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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十一章 祝福の編
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十一章 第28話 二曲目、果てのファンタジア

 二曲目、学生たちだけのダンスをオレとマリアは二人で踊っていた。一曲目は上から見渡す陛下と大勢の頭越しにこっちをガン見してくる親父の視線が気になって、さっぱりどう踊ってたのかも覚えてねえけど……とりあえず今は目の前の婚約者に集中できる。


「た、楽しいね、レイルくん」


「へへ、だな」


 はにかむマリアに俺もニッと笑って頷く。彼女の服装は少し凝ったドレスだ。型がどうとか、ラインがどうとか、そういうのはオレには分からねえ。だけど可愛いドレスだった。

 胸元から腰、それからスカート部分の一番外側は真っ白な布でできている。腰からベルみたいにフワッと広がる形だ。色はエレナが着てるやつとはまた雰囲気の違う、山の上の雪みたいな白。あとのフリルとかレース、それに何重にもなっているスカートは春に咲いている小さい花みたいな黄色だ。それが白の布のスリットからフワフワと見えて、すごく可愛い。


「雪解けの春ってかんじだな」


「えっ」


「なんだよ……」


 素直に見たままを言うとなぜか彼女は目を見開いた。アイスブルーの宝石みたいな瞳には驚愕と困惑が見て取れる。咄嗟に漏らした甲高い声も心からの驚きをよく表していた。


「レ、レイルくんが、そういうこと言うの、な、なんか、意外で……」


 たしかにあんまり言わないが、その反応は酷くねえか?


「オレだって日々成長してるんだぜ……って胸張るようなコトでもねえけど」


 自分がどれだけ武骨者かはわかっているのであまり強く言えないが、それでも口を尖らせて主張してみる。それが面白かったのか、マリアはころころと鈴みたいな声で笑った。


「む、むかしは、踊るのも、に、苦手だったのにね」


 マリアが悪戯っぽい言い方をする。ダンス上手の彼女に曲がりなりにもリードを任せてもらえているが、それでもここにいる奴の中では俺は下手な方だ。というか喋るにしても今くらいが限界で、これ以上動きが乱れると『舞踏』のアシストが切れそうだった。『剣術』との程度の差がひどくて、ちょっと恥ずかしくて明後日の方を向いて唇を尖らせる。


「こ、こういうゆっくりしたのは性に合わねえんだよ」


 そう、今日のオレは普段と何もかもが違う。中でも一番分かりやすいのは服装。軽さを重視した騎士服、ちょっと裾が長くてダブルボタンの詰襟みたいなものだ。色はマリアのドレスに合わせて雪の白。装飾はアイスブルーの宝石を使ったカフスボタンと襟飾りだけ。儀礼用の剣は刃のない鉄棒だし、髪も時間をかけて丁寧にセットしてもらっている。


「なんか、自分が自分じゃねえカンジがするんだよな……」


 落ち着かない。その格好で苦手なダンスを踊ってるものだから、いよいよ現実味がない。


「ほ、本当に、楽しい?」


 小首を傾げるマリア。その首元で一粒のガーネットがキラリと輝いた。オレがネンスとアベルに唆されて贈ったネックレスだ。絶対に髪色の何かを贈った方がいいと二人に言われて選んだものだったが、付けている姿を見て深く納得する。

 お互いに目や髪の色のモンをプレゼントするってのは、結構イイ文化だな。

 そんな風に思いつつ、曇った表情に引っ掛かりを覚えてオレは首を傾げた。


「どうしたんだよ?」


 いつもなら「らしいね」と言ってクスクス笑うだろうに。そう思ったオレだが、マリアはステップを続けながら首を前へ倒す。胸板にぽすんと狭い額が落ちて来た。


「マリア?」


「さ、最近、その、い、一緒にいる時間、ほとんど、とれてないから」


「あー……確かにな」


 か細いその声に俺は気付かされる。

 オレ、最後にマリアとお茶に出たの……いつだっけ?

 放課後の限られた時間と週に二日の休みを特訓と自己鍛錬、苦手な科目の復習、ダンスの補習に費やしてきたこの二か月。あれもしなきゃいけない、これもしなきゃいけないと予定に追い回されて……気が付けば一度しかマリアと出かけていない。


「い、今が楽しいのも、ウソじゃないのは、わ、分かってるんだよ……?」


 オレの沈黙をどう受け取ったのか、重ねられた言葉には取り繕うような気配があった。


「でも、お、男の子同士で、遊んでる方が、た、楽しいのかな、って」


 尻すぼみに消えて行く声を抱き止めるように、オレは腰に手を回して引き寄せた。『舞踏』が乱れてスキルとして成立しなくなるが、マリアの『舞踏』に主導権を明け渡してしまう。


「わぷっ」


 額を押し当てたままだった彼女はオレの胸に顔を埋めるようなかたちになってくぐもった悲鳴をあげる。


「……」


「な、なに?あ、っと、む、むぎゅ」


「……」


 慌てるマリアをひとしきり抱きしめたところで腕を解く。ちょっとだけ鼻が赤くなった彼女がこっちを見上げてキョトンとしていた。オレは言葉を探しながらとりあえずダンスに戻る。『舞踏』がちゃんと仕事をしてくれる程度にゆっくりとしたステップで。


「……」


「……」


 頑なに顔を上げないマリアに胸を貸したまま、ゆったりゆったりと左右に動く。そうするうちにまた彼女はか細い声で呟いた。


「その、ね。ちょ、ちょっとだけね、し、嫉妬……しちゃったんだ」


「……おぅ」


 いつだって曇りなく全幅の信頼を寄せてくれるから、オレは多くの婚約者持ちと違って自分のやりたい事とやらないといけない事に集中できる。けれどその分、オレが自分で気付いて彼女を大事にしないといけない。つい、忘れてしまいそうになる。


「ふぅー……まあ、俺はダンスより剣振り回してる方が好きだな」


 ぽすん。長い溜息のあとに素直な感想を口にすると、こんどは弱々しい頭突きをもらった。


「うぅ……」


 ぽすん、ぽすん、ぽすん。

 繰り出される弱い頭突きは明確な不満の主張だ。けれどオレはそれを受け止めながら忍び笑いを漏らす。こうやって甘えてくるのも悪くねえな、と。


「今だって、それと同じくらい楽しいぜ」


 ぽすん。

 最後の頭突きが胸板に落ちてくる。


「……ほんとに?」


 氷みたいな青い目がチラリとオレを見上げた。泣きそうな、それでいて期待しているような、嬉しさと不満が半々の視線。


「おう。マリアと踊ってるからな」


 胸の内の照れをぐっと堪えて言い切る。

 よかった、正解みてぇだな。

 ふわっと氷が解けた。期待に応えられたようで、不安と不満が喜びと羞恥の朱色に消える。


「え、えへへ……よ、よかった」


 赤い顔ではにかみ、オレの手をぐっと引っ張るマリア。照れ隠しなのか喜びの表現なのか、彼女は一気にダンスの速度を上げて来た。オレは急かされるままステップの速度を上げる。


「レ、レイルくん」


「よっ、よっと、次はこっちにステップで……おう、なんだ?」


「あ、明日から、冬休みだよ、ね」


「おう」


 ステップ、ステップ、ターン。必死に食らいつきながら頷く。視線は極力目の前の婚約者から外さないように。


「ふ、冬は王都なら、い、行ってもいいんだよね?」


「らしい、なっと」


 踏み間違えた。けど構うものか。それよりもマリアとのダンスを楽しむこと、そして彼女の話を聞くことの方が今は大事だ。とりあえず、それが第一歩だと思うから。


「あ、あのね。行きたいお店、あ、あるんだ」


「いい、ぜ!何の店でも、何軒でも、一緒に行ってやる!」


「きゃっ」


 ヤケクソ気味の大胆ステップでぶつかりそうなペアを回避し、彼女を胸に抱いたまま踊り続ける。


「そ、それからね?王都の、新市街に、ね、猫のいる喫茶店が、できたんだって」


「猫っ、好きだよなっ」


「う、うん。好き、だよ。動物は、だ、だいたい好き、かな」


 もうアシストが効いているんだか、不格好に足を動かしているだけなんだか、よくわからなくなりながらマリアの顔を見続ける。速度を上げたことで赤味が頬に強く差してとても綺麗だった。


「ふふ、こ、こんなお話するだけでも、た、たのしいね」


 ああ、好きだな。湧き出るような満面の笑みを見てそう思った。マリアがオレの婚約者でよかった。吹聴して回るような事じゃねえから、わざわざ言葉にはしてこなかったが、オレはマリアが好きだ。大好きだ。


「っと!あ、あのさ、マリア」


 またぶつかりそうになった別のペアをギリギリ回避しながら言葉を探す。演奏はすっかり佳境で、オレ以外にもあちこちでダンスの失敗が目立ち始める。それをカバーしようと躍起になったり、笑い交じりにパートナーをなじったり。学生らしい喧騒が楽器に混じってホールを満たしていた。


「な、なに?」


 一瞬前までの様子が嘘のようにその足さばきは楽しそうで、明るく、そして巧みだった。もはや半分以上は彼女がリードで固定されている気がする。


「今さら言うことじゃねえけどさ……まあ、なんだ。この一年で言いたいことはちゃんと言葉にしなきゃダメなんだって、散々思い知らされたわけだよ」


「う、うん」


「あー……その、アレだ。あと、二曲!オレと踊ってくれるか……?」


 一曲だけなら、誘われれば誰とでも。

 二曲連続は、他の誰かより大切な相手と。

 三曲続けるなら、それは手を離すに惜しい印。

 四曲踊るのは、愛するたったの一人とだけ。

 開幕から一緒に踊っているオレたちだ。もう二曲踊れば、それは四曲連続になる。オレがらしくないことを言ったからだろうか、マリアの目が大きく見開かれた。冷たい色の、優しい瞳。それがじっとオレを見上げてくる。


「う、うん……うん!な、何曲でも、踊るよ!今日は、レ、レイルくんとだけ、踊る!」


 器用にダンスを続けながらぴょんぴょんと跳ねて喜びを露わにするマリア。しかしふと一瞬思案するような表情を浮かべ、俺の顔を覗き込んでくる。


「な、なんだよ?」


「レ、レイルくん……ダンスの、か、回数の意味、知ってる、よね?」


 ほう。つまりあれか。オレが朴念仁で、武骨者で、馬鹿だから、何にも考えずにあと二回とか言い出したかもしれない。そういう危惧を抱いているわけだな。


「流石に失礼だろっ」


「え、きゃーっ!?」


 オレは思い切りマリアを抱き寄せて持ち上げ、ぐるんぐるんと回すようにして踊りだした。急に足が床から離れた彼女は首筋にすがるように抱き着いて黄色い悲鳴を上げる。


「ったく、分かってるに決まってんだろ!」


 ぐるりとその場で回りながら、軽い柔らかなペールブロンドの髪に口元を押し当てて囁く。


「オレらしくハッキリ言えばいいんだろ。あっ、あ、愛してる、よ」


「……っ」


 楽しそうな嬌声がピタリとやんだ。金糸のような髪に埋もれた白い耳が赤く染まる。そのままオレは演奏が終わるまで彼女を抱えてターンを決めまくった。もうスキルもなにも、あったもんじゃない。マリアはただ無言で、強く抱き着いて離さなかった。


「ふぅ……おっと」


「え、えへへ……」


 ようやく演奏が終わったとき、オレもマリアも若干目を回してしまって、結構ふらふらになっていた。真っ赤な顔ではにかむ婚約者を見て、自分も相当赤くなっているんだろうなとあきらめ気味に思う。


「あー……にしても回り過ぎたぜ」


「そ、そうだね。ふふっ」


 お互いを支えに苦笑を浮かべ、三曲目をそのまま踊るかちょっと休憩するかを相談しようとしたときだった。


「な、なんだろうね?」


 いつの間にか大分端っこまで来てしまっていたオレたちの耳に、中心の方で大きなざわめきが届いた。それは聞き慣れたネンスの声だった。


 ~❖~


 (わたくし)、アレニカ=フラウ=ルロワが仮面を被ることにしたのはいつの事だったろうか。まだまだ小さかった頃だったのは覚えている。お披露目もまだの頃にテラスから落ちて、ネンス様に助けられて、初めての恋をした。王子様に相応しい淑女になるんだと、お母様に礼儀作法を習おうとした。


 ―アレニカ、貴女はサロンの女主人になるのです―


 そう言われたのは覚えている。当時の私はそれがアドバイスなのだと思った。王子様のお嫁さんになるために必要な事なのだと。だから幼いながらに必死でテーブルマナーや会話法、立ち方や座り方まで学んだ。時折先生は私を棒で叩いたけれど、それも馬に入れる鞭のように私を前へ前へと駆り立てた。


 ―ニカ様はすぐ無理をなさいます。フラウは、ニカ様が心配でなりませぬ―


 古風な喋り方をする私の乳母、フラウ。乳母としてはかなりの高齢で、お披露目の次の歳には流行り病で亡くなってしまった。彼女は最後まで私を心配だ、心配だと言ってくれていた。だから一層私は励んだ。天国のフラウが安心してくれるように。


 淑女は香水に詳しくなくてはいけない。だから『嗅覚強化』と『目利き:香水』を手に入れるまで利き比べをさせられた。香り酔いで頭が痛くなっても、気持ちが悪くなっても、止めなかった。


 淑女は紅茶に詳しくなくてはいけない。淹れたての熱いお茶を何杯も何杯もテイスティングした。火傷しすぎて上顎の皮が剥けても、他に何もお腹に入れられなくて体調を崩しても、『味覚強化』と『目利き:紅茶』を取得するまで続けた。


 淑女は生地と宝石に詳しくなくてはいけない。高価な布の手触りとテクスチャを覚えて『触覚強化』と『目利き:布』を得るまで衣裳部屋に閉じ込められたし、宝石の特性と輝きを覚えて『色覚強化』と『目利き:宝石』を得るまで宝飾品部屋に押し込められた。どちらも本物と偽物を間違えれば先生に棒で叩かれた。


 ―貴女はサロンの女主人になるのです―


 私がネンス様のことを口に出すと必ずお母様は険しい顔でそう言い、次のスキルを取るためのお勉強が厳しくなった。その頃になってようやく「サロンの女主人」が私の夢のための道標でないことを、私は理解しだした。お母様はアドバイスをしていたのではなく、間違った夢を見る馬鹿な娘を訂正していたのだ。


 ―お前に魔法の才能がないことはよく分かった―


 ある日お父様呼ばれて告げられた言葉は、私の心臓に深く深く突き刺さった。これまで淑女教育の間を縫って高名な魔法使いの先生から教わって来たのに、まったく『属性適性』系スキルを得られなかったのは事実。けどもっと頑張れば、もっと努力すれば、そう私は思っていた。それをお父様に見限られた。その日から魔法使いの先生は来なくなった。


 ―アレニカ、お前は本当に何にもできないな―


 ダンスの先生に棒で叩かれる私を見てお兄様が嘲笑う。昔は仲のいい兄妹だったのに、彼はいつしか才能のない私と多芸な自分を比べて蔑むようになった。きっとお父様やお母様を見ていて、そうすることが正しいと思ったのだろう。私はお兄様ほど家の役には立てていないから、それを否定する気持ち自体あまり湧いてこなかったけれど……。


 ―私、愛されてないのね―


 鏡に映った自分とその結論を共有したのはいつのことだったか。ストンと腑に落ちる感覚がして、その重みと衝撃で心と仮面に罅が入った気がした。でもその気づきが、罅が、私の世界を変えることはなかった。だって私がお父様に見放されたのも、お兄様に蔑まれるのも、実際に私にできることがほとんどないから。お母様の提示する道を歩むことしか、生きて行く術がないから。だから、ひび割れた仮面を毎朝被って生きる習慣は何も変わらなかった。

 あの時までは。


 ―アレニカさんのことを友達だと思ってるからだよ?―


 暗い地下で絶望しかけていた私に笑いかけてくれた同い年の少女、エレナ。初めてできた友達だった。平民の友達というだけじゃない。打算も読み合いもしなくていい、上下関係なんて存在しない、初めてできたただの(・・・)友達。家族について本当の気持ちを打ち明けたのも初めてだった。心から私を守ってくれた人は……フラウ以来だった。


 それから色々なことがあった。もとから壊れていた家族との絆が完全に失われて、物心ついたときから被って来た仮面が粉々になって、サロンの女主人という与えられた夢も消滅して、たった一つの支えだったネンス様の目に留まりたいという願いさえも叶わぬものになってしまった。


「ネンス様」


 愛しい人の名前を呼ぶ。幼い恋の相手の名を。それだけで思考の深みに陥っていた意識がすっと体に戻ってくる。煌びやかなシャンデリアの輝き。穏やかで優雅な楽団の音色。思い思いのダンスを楽しむ同級生たち。そして私の目を覗き込むネンス様。今こうして彼の腕の中で踊っている時間は、まるで奇跡のようだ。


「どうした?二曲目に入ってから様子がその、少しおかしいが……」


 おかしいなんて言葉、ダンスパートナーのレディに言うべきものではない。憧れの王子さまは私を気遣いながら、同時に私を気遣う相手だとみなしていない。それはきっと彼が私をもてなすべき淑女ではなく、気さくに接することができる仲間だと思ってくれているから。


「ふふ、楽しいなと思っただけですわ」


 私は笑った。悲しみと喜びが同じだけ胸に湧いて来て、寂寥感と満足感が混ぜ合わさって、私はわけが分からない気持ちになりながら笑う。これは叶うはずのない夢の、その向こう側だから。


「ずっとずっと、長い夢を追いかけてきたの」


「……?」


 飾った言葉を止めた私にネンス様が意外そうな顔をする。

 ああ、私はきっと彼の十五年で一番いろいろな表情を見せてもらった淑女だわ。


「その夢は、苦しいことばかりだった私の一生を照らしてくれた、たった一つの灯り」


 誰もが肩ひじ張ったり、挑戦的に動いてみたり、失敗したり、支え合ったり、笑い合ったり……自分だけのステップで踊る中、私とネンス様はごく普通のダンスをする。


「その夢は、私がここまで生きることができた、たった一つの(よすが)


 道を外れる方法を知らないままに、正道を歩む方法も分からないままに、やみくもに歩き続けてきた私らしいダンスだ。


「その夢は、死地へと向かうあの日の私が帰ってこれた、たった一つの理由」


 けれど誰よりも優雅なダンスだという自信がある。棒で叩かれながら覚えた、たった一人の人のためのダンスだから。

 でも、これが最後だわ。


「殿下、ネンス様……これが私の夢の果てです」


「アレニカ……」


 二連続のターンのあと、それまでよりしっかりと彼の腕の中に納まって私は心から笑う。


「氷の砦を出るときにお伝えした気持ちは、本当ですわ」


 ネンス様は困惑から立ち直って真剣な表情を浮かべた。そこには覚悟が見える。私のための覚悟だ。それを察してゆっくりと首を横に振った。


「でも、もう分かっています。私ではネンス殿下の特別にはなれない」


「……」


 下手な否定をしないことこそが全てだ。あの危機を乗り越えてから私も殿下も、告白の件には触れてこなかった。ネンス様は私を傷つける決心がつかず、私も最後の覚悟が決まらず。でもこれ以上引き延ばしたって仕方ない。


「ネンス様、私は……私はもう、貴族の中で生きて行くことはきっとできない」


 噂のせいじゃない。周囲のせいじゃない。ただ、私という人間がもう限界なのだ。


「君は、まさか」


「はい。学院が終わったら、家を離れようと思います」


 息を飲むネンス様。イエロートパーズの瞳に微笑む私が映って見える。

 こんな疲れ切った姿をお見せしたくはなかったのにな……。


「ネンス様、最後に……最後にワガママをよろしいですか?」


「……さきほど、最後の我儘を聞いた気がするがな」


 困ったように、怒ったように、悲しむように、複雑な色を帯びた声でそう言う彼はまさしく私と同い年の少年だ。私が悩み抜いたように、私の結論がネンス様を悩ませる。申し訳なくて、少しだけありがたい気持ちだ。


「ふふ、女はワガママなものですのよ?」


「そうか……そう、か。それなら、聞いてやるのが男の務めだな」


 冗談めかして言う私の気持ちを汲んで、ネンス様も同じトーンで微笑んでくれた。


「ネンス様、私の夢を……長い長い、切ない夢を……どうか終わらせてくださいまし」


 その瞬間、二曲目の演奏がそろい踏みした楽器の音色によって締めくくられた。静寂がホールを包み込む。三曲目までのわずかな間。すぐ近くで踊っていた別クラスの男女がこちらをじっと見ていた。さすがにこれだけ喋っていれば聞こえてしまったのだろう。見開いた目でじっと、ただ見つめていた。


「さあ、盛大に終わらせて」


 口づけでもするように爪先だちになり、愛しい人に人生で初めての懇願をする。三曲目の相手を狙っているらしい他の御令嬢たちが私の動きにざわめき、色めき立った。あとはきっとネンス様がしてくれる。そう信じてすっと身を引く。


「アレニカ=フラウ=ルロワ」


 数歩下がって待つ。先ほどに倍する感情を孕んだ震える声で、それでもなお毅然とネンス様が私の名前を呼んだ。最後の最後まで胸は高鳴り続ける。


「貴女の告白に、私は応じることができない」


 その瞬間、ホールに激しいどよめきが巻き起こった。もはや悲鳴と言っていいほどだ。この晴れ舞台において大声で告白を断るなんて、本来ならいくら王子殿下でもありえない暴挙だ。私への非難、殿下への非難、困惑、驚き、嫉妬、怒り……ぐちゃぐちゃになった豪雨のような声に私たちは包まれた。


「……はい」


 その中で私は静かにその言葉を受け入れる。受け入れて、深々と頭を下げる。

 ああ……ああ……ようやく、ようやく終わったのね。

 私は込み上げる名状しがたい感情の波に襲われながら、これで終わったという満足感も覚えていた。私の貴族令嬢としての命脈も、サロンのメンバーとしての未来も、そして永遠のようにも思われた片思いの夢も。


「だが」


 重々しいその声に私は伏せていた顔を思わず上げた。そこに立つ王子様は優しさと力強さを湛えた表情で、それなのに泣きそうな目をして、私を見ていた。


「だが、アレニカ。君は私の命の恩人だ。友人であり、なにより戦友だ!」


 その雷のような声に胸が震えた。熱い視線が私の中の何かに火をつける。


「私は君の献身と友情を生涯に渡って信頼し続ける!」


 継ぎ接ぎの仮面の内側に溜めこまれていた雫が、ひび割れから溢れていく。


「臣民として!友として!我が騎士たちを愛するが如く、私は君を愛そう!」


 夢の果てだと思っていた場所が、彷徨う未来の始まりだと思っていた瞬間が、新しい夢の出発地点に変わって行く。見果てぬほどの新しい夢の道標だ。


「……酷なことを仰いますのね」


 ぼろぼろと溢れる涙をそのままに、私はドレスであることも忘れて膝をついた。騎士や戦士が主君に剣を捧げるための礼だ。周囲の喧騒は最高潮になり、しかしそれさえも祝福の鐘の音に聞こえる。


「今は、まだそのお言葉は、受け取れませんわ」


 ゆっくりと王子さまは頷いてくれる。


「でもこのアレニカ、ネンス様の信頼と友愛に応えられるよう、戦友と呼ばれることに恥じないよう、いつか、いつか必ず……戻ってまいります」


「ああ」


 びっくりするくらいに短いお返事。それを聞いて私はもう一度笑った。お嬢様としての仮面の笑みでも、終わりを望む諦めの笑みでもない。十五年の生涯できっと一番の、心からの笑みを。私の長い長い片思いは、ようやく報われた。


~予告~

アレニカの恋が終わるその裏で、

ほのかな思いが灯されていく。

次回、三曲目、青い林檎のエチュード

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― 新着の感想 ―
[良い点] アレニカの恋は、厳しいけど…成長したネンスらしい終わり方ですね。 最初に、レイル達の甘々があるからこそ引き立つ感じがします。 [気になる点] 誤字報告であげましたが…紅茶を何倍も何倍もは多…
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