷

「困ったなぁ」


 オルクス伯爵領の領都ケイサルにある伯爵の屋敷。その奥にある家宰の執務室で、ビクター=ララ=マクミレッツは眉間を揉み解していた。

 彼の頭を悩ませているのは、娘たちが早朝に捕まえ、持って帰ってきたモノについてであった。これが魚や虫だったらどれだけ嬉しかったか。そう考えてから、いや虫は嬉しくない、などと自分の思考を否定する。


「ビクター、考えが横に逸れているときの顔よ」

「いやその通りなのだけどね……しかし、本当にどうしようか」


 傍らに立つ妻、ラナの指摘に家宰は頭を抱える。

 なにせ娘たちが捕まえてきたのは、違法な奴隷商の手先と思われる男だったのだ。しかも衰弱した少年の樽詰めという完璧な物的証拠と、必死にその樽を酒だと偽って門を通ろうとしていた状況、そして大勢の目撃者がセットで添えられた……トーストの焦げ目より黒い現行犯だ。


「こういう時のために大型荷物は全数検査にしてきたのでしょう?それを思えば、むしろ良かったのではありませんか」

「それはそうさ。そうなんだけど……」

「発見されない方がよかったですか?」

「そんなことはないよ」


 試すような物言いをする妻に、ビクターは声を荒げることなく首を振る。

 一児の……いや、三児の母である彼女にとって、子供の誘拐は冷静さを失うに足る大事件なのだ。それが分かっているから、そしてそんな彼女の母としての在り方に助けられているから、彼は自分が柔らかに対応することでその場を収めさせる。


「もちろん発見できたことはいいことだよ。親から引き離される子も、子を奪われる親も、一人として居ないに越したことはない。ただ……レメナ様、どう思われますか?」


 彼が水を向けた先には、来客用の椅子に座る小柄な老人がいた。雷嵐の賢者と呼ばれる大魔導、レメナ老である。彼はこの屋敷の食客であり、アクセラとエレナの魔法の師でもあった。


「そうじゃなぁ。前に大規模な違法奴隷商を摘発したのは、いつじゃったか」

「記録によると……二年前のブローグですね。その前が七年前のリリナス」


 ビクターが手元の資料から二つの地名を読み上げる。ブローグはここケイサルから一つ都市を隔てた先にある町。リリナスの方は南の領境だ。


「二年とは、短いのう」


 レメナ老は顎鬚に手をやりながら呆れたような声をあげる。

 違法奴隷には二手ある。極端に安い奴隷と、極端に高い奴隷だ。

 前者は奴隷狩りが自由村落などを襲撃して調達してくるので、借金奴隷や身売りと違って仕入れコストが非常に安い。売るまでの維持費……つまり食費なども、最低限に抑えることで異様な安さを実現している。

 後者は希少な種族、ずば抜けて見た目の麗しい者、高貴な出自の者、何かしらの能力を有する者など本来なら奴隷になど落ちるはずのない者が、何かの理由で売り買いされる身に落ちてしまった果ての姿である。

 必然的に前者を扱う違法奴隷商の方が圧倒的に多いのだが、ビクターがレメナに見えるよう差し出した書類では先に挙げた二件ともにその類であった。


「王都や四大貴族、辺境伯の領都ならいざしらず、このオルクス領にそんな基盤がありますかね?」


 ビクターが困ったと言ったのはそこだ。

 奴隷商は普通の行商人とは違う。商品が人間である以上、仕入れから売り先まで全てがデリケートになってくる。認可を得ている正規の奴隷商ならその流れをいかにクリーンに保つか、得ていない違法操業ならいかに気配を消すか……このあたりの徹底具合が事業の寿命を大きく左右するのだ。


「オルクスの民のほとんどは農民で、金持ちの大半は冒険者じゃ。需要がないのは自分が一番よく知っておるじゃろう」

「まあ、そうなんですけど」


 オルクス領は穀倉地帯と多くのダンジョンを抱える土地だ。農民と冒険者が人口比率の多くを占めていて、レメナ老が言った通りどちらも違法奴隷の買い手にはなりにくい。

 領主や地主が主導する大農園があるなら別だが、オルクスは畑が大きいだけで経営の規模は一つ一つが小さい。そんな農民にとって違法奴隷とは商品の名前ではなく、自分たちに迫るかもしれない魔の手の名前なのだ。

 冒険者にしても自立しスキルも納めている正規の同業者と組んだ方が、購入から生活費まで全て面倒を見なくてはいけない上にド素人の奴隷より絶対にいい。愛玩用にと言う者も皆無ではないが、やはり所有するより金のあるときに店へ行く方が楽でコスパもいい。


「つまり二年で違法奴隷の売買ができるような組織が再誕しているのは、少し異常ということですね?」

「そういうことだよ、ラナ」


 妻の確認に頷くビクター。


「考えられるのは古い組織の残党が動き出したか。それか本当に杜撰な新興組織が操業早々に馬脚を現したか」


 二年前の摘発はビクターの管轄ではなく、ブローグの代官の名の下に行われた。詳しい経緯や残党の有無についてはこれから精査するしかない。


「捕えてある馬鹿者は何も吐かんのじゃったか?」

「ええ、まあ。お恥ずかしい話ですが、当家には尋問の専門家がいないので」

「歴史ある伯爵家じゃろ?拷問や尋問の担当者くらい居るのが普通じゃとおもうが」


 レメナ老は家宰の言葉に訝し気な表情を浮かべる。ビクターの視線は泳いでいた。


「鞍替え騒動で辞職した中には、まあ、居ましたね」

「尋問官まで辞めとるのか……」


 オルクス伯爵家が勃興以来の寄り親であるレグムント家を裏切り、その敵対派閥であるザムロ家に鞍替えしたときのこと。貴族社会での白眼視を恐れた伯爵家麾下の下級貴族たちは一斉にオルクスを捨てて去ったのだ。ビクター自身、正義は彼らにあると思っていたので、人脈を駆使して新しい寄り親を世話までしてやった。


「ほとんどの騎士や文官が出て行ったとは聞いておったが、何がどうして尋問官まで辞めるのじゃ」

「代々やっていたので、貴族の地位を与えていたのですよ。ちなみに処刑人も同じ家が輩出していたので不在です」

「律儀に恩賞を与えておったのが裏目にでたわけじゃな」


 伯爵領の騎士は団長のトニーを含めて十に満たない人数。文官も執事や侍女が兼ねている状況で、オルクスの人的不足は二十年近く、生死の境をさまよう勢いとなっている。

 改めてその事実を知らされたレメナ老はやれやれと頭を振ってみせた。


「まったく……独学じゃが、儂がやってやるわい」

「おお、それは助かります」

「最初からアテにしておったくせに」


 ぼやきながらも立ち上がった小柄な老人は、踵を返す前にビクターを鋭い目で射貫く。


「最大の懸念、忘れておらんじゃろうな」

「……お嬢様ですね。気を付けておきます」


 奴隷の守護神エクセルに使徒として選ばれた少女。実はこれまでの奴隷商人摘発は、彼女の知らない所で事態が進展してきた。だが今回は第一発見者が彼女自身ということで、隠し立てをすることは不可能。


「無茶をしないよう、あらかじめこちらで巻き込んでおいた方がいいでしょうね」

「そうじゃのう。しかし儂は隠居じゃ、直接の手は出さぬぞ」

「承知していますよ。ラナ、そういうわけだから、君からも釘を刺しておいてくれ。無茶をしないように、そして先走らないようにね」

「ええ、まあ、それはそのつもりなのだけど……」


 ことがアクセラの方に向いたとたん、ラナの返事は歯切れが悪くなる。

 その引っ掛かりのある様子に、男たちは首を傾げた。


「その、ビクターもレメナ様も、あれからお嬢様には?」

「いや、会えていないね。調べものが立て込んでいて、夕食も別々になってしまったし」

「儂もじゃのう。じゃが、今さら奴隷の一人でショックを受けるような子供でもなかろう?」


 二人が首を振るのを見て、母親は難しい表情を浮かべた。


「ショックは受けていないようでしたが、その……怒り、でしょうか。背筋が冷たくなるような、強い感情を感じました」

「怒り?」


 ビクターは余計に困惑した様子で首を傾げるが、逆に老賢者は納得が言ったというように頷いて見せた。


「ふむ……技術神から何か接触があったのかもしれぬな」

「と言いますと?」

「使徒は神官よりも神と交信しやすいと聞く。そうでなくとも神々の側から言葉を与えるのは、例が少ないだけでそう難しくないという説もあるからのう。何かしら奴隷について情報か、記憶か、感情の欠片を与えられたのやもしれん」


 レメナ老の言葉にラナとビクターは互いの顔を見た。


「神の記憶や感情だなんて、恐れ多いのかもしれないけれど、その……」

「ああ、少し身構えてしまうね」

「分らぬがな」


 ギッと音をたててレメナ老は椅子から立ち上がった。


「ともあれ、ことに取り掛かるべきじゃろう。それがお嬢様にとっても、領の民にとっても、一番マシな選択肢じゃ。いくら先が見えずとものう」

「ええ、そうですね。ラナも、ひとまずはそれでいいかい?」

「そうね。まずは動かないと、いけないわね」


 ビクターとラナは大切な娘のため、レメナ老は愉快な弟子のため。

 大人たち三人は頷きあい、それぞれの仕事にとりかかった。


 ~★~


 ケイサルの大通りから少し入った、治安の非常にいい地区の一角。数年前に開設され、伯爵家や俺たちが運営費を賄っている孤児院がある。色々な事情を持つ子供たちに一般教養と技術の基礎を教える、実験的な意味を含んだ施設だ。

 その食堂のテーブルに俺は一人でついていた。昼間はテーブルクロスがひかれ、子供たちと職員が日々の糧を得る和気藹々とした広い部屋。しかし夕飯時を過ぎて子供たちの眠る時間ともなり、今はとんと人の気配がしなくなっている。

 俺がどうしてこんな場所にいるかというと、ここに救出した少年を運び込んだからだ。伯爵家の主治医であるノイゼン先生や教会のシスター・ケニーに治療を頼み、俺とトレイスと孤児院のスタッフで看病をした。

 一度は夕食を取りに戻った俺だが、連絡役にエレナを置いてこうして戻って来たのは、衰弱著しい少年が気になって眠れそうになかったからだ。


「……」


 紅兎を抱いて目を閉じたまま俺は、そっと闇の中で少年の感触を思い出す。

 背丈から察するに年齢は10歳に満たない程度。無理な姿勢を維持させられていたことや、栄養失調などの影響もあって具合はひどく悪かった。

 一方で体重こそ軽いものの、骨が浮いたり腹が突き出したりといった特徴的な症状はなし。


(軽さは元の貧しさとして、慢性的な栄養失調の体形じゃない。飢えたのは最近か……)


 程度の悪い奴隷商やストレス発散のために奴隷を買うような奴には、わざと食事(エサ)を与えないというクズがいる。そうすることで抵抗する体力と意思を削ぎ、コストも下げられるからだ。

 しかし、今回の相手がそういう人間ならあの少年は捕まってから長くは経っていないということで、これは小さくない手掛かりだった。


(暴行の痕跡は打撲と筋状の傷がいくつか。あれは拳と鞭だな。治りきっていなかったが、古傷は見当たらなかった。これも長く捕まっていたわけじゃないことを示している)


 救出して此処に運び込み、簡単な処置を施すまでの時間。俺は少年の体からいろいろな情報を読み取っていた。そういったモノから奴隷の境遇や状態を推測するのは、場数を踏んでいるだけに得意だ。


「変わらないものは、変わらないな」


 自分自身はあの頃(・・・)から変わりすぎた体でそう呟く。

 これはレイルやアベル、マリア、アロッサス姉弟といった文通友達を通じて俺が抱いた一方的な印象だが、俺が生まれた百年前のアピスハイム王国の腐敗貴族に比べれば、ここユーレントハイム王国の貴族たちは人間的にまともな者が多い……ように思う。

 それでも今生の父親を筆頭に奴隷を扱う人間はおり、その下でこうやって理不尽な暴力と支配を強いる者たちがいる。まったくもって人間という生き物は、我が事ながらではあるが、実に手の施しようがない。


「ふん……」


 自嘲気味に鼻を鳴らしてから目を開く。暗闇の中で『暗視眼』が勝手に発動し、薄緑に包まれた食堂が脳裏へ映し出される。


(今こうしている間にも、多くの奴隷たちが苦しんでいる)


 言葉にするとなんとも平坦なことだが、俺はそれがどういう意味かをよく分かっている。

 カビの生えたパンの味も、残飯スープの吐瀉物じみた臭いも、草抜きの最中に堪えかねて食った雑草の苦みも、石壁の目地に生えたキノコのえぐみも、頭から齧ったゴキブリの殻の硬さも、全部全部覚えている。


(ならなぜ、俺はこんなところにいる?)


 心臓より深いところから湧き上がる感情が、苛立った声で俺を問い詰める。


(奴隷商人がいて、虐げられる奴隷がいて、俺がここにいる。刀も手元にある。ぶっ座って何を待っている?)


 だがそれは、今さら問い返さずとも、分かりきったことだ。

 俺はエクセルであり、その使徒であり、同時にアクセラという貴族の少女だからだ。どこかにいる奴隷(だれか)のために立ち上がる義務と使命は重く、しかし帰る家と愛する家族、守るべき民や法を蔑ろにはできない。


(それはそうだ)


 十二歳に過ぎない肉体、相応に制限された権限と権能、技術の布教というもう一つの使命……今すぐに全てをなんとかするのは無理で、そんなことは百年近く生きた経験から痛いほどよく分かっている。


(それはそうだが)


 これはただの焦りだ。若さゆえの焦り。


(そうか?己を宥めすかせるこの思考が老いたからこその(さか)しさでないと言えるか?)


 残念ながら言い切ることはできない。いや、実際そういう部分はあるのだろう。

 だが小賢しかろうと、若き日のエクセルが幾度となく無力感と失敗に打ちのめされてきたように、今俺が勝手に動いて何かが上手くいくようなことは絶対にない。


(それでも足を前に出してきた。だから前に進めてきたんじゃないのか)


 今とあの頃は違う。あの頃にいた頼れる仲間たちや師はいない。代わりに頭のキレる家宰と多芸な妹がいる。多い少ないではなく、できることが根本的に違うのだ。


(……)


 無為に過ごしているわけではない。そう思えるに至り、俺の中の怒りは頭を低くした。それでもジリジリと喉の下のあたりで唸っているような気がした。


「……クソッタレ」


 無性に手の中の刀を引き抜きたい感情にかられながら、ただじっと緑の闇を見ることさらに十数分。沈黙の空間にバンとドアを押し開く大きな音が広がった。


「姉さま!」

「……ん、トレイス。どうかした?」


 視線を向けると廊下からの光に照らされ、俺とよく似た顔の少年が立っていた。ふわふわの綿毛のような髪と血赤珊瑚の色の瞳を持つ、俺の大切な弟だ。

 トレイスの姿を見るなり、俺は意識を切り替える。


「あの子、目を覚ましました!」

「わかった」


 興奮気味のトレイスに頷いて席を立つ。それから紅兎を剣帯から外し、鍔と鞘を下げ緒でガッチリと固定。威圧しないよう刀はおいていくつもりだが、孤児院の中なので用心は必要だ。


「早く早く!」

「ん、わかってる」


 急かす綿毛について廊下に出た。まっすぐに伸びる通路の奥を一度曲がり、その先にいくつか並ぶ扉の一枚へと案内される。


 コンコン。


 軽くノックして開ける。簡単な家具しかない部屋の中、ベッドの傍らで獣人の少年が跪いていた。床に手をつき、顔を伏せ、小さくなって。


「は、はじめまして、あなたのドレイの、リ、リオスです……せ、せーいっぱい、ごほうし、いたします」


 額を床のタイルに押し当て、震える声でそんなことを言う少年。

 その光景がよほどショッキングだったのか、部屋の中を覗き込んでいたトレイスが息をのむ気配がした。だが俺はむしろ安心した。


(よかった。この子、折れてない)


 この少年は賢い。まだ年齢は一桁だろうに、どうすれば反感を買わずにいられるかを理解している。へし折られて従順になったのではなく、身を守るために従順にふるまっているのだ。


「……リオス」

「は、はいっ」


 小さく体を跳ねさせながら、それでも頭を上げない少年。ここでつられて上げると殴られる。そう思っているのだ。やはり賢い子だ。

 俺はそんな少年の前に膝を揃えて下ろし、ブーツのまま床に正座する。一瞬たじろいだような気配が伝わってきた。


「リオス、顔を上げなさい」

「え……」


 短い声を漏らしつつも、恐怖と猜疑が勝つのか伏せたままのリオス。小さな男の子が短期間でこれほどまでに恐れるとは、一体何をされたのか。それを思うだけで血が沸騰するような感覚が蘇るが、ソレが必要なのは今じゃない。

 怒りを微塵も表に出さず、俺は床についたままの彼の手を取る。反射的にひっこめられそうになった小さな手。逃がすことなくやんわりと、しかし確かに掴み、引くことで顔を上げさせる。


(これは……なるほど)


 そのとき、手首に小さな入れ墨が見えた。淡い黒で刻まれた、羽と牙の交差する図柄。


「リオス。たしか帝国時代の英雄、風の勇者と同じ名前」

「!」


 怯えて視線を落としていた少年が、驚いた様子で顔を上げた。まん丸に開かれた目は透き通るような緑だ。


「ど、どうして、ぼくの名前が……」

「風の勇者の物語、弟が好きだから」


 肩越しに視線をやる。扉のところで立ち尽くしていたトレイスが少し顔を赤らめ、こくこくと頷く。


「リオス、風の勇者の名前を持つ子。大丈夫、君はもう奴隷じゃない」

「え……?」

「私はアクセラ。君は助け出された。もう奴隷じゃない」

「う、うそ……」


 リオスは信じられない様子で首を振る。仕方がないので俺は彼の手を放し、わきの下に手を突っ込んで抱き寄せた。


「!」


 一瞬抵抗しかけたがお構いなしに抱きしめる。朝に担いだときも思ったが、軽い体だ。


「主人は奴隷を抱きしめない。そうでしょ?」


 返事はない。だが俺に敵意がないことは伝わったらしい。しばらく身を固くしていた少年だが、そのまま張りつめていた糸が切れたのか、ぐすぐすと声を殺して泣き始めた。


「声出してもいい。泣いたらいい」


 そう囁くがリオスは頑なに声を出さなかった。それどころかはっきりと首を振って拒否を示す。


「ん……強い子」


 もう一言囁いて頭を肩に預けさせ、あやすように背中をたたく。

 泣きつかれた少年が再び眠りに落ちるまで、俺はそうして過ごした。


 ~★~


「姉さま、あの子は大丈夫ですか?」


 リオスをベッドに寝かせて廊下へ出たところで、トレイスは俺の袖をつまんでそう尋ねてきた。ラナの指導の通り、敬語で。

 俺は足を止め、もうほとんど背丈の変わらない弟の顔を見る。


「もちろん。トレイスも心配?」

「うん……その、ひどい目に合うと、ずっとそのことが夢に出たり、いきなり思い出されることがあるって、レメナ先生が」


 意外な心配に俺は「ふむ」と一度口を閉じた。


(いや、意外でもないか)


 トレイスは数年前まで暴走する自らの魔力過多症に傷けられ、痛みから解放される死をただ一心に望むばかりだったのだ。だからレメナ爺さんは彼のトラウマやフラッシュバックを警戒し、当時は何かと気にかけてくれていた。

 きっとその時のことの記憶をもとに言っているのだろう。


「ん……それはしばらくあるかも」

「そう、だよね」


 羊のようなふわふわ頭が小さく前に倒れた。俺のとそっくりな顔が、俺とは全く違う表情に沈む。悲しげな表情に。

 トレイスだって、症状が治まって一年ほどはそうした後遺症に悩まされた。寝ている間に悪夢に襲われておねしょし、俺とエレナの魔法でごまかしてあげたりもした。


「大丈夫。リオスの傷はそこまで深くない」


 ポンと柔らかな髪に手をのせて言う。


「そうなの?」

「ん。神様の経験に言わせるとね」

「そっか……うん、よかった」


 最後の一言は最愛の弟の耳にだけ届くように声を絞った。

 それを聞いた彼は寄せていた眉を解き、驚くほどあっさり安堵の息を漏らす。彼は俺がエクセル神だということを知っているから、その言葉をひどく絶対的なものだと信じているのだ。


「ん、安心できたならよかった。もう遅いから、私たちも客室に引き上げよ」

「う、うん」

「……?」


 これでこの話はひとまず落着。そう思っていたのだが、なぜかトレイスは歯切れ悪く頷くだけで歩き出そうとしない。じっと足元をみて、何か言いたそうにもじもじとしている。


「トレイス?」

「ね、姉さま……ぼくも」

「?」

「ぼくも、ぎゅってしてください」


 か細い声で要求するトレイスの顔は暗闇でもわかるくらいに真っ赤だ。

 けれどなぜわざわざ言うのかが分からず、俺は少し戸惑ってしまった。一人で結界の中に閉じ込められていた反動で彼はスキンシップを欲しがる性格に育ってしまっている。そのことは屋敷の皆が知っているので、今までは特に断りもなく抱き着いてきていたのだが。


(さすがに十歳になって恥ずかしくなってきたのか?)


 あるいは「そろそろ……」と誰かに苦言を呈されたのかもしれない。貴族の男子がいつまでも姉に抱き着いているのは外聞がよろしくないから。


(いやまあ、貴族じゃなくても外聞がよくはないだろうけどな)


 それでも要求してくるのはまだまだ精神的に幼いからか、リオスに薄っすらと嫉妬したからなのか。いずれにせよ可愛らしいことだ。


「姉さま……?」

「ん、考え事してた。客室に戻ってからね」

「う、うん!」


 すっかり敬語の消え去ったトレイスの手を取る。手も数年前とは比べ物にならないくらい大きくなった。


(いつまで姉さま姉さまって言ってくれるんだろう)


 いつかは大人の男になり、俺の後ろではなく別の道を歩むようになるのだ。それを思うとなんだか少し寂しいような気もする。そこまで考えてから、自分の思考がエクセルだった頃と決定的に変わっていることを理解する。


(ふふ、俺もすっかり「姉さま」が板についてしまったな)


 変われるほど若くないと思っていたが、変わるのも悪くないかもしれない。

 そんな風に思いながら、俺たちは仲良く手を繋いで部屋へと帰った。

 胎の内の渦巻く怒りは、少しだけマシになっていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] レメナ老久しぶりの登場ですね。 本編では今どこにいるんでしょうね。まだ知識の斜塔にいるのだろうか。 何故オルクスの食客なんかをしていたのか、彼についても謎が多いですね。未だ登場しない王立学…
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