十一章 第13話 アレニカの再出発
「おっと。なんだ、今日は早いじゃないか」
月曜の朝、教室には男女ともに数人しかいない時間帯。1-Aの扉を開くとそこにネンスが立っていた。ちょうど出ようとしていたところだったらしい。
「おはよう。時計を見間違えた」
「むぅ、アクセラちゃんのばか」
眠そうなエレナに背中を叩かれる。俺がふと目を覚ましたときに時計の短針と長針を見間違えたのだ。跳び起きて仕度を済ませ食堂に駆け下りたところで勘違いだと分かったのだが、部屋でゴロゴロしていたら二度寝しそうだったので登校してきたわけである。
「ねーむーいーぃ」
バシバシと叩きながら俺の肩に頭を乗せてグラグラするエレナ。教室に来るには酷い状態だが、もとから寝起きが悪いので仕方ない。先日のアレ以来、触れられるとなんだか落ち着かないが……今回悪いのは俺だ。
「はは、まだ馴染むには時間がかかりそうだな」
快活に笑った王子は一歩下がって道を譲ってくれた。それから「ちょっと用事だ」と言って入れ替わりに廊下へ出て行く。トイレだろうか。
俺たちが自分の席に鞄を置いたタイミングで男子が三人連れ立って挨拶に来る。
「おはようございますですな、アクセラさん。エレナさんも、おはようございますです」
十五歳にして口髭を整えているこの釣り目はバノン。制服に合わせた蝙蝠傘を常に腕に引っ掛けており、色々と小物で服を飾り立てている。幸いにもそう言う部分のセンスはいいのだが、紳士を追及するというよく分からない道に凝っている変わり者だ。
「おはよう、センセイ」
レイルよりデカく、つぶらな瞳とゴツい顎が特徴的なのがイヴァン。上着を着ておらずシャツのサイズもあっていないせいで鍛え上げた筋肉がボタンを吹き飛ばす寸前といったアブナイ恰好をしている。体術と力比べと腕相撲でボコボコにしたらセンセイと呼んでくるようになった。寡黙だが動きがうるさい男である。
「よい朝だね淑女諸君!今日も君たちは美しいな、うん!!」
そして最後の一人、茶髪に垂れ目のドレン。二言目には美しいと叫び出すことと延々喋るところ、それから軟派なところに目を瞑れば一番まともかもしれない。哀れなことに軟派野郎である点以外、遠征企画で魔物と激突し頭を強打したことで獲得したキャラだ。アベルがこうならなくてよかった。
「ん、おはよ」
今でこそ笑って挨拶をしてくれる彼らだが、入学した頃は多くのクラスメイトと同じくオルクスを白眼視していた。
「おや、どうかされましたですかな?」
じっと見ているとバノンが首を傾げた。
「……ん、思えば随分変わったなと」
「センセイ、敵だった」
しみじみとイヴァンが頷く。表情の神妙さとサイドチェストポーズが噛み合わなさ過ぎて脳が混乱しそうだ。
「いや、敵ではありませんでしたが……でも確かにそうですね、初めの頃の私たちはアクセラさんを毛嫌いしていましたですから」
「まったくもって愚かだったね、僕たちは揃いも揃って名前以外見ていなかったのだから!美しくない、美しくないことだよ!」
打ち解けられたのはきっと、今は亡き二人のおかげだろう。突っかかるマレシスとそれをあしらう俺という構図は日が過ぎるとともに緊張感をクラスから奪い、馴れ合う空気感を生み出していった。メルケ先生は授業で俺の考え方を肯定し、俺が様々な意味で変わり者であることを知らしめてくれた。棘が失われ、互いを知っていくうちにクラスメイトとしての親愛が生まれて行ったのである。
「それに命まで救われてしまいましたですから。アクセラさんにも、エレナさんにも」
「借り、返す」
「そうとも、イヴァンくんの言う通りだとも。借りはいつか必ず返させてもらうさ」
彼らも遠征では森にいたのだ。戦場で、あいにくと俺は彼等を認識していなかったが、ともに戦ったという経験は強く互いを繋ぎ合わせる。数人の生徒が森から帰ってこれなかったのは事実だが、当事者として戦った今回は懸念していたほど落ち込みも酷くない。結果的にAクラスの男子と数名の女子は戦友としての信頼を得た。
「ん、いつかね」
「あはは、楽しみにしてるね」
俺とまだ少し眠そうなエレナは顔を見合わせて笑う。まさか一年が終わる前にこんなことになるとは、雨降って地固まるとはこのことだ。
「それにしても三人は今日も早いね……わたし朝が弱いから、尊敬するよ」
「それはそうですとも、エレナさん。我々は毎朝、未明より走り込みをしておりますですからな!」
胸を張るバノン。
「だが、怒られた」
がっかりした様子でそう口にするイヴァン。次のポーズは名前が分からなかった。
「その辺を走ってた?」
「ああ」
「ん、怒られる」
「何故だ、センセイ」
イヴァンは怪訝な顔で胸筋を強調しだす。
「危ない」
「では?」
「林」
「林か。流石センセイ」
なぜかエレナと男子二人も微妙な顔でこちらを見ていた。
「さすがアクセラさん!イヴァンくんの少ない言葉でよく会話を平然と続けられる。美しいだけではなく語学も堪能なのだね!」
「いや、あれはたぶん同類だからだと思うけど」
ドレンが感極まったように髪を掻き上げる。
語学ってお前……。
「はっはっは、我が自慢の朋友たちは個性的ですな」
「バノンくんに言われるのは釈然としないな……いくら我々の美しい友情をもってしても、君が一番個性的だという事実は隠しようがないよ!ははは!」
「バノン、一番変人」
「酷くないですかな!?」
「……」
「……」
いや、バノン、お前は最初からおかしかったよ。
「ドレン、相談」
ひとしきり奇妙な空気が流れたあと、イヴァンがさっと両腕を上げて上半身の筋肉を魅せるポーズをとった。
「相談?」
ポーズの変更ごとに振り回される腕を邪魔そうに回避しながらドレンが頷く。
「そうだったね、この麗しい朝に二人へ声をかけさせてもらったのは挨拶以上の用事があったからさ!覚えているだろうか、君たちに努力の美しさを教えられたあの日のことを!!」
「イヴァン」
「相談だ」
「あ、ちょ、イヴァン君……」
長そうだったので一番端的な男に振りなおす。ドレンは振り上げた腕の処遇に困ったように笑顔を歪めたが、お前は話が長い。
「いつ」
「明後日の放課後だ、センセイ」
「どこ」
「商店街、石窯の隣だ」
「内容」
「鍛錬だ」
鍛錬について相談したいことがあるので石窯のあるレストランの隣の店で放課後にお茶をしたい、ということだろう。石窯レストランの右隣りは食器屋なので自ずと左隣りにあるレンガ造りの喫茶店だと分かる。コイツとの会話は無駄がなくていい。
「わかった」
「対応は手厳しいがいつだって相談には乗ってくれる、そんな君はやはり美しい!どうだろうか、それとは別に今夜ディナーでも」
感極まったように両腕を掲げるチャラ男。
「ドレン、それ以上言うと君の人格、もう一回変わることになる」
「よし、黙ろう!」
俺がすっと拳を持ち上げると彼はすぐさま口を閉じて背筋を伸ばした。
分かってくれて何よりだ。
安堵しながらちらりと横を見る。エレナは拗ねたように唇を尖らせていた。
「むぅ」
「んに゛ゃっ」
すっと繰り出された人差し指が脇腹に突き立ち、口から変な声が漏れた。
「……くすぐったい」
それでも指を刺そうとしてくるエレナの手を掴んで止める。溜飲が下がるか諦めるまで延々と続くこの脇腹突き攻撃。俺が恨みがましく睨み付けると目を見開いてこちらを見ているバノンと目が合った。まるで目の前のじゃれ合いを余さず記憶に焼き付けようとしているかのようで……怖い。
ガチャ。
しばらくせめぎ合いを続けていると前の方で扉を開く音がした。自然とクラスの視線はそちらに集まる。するとどうだろうか。教室の前側で集まってヒソヒソ話し込んでいた女子の一団に困惑とも怯えともつかない動揺の波が走った。
「……おはようございますわ」
扉の所にはアレニカがいた。
「お、おはようございます。アレニカ様」
「おはやい、ですわね」
「ご、ご機嫌、よう」
「……」
「……」
ぎこちない挨拶のあと、重く湿気た沈黙が彼女たちの間に生まれる。つられて小規模なグループを形成していた別の女子たちや、男子たちまで息を飲んでそちらを見つめ出した。
群れていた御令嬢たちはかつてアレニカが中心となりサロンとして成り立っていた者達だ。カーラの乗っ取りを受け入れ、ありもしない噂を広めるのに一役も二役も買った。彼女等にアレニカをあそこまで追い詰める意図はなかったのかもしれないが、実際にストロベリーブロンドの少女は不登校となり、家族に見切られ、崩壊の縁へと追いやられてしまったのだ。
「自分たちにそんな力があると思っても見なかったんでしょうな」
小声でバノンが言う。俺はその言葉に小さく頷いた。
馬鹿な娘たちだ。
何故サロンなどというものが脈々と継がれていくのか、何故その主にならんと夫人たちが四苦八苦するのか、そこにある力がどういうものなのか、何一つとして彼女たちは考えていなかった。それが容易く人を狂わせ、殺し得る暴力なのだと理解していなかった。
「一番の元凶も、結局いなくなってしまいましたからね」
バノンが呟く通り、噂の発端となってアレニカの人生を狂わせたカーラ=ヴィーニェ=サランドは退学となった。遠征企画でも酷い狂態を晒したことがトドメになったのだろう。自主退学とのことだが、ヴィア先生曰く実家に連れ戻されたそうだ。
「複雑」
イヴァンが呟く。
そう、残された関係は複雑なのだ……。
なにせ遠征企画で力関係が完全に逆転してしまった。権力、言葉、視線の圧力という文明の内側で働く暴力はペーパーナイフほどの意味もなさず、一方で絶望から這い上がるために魔導銃を握ったアレニカは無数の魔物の頭を吹き飛ばすという戦果を見せた。裏切った者、裏切られた者。追い詰めた者、追い詰められた者。見捨てた者、見捨てられた者。それらの一方的で明確な関係が一切清算されることなく、守られた者と守った者に変わってしまった。
「あ……」
「っ」
「!!」
誰かが声を上げようとした。弾かれたようにアレニカの肩が跳ね、少女たちも咄嗟に一歩後退る。そこにあるのは互いに対する強い怯え。にわかに凍り付く空気。この怯えが表面化することは決していいことではないと、長年道場の主をしていた経験が警鐘を鳴らした。集団の中に敵が生まれる構図だ。
「ニカちゃん!」
「!」
割って入るべきか。そう俺が考えたのとほぼ同時だった。エレナが椅子を勢いよく立ってアレニカの名前を呼んだ。クラスの全員こちらを見たが彼女はそれに一切構わず大股で毛先の赤い友人へと歩み寄って行く。
「おはよう、ニカちゃん」
「え、あ、はい。お、おはようですわ、エレナ」
エレナはたじろぐアレニカの手を掴んで微笑む。
「席替えしたから、案内するね」
「へ?」
キョトン顔のお嬢様を確保し、牽引してこっちに戻ってくる。アレニカとは接点がほぼない三人組だが一瞬残るか逃げるか悩む様に顔を見合わせた。彼らにとっては交流のなかったクラスメイトであると同時に、同じ戦場で素晴らしい活躍を見せてくれた戦友である
「三人とも、またあとで」
この三人の気持ちを伝えるべき時もくるだろう。他人からの感謝というものは一種、万能の薬だ。しかし薬は頃合いを見て使うから効果的なもの。その時は今ではない。
「……そうですな」
バノンが頷き二人を伴って下がる。
「はい、ここだよ」
「あ、はい」
事態についていけていない顔で気の抜けた返事をしながら、促されるままに彼女はそこへ座った。それはエレナの一つ前の席で、実際にアレニカの新しい席でもある。ヴィア先生と話し合って移動させたのだ。真後ろに、見えないからこそ信頼できる友人を置くべきだろうと。今後の彼女の狙撃手としての成長と感覚の変化を加味した判断だ。
「あ、その……ありがとうございますわ」
「いいよ。友達だからね」
やや大きい声でそう言ったエレナは視界の端に立ち尽くすお嬢様の群れへ強い視線を飛ばした。
「エレナ、威嚇しない」
さすがにこれ以上は拙いので止めておく。今回は物別れに終わったが、禍根を残すのは避けたいのだ。別にクラスメイトなら仲良くしようなどと呆けたことを言うつもりもないが、人は恐怖に酷く弱い生き物だ。アレニカのストレスを考えても、サロンメンバーに変な弾みを付けさせないためにも、どこかに落とし所を作ってやらないといけない。誰も彼もが俺やエレナのように、自分が大切に思う誰かがいればそれでいいと割り切れるわけではないから。
「アレニカ、おはよ。マリアは一緒じゃないの?」
「え、ええ。その、少しだけ時間をずらしてもらいましたの。最初の一歩は自分で踏み出さないと、と思いまして……上手くは行きませんでしたけど」
「そんなことむぎゅっ」
視線を伏せ、自嘲気味に答えるアレニカ。憤慨するエレナの口を塞いで黙らせる。
「ん、何度でもやってみればいい」
不満げなエレナには視線で黙っておくように厳命する。彼女はアレニカの心の痛みを直に感じているがため、優しく接しすぎるきらいがある。優しさは必要だが、安易な擁護と庇護は立ち上がる力を腐らせるものだ。あるいは無理解と映る場合もある。アレニカがやると言うならいよいよまでやらせてやらねば、二度と立てなくなってしまう。
でもまあ、一旦休戦した方がいいって判断はエレナが正しいかな。
「エレナ、新しい上着の話がしたかったんでしょ?」
「あ、そうだった!」
別の話題に流してやれば彼女もその意図を察してすぐに乗ってくる。いや、乗ったのは俺か。軌道修正はしたが。
「ねえ、ニカちゃん。前に森で使ってもらった上着があったでしょ?」
「え、ああ、ありましたわね……?」
新開発の素材と製法で作り上げたリオリー商会服飾部門の冒険者用衣装のことだ。遠征の後、エレナが熱心にヒアリングをして報告書を纏めていた。
「で、言ってたことの中に少し気になったのがあってね。ほら、ここなんだけど」
まさしくその報告書を鞄からぬっと取り出すエレナ。アレニカは困惑したように俺を見る。頷いてやると、彼女は小さく教室の前側に立つ少女たちに視線を向けた。あちらはまだ茫然と立っているが、揃ってこちらへ目を向けていた。
「っ」
アレニカの肩が跳ねる。さっとエレナの手元に逃げ込んだ珊瑚色の眼差し。かつてサロンだった烏合の衆はそれを何とも言えない様子で眺めていたが、見かねた別グループの女子生徒が席を立って話しかけ、とりあえず解散させて各自の席へ戻らせた。
「あ……」
それを視界の端で見ていたアレニカは申し訳なさそうに少女を見る。薄水色の髪と冷淡そうな眼差しが特徴的な少女だが、印象に反して軽く手を上げこちらに挨拶を寄越した。エレナともども軽く会釈しておく。
「覚えてないんでしょ?アイナさん、森では魔法隊で頑張ってくれてたんだよ」
エレナの補足に俺は頷く。
「で、ニカちゃん。ここの内容なんだけど」
何事もなかったかのように報告書へ視線を戻すエレナにアレニカはもう一度周囲を見回し、誰の視線もない事を確かめてから息を吐いた。
「そ、そうですわね。あーっと、その部分の意味は……」
「じゃあこういう生地だったらどうかな。ここが、こう……」
「そんな生地がありますの?それなら……」
何もかもが変わった。彼女にとって今まで通りのものなど、何一つとしてないだろう。しかし気丈に、あるいは無理やりに、アレニカは自分の新しい世界を受け入れようとしている。新しい人間関係、新しい力、そして新しい振る舞いを。
「……」
強いな、と思ったがそれを口に出すことはしない。きっとそれを強さだと思ってしまうと、また間違うのだろう。そう思った。
~★~
「さてさてさて皆さん、こんにちは。今日も太陽ばかりが出しゃばっていますね」
独特の挨拶をしながら薄暗い教室へ入ってくる天文学担当のキング先生。今日もコートとスカーフとサングラスで完全武装した不審者スタイルだ。シャカシャカと狭い歩幅で教卓へと進もうとし、途中で鋭角ターンを決める。そのままこっちへ、わたしとニカちゃんの座る最前列へと走って来た。
「おやおやおやアレニカさんではありませんか!」
目の前にやって来た高身長の先生は元から猫背の体を更にぐぐっと前へ屈めてこちらへ顔を寄せて来た。甘い花の香りが漂う。香水というより香り蝋燭のような匂いだ。
「そ、その、お久しぶりです、先生」
縮こまるニカちゃんに鷲鼻の下の薄い唇を目一杯横へ引き延ばしニンマリ笑うキング先生。
「お帰りなさい、アレニカさん」
穏やかな声で紡がれるその言葉にニカちゃんは顔を上げる。驚いたように開かれた目には怪しい天文学者が映り込む。
「君のいない授業は張り合いがありませんでしたよ。退屈極まりないと言ってもいいでしょう。いやいやいや、失礼だと怒る方も居られるかもしれませんが、実際に折角作った匂い付きの星シールも配る回数が少なすぎて香りが飛んでしまいましたからね。まったく、まったく、まったくもって悲しいことです」
そう言いながら彼はコートのどこかから一枚、やたらと大きなシールを取り出してニカちゃんに差し出す。いい質問や回答をした生徒に先生が用意している香り付きのお手製シールだ。けれど何に対するものなのか分からず彼女は受け取れないでいる。するとキング先生は差し出した姿勢のまま再び口を開いた。
「アレニカさん、最近星を見ましたか?」
「あ、い、いえ……」
そんな余裕はなかったのだろう、ニカちゃんは首を竦めて横に振る。言われてみれば船の上や森の中、比較的余裕のあるときですら彼女は上を見ることがなかった。けれどキング先生は数度頷いてから今度は微笑みを浮かべた。彼の内なる優しさが染み出すような笑みだった。
「恥じることではありません。ええ、ええ、ええ、ありませんとも。我々はときに、星も空も見上げることができないほど苦しい時期に見舞われるものです。それを不心得だなどと咎める者は星空の本当の美しさをまだ知らないと言っても過言ではない」
先生がニカちゃんの手をさっと取る。反射的に引っ込められそうになったそれを意外な力強さで捕まえて言った。
「彼の天文学の偉人メルルード=ケルヘスは強い口調でこう残しました。星を見ぬ愚者に未来はやってこない。しかしその娘であり父の研究を大成させたエリルーデ=ケルヘスはそれを否定してこう言ったそうです。星を見ぬ者がいても、星の光を見たことのない者はいない。浴びたことのない者はいない。なれば何人も愚者などではない」
ニカちゃんの瞳がサングラスの奥の先生の目を見た。
「実はワタクシもね、かつてとても、とても、とても苦しい出来事があったのです。妻を亡くしたのです。そのときは悲しくて、辛くて、惨めで、空を見るのを止めてしまいました。このワタクシがです」
「っ」
「でもある日、すさんだ心で夜道を歩いていてスッ転びましてね」
キング先生は笑みの色を自嘲に染めた。落ち葉で滑ったのだと。
「思い切り体を打ちましたが、無理やりにでも見上げさせられた星空はそれ以上にワタクシを打ちのめしました。自分がどれだけ長い事、星々から目を逸らしてきたのかと驚きました。そして星々が片時も離れず、ワタクシを見つめてくれていたのだということにも気づかされました」
先生は捕まえたニカちゃんの手に特大シールを乗せて握らせた。
「今夜、空をごらんなさい。アレニカさん。星は貴女を待っていますよ。ワタクシがそうだったように」
最後にポンポンとシールを握る拳を撫でてから彼はこう悪戯っぽく添えた。
「その星シールは普通の星十個分です。皆には内緒ですよ」
狭い教室だ。皆聞こえてる。けど無粋なことを言う生徒は一人もいなかった。普段はお喋りばかりの後ろの三人組でさえ。先生はそのことに満足したように頷いてから、またシャカシャカと教卓へ足を向ける。ニカちゃんは貰ったシールが潰れるのも構わず強く握りしめて胸に抱き止めた。
「はい、先生……はい、ですわっ」
嗚咽混じりで頷く彼女の肩をわたしは抱き寄せる。何もかもが変わってしまったような中で、キング先生だけは何も変わらず自分の一番の生徒を待ってたんだ。それが痛いほどわかるからだろう、ニカちゃんは泣きながら嬉しそうに笑った。
「さてさてさて!今日はそんな星を道標とする船乗りたちの伝承から読み解くことといたしましょう。宗教未満の、神を戴かない信仰というのは非常に珍しいですからね、これからお見せするのは貴重な証言の数々ですよ」
甲高い声で黒板に授業内容を書き出していくキング先生。彼もまた、ここしばらくで一番楽しそうに授業を始めるのだった。
~予告~
アロッサス姉弟とアクセラ。
肉肉肉と共に供されるは、何故かコイバナ。
次回、双子との夕食




