十一章 第20話 副学院長
「必要ない」
威厳のある重苦しい声に台詞を遮られ、私はその源へ視線を向けた。瞬間、我々は一気に肺が締め付けられるような感覚を覚える。
「ふ、副学院長先生……」
堂々たる高身長と肩幅を品のいいスリーピースに包んだ眼鏡の男性。この学院の教師をまとめ上げ、運営委員会の下で実質的な学院の管理者を務める人物だ。理知的な光を宿した鋭い眼光で彼は気絶したままのベルベンス、私、レイルたち、そしてヴィア先生を見回した。
「副学院長、これはッ」
慌てて前に出たヴィア先生。対する副学院長は困ったように口元を撫でた。
「まさかこれほど急に事態が動くとは、私の読みもまだまだ未熟ということか」
「これは、彼らなりに理由があってのことです!そして監督責任は私にあります、ですからっ」
言い募ろうとする我々の担任を彼は片手で制し、自らの背後に軽く視線を向けた。
「ヴィヴィアン先生、慌てないでくれたまえ。事情と経緯は彼に聞いている」
そこには我々がよく知る人物が、ぜえぜえと息を荒くしながら立っていた。ずり落ちかけた眼鏡をなんとか指で押さえながら、声もなくこちらへ頷いているのは……アベルであった。
「その、僕は、はぁ、剣も、ぜぇ、魔法もっ、できませ、はぁッ、できませんから」
教員棟はここから遠い。その最上階にある副学院長の部屋まで走ったのだろう。あるいはそこからさらに探し回ったかもしれない。とにかく、アベルはもともとない体力の限界まで走ったようで、少し喋るにも呼吸困難になりそうな有様だった。
「アベル=ローナ=トライラント。君はもう少し体を鍛えたまえ。文官や官僚とて、最後は体力勝負だ」
そんな彼とは対照的に汗一つかいた様子のない副学院長はそう苦言を呈しつつ、少しだけ微笑んでこう付け加えた。
「だがその勇気と機転は高く評価されるべきだ。よくよく励むといい」
「あ、ありが、とう、ござい、ます」
ようやくの様子で答えたアベルはそのまま尻餅をつく。
少なくとも敵対的な理由で来たわけではなさそうだが……。
態度から事情も知らずに我々を取り押さえにやって来たわけでないことだけ、なんとか察する。しかし私たちが私たちの理由で動いたように、副学院長には秩序の守護者としての動く理由がある。そうであるからには、彼は必ずしも味方とは言えない相手だ。
「しかしまあ、派手にやったものだ」
周囲をぐるりと見回して彼は小さく呟いた。グラウンドの硬い地面は踏み割られ、熱波と冷気の激突によって土埃が周囲を覆い、あげく倉庫の一つは壁をブチ抜かれている。あの勢いでは中の武具も無事ではあるまい。
「副学院長、彼らは私の生徒です。責任なら私が取ります」
もう一歩前へ出たヴィア先生が毅然と胸を張った。それをチラリと見やって副学院長は細く息を吐く。
「ふむ。ヴィヴィアン先生、真っ先に生徒のために進み出る姿勢は素晴らしい。しかし、本当にそれが生徒のためになるかね?」
「……」
ある種、挑発するような物言いだった。しかしヴィア先生は言い返さなかった。その表情には彼女自身が今回の我々の行動を褒められたものではないと思っていることが、はっきりと浮かんでいた。
なるほど。
私は一人、心の内で頷く。ヴィア先生の動く理由はシンプルだ。我々を教師として守る、その一点で彼女は動く。そんな彼女にとってみても、副学院長は味方と言い切れない相手なのだろう。だから警戒している。
「私が言っているのは練習場の被害ではない、もっと根本的な部分だ」
「……ベルベンスに挑んだことですね」
しかし、その副学院長の言葉でヴィア先生の警戒が目に見えて薄らいだ。
「ベルベンス先生と呼びたまえ。君は遠征で一皮むけたと思っていたが、少々むけ過ぎた感があるな。殺伐としすぎている」
「こんな人が私の生徒を教えていたんです。殺伐ともしますよ」
彼女の棘のある返事、あるいは愚痴のような言葉に副学院長は肩を竦めた。そしてすぐ本題に戻る。今度こそヴィア先生はなにも言わなかった。
「1-Aの諸君。君たちは彼の性格を知っていた。ならばこそ、自分たちだけで啖呵を切るなどと言う暴挙をするべきでなかった。この意味が分かるね?」
理性的な声でそう言い、彼は壊れた倉庫の方へ視線を向ける。クラスメイトの肩を借りてロミオが出てくるところだった。
「見たまえ。大怪我までは至っていないが、一歩間違えればどうなっていたと思う」
「お言葉ですが、副学院長先生。我々は何度か学院側に状況の改善を申し入れました」
私の口を突いて出た反論に、内心で「そう言うことではないのだよ」と否定されるだろうという思いが沸き起こる。そしてそれが事実であることも、よく分かっている。しかし……。
「シネンシス=アモレア=ユーレントハイム」
久しぶりにフルネームを呼ばれた気がする。まるで父に叱られるときのような嫌な感じがした。嫌な感じだが、同時になんとも言えない優しさも感じさせる声だ。
「たしかに、君の憤りはもっともなことだ」
返ってきたのは意外な言葉だった。
「もっと信用したまえ、などと言えるほど信用を稼いでいなかった私の落ち度と言えるだろう。その点に関しては理由があったとはいえ、君たちに辛い思いをさせて申し訳なかった」
スリーピースのジャケットの襟を正して副学院長は深く頭を下げた。どよめきが生徒の間に広がる。私も驚いた。我々の視線を一身に浴びながら彼は顔をあげ、手袋に包まれた指先で眼鏡の位置を正す。それからゆっくり首を横に振った。
「だが問題はそこにない。分かるだろうか」
概ね最初の予想通りの言葉。だが自らの非を認め、我々の感情を受け止める姿勢を見せた副学院長の言葉だ。私はそれを自分で思っていたよりもずっと落ち着いた気持ちで受け取ることができた。
「……ベルベンスに啖呵を切る前に、その熱量で他の先生に直談判するべきだ。そういうことですか」
「その通り。それとベルベンス先生だ。気を付けたまえ」
副学院長は微笑みを浮かべて諭すように続けた。
「もちろん、言うほど簡単でないことは察しよう。だがヴィヴィアン先生は信用に足る姿勢を見せて来た。少なくともシネンシス、君にはそれが分かるはずだ」
黙すしかない。ヴィア先生が誰よりも我々の味方でいようとしてくれていることは分かっていた。彼女はコチラ側だと知っていて、それでも頼らなかったのだ。それは私たちの選択であり、質されればまさしく間違い以外の何物でもない。
明確な理由があるわけではないが……そうだな。
自分たちの手でなんとかしたかったのだろう。あるいはできると信じたかったのかもしれない。アクセラのためという以上に、自分自身がベルベンスに屈したくなかった。そう思えば、酷く子供っぽい我儘にも思えてしまう。
なんにせよ根回しを無視しすぎたのは事実だ。気を付けなくては。
「さて」
微笑みを消して私の横を通り過ぎた彼は、気絶したベルベンスのすぐそばまで進み出る。
「ベルベンス=ファーン=フィクラ」
「……うっ」
名前を呼ばれたから、ということもないだろうが、ベルベンスが呻いて目を開けた。状況が分からないのか、頭を残っている方の手で押さえながら副学院長を見上げた。
「ベルベンス先生、授業を名目にした暴行と生徒への致死性スキル攻撃という重大な逸脱行為……弁明を聞こう。説明したまえ」
その言葉に茫然としていたベルベンスは目を見開き、ヴィア先生も困惑の表情で眼鏡の男を見る。
「ふ、副学院長、まだこの男の言い分を聞かれるのですか!?彼は……っ」
「な、何故だッ!俺は、俺は逸脱行為など……俺は騎士の教練をッ」
ヴィア先生の言葉を遮りベルベンスは血の気の引いた顔で叫ぶ。その勢いで立ち上がろうとし、しかし脳震盪と貧血でそのまま尻餅をついた。副学院長はゆっくりと首を横に振る。
「ここは騎士学校ではない。貴君は教官ではなく先生で、彼らは騎士見習いではなく学生だ。教練など課しておらず、ここで行われているのは生徒のための授業なのだよ」
「そのようなお題目ッ!」
反駁しようとした黒い敗残騎士。彼を見る冷たい眼差しがギュッっと絞られる。突如生じた圧に黙って成り行きを見守っていた生徒たちも、ヴィア先生も、そしてベルベンス本人も身を竦ませた。
「お題目?」
問い返す副学院長の声は視線以上に冷たく、しかし内側にベルベンスの怒りにも似た熱を秘めている。とても今さっき、学生相手に深々と頭を下げたような人間には思えないほどの荒々しい気配だ。それでいてその語り口だけは非常に理性的。
「舐めたことを言ってくれるではないか、ベルベンス=ファーン=フィクラ。そのお題目こそ王立学院を作り上げた過去の国王の志であり、この国を栄えさせてきた誇りある貴族を育てたモノ。我々教師がその身命を賭して全うするべき使命なのだ」
そっと手袋に包まれた大きな手が眼鏡のブリッジを押し上げる。ギラリと移り込む光が剣呑に輝いた。
「暴力と血筋だけでここに迷い込んだ貴君には理解できないかもしれないが」
「なんだとッ!!」
今度こそ跳び起きようとしたベルベンスだが、副学院長は労わるようにその肩を押し返して再びグラウンドに尻餅をつかせる。
「しかし貴君には私も同情している」
ふと副学院長は声のトーンを変えた。やや芝居がかったようなニュアンスだ。
「同情、だと?」
「ベルベンス=ファーン=フィクラ、一代で兵士から騎士を経て男爵まで上り詰めた先代が逝去された際に君はほんの五歳だった。そうだね」
レイルからも聞いた話だが、それをこんな四十手前の男に言って何になるのか。そんな疑問に私たちが首を傾げても副学院長はベルベンスだけを見つめている。
「堪えきれない怒りの火種が灯ったのはその時のことか?それともコーキンス辺境伯に隠れて他のボンボン共に身分と血を馬鹿にされ、痛めつけられた時か?あるいは女性の冒険者に打倒され、騎士学校の仲間内で嘲笑されたときだろうか?」
「ッ」
黒い騎士の額にビキビキと血管が浮かぶ。顔色が赤くなると同時に鎧の縁もまた色を帯びる。
「『鬼憤の騎士』というスキルは己の怒りを戦闘力に変える、と聞いている。コーキンス辺境伯は騎士団時代にちょっとした口論から若手を殺しかけた貴君といえど、学生の相手であればそこまで怒りに身を任せる場面もない。そう考えられたようだが」
背中を冷たい物が駆け抜けて行った。騎士団でそこまで明らかな暴力事件を起こしておいてどうして採用されるのかという疑問と、先ほどまでの戦闘がどれほどに危ない橋だったのかということに。
「この俺が、スキルに呑まれているとでも言うのか!?」
「呑まれていないと思っていたのなら、君は本格的に精神修養をしたまえ」
呆れ果てた声でそっと言ってから副学院長は私を見た。それからレイルを、ディーンを、そして他のクラスメイトたちを。
「彼らが修羅場を潜っていなければ、最悪の場合は死者が出ていただろう」
「だから何だと言うのだ!ついて来れない者の命などッ」
「もう一度言おう」
吼えかけたベルベンスを遮って重圧を高める副学院長。
「ここは学院、この国を背負って立つ貴族と将来を望まれた平民にチャンスと知識を与える場所だ。生徒は全て平等であり、意欲と能力があれば最高の教育が与えられる。背骨なのだよ、この国が次代へ歩んでいくために必要な。教師が生徒に危害を加えることなど断じてあってはならない。断じてだ」
ベルベンスの怒りはグラグラと強くなり、纏う赤を濃くしていく。
「貴君の職務を一時的に停止し、別命あるまで自室待機を命ずる」
「俺は……俺はァッ!!」
赤い光が渦を巻くようにしてグラウンドの土を吹き荒らした。まるで砂漠の風のような熱が舞い踊る。私は咄嗟に収めた白陽剣の柄を握るが、副学院長はそれを視線で制してきた。眼鏡の教師は手袋を外し……。
「ふん!!」
勢いよくベルベンスの額にその拳を、何の躊躇いもなく振り抜いた。予備動作など一切ない、手袋を外した瞬間には拳が炸裂していたのだ。
「ぐぉ……」
拳は真正面から額を打ち据えた。赤いスキル光はまるでひしゃげるように奇妙な屈折を見せ、耐え切れなくなったように弾けて消えた。ベルベンスは鈍い悲鳴をあげて後ろに倒れたかと思うと、顔色を真っ青に変えて失われた手首に触れる。
「い、痛いッ!腕が、俺の腕がァ!!何故だ!?俺の、腕ェ!!ぎゃあああああああ!!」
まるでそれまで手首が無くなっていたことに気づいていなかったように悶え、叫び、のたうち回り始めたのだ。あまりに突然の錯乱を見て私を含めクラスの全員が、咄嗟に副学院長へ目を向ける。
「やはりスキルが痛覚を奪っていたか……痛みを忘れた人間がどうなるか、諸君らも目に焼き付けておきたまえ」
なんてことはない。そんな口調で言う姿に、やはり彼が何かをしたのだと察する。もし本当に怒りを糧とするスキルが痛覚まで奪っていたのだとすれば、そのスキル光を殴って消した副学院長は一体。
いや、待てよ。あのスキル光が歪む様は見たことがある。ずっと昔に……。
「今のは、『スキル無効』か?」
へたり込んだままのレイルがポツリと呟いた。それを聞いてようやく私の記憶も繋がりを取り戻していく。まだ小さかった頃に四大貴族の一人が戯れに見せてくれた異形のスキル。スキルを潰すという反則級のスキル、その持ち主は。
「レグムント、侯爵……」
「レグムント子爵閣下です」
私の呟きを何か言いたげなニュアンスでヴィア先生が訂正する。今度こそ全員が目を見開いて彼を見つめた。
「ご紹介ありがとう。学生諸君、副学院長を務めているレイモンド=マリアンヌ=レグムントだ。レグムント侯爵の甥にあたり、傍系用の子爵位を賜っている」
大貴族が傍系の為に貴族位を用意するのはよくあることだが、まさかあのレグムント候の甥だったとは。
いや、甥がいると言うことは聞いていたが、まさか学院のトップとは。
もう一度じっくりと見ても彼の髪には一房の白も混じっていない。色々と事情があるのではないか、そんな想像が一瞬で組み上げられる。
「まあ、私の事はどうでもいいのだ。それとじきに警備が来る。ベルベンス先生はそのまま置いておきたまえ」
私の、そして多くの生徒の想像にはイエスともノーとも答えず、副学院長は手袋を填め直す。そしてヴィア先生のもの言いたげな顔に視線を向け、顎で先を促した。
「よいのですか、副学院長は。ベルベンス……先生はコーキンス辺境伯の後ろ盾があるのでしょう?」
「生徒たちはまだしも、ヴィヴィアン先生、まさか私が彼の横暴を放置しておくと思っていたのなら心外だ」
そう言ってもう一度眼鏡のブリッジを押し上げる男。彼の視線にはもはや隠す余地のないほど大きな軽蔑が宿り、ベルベンスへと向けられている。
「確かに彼には、トラブルを起こす前に成長してもらいたかった。学院は生徒から教師が学ばされる場でもある。かのベサニア司書長の愛弟子である君なら分かるだろう」
「それは、はい。そう思います。限度があるかとは思いますが」
「言っただろう、放置するつもりなどなかったと。もちろん運営委員会が首を縦に振らざるを得ないほどのトラブルを起こせば、容赦なく処断するつもりだった。今日もそのための根回しをしていたところを呼び出されたのだよ……まさか本人に釘を刺した直後に一足飛びでここまでいくとは思いもしなかったが」
まるで頭痛をこらえるように眼鏡を上げて眉間を揉む副学院長。
「あまり言い訳がましい事は言わないでおくとしよう。しかしプランが色々と前倒しになりそうなのは、いい事と思っておくべきか……」
「プラン、ですか?」
「いや、気にしないでくれたまえ。これは私のミス、見通しの甘さについてご老体をあまり責められないな」
眼鏡の隙間から彼の裸眼が私を一瞬だけ捕らえた。理知的な瞳だが、同時に鋭すぎる。まるで冷酷な猛禽の瞳だ。
「では先生、彼は相応の処分を受けると思ってよいのですか」
私の問いに副学院長は頷いた。
「この期に及んで庇える者はいない。たとえご老体でもだ」
ご老体ことコーキンス辺境伯。武勇に優れ、長年国を守って来た英傑ではある。しかし運営議員を複数擁立する立場を使い、トラブルを起こした身内のベルベンスを学院に捻じ込んだ罪は重い。
「これを機に上の方も綺麗にしてしまいたいものだな。陛下に少し相談するとしよう」
そんな風に添えられた言葉が、今回の全ての目的だったかのような気がしてゾッとする。
「さて、君たちの単位は取りあえず私が預からせてもらおうか。君たちが名誉を賭して守ろうとした友人の分も含めて」
ようやく警備の人間が到着した頃合いを見計らって副学院長はそう宣言した。
「出席日数の問題はあるが、示された実力もまた加味しなくてはいけない。慎重に検討させてもらう」
なんとも政治家的な物言いだ。とはいえそこに嘘偽りはないのだろう。質実剛健のレグムント家だからではなく、直接話したこの短時間でそう思わされた。彼はヴィア先生とは違う視点で動いているが、それでも学院で働いていることを心から誇りに思っているのだ。ベルベンスに見せた怒りは、どうしようもなく本物だった。
「今回のことはあまりに情報不足で、勇み足の、無謀な試みだったと言わざるを得ない。だが勇気と高潔さは学院始まって以来と言ってもいい」
担ぎあげられた黒鎧の男を見送ってから副学院長は自らも踵を返す。
「今日の授業はこれにてお仕舞だ。着替えて寮へ戻りたまえ」
そう言い置いて、学院の支配者は教員棟へと戻っていった。
~予告~
一件落着の大反抗。
不在の当事者アクセラはというと……。
次回、見守る眼差し




