十一章 第26話 冬の大社交界
日暮れにはまだ少しの猶予がある頃合い。その日、普段は閉ざされている王立学院の大門が広々と開け放たれた。少し離れた王都から様々に飾り立てられた馬車とそれを護衛する騎士がやってきて、くぐった先にある広場へ停止する。張り込んだ衣装を纏う貴人貴婦人が次々に下車していく中に、立派な髭を蓄えた一人の中年子爵の姿があった。
「招待状を拝見いたします」
緊張した様子の警備が言う。子爵は従者に命じて家紋が刻まれたメダリオンと今宵開かれる学院の大社交界の招待状を提示させる。それから去年までなかったはずの魔法とスキルによる持ち物検査を受けた。
「このところ事件が続いておりますので、ご容赦ください」
「ああ、構わないよ」
異端者メルケと彼の引き入れた悪魔による痛ましい事件は髭の子爵の記憶にも新しいものだった。頷く彼とその従者に警備は頭を下げ、奥へと通した。
「さて、今年の飾りつけはどうだろうか」
例年、社交界のダンスパーティーが開かれる記念ホールへの道は無数の魔法で彩られる。装飾用の魔法はそもそもそう多くないのだが、代わりに攻撃魔法よりも低いレベルで習得できる物ばかりだ。バリエーションに富むわけではないものの、普段目にしないそれらが贅沢に使われる様は、多くの魔法使いの卵を抱える学院だからこそ。それを招待された貴族の多くは楽しみにしているのだ。去年と同じくワクワクとした気持ちで視線を記念ホールの方へ向けた髭の子爵は、そのまま硬直した。
「これは……また、なんとも……」
ふさふさ髭を撫でて驚きと感動、そして若干の畏怖の籠った声を漏らす。なにせそこに広がっていたのはたっぷりと装飾魔法を重ねがけた普段のキラキラとした光景ではなく、もっと異質で強烈なものだったのだ。
「これは、騎士団……?」
広々とした石畳の道を挟むように左右二列の隊列を組んでいるのは、騎士を象った氷の彫像達だ。実際の人間より二回りほど大きな体に統一された鎧とサーコートを纏い、長剣を眼前へ掲げて最敬礼を示している。彼等の隣には同じく氷でできた大柄な軍馬が轡を並べ、その全てが等間隔に焚かれた大きな篝火に照らされて、今にも動きだしそうな迫力を秘めていた。
「魔法、なのか?」
「確かに魔力の流れを感じる……」
「これほど精緻な氷像をこんな数で用意するとは」
「いやいや、さすがに先生方の作られた物では?」
「だとしても氷魔法は上級属性ですぞ」
「生徒の質が例年より高いのか、あるいは教師の質が高くなっているのか……」
近くにいた顔見知りと感想を呟きながら、貴族たちはまるで氷の精の城に招き入れられたような気分で記念ホールへの道を進む。そして見えてくるのは、豊かな実りを迎えた麦畑。それと見上げるような荘厳なアーチ状の門。その左右を守る優美な女神像。全てが全て氷で作られた精巧な芸術品だった。
「素晴らしい造形だ!」
「だがこれだけの氷像、作ってから維持するだけでも相当な魔力が必要になるはず」
「全くどうなっているのか分かりませんが……」
氷のオブジェだけではない。昔ながらの装飾魔法による灯りが麦畑や門を盛大に飾り立てていて、伝統的な雰囲気もしっかりと押さえている。その全てを賄う魔力となると、想像するだけで血の気が引く。
「しかしなんというか、若干威圧感がありますな」
「それは……うむ」
魔法の腕前に感嘆しつつ、舞踏会と言うには少々ならず武威に偏った飾りつけだと言えた。色とりどりのドレスを纏った淑女たちも凍えんばかりの氷像群に顔色が悪い。そんな中で一人歩調を落として髭の子爵の横へやってきた男爵が言う。
「どうもどうも」
「ああ、お久しぶり」
「この氷の像、二年生に甥がいるのですが、それが言うには半分を教師と三年生が、そして残り半分を一人の生徒が作ったそうで。信じられますかな?」
「それは、さすがにちょっと……」
髭の子爵が困ったように豊かな髭を触ると、隣で聞いていた別の子爵が歩み寄ってくる。
「それはアレではありますまいか。先日の反乱鎮圧で勲一等を賜った……名前が出てこないのですが、氷で砦を生み出してそれを数日維持し続けたという」
「エレナ=ラナ=マクミレッツじゃな。式典の際に一目見たが、愛らしい少女じゃった」
「ほう、あの話は本当でしたか」
あげくに同派閥の老いた伯爵まで会話に混じってきて、あれよあれよという間に髭の子爵は氷の門を見上げ立ち話をする集団に巻き込まれてしまった。
「氷の砦を生み出す力を惜しみなく使うとなると、こういうデザインになったのかと」
「うぅむ、素晴らしいのだが、やや舞踏会には不向きなような」
「華がないとまではいわぬが、もう少し鮮やかな魔法が欲しいところじゃな」
困ったように唸る貴族がいる一方、逆にこのセンスを絶賛する者もいた。
「何を申されるか、素晴らしいデザインだ!」
「そうであろうか……ああ、うむ、貴殿か。まあ、貴殿好みだろうな」
振り向いた高齢の伯爵はなんとも言えない顔になった。それを見て髭の子爵も苦笑いを浮かべる。そこにいたのはガッシリとした肉体を質実剛健な装いに包んだ中年の偉丈夫だった。燃え上がるような赤い髪をピッチリと撫でつけて貴族らしさを醸し出しているが、全身から立ち上る気配は戦士以外のなにものでもない。正規騎士団の副団長、フォートリン伯爵だ。
「確かに私の好みにも合う。だがそうではない、ただ勇猛なだけであればこの舞踏会には似つかわしくなかった。しかし見られよ、あの豊かな麦畑を。それにあの門に刻まれたレリーフを!」
言うのが騎士団の重鎮だけあって、周囲の貴族たちは目を凝らして門を見上げた。なにせ氷だ、非常に見えづらい。見えづらいが……よく見れば確かにいくつもの彫刻で一つの物語が演出されていた。苦しむ農民、鎖に繋がれた神官、肥え太った王、そしてそれを正さんと進軍する若き英雄と彼の騎士たち。
「あれは、建国の物語ですか?」
髭の子爵の夫人が言う。
「そうとも。そして左右の女神像はそれぞれ創世神と戦幸神……つまりこれは我らがユーレントハイムの建国を言祝ぐ壮大な氷像群だ。実に素晴らしい!」
「なんと、たしかにその通りだ!」
髭の子爵は目を見開いて言った。一方で高齢の伯爵は首を傾げる。
「いや、目を凝らさなくてはいけない時点で上滑りしておらんか……?」
周囲の反応は納得と呆れに二分されたが、フォートリン伯爵は大きく頷いて更に口を開く。
「なにせ今年は図らずも改革の一年になった。来春からは新しい大臣も誕生する。これを氷の中から始まる新しい王国の象徴と捉えるセンス、私は大いに気に入った!はっはっは」
と、言いたいことだけ言って偉丈夫は門を潜って行ってしまった。
「賑やかなお人だ」
「少し寒さが和らいだような気さえしますな」
「まあ、あまり立ち話をしてはお嬢さん方が凍えてしまう。進もうかのう」
高齢の伯爵の言葉に一団はのろのろと足を動かし始める。
「そういえば先ほどのエレナという少女の話ですが、詳しく教えてもらえないますまいか」
「卿は、そうか。南方から今日の為に来られたのじゃな」
知り合いらしき浅黒い肌の紳士に話しかけられた高齢の伯爵が頷く。反乱の件は北方や王都では吟遊詩人が出張ってくるほどの話題になっていたが、距離のある南方と情報的に隔絶している当の学院はやや蚊帳の外であった。
「先の夏に起きたトワリ侯爵の乱心の際の話だがな……」
「ほう、学生が……」
「エレナと言う少女は魔法使いで……」
「マクミレッツ家といえば……」
「そう、オルクス家の……」
交わされる会話に髭の子爵やその他の大勢も耳を傾けていたが、最終的にその場の全員が思ったことは大体同じだった。すなわち「なんという才能の無駄だろうか」である。オルクス家が行った前代未聞の暴挙、お家興隆以来の主を一方的に乗り換えるという行為は貴族のタブーそのもの。当主たるオルクス伯爵はザムロ派でも大多数には鼻つまみ者とし扱われており、公然の秘密と化している裏の仕事も合わせて界隈のよくない人物とも昵懇の間柄。大魔法使いになるだろう才気あふれる少女が、そんなオルクスの娘の乳兄弟というのは国家的な損失と言えた。
「しかし当のオルクス家の娘、アクセラでしたかな、彼女も勲二等を賜っているとおっしゃいませんでしたか?」
南方から来た男爵が首を傾げる。それに高齢の伯爵は肩をすくめた。
「どうじゃろうか……魔獣を単身で討伐したと言うが」
「十五歳の剣士でそれは、もし本当なら大英雄の卵ですな」
「エレナ嬢が天才であるなら、アクセラ嬢の方もありうるのでは?」
「そう易々と落ち目の家に天才が生まれてはたまらんよ」
高齢の伯爵が言うことは、たしかにこの場の大勢が思ったことだ。だが髭の子爵は一方で事実無根の功績で勲二等という栄誉を与えられるだろうか、とも思った。彼の王がそのようなことを許すだろうか、と。獅子の様に泰然としたイエロートパーズの瞳を思い出してぶるりと震える。
「なんにせよ学院の中ですから、調べようにも難しいですな」
「トライラント伯爵とお会いできればよかったのだが、今宵は出席されないそうだ」
「まあいいではないかのう。遅かれ早かれ、このあと実物を目にできるのじゃ」
「しかしあの父の娘ですからねぇ。どれほど愛らしいご令嬢か……」
誰かの皮肉に忍び笑いが漏れる。髭の子爵と南方の男爵だけは居心地悪そうに顔を顰めたが、それでもあえてその物言いを正すことはしなかった。年頃の少女が聞けば泣き出してしまいそうだとは思ったが、目つきの悪い肥満体形の伯爵を思い浮かべるに否定の言葉は思いつかなかったのだ。
「皆さま、控室はこちらでございます」
温かい室内に入ってからもしばらくは談笑しつつ記念ホールの中を進んでいた彼らだが、受付にて名乗りを済ませたところで各々の控室へと通される。伯爵以上は個室へ、子爵と男爵はそれぞれの大部屋へ。限られた土地しかない学院ならではの分け方だ。
「さて」
髭の子爵は開場まで自分自身の社交、つまり他の子爵たちとの旧交を温める仕事に乗りだす。
「お久しぶりですな」
「これはこれは」
「先日はどうも」
「ご子息の結婚式以来か」
「その節はありがとうございました」
「春が来たら狩りにでも行きましょう」
「ああ、それはいいですな」
髭の子爵は中央に職を持ち、領地の類は持たない法衣貴族だ。しかも野心があまりなく、かといって軽んじられるほど中身のない仕事もしていない。顔が広く、人当たりもいい。そんなわけで一通り知った顔を拝んで回る頃には、窓の外はとっぷりと暗くなっていた。
「おや」
彼はそんな頃合いになってようやく控室に入って来た知り合いを見つけて歩み寄る。さきほどの伯爵ほどではないが、一回り以上も年嵩の子爵だ。元は騎士で体格もよく豪快、しかし洒落者で通っている。そんな相手だった。
「どうも、ご無沙汰しております」
「おお、貴殿か。久しいではないか。息災か?」
年嵩の子爵は豪奢なレースをあしらったドレスシャツにこれまたコッテリと金糸で刺繍を施した上着を纏い、気さくな様子で髭の子爵の背を叩いた。
「おかげさまで。しかし相変わらず立派な物をお召しだ。羨ましい限りです」
「なんだなんだ、貴殿にならいつでも仕立屋を紹介してやるというのに!」
「ははは、お気遣いだけで遠慮させていただきますよ。卿ほどの立派な体躯なくして纏おうものなら、きっと衣装かけに間違えられて控室に連れ戻されますな」
「老いぼれを捕まえて世辞を言うとは、貴殿はまったく小癪なやつよ。ハッハッハ」
軽い冗談を交わしつつも話題はすぐさまこの後のイベントへ移った。
「貴殿は一通り巡ったあと、どのフロアに向かわれるのかな?」
学院の大社交界は一年生から三年生まで記念ホールに用意された別々の舞踏会場で行われる。その開会は時間をずらして行われ、祝辞を送る国王陛下とともに多くの招待客も会場を移っていくのだ。
「私は三年生でしょうな。あいにくと私も息子たちも伴侶はすでにいますし、法衣貴族が青い麦に手を付けると煙たがられるので」
「ふぅむ、即戦力になる部下を見繕う算段か」
「ええ」
二年生と三年生の中にはこの舞踏会で卒業後の仕事や婚約者を見つける者がいる。招待された多くの貴族にしても、部下や伴侶を探しに来ている者は多い。全て卒業後、それも学生の家が頷けばという但し書き付きだが、一歩先んじて才気ある若人を取り込みたいと誰もが思っているのだ。そのために着飾り、ダンスを磨き、話題を集め、互いによりよい相手を探す。ここは華やかな戦場である。
「私はそうだな……特に探している相手もいないことだ。上級生の止まり木になるもよし、一年生のダンス発表につきあってやるもよし」
青い麦こと一年生が踊るデビューの舞踏会をデビュッタントボールと呼ぶが、そこでは基本的に仕事の話も縁談の話もしないことになっている。海千山千の貴族たちだが、彼らはほぼ例外なくこの学院の卒業生。老獪な胸の内を隠して少年少女には楽しい夜会を経験してほしいと、そうした不文律を作っているのだ。社交界は戦場だが文化的で楽しい場でもある、という貴族らしい矜持がそこには表れている。
「老いた私は可愛いお嬢さんと踊れればそれで満足だ。ハッハッハ」
「またご冗談を」
毎年この年嵩の子爵が戦場で疲れた上級生に近づき、なんの下心もないダンス相手として一時の休憩を提供していることは知っている。あるいはまだステップの下手な一年生に足を踏まれる大役を率先してこなしていることも。しかし髭の子爵がついついその物言いに笑みを浮かべたところ、年嵩の子爵はずいっと顔を近づけた。
「ご冗談なものかね。いいかい、貴殿もあと十年歳を取れば分かる。若者とダンスを踊ることほど体に効く薬はないのだよ」
髭の子爵は笑みを深める。
「あとは強き者との剣の立ち合い、ですな?」
「おお、分かっておるではないか、ハッハ」
「毎年仰いますから、もう暗記しておりますよ」
「おっと、いかんな。これではいよいよ年寄りだ」
そんな気さくなやり取りを楽しんでいると、控室の扉を開けて警備の制服を纏った男が入ってくる。
「皆様、陛下のお召し馬車が大門をくぐられました。一年生のホールまでお越し願えますでしょうか」
「もうそんな時間だったか……では楽しんでくるとしよう」
襟を正して先陣を切る年嵩の子爵に髭の子爵も追随する。
「今宵の学生たちはうまく踊れるだろうか、心配だね」
「ええ、毎年見ているだけでソワソワとしてきますから」
「そういう君は一年生の折に、今の奥方の裾を踏まなかったかね?」
「その話はよしてくださいよ、もう十五年も前の話だ」
小声で思い出話に浸る他の貴族と廊下を進みながら、誰も彼もが自らの学院生活や子供たちの時のことを思い出していた。警備の者たちから記念ホールの通路をひそかに懐古の道と呼ぶ所以である。しかしノスタルジーに浸れる時間はそう長くない。先に通された男爵たちと警備、それに給仕しかいない会場へ到着したからだ。
「こうして主役が来るのを待つのも気が落ち着かないものだな」
年嵩の子爵が漏らしたつぶやきに数名が頷く。すぐに伯爵たちがやってきて、最後にそれ以上の位を持つ者が数名入室する。招待客であるはずの彼らがこうやって先に場を温め、多少の賑やかさを演出しておくのも学院の社交界ならではだ。客もいない場所に学生だけ先に入れたのでは緊張でおかしくなってしまう、という配慮である。
「皆様、本年の王立学院一年生一同が参りました。若き紳士淑女の入場を拍手でお迎えくださいますようお願いいたします」
よく通る声で警備隊長だろうか、一番立派な鎧の者が宣言する。多くの視線が集まる中、ホールの末席に設けられた大きな扉が開かれた。壁際と二階に配された楽団が『合奏』スキルで完全に調和した音色を奏で始め、貴族たちが万雷の拍手を送り、奥の玉座前まで広い道ができあがる。
「おお、来たぞ」
二列に並んだ生徒たちが、精一杯着飾って背筋を伸ばした少年少女が、手を取り合って扉を潜った。
「王子殿下だ」
「ご立派になられて」
先頭はやはりアッシュブロンドにイエロートパーズの瞳の少年。シネンシス=アモレア=ユーレントハイム。王族の軍装でもある豪奢な上衣を着こなしている。その彼に手を取られているのは深紅の目と特徴的なストロベリーブロンドの少女、アレニカ=フラウ=ルロワ。濃い青に白が差されたドレスを纏っている。
「ルロワのご令嬢か」
「ああ、例の噂の」
「止したまえよ、こんな祝いの場で」
小さな声が交わされたが、周りに制され掻き消える。なにせ今宵は一生に一度の祝いの場。道中でゴシップを嗜んでもココに持ち込むのはスマートではない。
「殿下は友人想いに成長されたのだな」
「武勇にも優れていると示されたばかりだし、次代も安泰だ」
「ルロワ家の御令嬢をごらんなさい、顔が真っ赤だ」
「初々しいことですな」
ユーレントハイムの風習において社交界のエスコートという役割は形骸化し廃れている。婚約者がいれば話は変わってくるが、手を取り合って入場することに仲が良い以上の理由は必要ない。それどころか男女ペアである必要もなかった。つまり二人の取り合わせに本気で大騒ぎする者は誰もいないのである。そんなことよりも自分の前を通り過ぎる若人に拍手を送る方がよほど重要事項だった。
「フォートリン卿のご子息が来たぞ」
「隣は、さすがにロンセル家令嬢か」
大人たちの目の前を凛とした佇まいで有名な許嫁たちが通って行く。雪のように白い騎士服を纏う赤毛の少年と、白地に黄色が重ねられたドレスを着たアイスブルーの目の少女。二人は他のペアよりしっかりと手を握り合い、ときおりお互いを見ては微笑んでいた。
「見せつけてくれるわい」
「ええ、口の中が砂糖でジャリジャリとしそうなくらい」
「羨ましい。本当に、本当に羨ましいッ」
「卿、男の嫉妬は見苦しいですぞ……」
そんな調子で軽いやり取りを続けていた貴族諸氏であったが、しばらくして一人の少女が現れた途端に会話の熱が跳ね上がる。
「おお、あれはエレナ嬢ではないか?例の、勲一等を得たという」
軽薄そうな茶髪の少年にエスコートされて歩む一人の少女。はちみつ色の髪を軽く巻いて白いアシンメトリーなドレスを纏い、この場で委縮する様子もなく凛とした姿勢を保っている。初夏の草原のような緑の瞳はシャンデリアの光でキラキラと輝いて、希望と喜びに満ちて見えた。
「噂以上に可愛いじゃないか」
「ドレスが若干地味な気もしますがね」
「いやいや!一見大人しいが、あれはスキルレベルの高いお針子が手掛けておりますよ」
貴族ではないとはいえ、父の生まれは由緒正しい子爵家。良家の淑女らしい佇まいだ。髭の子爵はしかし、その中に滾る何か凄まじい力を感じ取って背筋を正した。宮廷魔法使いや高位の冒険者を前に喋っているような、そんな感覚が彼を襲っていた。
「あの可憐な少女が狂ったトワリ卿を討ち取ったと?あんな華奢そうな子が?」
「魔法使いならばおかしな話ではないんじゃないか。戦場が似合うとはとても思えないが」
囁き合う若い男爵と伯爵子息に年嵩の子爵が肩をすくめる。
「文官の貴殿でも震えたというのに、あやつらと来たら……」
「まあ、若さゆえでしょう」
髭の子爵が肩をすくめて若者に視線を向ける。年嵩の子爵もそれにならうと、ちょうど二人がゴクリと喉を鳴らすところだった。
「しかしまあ……デカいな。まったくもって、デカい」
「ああ、うむ。絶対にあとでダンスに誘おう」
年嵩の子爵が呆れたように目をぐるりと動かし、口の中で「品のない」とつぶやく。周囲の大人たちも呆れ半分、苦笑半分といったところか。たまたま聞こえていたであろう淑女たちからは白い目で見られているが、髭の子爵は自分の若いころを思い返して生暖かい視線を送るにとどめた。
「いや、卿ら!あれは、あの白髪は……」
弛緩した空気の中で生徒たちの列を眺めていた髭の子爵だったが、だれかが囁きというには鋭い声を発したのでそちらへ目を向ける。
「白?」
「レグムント家の白、だと?」
「今代の生徒でレグムントの色を継いでいるということは……」
「やはり……あれがオルクス家令嬢、アクセラ」
貴族たちの視線を一身に受けるその少女は、小さかった。背は腕を組む大柄な男子に比べると胸ほどの高さしかなく、噂に聞く勇猛果敢な戦歴に照らすと異常なほど華奢で、目も鼻も口も全てが体格に見合う小ささだった。しかし、存在感があった。髭の子爵は勲一等の少女に感じたよりもはるかに大きな衝撃を受けていた。
「あのドレスは一体どこの工房の作だ……」
「ああ、とんでもない『裁縫』のレベルを感じる」
少女の纏うドレスは既存のパターンから大きく外れたものだった。胸下で切り返しのあるシンプルなエンパイアシルエットだが、生地はあまりに鮮烈な燃え立つ炎の赤。高い位置まで覆うネックから始まり、深くカットされた肩口、そして胸元へと広がるは白銀の梢を象った精緻なレース。黒い長手袋は左が肘を越えて、右は手首までのアシンメトリー。
「ドレスも凄いが、あれが本当に例のオルクス家の娘なのか?」
「父とそっくりなどと言ったのは誰だ!?」
「なんとまあ風格のある……」
誰かがゴクリと唾を飲みこんだ。小柄で決して肉感的とは言いづらい体形に流れるようなシンプルなシルエットのドレスを纏いながら、彼女は全くと言っていいほど貧相ではなかった。むしろ余計な飾りなど本質を隠すばかりだと切り捨てるような、隔絶した美しさがある。
「ドゥマーニの戯曲にある勇者クレオーラのようだ」
そう、誰かが言った通り、名工の手による英雄の彫刻を思わせる美しさがあった。
「ああ、なんと……」
自分たちの方へと近づいてくる人間離れした少女に髭の子爵はため息を吐く。薄っすらと化粧の施された顔立ちは恐ろしいほどに整い、表の氷の彫像に感じたような冷たささえも感じさせる。しかしドレスの赤と唇に差された薄紅色がその印象を打ち砕く。情熱的で未成熟な色香を漂わせる。複雑に編み込まれた髪型がそこへ優雅ささえも添えている。
「なんなんだ、あの娘は」
別の誰かが茫然と声を漏らした。それが男も女も、彼女を見た多くの者の感想だった。
「彫刻……?いや、違うな。あれは、刀剣の美しさだ」
呆けてしまう者が多い中、年嵩の子爵がそう呟いた。
「刀剣、ですか?」
髭の子爵の問いに彼は一言も発さず深く頷く。少女は今、まさしく子爵たちの前を通り過ぎるところだ。苛烈な赤のドレスが少女の内側に燃え盛る意思の強さを引き立て、銀の梢がその老成した紫の瞳とともに静寂を齎している。
「ああ、確かに……」
髭の子爵は立場柄、大勢の強者と出会い、ときに仕事を任せてきた。そうして磨かれた目に今ならくっきりと映る。彼女はまるで炎と雪の精霊が手を取り合って作り上げた鞘に収まる、一振りの宝剣だ。そこにあるのは鋼の美しさだ。炎に鍛えられた、強さからくる美しさだ。無駄な物は一つとしていらない、ただそこに在るだけで美しい。
「これは、一年生のフロアに大勢が戻ってきそうですね」
髭の子爵がハンカチで額を拭いながらなんとか微笑む。あれほど美しい少女の魂が剣のようであることに感動を超えた恐怖を覚えていた。心を落ち着かせるように数度呼吸を整える。
「だがあれでは他のお嬢さんたちが可哀想だな」
「それはまあ……そうでしょう」
髭の子爵と違い汗一つかいていない年嵩の子爵はもうオルクスの令嬢から視線を外している。彼もそれに倣うが、どうしても今のを見た後だと粗が目についてしまった。これから始まる初めての舞踏会が本格的な恋人探しの場でなかったことは不幸中の幸いだが、少なくとも出だしはやや居心地の悪いものになったことだろう。
「しかしこれは予想以上に楽しい夜になりそうだ」
年嵩の子爵がいつもより少し熱量のある笑みを浮かべるのを、髭の子爵はなんとも言えない気持ちで見るのだった。
~予告~
王の御前にて始められる舞踏会。
それぞれの心情を胸に、少年少女が踊り出す。
次回、一曲目、黄金のワルツ




