十一章 第27話 一曲目、黄金のソナタ
~予告~
見せつける様に可憐に踊るアクセラ。
同じホールでアニレカも、揺らがぬ決意を抱いていた。
次回、二曲目、果てのファンタジア
ダンスホールの最奥、三段上がった場所に設けられた豪奢な玉座へとラトナビュラ王がつく。すると一段目に副学院長が上り、王に深々と頭を下げた。
「国王陛下、今年も行幸を賜りまして、学院といたしましても光栄の極みに存じます」
「よい、この学院に通うは国を背負う若者達。それを我が王国の社交界へと招く場、余がそれを見届けるのは当然である」
入学式でも行われた儀礼的なやり取り。しかしあの時はただの口上だと思っていたものが、王の偽らざる本心であると今なら分かる。イエロートパーズのような目に宿る光は鋭く、また柔らかく、俺たちを見つめているのだ。
「今年もようやくこの良き日を迎えることができた」
噛み締めるように国王陛下がそう口にした。ゆっくりと立ち上がり、『国王』の王気を周囲へじわりと広げていく。入学式のような学生からの堅苦しい挨拶などはない。ただ王の言葉だけが場を支配する。
「今年は長かった。多くのことがあった。それは学び舎に相応しい、良き事ばかりではなかった」
たったそれだけの言葉で学生の間にも、貴族の間にも、言い表せない感慨が生じた。それほどまでに今年という一年は長く、そして波乱に満ちていた。
「共にここに来ることのできなかった友もいるであろう」
いくつもの顔が思い浮かぶ。立場を越えて友人になれた少年の顔が。年齢を超えて通じ合えた男の顔が。噂好きの少女の顔が。
「己の無力を噛み締めることもあったであろう」
マレシスの心臓を貫いた感触と、刀身を失った紅兎の軽さが手に蘇る。悪魔の実験を目にしたときの燃え上がるような怒りと、イーハを逃がした時の安堵、それから手足から血が抜けて行く恐怖も。
「世界が決して人間に優しいものでないと思い知らされたことであろう」
視界の端でレイルやネンスがキツく拳を握りしめたのが見えた。俺の手をエレナが包み込む。それを解いて握れば、強く握り返してくれる。その様子をたしかに王は目で捉え、口髭の下で深く笑む。
「だが諸君らはこの良き日を迎えたのだ」
重く、強く、そして威厳に満ち溢れた声で王は言う。
「その道のりが平坦でないばかりか、多くの先達が辿って来たより困難で苦しいものであったことをこの場にいる余と余の臣たちは皆、深く理解している。よくぞ頑張ってくれた。そしてよくぞ生き残ってくれた。よくぞ、この良き日を迎えてくれた」
涙ぐむ者もいる中で国王は力強い口調と温かい言葉で一年生を言祝ぐ。
「そのことを余と、ここに集った余の臣たち皆が祝福している」
そこから彼は声色を変えて朗々と祝福を紡いだ。
「今宵を境に諸君らは大人となる!」
言い切る王の気迫に生徒は誰も彼もが飲み込まれた。
「栄えあるユーレントハイム王国は至宝である。余が余の父たる王から、余の父たる王がそのまた父たる王から受け継いできた国家という至高の贈り物ぞ。臣民の皆がそれぞれの父祖より受け継いできた尊き物ぞ」
全ての視線が王へと捧げられる。
「いずれ余と余の臣からこの至宝を受け取る諸君らを……」
そこで一度区切った国王は雷光のような目で周囲を睥睨し、最後の言葉を解き放った。
「我が国の社交界へと、歓迎しようぞ!」
宣言とともに王爵が頭上へ掲げられる。黄金のスキル光がホールに満ち溢れ、俺たちの体に吸い込まれていった。ステータスを確認するわけにもいかないが、体が軽くなったような気がするのでバフを与えられたのだろう。あとで聞いたところ、このスキルを浴びることがデビュッタントにとって社交界デビューを果たしたという意味になるらしい。
「国王陛下、勿体ないお言葉の数々を頂戴いたしまして、我ら学院の一同、深く感謝いたします」
副学院長が述べる口上へ陛下は鷹揚に頷いた。それを受けて眼鏡の偉丈夫は踵を返し俺たちへ向き直る。
「これより冬の大社交界、デビュッタントボールを開催する!!」
次の瞬間、荘厳な打楽器が笛の音を引き連れて夜の始まりを高々と告げた。軍歌のように重厚で格式高く、しかし上品な陽気さを持った演奏。楽団が奏で始めたのはデビュッタントボール、つまり社交界デビューする少年少女の為の特別な舞踏会における伝統的な一曲目、黄金のソナタだ。
「さあ、今宵は一年生諸君らのための夜だ。存分に楽しむが良い!」
玉座に身を沈めた王の楽し気な大声。それが合図だったかのように俺たちは裾を翻してそれぞれ一曲目の相手と向かい合う。舞踏会の曲はそれぞれ、ダンスにいくつかの指定がある。この場合は男女のペアで踊ること。
「よろしくお願いします、アクセラさん」
「よろしく、ディーン」
ネンスなどと同じで玉座にほど近い場所へ陣取り、小声で囁きかけてくるのは同じクラスの騎士見習いディーン。空色の騎士服に儀礼用の短剣を帯び、髪を丁寧に撫でつけた彼は実に貴公子然としていた。優雅な一礼とともに差し出された大きな手。俺もカーテシーで応じ、黒いレースの手袋に包まれた右手を置いた。
「行きますよ」
「ん」
出だしと同じ特徴的な一節を楽団が奏でる。それに乗ってペアを組んだ一年生は一斉に淡い光を纏い踊りだした。最初のこれは学生だけで踊るもので、極力全体の動きが合っている方が美しい。だからあらかじめ決められていたステップに従いスキルに身を任せるだけだ。
「……多少のミスはこちらでカバーします、というつもりでしたが、お上手ですね」
片手を繋ぎ、もう片手の手のひらを俺の腰に添えながらディーンが笑う。
「すごく練習した」
足を押すスキルアシストに逆らわないよう注意しながら俺も意識して微笑み返す。表情に乏しい俺でもそうすればはっきりと微笑みをふりまけるから。くるくると場所を入れ替えながら踊る俺たちに、玉座の王も薄っすら意外そうな視線を向けてきた。
「引き立て役になれているようで何よりです」
「ん、助かる。結構、まだ不安があったから」
ディーンは俺が目立つようにあえて色の薄い騎士服を纏い、ステップもこちらを際立たせるようにアレンジしてくれている。初本番で内心かなり焦っている俺としては本当に助かる思いだ。
「特に、ほら。ここ」
黄金のソナタの特徴的なピアノデュオパート。楽団のピアニストが二人がかりで一心不乱に奏でるという華麗な音の連続。それに合わせてディーンの誘導する方へ素早く足を踏み出し続ける。淡いスキル光が踊る学生たちの足元から広がり、ホール全体をまさに黄金色に染めあげた。
「……ふぅ。切り抜けた。本当に助かる」
「これくらいは恩返しとして当然ですよ。命の重みは、簡単に返せはしませんから」
真面目なトーンでそう言われるとなんだかむず痒いが、彼は彼なりに道理を通そうとしてくれているわけだ。こういう真っ直ぐな部分はレイルといいネンスといい、1-A男子の美徳といえる。
「ありがとう。でも、これで返してもらった。それだけ大事な局面だから」
「大事な局面、ですか」
彼の手を支えにくるりと背中を向け、そのまま横にステップを刻む。そして一度くるり。
「私も務めを果たす必要がある。それだけだよ」
「務め?それは一体……」
ディーンが言葉にし切るより先に大きなシンバルの音で曲がしめられた。俺たちはそっと手を放して優雅に一礼。それから背筋を正したまま玉座へと体を向けた。全員が静かに王を仰ぎ見る。デビュッタントボールの一曲目は主君に捧げるダンスだからだ。
「うむ、例年と比べてもよいダンスであった」
ラトナビュラ王は数度頷いてから玉座より腰を上げた。
嘘か本当かは分からないが、少なくとも躓いて倒れる者はいなかったな。
「若き諸君を改めてこの国の社交界の一員として祝福しようぞ」
その言葉に俺たちは深く首を垂れる。そんな我々に少しだけ砕けた声音で王は言葉を繋ぐ。
「余はこれより諸君らの先達たる生徒達を言祝ぎにゆく。しばしの間、大人の目もなくなることであろう」
茶目っ気のある笑顔が立派な髭に覆われた口元には浮かんでいた。
「闊達に踊り、健啖に食し、友と己のための一時を過ごすがよかろう」
それだけ言うと王は颯爽とマントを棚引かせて三段を降りる。学生たちが避けてできた道を騎士と侍従を連れて悠々と通り抜ければ、その後には外周で我々を見守っていた貴族たちが続々と加わった。本当に誰一人として外部の大人は残らないらしく、彼らはそのまま大きな正面の扉を潜ってホールを後にするのだった。
「ふぅ……どうしますか?」
再び扉が絞められた途端、あちこちから安堵の息が漏れた。デビュッタントにとって貴族たちの視線はそれだけで負担だったことがよくわかる。四曲目で大人たちは戻ってくるはずなので、二、三曲目とその後の小休憩までが彼らにとっての安息地というわけだ。
「私は二曲目も踊る。食事は……いいや」
同じように深く息を吐いたディーンの問いかけに俺は考えることもなく答えた。壁際には服装を汚さないよう工夫された立食用の豪勢な料理が並べられている。しかしさすがの俺も今回ばかりは食事が喉を通らない気がした。
「そこまでですか……まあ、無理のないように」
最後にそう言い残して自分は食事へと向かうディーン。その位置へするりとした足取りで入り込んできたのはエレナだった。
「ごきげんよう」
「ん、ごきげんよう」
しおらしくカーテシーをする少女に俺はわざとらしく同じようにする。どちらからともなく声を殺して笑った。しかしすぐに俺はその笑いが乾いていくのを実感する。
「……んんっ」
彼女のドレスは俺の物より幾分ボリュームがあった。トップはワンショルダーで、白のグラデーションになるよう数枚の布が重ねられ、そのまま豊かな胸を素っ気ないほどシンプルに包んでいる。私のスカートと同じで高い位置に切り返しが設けられているが、こちらは腰の曲線あたりから極薄のレースが数枚、何段かギャザーになってボディラインを隠していた。
「ア、アクセラちゃん……?」
豊満な胸元は飾らず抑えずスッキリと、腰から下に凝ったデザインを入れて視線を分散させ、そしてくびれを強調して見せる。まったく服飾に詳しくない俺でも分かるほどその意図は成功している。試着で一度見ているのにじっと見入ってしまうほど美しい。
「ど、どうかな?アクセラちゃんと並ぶと、地味になるんだけど」
たしかに色使いや分かりやすい技巧は俺のドレスの方が上だ。伯爵令嬢とその専属侍女なのだ、公的な場所では明確にどちらを目立たせるべきかハッキリさせる。しかしそれでいて、エレナの魅力も十分引き立てたい。そんなステラの意思が感じられる。
「エレナ、綺麗だね」
「あ、うん、ありがと……っ」
薄くはたいた白粉越しでも分かるくらい彼女の顔が赤くなった。それを見てまたひりつく喉を、唾液で湿らせてから俺は微笑む。
「とても、似合ってる」
「えへへ」
その場でドレスを見せびらかすようにくるりと回って見せるエレナ。蜂蜜色の髪が白いショルダーの布にかかってキラキラと輝いて見えた。俺よりもしっかりと施された化粧は彼女の中の幼さを消し、この冬で成人を迎える女の色香を際立たせている。それが仕草の無邪気さと混じって余計に俺の気持ちを揺らした。
「アクセラちゃん?」
「ううん、可愛くて見惚れてただけ」
「え、うっ、ちょ、ちょっと!いきなりそういうこと言わないでよ!」
露出した片側の鎖骨まで色付く。俺はそんな彼女に片手を差し出す。少しだけお腹に力を入れて、いつもよりちょっとだけハッキリと声を出す。
「私と踊ってくださいますか?」
言葉が絶望的に少なくてぶっきらぼうで平坦な、普段通りの口調ではない。ラナにマナーの授業で叩き込まれた、ちゃんとした貴族の令嬢としての言葉遣い。一緒に授業を受けている彼女は俺がやればできる子だと知っているはずだが、一拍を置いて真っ赤に茹ってしまった。
「あ、ひゅ、ひゃい」
彼女は噛み噛みの返事をしながらコクコクと頷いて見せる。ちょうどそこで二曲目の前奏が始まった。一曲目だった黄金のソナタはデビュッタントボールの最初の曲だけあって、国王陛下のご観覧ありきだ。Aクラスなどの主だった者が陛下の前に集まり、その外側にそれ以外が立って踊る。
二曲目が大人も交えてのものであれば、そして彼らが参加せず見守るというのであれば、主役の舞台は外周に移ったはずである。逆に体力のない者は内側でこじんまりと踊る。だけどこの二曲目、果てのファンタジアは学生だけ。好きなように踊ればいい。場所もステップも関係ない、ただ楽しむ曲だ。
「エレナ、手を」
「は、う、うん」
おずおずと出された白手袋の手を下から捕まえる。
「二曲目と三曲目、離さないから」
「あ……はい」
茫然としたようにえらく素直な返事を寄越すエレナ。これ以上は爆発するのでは、と思うほどに顔が真っ赤だ。というのも、エスコートという文化が廃れたこの国だが、ダンスを同じパートナーと連続して踊ることには意味が持たされている。
一曲だけなら、誘われれば誰とでも。
二曲連続は、他の誰かより大切な相手と。
三曲続けるなら、それは手を離すに惜しい印。
四曲踊り通すのは、愛するたったの一人とだけ。
「ちょっと勢い付けるよ」
「え、きゃっ!?」
二曲以上踊る余裕はきっとないから、せめてこの瞬間をできるだけ楽しいものにしたい。俺たちはその夜で一番激しくて速いダンスを踊るのだった。
~★~
入場の瞬間、先陣を切ってダンスホールへ足を踏み入れたと同時に、私は膝から崩れ落ちそうになった。居並ぶ貴族、貴族、貴族。紳士淑女の群れから一斉に向けられる無数の視線と万雷の拍手。その全てが私に「この世界からは逃げられないぞ」と迫るような気がして、手足が震え、呼吸が乱れる。
「アレニカ?」
凛々しい声が私の名前を囁いた。煌めくような軍式の礼服に身を包んだ憧れの人。シネンシス王子。
「大丈夫か、アレニカ」
優雅な微笑みを浮かべて、唇は動かさないままに問いかけてくれる。それは貴族なら誰でも称号の中に持っている『静話』というスキルだ。組んだ腕を強く、けれど優しく支えられる。それだけで私の中から消えそうだった決意が強く光を取り戻していく。
「大丈夫、ですわ」
周囲の貴族たちに悟られないように、昔からそうしてきたように、貴族令嬢としての仮面を心に被る。いや、コレは粉々に砕けたソレを一時の勇気で乱雑に繋ぎ合わせた歪な虚像だ。それでも長年被り慣れた仮面の残骸は、瞬時に私をアレニカ=フラウ=ルロワという高位貴族の長女へと仕立て上げてくれる。
「やはり注目が集まるのはキツかったな。すまないが、一曲目が終わるまでは耐えてくれ」
「耐えるだなんて、とんでもありませんわ。それに私がお願いしてペアになっていただいたんですもの」
「それはそうだが……」
「ネンス様と踊れるからこそ、こうしてここまで来られたんですもの。誰にも譲りませんわよ?」
それは私の偽らざる本音だった。今日この日の為に頑張って来たのも、彼と踊れるなら何を差し出してもいいとさえ思っていたのも。それはネンス様にも伝わったのだろうか。彼は小さく素に近い笑みを浮かべてくれた。
「君は……強いな」
君は強い。君は強い。君は強い。
驚きとも感心ともつかない声で言われた言葉を、何度も繰り返して心に刻む。そう言ってもらえるだけで、私は強くなれる。
そうよ、アレニカ。今日は私の長年の夢が叶う夜で、未練にお別れを告げる夜ですもの。
「ネンス様とのダンス、楽しみですわ」
「そう言ってもらえると嬉しいが、無理はするな」
私たちは一瞬立ち止まりかけたことなんてなかったように微笑みあって歩を進める。ネンス様の言葉を握りしめた私はもう挫けない。会場の中央も過ぎてしまえば、視線をアクセラさんがほとんど持って行ってくれたこともあって負担が一気に軽くなる。
「感謝しなくてはいけませんわね」
アクセラさんのコーディネートには私も少しだけ携わらせてもらった。エレナやマリアさん、それにあまり関りはなかったけれどアティネさんも加わって、四人で仕上げた完璧な美しさ。昔の私ならきっと心がざわざわとしてしまっただろう。今、胸にあるのは感謝だけだけれど。
「……」
「……」
沈黙が降りた。ネンス様はじっと玉座を仰ぎ見て、私はその横顔を見る。
「アレニカ」
「は、はい」
しばらく黙って豪奢な椅子を見つめていた彼が唐突に口を開いた。
「折角だ、始まるまで何か話をしよう」
「お話ですか……そ、そうですわね。えっと」
ネンス様の方からそう言ってもらえたことが嬉しくて、あれやこれやと話題を探してみる。けど今の私はびっくりするくらい世の中のことに疎くなっていて……それに彼も堅苦しい話題は飽き飽きしているだろうし。
「あ、えっと……さ、最近、星を毎日観察していますの」
「星を?」
結局身近な話題しか思いつかなくて、私は思いつく限りその話をした。天文学が好きなこと。キング先生に言われてから毎夜の天体観測が日課になったこと。この国の空には特徴的な星座がいくつもあること。それから星の話が尽きればマリアさんに部屋で手芸を教えてもらったことや、エレナの指導が厳しくて筋肉が酷いことも。
「それでですね」
「ああ」
ネンス様は短く、しかし朗らかに相槌を打ってくれる。時折アクセラさんの鍛錬が強烈すぎて自分も筋肉痛が酷い、なんて共感までしてくれた。私たちはそのまま国王陛下が入場さるまでの短い間を会話に費やした。他愛もない話題ばっかり。けれど私にとってかけがえのない穏やかな時間だった。
「さあ、今宵は一年生諸君らのための夜だ。存分に楽しむが良い!」
雷鳴のようにホールの隅々へと轟く声で陛下が言い放たれる。多くの生徒たちが一斉に立ち位置を調整する中、玉座に最も近い場所でネンス様が半歩引いて手を差し出してくれた。
「私と踊っていただけるだろうか、レディ・アレニカ」
大きくてゴツゴツとした戦う人の手だ。ずっと夢見るだけだった私はつい数か月前まで知らなかった、憧れの王子殿下の手。意外と日に焼けていて、傷痕も沢山あって、絵本の中の王子さまとは似ても似つかない手。けれど、それが何よりも美しい物に見える。
いえ、見えるだけではないわ。民の為に戦う、尊くて美しい手なのだもの。
「はい、喜んで踊らせて頂きますわ」
白手袋に包まれた自分の手を乗せる。レースの優美な布に覆われた私の手も、あの頃に比べたら傷が増えて醜くなった。氷の砦の戦いで何度も長大なロッドの交換に失敗して火傷を負い、最近の練習でも何度か同じ間違いをし、あげく操作を間違えてチャンバーの蓋で指をつめた。そんな傷だらけの手が、ネンス様の手に重ねるこの瞬間になって溜まらなく誇らしかった。
「ほう」
ダンスが始まってすぐ、ネンス様が感心したように息を吐いた。私が小さく首を傾げると彼は楽しそうに笑ってくれた。
「さすがに君はダンスが上手いな。どちらがリードでどちらがフォローだか分からないほどだ」
「ふふ、さっきも申し上げましたでしょう?こうしてネンス様とデビュッタントボールで踊ることが、ずっと夢だったんですわ」
私の返事に彼は何も言わず微笑みを浮かべた。優しさと悲しさを含んだ微笑みを。私はそれを拭い去るように動きのパターンをくいっと変える。リードから主導権を奪うようなことなく、それでいて自分の意志で相手を誘導する。
「驚いたな……今のは?」
「ふふ、私が初めて覚えた技術ですわ」
ネンス様は私の返事に益々驚いたような顔をする。それがおかしくて、楽しくなってしまう。
「さあ、もっと踊りましょう?」
「……そうだな。これは、喋っている余裕はないな」
笑みが重なるのとほぼ同時にデビュッタントにとっての最難関、ピアノデュオが軽快に畳みかけてきた。大勢が必死になって足元へ意識を向ける中、私たちは高レベルの『舞踊』スキルとそれぞれが覚えた技術を組み合わせて優雅に踊る。
「……」
「……」
言葉なんていらない。視線だけで次の動きを伝え合う。リズムに合わせてステップとステップを踏み交わし、勢いとキレのあるターンを決める。
ああ、本当に夢のよう。
筋肉質な腕に導かれるまま裾を翻して舞い、腰を支える手に体を委ねて踊る。憧れの、十年以上も好きだった人の隣で、デビュッタントとしての最初のダンスを。
「ネンス様」
「どうした?」
ピアノソロが終わっても続く至福に包まれながら、私は『静話』を使って切り出した。その間にも続くソナタに合わせて軽快なステップの応酬を繰り広げる。
「私のワガママを一つ、聞いてくださいますかしら」
「というと?」
今度は片手を握り合い、もう片手で相手を支え合い、くるりとお互いの場所を入れ替わる。
「この曲が終わったら陛下と学外の皆様は一度退室されますわね」
「その予定だな」
もう一度くるりと。後ろ抱きにされる形で受け止められる。心臓の音が聞こえてしまわないかと心配になる。
「例年通りなら次の二曲が果てのファンタジアと青い林檎のエチュード。それぞれ長めの曲で、学生だけで好きに踊っておしまい。それから大人の皆様を交えて盛大にダンスですわ」
「本当に詳しいな、君は」
「これでも学生サロンの女主人だったんですもの」
右に滑るように踊り、さらにもう一度くるり。私の言葉に彼は少し苦味を帯びた笑みで黙した。だった、という言葉に込められた意味を想ってのことだろう。けれどもうそのことはいい。私はもう、そこに意味を見出すのは止めた。
「果てのファンタジアを、次の一曲をもう一度、私と踊っていただきたいのですわ」
「それは……」
ネンス様の呼吸がわずかに乱れた。
「……」
連続で踊ることの意味は誰だって知っている。そしてその申し出は立場が上の者からするのがマナーで、私の方から二曲目もと強請るのはナシだ。いくら気安く話ができるからといってそれを踏み越えるのは……ネンス様が黙ってしまうのも仕方ないこと。けれど引き下がらない。
「ご迷惑になることは分かっていますわ。決して青い林檎のエチュードも、などと言いません」
ネンス様は少しだけ困ったような顔をして考えを巡らせている。私の申し出が他の女性からのものなら、きっと彼は如才なく相手を気遣った断り文句を述べてうまく切り抜けるのだろう。そう思うとちょっと嬉しい。
「もう少しだけ、私の夢の果てにお付き合い頂けませんか?」
重ねられた言葉に彼の眉が片方だけ上がる。
「夢の、果て?」
そこに不穏なものを感じ取ったようでジッと視線を注がれる。そういう意味ではないと分かっていても、それだけで体温は勝手に上がっていく。鼓動が一段と早くなって、顔が火照る。
「は、はい」
勝手に震えてしまう声をなんとか抑えて頷いた。ネンス様はまた少し考えるような顔になる。合わせてそれまで繰り広げていたような駆け引き混じりのダンスから、スキルに頼ったセオリー通りのそれに代わる。ゆっくりと、ゆっくりと時間が流れるような感覚。
これも、悪くないわ。
そう思いながら身を任せていたときだった。
「……そうだな」
演奏が終盤に差し掛かった頃、おもむろにネンス様が口を開いた。
「二曲目も喜んで踊らせていただこう」
「っ」
真っ直ぐに見つめてくれる瞳と偽りのない強い言葉。心臓がドクドク、ドクドクと煩いくらいに早鐘を打つ。二度までだと分かっていて、明確に言葉にされて、それでもその先を望んでしまいそうになる。
「ありがとう、ございます」
笑みの形に崩れそうになる口元と、反して溢れそうになる涙。その両方を継ぎ接ぎだらけの仮面に隠して私は頷いた。丁度、一曲目が終わった瞬間だった。




