十一章 第11話 新たなる扉
びょうびょうと風が吹き、まるで小石が当たるかのような硬質な雨音が響き渡る朝。ベッドの中で目を覚ました俺は羽毛布団の下で手足を絡ませて密着したまま眠るエレナをちょっと邪魔に思いながら、視線だけで暗い部屋の中を確認した。窓はカーテン越しにすら朝日が入ってきておらず、夜よりは辛うじて明るい程度の在り様。
「んぅ……嵐、だっけ」
目を数度瞬かせてあくびを噛み殺す。昨日の昼、季節外れの嵐が来るということで諸々の連絡が来たのだ。たとえば一日授業はなしになったとか、だからと言って出歩くなとか、窓のある部屋は鎧戸を閉めろとか。この暗さは鎧戸のせいか、それとも雨雲のせいか。
「起きなきゃ……」
ネンスに貰った懐中時計を見る。いつもの平日よりはやや遅い時間だ。いくら今日が休みでも嵐は一日もあれば過ぎ去るもの。明日は普通に平日だ。変なリズムに陥るのはよくない。
「エレナ、起きて」
俺の頭を抱き込むようにしてエレナは眠っている。柔らかいものに埋まりそうになりながら、手を伸ばして肩をぺしぺし叩く。
「起きて」
「むにゃぁ」
「おーきーてー」
「やらぁ……」
ぐずるエレナの腕に力が籠る。足もぐっと引き寄せられて、俺はいよいよ雁字搦めだ。
「……はぁ」
今日が臨時休校だということはきっちり頭に残っているようで、断固起きない構えを見せている。こうなったらエレナはテコでも動かない。
仕方ない。諦めよう。
彼女自身を触媒にして氷魔法で強制お目覚めドッキリコースでもいいのだが、そこまでするほど切迫しているわけでなし。それに彼女は一昨日の「ハリスクの地下墓所」で新技をかなり高い完成度で披露してくれた。昨日は一日授業に出るだけで一杯一杯なほど疲れていたようだし、このくらいは許してあげるべきだろう。
「お昼からは説明もしてもらわないとね」
早々に俺は起こすプランを放棄して別のことに思考を割く。幸いにも今日は冬の嵐で寒く、抱きつかれていても不快ということはなかった。動けないので邪魔ではあるが。あと夏なら引っぺがすところだ。
「さてと」
動けない以上は頭脳労働をするほかない。最近はネンス、レイル、エレナの特訓で体の方が忙しかったしな。ここいらで他の友人やオルクスのこと、それから今後の特訓の方針についても詰めておくとしよう。
「イーハのことも考えないと」
悪魔持ちの奴隷で獣人、イーハ=ジンナ。そして彼女を守る元男爵位悪魔バロン=バロン=バロン。事件から二か月たった満月の日、俺は彼女たちとの約束の場所に向かったが現れることはなかった。それ以降、やはり約束の通りに様子を見に行ってはいるが今の所は影も形もない。
「まだ、準備できてないから、いいと言えばいいけど……」
あの時は頭が回っておらずイケるつもりでバロン相手に豪語したが、王を説得するには神々を説得せざるを得ず、そちらを説得するにはバロンを制御できる魔道具の実物を生み出さなくてはいけない。サンプルだけでも着手したいのだが、最高級奴隷用の首輪魔道具なんてなかなか手に入らず……といったところである。
「困った」
「むぅぅ……」
エレナが姿勢をわずかに変えた。豊かな胸が形を歪ませ、俺の頭を包み込む。
「……」
朝からモヤっと浮かんだ気分を頭から追い出し、俺は目を閉じて思考に没頭するのだった。
~★~
昼前になって、ようやく起きたエレナを伴い脱衣所へ入る。鎧戸は相変わらず閉めたままで、今も遠くからガタガタと音が聞こえていた。
「嵐、すごい」
「うぅ、わたしは汗がすごい……」
パジャマを脱いだエレナが自分の胸元を触って呻く。いくら冬場で嵐の日だからと言って、昼前まで人の頭を抱え込んでいれば汗もかこう。
むしろ迷惑気に言いたいのはこちらの方なんだが?
自分と彼女の汗で首や背中にべっとり貼り付く白い髪を手で梳きながらそう思う。
「大分伸びたね」
「ん。そろそろ切ろうか?」
「えー、もうちょっと伸ばそうよ!ロングのアクセラちゃん、小さい時以来だけど可愛いし!」
「……ありがと」
可愛いと言われても嬉しくない……こともないのが最近の恐ろしいところだ。トワリの遠征からこちら、俺の中の女性的な部分はまた少し度合いを深めている。一方で聖刻の影響か、エクセルだった頃の感覚や嗜好も強まっており、俺の頭はかなり混迷を極めていると言えた。
「そういえばアクセラちゃん寝言言ってた?」
ショーツから足を抜いて洗濯籠に投げ入れるエレナ。
「エレナ、寝言は寝て言うものだよ」
「急に当り強くない!?」
涙目になる少女の横を通って棚へ手を伸ばし、硝子の容器から入浴剤を一掴み取り出す。俺の目と同じラベンダー色の結晶がざらざらと音を立てた。
「違う、私は起きてたってこと」
浴室の扉を開けるなり浴槽に栓をして手の中身をぶちまける。これだけで耳に心地よく、爽やかな気分になるな。
「あれ、寝ぼけてたのはわたしの方?」
「そういうこと」
色々考えているうちに独り言をつぶやいていたのは事実だが、一々相槌とも鳴き声とも分からないナニカをむにゃむにゃ唱えていたのはエレナだ。
「あ、あはは……ちょっと恥ずかしいけど、まあいいや。で、何を考え事してたの?」
「アベルのこととか。エレナ、お湯張って」
備え付けの魔道具を弄ってシャワーの温度を調整しながら指示を出す。お湯張りとシャワーは同時に使えないが、魔法でお湯張りをしてしまえば両立可能だ。
「アクセラちゃん、わたしの胸のなかで男の子のこと考えてたんだ?」
どことなく棘のあるその物言いに俺は苦笑を浮かべる。視界の端ではエレナが浴槽に手を突っ込んでいた。話題の双丘が浴槽の縁に押されて生々しく形を変えていた。
「水よ」
湯船を満たす水が突如として現れる。魔力糸を液状形態にして満たしておき、一気に魔法化させたのだろう。初めて見る人間はひっくり返るような手品だ。
「火よ」
続いて火球が水の中に現れる。突如として生じた熱源に水がゴボゴボと沸騰し、火の玉は消火されまいと激しく瞬く。まるで海に太陽を沈めたようで、泡立つ水面で歪んだオレンジの光が浴室を幻想的に照らし出した。
「水、お湯にそのまました方が楽じゃない?」
科学知識のあるエレナなら水魔法でお湯を作ることも可能だ。分子を揺するだけでいいのだから、水魔法の液体操作で事足りるだろう。
「この方が綺麗だからいいの!」
まあ、たしかに綺麗だ。実態は発射せずに継続発動しているだけのファイアボール、つまり攻撃魔法だが。
「でも時間かかる」
「だね。あ、わたしお湯沸かしてるから背中洗ってー」
「子供じゃないんだから」
「ケイサルにいた頃は洗ってくれたでしょ?手が離せないから、ほらほら!」
「もう……」
甘えたことを言う妹に俺はそっとため息をつきつつ、石鹸を皿から取って掌に広げた。実際よくせがまれてやっていたので、なんとなく懐かしいような気持ちになる。普通は侍女と伯爵令嬢で逆だと思うのだが……いや、違った。エレナに洗わせると昔からあちこち触られて、まるで実験用のマウスかカエルになった気分になる。それで全然休まらないので俺が拒否していたんだった。拒否しすぎて理由を忘れかけていたくらいだから、相当長いこと主従逆転が続いているな。
「それで、アベル君の何を考えてたの?」
「例の「馬車の君」の問題、どうにかならないかなって」
アベルは遠征企画の際、馬車に同乗していた女子を庇って頭を強打している。しかもそのショックで庇った相手が誰だったのか思い出せなくなっていて、そこへ女子生徒が何名か「我こそは庇われた女子なり」と声を上げている状況だ。
「最初は笑い話だったのにね。ひゃわぁ!?」
白い背中にシャワーをぶっかけたところ、エレナはしゃがんだまま器用に飛び上がってみせた。お構いなしに首から背中、腰、そして尻へと満遍なくお湯をかけてやる。
「迫り方が怖い……」
やっている本人たちは極めて大真面目なわけで、最近は休み時間ごとに会いに来てみたり、贈り物をしてみたり、スキンシップを試みたりと熾烈な争いへと発展しているのだ。女性経験が少なく真面目なアベルにとってみれば、まったく見も知らない女子から記憶にない行為へのお礼だとベタベタ迫られるのは結構なストレスであろう。
「あの中にいるのかも分かんないもんね、本当に助けた相手」
「たぶんいないでしょ」
アベルに纏わりついている女性陣は揃いも揃って彼の記憶の欠落が判明してから急激にアピールをかけてきたクチで、傍目に見ても取り入ってやろうという思惑が透けている。アベル自身が伝手を頼って調べたところによると、押しかけ少女はいずれもトライラントの威光を手に入れて成したい野望があるそうで……もう黒一色だ。
「石鹸いくよ」
「はぁい……んん」
シャワーを止めて彼女の後ろに膝を付き、両手の泡を彼女の背中に乗せる。
「いっそお礼はいりませんってキッパリ宣言しちゃえばいいのに」
筋肉と骨が浮かぶ均整の取れた美しい背中に泡を広げられながらエレナは言う。
「自分だと名乗る相手がいるのに広く宣言するのもおかしい。けれど面と向かって一人一人言うと、逆説的にその人が「馬車の君」だと認めることになる」
「ああ、そうすると向こうはさらに勢いづくよね。まあそう言わず、とかって。で、しかも他の子はウソツキ扱いされたってことになる。面倒だなぁ……」
「それに相手も素直に引き下がらないだろうから、長期戦になると思う」
「今七人だっけ?七正面作戦で相互に拗れる可能性もあるってことだよね。こっわい」
心底嫌そうな顔をして彼女は首を振る。その手の中の火球は段々と小さくなり始め、お湯がいい温度になってきたことを物語っていた。
「もうアクセラちゃんが魔除けの像みたいに教室の扉のとこで陣取ればいいじゃないかな。アベルくんは教室の中に籠ってさ」
「誰が魔除けの像か」
泡だらけの両手を肩甲骨から敏感な首筋に滑り込ませる。
「ひゅわぁっ!!」
余りのくすぐったさに首を引っ込めるエレナだが、石鹸で滑りの良くなった手は捕らえられない。にゅるりと引き抜いてやればもう一度彼女は悲鳴を上げた。
「一つ大きな問題がある」
「普通に進めないで!?」
抗議するエレナの声は耳に届かないものとし、左腕を真横に上げさせた。
「私がアベルを庇い、アベルは私の後ろで震える。この構図はよくない」
「わっ、ちょ、あぅ!」
喋りながら伸ばした手の先、指の間に自分の指を潜らせて泡を塗り込む。指の股はくすぐったかったのか、エレナが大げさなほど身を竦めた。
「あ、わわ、あぅ……あ、その、オ、オルクスだから……?」
「そう。トライラントは情報屋の一族。どこかに偏ることはできない」
それがよりによって俺の庇護下に入った。そう周囲に思われるのは、彼の将来を思えば得策とは言えないだろう。いくら学院の中のことは外に持ち出さないという不文律があっても、人の心象というものは簡単に覆らない。それがあるから夏休み、協力を依頼したときも密約という形をとったのだ。
「じゃあ、えっと、レ、レレ、レイルくんは?」
「?」
挙動不審なエレナに首を傾げながら、掌から肘の内まで指を滑らせる。それから腕を両手で握り込み、回すように洗っていく。柔らかそうな見た目に反して彼女の腕も結構硬い。一昨日の筋肉痛もまだ残っているようだ。念入りに揉んでやる。
「んぅ……っ」
「私がするよりはマシ。でも大貴族同士の上下関係が心象付けられるのはネガティブ」
レイルとアベルが親友なのは誰が見ても明らかだが、家同士は友好的なだけで派閥も違う。しかも両家共に各派閥で名を轟かせる大御所、この国で代わりの効かない存在だ。これがいっそトライラント家の傘下にある子爵や男爵であれば、護衛と言う名目も立つのだが。
「ネンスくんなら、ひゃっ、つ、次の王様の最有力候補なんだし、ふわっ、アリなんじゃない、かな」
どうだろうか、王族であればこそ距離は大事にしなくてはいけないかもしれない。トライラントは臣下ではあるが王家の暗部ではないのだ。
「ん、まあ、アレニカのときに私情で権力を振るった。一番名目を立てやすいのはネンスかも」
友人だから利権関係なく守ったという、ある種の若さに支えられた正義感を彼は既に示している。今さら仲のいいアベルのために越権行為をかましても、俺やレイルほどに問題になることはない……かもしれない。あの時は状況が状況だったから邪推もなにもあったものではなかったが、その前例が今度は別口で役立ってくるわけだ。他人の心象はクソ面倒、げふんげふん、とても面白いな。
「ともあれ、必要になったら動くはず。アレニカの二の舞は踏まない。もう片手、貸して」
「あっ、ちょっと待っ」
「暴れない」
逃れようとする反対側の腕を持ち上げ、その指先まで手を伸ばす。エレナの方が身長も高く、そのまま手足も長い。なので背中から手を伸ばすとかなり遠いのだ、これが。
「よいしょっと」
「っ!!」
思い切り身を乗り出してようやく届いた。
「一番いいのはヴィオ……ヴィオランテ?もう一人の同乗者が真相を明かしてくれること」
「んんっ」
決定的な瞬間を見ていた第三の人物。そのご令嬢はしかし、アベルの再三の頼みに対してものらりくらりと回避を試みているそうで。
「うぅ……うぅぅぅっ」
「東海諸島の人は愉快で豪放磊落、でも妙に掴み処がない。伝聞だけど」
ヴィオナンチャラ嬢は確か東海諸島に面する東海岸の出身だ。俺が言うのもなんだが、貴族の少女らしくない振る舞いと言葉遣いの人物だそうで、アベルに真実を教えないのも本人曰く「その方が見ていて面白いから」とのこと。
「最悪の場合はネンスを盾に色々してもいいかもね。よし、腕おしまい!」
ささっと腕まで泡を纏わせ、もう一度さっと指先まで手を滑らせたときだった。エレナの指が俺の指を絡め取るように捕まえた。細くも逞しい五指はしかし、どこか溶けてしまいそうな弱々しさと熱を秘めている。
「エレナ?」
驚いて彼女の名前を呼ぶ。
「や、やめないで……」
帰ってきたのはか細い声。乞うような雰囲気の中に何か甘い気配が混じっている。
「ん、でもお湯……っ」
「もっと……」
指を固めたままの腕をエレナは胸に抱き寄せた。柔らかい肉の塊に腕が沈み込む。水を被って冷たいはずの肌は熱く張り詰めている。引き寄せらたことで崩れた姿勢を膝で上手く取り直すと、俺は彼女の背中から抱き締めるような状態になり……。
「んぁっ」
艶めいた呻きが息の触れるような距離から漏れる。鎖骨から耳のあたりまでゾクッとした感覚が走り、無意識の俺の体温を跳ねあがるのを感じた。目の前にある湯船からの熱だけじゃない、内側から来る燃えるような感覚だ。
「ま、まって、エレナ」
「アクセラちゃんが悪いんだもん」
拗ねたような声で呟くエレナ。胸に抱く俺の腕を片手でより強く抱きしめ、彼女はもう片手の指の腹でその肌を軽く撫でた。
「っ……や、やめ、わっ!?」
くすぐったさの中に別の物が混じった感覚。俺は咄嗟に体を引こうとし、石鹸水に足を取られて逆に彼女へしがみ付く羽目になる。
「ね、ねえ……こうやって、わたしに触られるの、どうかな……?」
緊張から胸が詰ったようなやや苦し気な圧のある彼女の声。再び指が手の甲の骨から手首の内側へ回り、腕の内側をつつっと撫で上がる。皮膚の薄い場所を爪と指の肉がなぞるほどにゾワゾワとした感覚が体を上ってきて、反射的にもっと強く抱きつきそうになる。それをなんとか自制。今度は足に力を込めて体を引き剥がす。腕も石鹸の滑りを使って引き抜いた。
「あっ」
跪いたままのそのそと数歩下がる。エレナの背中は石鹸の泡で白く粘っている。その下では柔らかな肌が赤く色づいていて蠱惑的だ。視覚情報が脳の理性をすり抜けて奥へと入ってこようとする。
「アクセラちゃん」
エレナが振り向く。背中以上に真っ赤になった顔で、熱に浮かされたように蕩けた瞳で、水滴を纏って、それに前を隠すこともなく。
「っ」
頭がくらくらするほどの色香を漂わせながら彼女は俺の肩に手をやる。
「アクセラちゃんが洗いながら、その、胸を押し付けてくるのが、悪いんだから」
一瞬言われたことが分からなかった。俺はただ言われた通り体を洗って……。
「腕を洗う時、背中にぴったり体押し当てて、そのままごしごしって」
「んぁ」
口から間の抜けた音が出た。無意識に視線が下がる。見下ろす自分の体。肉付きの薄い筋肉質な胸から腹にかけては石鹸の泡がべっとりと纏わりついている。エレナの背中に広げた石鹸の跡だ。
「ぁ」
細い声が喉奥から漏れた。顔に猛烈な熱を覚えて思わず胸を自分の腕で隠す。それを見てエレナが大きくにじり寄って来た。
「アクセラちゃん、可愛い……」
「あぅ、あ、ぅあ……」
肩口と脇腹に一対の爪痕を持つ大切な大切な少女が火照った裸身で迫ってくる。それは、いけないことだ。そう頭の奥で警鐘が鳴る。二重三重に赤面しどうしていいか分からないままあうあうと呟く俺。
「……好き」
少女の声が耳に届く。どっどっどっど。酷く心臓がうるさい。
「だ、だめ」
なにが駄目なのか分からないが、これ以上はいけない。そう思った。喉からこぼれ出たのはさっき以上にか細い声だ。少女の声だ。熱と戸惑いと一抹の怯えを含んだ、少女の声だった。そのことに心臓がぎゅっとなる。
「ぅ……っ」
恥ずかしさと名前を忘れた感情に頭が塗りつぶされてしまう。
「あ、その、んっ……さ、先に上がるから!」
咄嗟に叫んだ瞬間、魔法の光を炸裂させる。
「わぁっ!?」
エレナの悲鳴をあとに俺は残った力で壁を蹴飛ばし、床を這うように扉を突き抜けて脱衣所へ転がり出る。そのままタオル一枚掴んで廊下を走り普段は使っていない方のベッドルームに飛び込んで鍵を閉めた。
「う……うぁ……わ、私、なにやってんの……っ」
胸が異常なペースで高鳴る。顔が燃え上がりそうなほど熱い。顔だけじゃない、体中がずくずくと熱を帯びている。足から力が抜け、扉にへばりつくようにへたへたと座り込んだ。
ば、馬鹿か……エレナは、エレナだぞ?
意味の分からないことを頭の中で呟く。しかし一方でそれは意味を確かに持ち、罪悪感とも気まずさともつかない感情となって胸からあふれ出る。相反する感覚の中で俺は意味も分からず自分の腕を抱いた。
「うぅ……」
呻く。名前を忘れた感情の慟哭になすすべもなく、俺はタオルだけ纏ったまま床に崩れた。
~★~
「な、なにやってんのわたし……っ!」
アクセラちゃんが去ったお風呂場、わたしはゴチンと湯船の縁に頭を打ち付けた。あんなことをされて理性が持つわけない。そういう自己弁護と同時にアクセラちゃんが魔法を使ってまで逃げたという事実が頭の中で重たく音を立てぶつかった。
「そ、そりゃあ、返事をしないアクセラちゃんが悪いと思ってるけど……」
わたしは彼女が好きだ。大好きだ。素敵だと思う。恋人になりたい。そしてエッチなこともしたい。けれどそれが主目的でアクセラちゃんにアタックをしてるわけじゃないんだ。いくら同じベッド、同じお風呂、同じ生活でいることがずっと弱火で焦らされるみたいに欲求を煮詰めてくるからって、あんな風に半ば襲うなんてことはしちゃいけない。
「うぅーっ、完全にやらかしたぁ!」
ゴチン。もう一度ぶつける。そのままずるずると横を向いて頬をつけ、ぐだーっと力を抜く。
「で、でも、今日のアクセラちゃんは卑怯だよ……」
なにが卑怯なのかさっぱり分からない。分からないけれど、そう言わずにはいれないほど美しかった。美しくて、可愛らしくて、それにエロティックだった。あの時、自分が何をしていたのか気づいたときのアクセラちゃんの破壊力はやばかった。
「はぁぁぁ……」
長い長い息を吐いて両手で目元を覆う。指先がやけに冷たく感じる。
「卑怯だよぉ……」
蹈鞴舞と前の重傷のせいでまた減った脂肪のかすかな柔らかさ、薄っすらと皮膚に透ける逞しい筋肉の隆起、滑らかな肌と血色がよくなって浮かび上がる傷痕、しっとりと肌に絡む長めの白髪、その全てが羞恥で赤く染まって……トドメに混乱しすぎて泣きそうな顔になって、片手で胸を隠して。完全に女の子の反応だった。羞恥と困惑と、それから確かに興奮を覚えた女の子。
「あ……」
どろっと鼻腔を何かが滴り落ちる感覚。鉄臭い液体を手で抑える。
「興奮しすぎて鼻血って、ほんとに出るんだ……」
そんな馬鹿な事を思いながら、しかしまた一周して彼女を傷つけてしまったかもしれない事実に凹む。出たらちゃんと謝ろう、そう思いながらもどう声をかけていいか分からず唸るしかない。
「……わん」
処理がパンクしたわたしは一声鳴いてからシャワーを手に取った。とりあえず血と石鹸を落とさないと。
~★~
その後、アクセラとエレナが普通に会話をできるようになるまで丸二日かかった。
~予告~
アベルを悩ます「馬車の君」問題。
深層を一人知る令嬢は変わり者で……。
次回、ヴィオレッタ




