十一章 第5話 初冬のある日常
ガン、ガン、ガン、ガン、カカッ、ガガガッ!!
林の中に木と木を激しくぶつけ合う凄まじい音が轟く。初冬の風を押しのけて吐き出す息は燃えるようだ。手は痺れ、足は靴の中で血だらけになって滑る。早二か月少々前となったトワリ侯爵の事件の際でも、ここまで酷い状態にはならなかった。
「はっ、はっ、ふ、くっ!!」
乱れた呼吸のまま必死になって剣を繰り出す。数号打ち合うだけで手がしびれる。金剛楢から職人が削り出した剣は鉄と遜色ないくらい重く硬い。それを掬い上げるように重心を移動させ、切っ先にエネルギーを乗せ、スキルで体を前へ押し出す。
「ふっ」
それを目の前の小柄な少女は、いや、少女の姿をした神の使いは、一呼吸で潰してくる。同じ材質で同じ職人が削り出した、形だけが特徴的な片刃の木剣。それが青い光を纏う私の剣と重なった。衝撃はなく、打ち合う音もまったくしない。
「う、ぐお!?」
しかし少女の剣がバネ仕掛けのように跳ね上がり、ぐるりと回転した瞬間、私の剣はまるで重力を忘れたように手から離れて空を飛んだ。これまでの強烈な打ち合いと一転しての絡め手にかかった。咄嗟に得物を失った両腕を胸の前で交差させ、ありったけの強化を施して後ろへ跳び退いた。だが……。
「がぁ!?」
まるで暴走する馬車に正面から激突されたような衝撃。交差した腕の中心が氷でも押し付けられたようにシンと冷たくなり、体は制御できない速度で吹き飛ぶ。反射的に腕を広げて受け身を取ろうとし、凍るかと思ったその部分で強烈な熱と痛みが爆発した。
「あああああっ!!」
両腕が今の一撃で砕けた。神経があまりの痛みに一瞬ホワイトアウトしたのが、凍るかと思うほどの冷感の正体。そうと頭が理解するより先に喉から悲鳴が溢れ出る。けれど誰もこれを聞くことはない。ここは少女の領域。光以外の全てが内側に閉じ込められた一種の密室。これまでの人生でおそらく最悪の痛みに意識が遠のく。その一方で妙に冷静な自分が、痛みに我を忘れて粗相をしないかと下らない心配をする。
「グ、グゥッ」
喉奥から獣のような唸りを漏らしてなんとか体を跳ね起こす。そのまま激痛を無視して前へ踏み込む。策はない。武器もない。ただ気持ちだけで喰らいついた突進。
何か、何か攻撃の手段……ッ
紫の瞳と目があう。彼女の周囲に紫の輝きが迸った気がした。三歩と走るより早く、肩口に刃が振って来た。それは綺麗な角度で私の首と肩の間へ吸い込まれ、もう一度鈍い音が体内に轟く。
「っ、う、ご、あ、あが……」
鎖骨から指先へ、頭の中へ、肺へ、電流のような痛みが流れ込んで足が崩れる。自分の口から意味の分からない音の羅列が出て行き、悶えるすらできない苦痛に苛まれる。ゆっくりと体が前へ倒れる。気付けば額を柔らかな土に押し当て、私は浅い呼吸を繰り返していた。脂汗が吹き出しては冷や汗にかわり、手足が不規則に痙攣する。
「は、はひゅ、は、は、は……」
息を吐くほどに息苦しくなる。両腕と鎖骨が木っ端微塵に砕けた痛みが交互に襲いかかり、付近の骨の中が染みるようにじくじくと熱を帯びる。意識が不規則に空白を訴え、私は自分が気絶しかけていることを理解した。本物の刃物なら今頃内蔵をぶちまけて死んでいるが、このままでも十分死にそうだ。少なくとも一生両腕は動かなくなるだろう。そんな確信とともに私は理解した。
「今、治す」
「ひゅ、ひゅ、は、ひゅ……」
腐葉土と涙が混じった泥にまみれながらわずかに目を動かす。霞む視界の端、変な姿勢で大木にもたれて死んだように動かないレイルを見る。分かっていたつもりだった。全然だった。ようやく、これだけの修羅場を潜ってなお分かっていなかったことを、ようやく理解した。
魔獣を単独で嬲り殺した少女。
人類を超えた人類、超越者の筆頭だった神の御業を継ぐ少女。
技術神の第一使徒、アクセラ=ラナ=オルクス。
憧れ、奮起し、努力し続けてようやく指先がかかったかと思ったその背中が、まったくの異次元に駆け抜けていったのだということを。
~❖~
冬が間近に迫った夕暮れの林の中、泥にまみれて苦しむ男子二人を前に俺はコキコキと体を鳴らした。ネンスから支給されたアホほど硬い木刀を腰に吊るし、髪を止めていた紐を外す。随分と伸びた白髪が背中にばさりと落ちた。退院と復学からもしばらくたったが、なんとなく切らずに伸ばしているのである。
「大丈夫?」
白い息を吐きながら問いかけるが返事はない。先ほどまで意識の飛んでいたレイルも目を開けているので、まあ大丈夫なんだろう。声を出す気力がないだけで。
「骨も肉も元通り、ちゃんと治してある。安心して」
重い木刀での実戦形式の鍛錬。容赦なく骨を折り、肉を潰し、ときにはないはずの刃で皮膚を切り裂くことすらする。その上で継戦不能になれば聖属性で治療を行う。ヒールでは治り切らない体力と精神力が尽きるまで延々と。目的は死の圧力に慣れること。痛みの中で体と本能が叫ぶ「逃げろ」の命令をノータイムで無視して動くために必要なのだ。
「随分よくなってきた。」
そんな拷問じみた鍛錬だが、あくまで二人が望んだために始めたものである。彼らは森の戦場でよくやったと思うが、本人曰くあれでは足りないらしい。求め過ぎても体を壊すので、そこの見極めはしてやらなくてはいけないだろう。俺が治せる範囲で壊すとも言う。
「十五分、休憩。そのあと技を教える」
「……」
「……」
「返事」
「「……はい」」
すっかり壊され慣れた二人はまるでゾンビのような声で応えた。俺はそれに一つ頷き、水筒の水で軽く喉を潤してから木刀を構え直して素振りを始める。
「……」
二人が化け物を見る目でこちらを見ている。さすがにあれだけの蹂躙、軽い運動だったとは言えない。しかし隙あらばこうやって慣れた鍛錬をしておかないと、新しい体がいつまでたってもこなれてくれないのだ。
「っ、っ、っ」
小さな呼吸とともに素振りを行い、筋肉の一房に至るまで感覚を覚え直すよう躾けていく。聖刻の技術は退院間近に動物実験を経て完成し、この体へ施術を施し終えたのは復学の直前だったのだ。だからまだ感覚が慣れていない。
ちなみに使った白ウサギはリオリー商会の新市街支店に預けてある。
「ふぅ」
背中まで振りかぶり地面すれすれまで振り下ろすという素振りに切り替え、背筋の感覚を調整にかかる。握る木刀はメルケ先生に贈られた木兎の何倍も重い。並の金属と比べてもかなりのもので、下手をすれば軽めのミスリル系合金だった紅兎より手にどっしりくる。
「ふぅっ」
切っ先が一番高くなるところで軽く体を伸ばす。妙な力の入っていた部分からペキペキと音が鳴った。骨、筋肉、神経に施した聖刻は普段、魔力の共有を意図的に減らすことで普通の肉として使えている。それでも以前の鳥ガラだったアクセラと比べて、今の肉体は数倍のポテンシャルを秘めているのだ。まだちょっとしたことで凝ったり筋を違えたりする。
バチッ
音がした。脇腹、背中、肩、腕、指と一連の筋肉へ意識して魔力を流し込む。魔力強化のように消費するのではない、ただ循環させるだけ。それだけで皮膚の下の繊維は淡く輝き、剣士として俺が思い描く最適の力を生み出してくれる。もちろん外から見て分かるような光じゃない。だが代わりにべっ甲色と若紫色のスパークが数度迸った。
「それさ、いてて……」
ふと気が付けばレイルが体を起こしてこちらを見ていた。もう喋れる程度に回復したのかと思うと、こいつも大概人間を辞めている気がする。ちなみに使徒のことは彼に話していないが、聖属性については「いまさら驚くに値しないんだよな、それ」と言われてしまった。
「ときどき、火花みたいなのが散ってるの……どうなってんだ」
「新しい技術」
聖刻を施すときに生じていたスパークだが、自分の体に施してみると起動時に必ずと言っていいほど少量が発生してしまうのだ。出力を上げれば上げるほど比例して弾けるのでいい迷惑である。しかも当たると結構痛い。血が出る程度には攻撃力がある。ありがたいことに体外で生じるよう調整はできたので毎回傷だらけになる心配はないのだが。べっ甲色に交じって俺の貴色まで見えるのは、もうよくわからん。
「素振りは魔力をなじませる訓練か?」
「近い」
一度、魔力流量を上げて振り下ろした。バチバチとべっ甲色が空気を走り、轟と風が巻いて土と枯葉が吹き上がる。刃筋がぶれたのを彼も見て取ったのだろう。微妙そうな顔をした。火事場の馬鹿力だけでもないよりはマシだが、十分とは口が裂けても言えそうにない。本来強さとはそれまでにかけた時間に最も大きく左右されるもの。新しい力を完全にモノにするまでは基礎が大切なのだ。
「そう言う意味で、二人にしているのはその次のステップ」
彼らは自分の血筋と力を正しく理解し、その意味を正面から受け止めている。使いこなすための訓練とてしっかり受けてきたことだろう。俺が今更再履修を自分で課している部分は必要ないのだ。
鍛えてくれ。
二人が俺のもとに来て深々と頭を下げたのは復学の直後だった。
民や同僚を守るための力が欲しい。守るために相手を殺す力が。
スキルを得るためでも、見栄えを競うためでも、自分を守るためでもない。
そんな綺麗なものじゃない力が欲しい。
流派だろうが、武器だろうが、そんなものはどうだっていい。
これ以上理不尽な世界に奪われないための力を授けてほしい。
俺は技術神の使徒として彼らの願いを聞き届けた。紫伝一刀流でも仰紫流でもない、ただ剣士の先達として彼らを鍛え上げようと決めたのだ。
「何か掴めた?」
「アクセラが思ってた百倍くらい鬼ってこと以外はねえかなぁ……まあ、でも痛みには慣れてきたぜ」
「げほ、げほげほっ……それはその通りだな」
ようやくネンスも復帰してきた。彼はげっそりした顔で水筒の中の水を頭から浴びた。
「っはぁ!生き返った思いだ」
アッシュブロンドの髪を手でかきあげて大きく息を吐く王子。体力の限界だけあってかなりしんどそうだ。
「はっは、なっさけねーな!オレなんてもうピンシャンしてるぜ?」
ともすれば辛さに心が負けそうになるこの鍛錬。しかしレイルはそれを分かっているからなのか、ネンスの鎧をガンガンと叩いてわざとマウントを取るようなセリフを吐く。
「叩くなレイル、頭に響くだろうが!」
目を吊り上げたネンスがレイルの手を払い、お礼とばかりに自分も濡れた手で一発鎧を叩いた。やかましい金属音が林に木霊する。
「大体お前、簡単に足払いから蹴りを入れられて吹っ飛んでいった男が上から何を言うか!伸びている間に休めているお前と両腕折られた直後の私、復帰の早さに違いが出ない方がおかしい!」
ガンガンガンと自分で言っておいて鎧を叩きまくるネンス。
「や、休んでねーし!ネンスが秒でのされたから休んでねーし!」
「それはお前が気絶していたからそう思うだけだ馬鹿者め!」
「し、しかたねーだろ!直前に右腕、三つ折りに折られたんだぜ!?」
折ったな、三つ折りに。右腕をまるで封筒に入った大事な書類のように。
「私なんて今日だけでヒールを挟んで左右合計三本折れたわ!」
腕が三本折れたという謎の供述だが、ああ、確かに折ったな。三本。
「折れた腕の本数なら今週もう十八本折れてるっつーの!!」
「残念だったな、私は十九本だ!さっきまとめて二本折れたからな!!」
よく腕の折れる男たちだ。というかそんな自慢をするな。
「まとめて折れたのは一本カウントだろ!」
「どんなルールだ!」
いやほんとにどんなルールだよ。
「……」
「……」
俺が横目で成り行きを見守っていると、二人は実に据わった目でお互いを睨み合い始めた。別に本当に険悪なわけじゃない。そういうギスギスした雰囲気は漂ってこない。ただ回を追うごとに激しく怪我自慢をする謎の伝統が出来上がっているのだ。おそらくストレス発散の茶番だろう。見ていて楽しいので放置の方針だ。
なんだかマレシスがいた頃に戻ったみたいだな……。
「フン!」
やや身長で劣るネンスが小さく踏み込んで胸鎧をレイルの鎧にぶつけた。ガチャンと音がなる。
「ふん!」
レイルが負けじと自分の胸鎧をぶつけた。
「フン!フン!フン!」
「ふん!ふん!ふん!」
ガチャン、ガチャン、ガッチャンと高身長で顔もいい高貴な男子たちが胸を張って鎧をぶつけあっている。頭がおかしくなったか、知らない国の知らない部族の知らない風習にしか見えないが……まあ、いつものことだ。最初は俺も「何をやっとるんだ」と思ったものである。もう慣れた。鍛錬は人を強くするが、過度の鍛錬は頭を弱くしてしまう。
「そろそろ、かな。ガチャガチャ族、ストップ」
俺は体感時間に従って素振りを止めて木刀を下げた。それを見たネンスが困ったような顔で俺に言う。
「ガチャガチャ族とはなんだ」
「……」
一通り鎧をぶつけ合うとストレスが抜けるのか、急に普通に戻るネンスである。あれだけ奇行をかましてなぜそんな怪訝そうな顔ができるのか、鉄面皮の第一人者たる俺でもびっくりだ。しかしこの温度差がジワジワくる。だがあんまりストレスを与えている俺が言及するのもよくはないだろう。ということでツッコミ不在のまま珍妙な儀式は終わりを告げた。
「あとせっかく高価な物をやったんだ、使ってくれ」
「時計、忘れてた」
俺はネンスの指摘でソレの存在を思い出し、枝に引っ掛けておいた鞄へ手を突っ込んだ。掴みだしたのは握り込める大きさの円盤だ。鎖がついていて、本体の一か所だけ飛び出したパーツに繋がっている。飛び出した部分にあるボタンを押してやると、円盤の表面がぱっとバネ仕掛けで跳ね開いた。内側には透明な硝子がはめ込まれており、その奥には磨き抜かれた歯車が無数に回っている。糸のようなゼンマイが渦を巻いたまま伸び縮みして歯車を動かしていた。それから硝子の縁にそって文字が十二個。中心から伸びた紺色の剣のような形の針が二つその文字を示している。
「五時二十……二十三分くらい」
そう、これは時計だ。都市結界の内側で突起の部分を引っ張って数度回すと大鐘楼の時告げの鐘と同期して正しい時刻にセットされ、以降は当分のあいだ独りでに時を刻んでくれる高価な魔道具。おそらくスキルメイドの機構としては魔法杖と並んで最も複雑なものであり、定期的に大鐘楼と同期する手間も手伝って出回る数の少ない品だ。
「ん、休憩前に見ておけばよかった」
「まだかなりかかりそうだな、使い慣れるのには」
苦笑するネンス本人は国の要人だけあって幼少から時計に慣れているのだろうが、俺は前世も合わせて初めて持つ。彼から護衛依頼の特別報酬として与えられたこの金色の懐中時計というやつが初めての時計なのだ。
「たぶん十五分たった。たぶん」
我ながらいい加減な答えを返して時計を鞄へ戻す。その際にパチンと小気味よい音を立てて蓋を閉じたら、ネンスから留め金の爪が折れるから止めろと叱られた。
「始めるよ」
木刀を構えなおした。二人は重い体に鞭打つように姿勢を正す。ここからは剣の技、紫伝一刀流の基本的な動きを両刃剣に置き換えて説明する。体力や根性の鍛錬ではない、これを見逃したら俺にわざわざ稽古を頼んでいる意味がないのだ。
「昨日は剣の受け方。ネンスはさっき、うまく応用できていた。今日は流す技……紫伝一刀流・流鉄の基礎を見せる」
「「はい!」」
「いい返事。まずはゆっくり正面から打ち込んで。私は下から……」
弟子の素直な返事にもう一つ頷き、俺は木刀を下段へ下げるのだった。
~❖~
「アクセラちゃん」
「ん……」
「アクセラちゃん、寝かけてるよ」
「んむぅ……」
温かいお湯の中、湯船へ横たわるわたしの胸に背中をあずけて彼女がうつらうつらとしてる。頭の上で一つに結んだ、解けば背中にかかるほど伸びた乳白色の髪がゆらゆら揺れる。
「……くぅ」
「……寝ちゃった」
諦めのような、背徳的な期待のような、複雑な感情が胸を刺激する。しっかりと筋肉がついた、それでも華奢な体を抱きかかえるような姿勢のまま、わたしは魔眼に力を流し込んだ。
「んん……」
喉を鳴らすアクセラちゃんの白い肌、その向こうに見えるのは薄い紫の輝き。優美な曲線が複雑に噛み合ったそのキラキラした流れは、聖刻が施された彼女の筋肉そのもの。まだまだ不完全で、けれど蹈鞴舞に比べれば断然安定した新技術の光だ。
「きれい」
呼吸に合わせて光は血と同じ方向へ流れてく。不活性状態の今、並の魔眼より断然感度がいいらしいわたしの共律の魔眼でないとここまでハッキリとは見えないはず。誰の目にも映らない大好きな人の姿は、それだけで脈拍を早めてくる。それと同時、まるで満点の星空を見ているような静かな美しさへの感動を噛み締める。彼女の魔力の流れは綺麗なのだ。
「……」
じっと眺めていると一瞬、魔眼のもう一つの力を発動しそうになる。魔力を同調させ、調律し、共有することで他人と繋がり合う。二か月の検証の末に判明したその特性は、少し危険なものだ。魔力は私たちの中を流れる血と並んで重要な命の本流。それを同調させるのはまるで正面から抱き合って鼓動の音を揃えるような一体感を生む。調律するとお互いの繊細な部分を指先でそっと撫で合うようなくすぐったさと心地よさが溢れてくる。共有すればお互いの中にある温かい光が溶け合っていくような、それ以外何もいらないと思ってしまう程の幸せな気持ちに包まれる。
「……ダメダメ」
頭を小さく振って魔眼をこれまでの空白と同じ出力まで落とす。六属性を混ぜ合わせた大魔導を発動させた経験のせいか、魔眼の強度をある程度変化させられるようになったのだ。この状態ならアクセラちゃんの肌の下までは見えてこない。視界から芸術品のような光の流れが消えることは、少し未練を抱かされた。
「……ごくっ」
その代わり、白い肌が惜しげもなく透明な湯の中で煌めくのが見えてしまう。柔らかそうな手足は鋼を細く細く伸ばしたワイヤーを何千本と束ねたような強くしなやかな筋肉に押し上げられ、刀の反りのような艶めかしい線を描く。それを視線で舐めるように追いかければ、それだけでお腹の奥に熱が湧いて来る。
「……」
共律の魔眼による共有は気を抜くと自分の形が分からなくなってしまいそうで、しかもそれすら素敵なことのように思えてしまう。思考を捨て去って身を任せてしまいたくなる。今目の前にある美しい体とそこに感じる衝動は、甘美で際限なく湧いて来るところだけがよく似てる。けれどその本質はもっと荒っぽくて、もっと動物的なものだ。蹈鞴舞の作用で理性の跳びかけたアクセラちゃんに噛みつかれたときのような、あるいはその逆の立場のような。
「……大好きだよ、アクセラちゃん」
力なく浮かぶ左腕に爪を這わせ、傷痕を撫で、恋人のように指を絡めて繋ぐ。唇をそっと、気付かれないくらいそっと、しなやかな首と小さな肩の間へ落とした。少し冷たいそこは気持ちよくて、わたしはもう二回三回と唇を押し当てた。背徳の鼓動に胸が裂けそうになる。
「……」
あの告白の日、困ったように微笑んだアクセラちゃんは少し考える時間が欲しいと言った。わたしも散々迷ってから伝えたんだし、彼女にだけ猶予を与えないというのもズルい気がした。だから頷いたけれど、もう二か月が経つのに返事はない。その間にわたしのタガは少しずつ緩んでしまって、よくないことだと思いつつ抑えきれずにこうして彼女に触れてしまう。特にここ一カ月は授業が終わるとともにネンスくんやレイルくんと林の奥へ稽古に行く日々。その後自分の鍛錬もしてるらしく、帰って来ればご飯と予復習と少しお喋りをしたくらいでぐったりだ。あんまり触れ合えてない。その上お風呂の途中でこうして眠ってしまうことも多い。好きな人が一糸まとわず、無防備に体を預けて来たら……我慢はちょっとできない。
「……」
首筋に鼻先を押し付けたまま、空いている右手を恐る恐る前に伸ばす。鎖骨越しに見える膨らみの稜線へ。
「ん」
「!!」
あと少しで触れるという瞬間、小さくアクセラちゃんが息を漏らした。わたしは瞬時に我に返り、さっと指を解いて唇も離した。
「ア、アクセラちゃん!お風呂で寝たら風邪引いちゃうよ!起きて起きて!ほら、起きて!」
ことさら喧しく言ってお湯を露出した首筋にかける。それからばちばちと水面を叩いて音をたてると、ようやくアクセラちゃんは緩慢な動作で体を起こした。
「ごめん、寝てた」
寝ぼけた声でそう言って彼女は立ち上がる。まだ若干ぐらつく上半身をさっと立ち上がって支えた。心臓がドキドキしていることを気付かれないか震えながら。
いつまでもこんなことじゃ駄目なのは、分かってるんだけどね……。
ふと覚悟という言葉が脳裏をよぎった。あわよくば、という思いが自分にあって、それがなかなか踏ん切りを付けられない理由であることはよく分かってる。
「覚悟、か」
夏からの課題だった方の覚悟に意識は向かい、声にならないくらいの小さな呟きとなった。こちらはわたしのほうが結論をもう少しだけ待ってほしいと先延ばしにしている問題だ。生きる覚悟、死ぬ覚悟、殺す覚悟……そして殺したという事実。そこまで思考が流れ着く頃には、もうすっかり燻る熱量は冷めきっていた。
「……湯冷めする前に、服着ちゃおう」
「んー……」
足取りの怪しい最愛の人の手をとってわたしは脱衣所へ向かう。心の中は遠征の前よりややこしく散らかってしまった気分だ。まるでわたしたちの関係のようで、ちょっとだけ憂鬱になる冬間際だった。
~予告~
ネンスに集められた仲間たち。
語られるのは反乱の結末。
次回、遠征企画のその後




