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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
外章 青き狼の編-Ⅰ-
241/367

ナズナ外伝 砂漠彷徨う青き狼 流浪-Wandering-

年末年始の連続更新、第二回です!

 オアシスでの一休憩を経て気合を入れ直したナズナは、また巨大なフェルグランテにまたがって砂漠を駆け抜けていた。ヴェガに頼まれている動作項目の確認も兼ねて速度を複雑に変化させたり、急角度でのターンを繰り返したり、かなりのアクロバット走行だ。


「記録、ターン時のスリップが少なく感じます。良し悪しは分かりませんが、滑り防止のグリップが強すぎるのかもしれません」


「記録、急加速した直後に急ブレーキをすると車体が右に跳ねあがります。跳ねるのは物理的に仕方ないとして、左右にブレるのは危険ですね」


「記録、既存ルート上のオアシスが一つ枯れています。地図番号と後ほど照合しますが、十七番商路上を南西に進んでいるところです」


 耳慣れない独特の唸りとクリスタルを指で小さく弾くような音色を背景に、ナズナは時折備え付けの音声記録魔道具に言葉を吹き込む。これはテスト走行だからではなく、エクセララの旅人に奨励されている習慣だ。細かい変化を記録しておくことで蓄積される情報が技術を発展させ、複雑怪奇な大砂漠の地図を信頼性のあるものにしていくのである。


「ふぅ、しかしビークルの風は砂まみれにならない分、気持ちがいいですね」


 びゅうびゅうと過ぎ去っていく風に彼女は微笑んだ。オアシスでの沐浴が責任感という心に纏ったフルプレートの鎧を溶かしたのか、普段にくらべて随分と穏やかな表情だ。そうしているとナズナはどこか幼い少女にも見えた。


「さて、オアシスからここまで正規ルートを通っていますが……そろそろ未踏破領域ですかね」


 記録ではなく単なる独り言としてナズナは呟き続ける。彼女にはもともと結構な呟き癖があった。都市の中では人目もあるし、何より代表者の一人であるという自覚によって抑えられているのだが、戦場や旅路になるとついつい顔を出す悪癖だ。


「うーん……しかし今から踏み入るのも微妙かもしれませんね。そろそろ日も暮れますし」


 未踏破領域というのは広大な大砂漠の中で、地図が作られていない場所を指す言葉。魔境の中の魔境である未踏破領域はしばしば、滅びた文明の遺産や封じられた太古の超兵器が眠っていると噂される場所だ。それは流行りのエンターテイメント小説の中だけでなく、大真面目な文献や著名な歴史学者まで、古今東西の人々がそう思っている。未踏破なのだからこそ、何があってもおかしくないと。


「まあ、そんなロマンのある場所ではないですけどね」


 ナズナは速度を緩めながら苦笑いを浮かべた。彼女を含め、エクセララの上位者や一部の超越者は結構な人数が未踏破領域に踏み込んでいたりするのだ。理由は様々。修行や好奇心、冒険心、果ては逃亡のためや素材集めまで。


「特に立ち入りを管理しているわけでもありませんしね」


 いまのところ目を剥くような財宝や為政者を震え上がらせるような超兵器が見つかったという話は聞かない。せいぜいが歯応えのある魔物や野生化した低級魔獣の群れが関の山だ。


「色々期待したくなる気持ちは分からなくも……?」


 地図を見てオアシスの場所でも探そうか。呟きながらそう思い、一旦停車しようとした時だった。小さな振動が彼女を襲う。本当に微細な、感覚が鋭い獣人でかつ場慣れした剣士という彼女でなければ気づけないほどの揺れ。発生源は下だ。完全にビークルを止めてからブーツの爪先で地面を触る。微振動は刻一刻と近くなってきていた。横揺れではなく縦揺れ。


「これは……ワームッ!」


 理解した瞬間、ナズナは足回りのペダルを強かに踏みつける。そのままグリップを握りこめば車体の心臓部から透き通った音色と力強く唸る声が響き渡る。その簡単な操作でフェルグランテは放たれた矢のごとく発進した。


「ぐっ、記録!いえ、後でいいです!」


 緊急加速の凄まじい負荷につい文句を言いそうになるナズナだったが、さすがに舌を噛みそうだとすぐさま諦める。直後、数秒前まで彼女のいた場所が直下から吹き飛んだ。背後で屹立する象牙色の柱。黒い棘が点々と生えた滑らかな肌を持ち、直径は1メートルくらいあるだろうか。長虫型の魔物、ワームである。


「アイボリーデスワームですか、最悪ですね……ッ」


「ギィイギギギギギ!!」


 天へと伸びた象牙色の虫は地面へ頭を向ける。四枚の顎がガッチリと閉じればその頭部は杭のようだ。目もないのに狙いをつけてワームが突撃してくる。杭状の頭部を落下の勢いのまま砂地へ打ち付け、ビークルで疾走するナズナの残像を貫通。棘を器用に動かしながら爆速で大地へ潜っていく。当然ながら諦めたわけではない。


「ギィイイイイ!」


「ッ!!」


 後ろに気を向けていたナズナの前方、地面を突き破って直径30センチほどのアイボリーデスワームが現れ……フェルグランテの研ぎ澄まされたような先端に触れて千切れ飛んだ。


「うっぷ……っ」


 緑色の体液があまりの衝撃に霧のごとく飛び散り、白い車体の側面を汚していった。ガラスシールドのおかげで顔から汚汁を浴びずにすんだものの、思い切り足にかかったナズナは美しい顔を歪める。


「ギギギィ!!」


 すぐさま最初の一体が背後を穿って現れ、二度目の突撃で今度こそ小さな獲物をしとめようとする。同時に細い個体が次々と現れては飛びかかってきた。


「ええい、次から次へと!」


 背後から地面を爆砕しながら追いかけてくる成体と前後左右から襲い来る幼体。一体でも触れれば追加の悪臭液を浴びるという最悪の状況で、ナズナは巧みに魔導ビークルの舳先を操って掻い潜っていく。


「付き合っていられません!」


 どれほど広大な巣をつくっているというのか、走っても走っても湧き出してくる象牙色の筒に女剣士の我慢が底をついた。グリップの根元にある赤いボタンのガラスカバーを親指で弾き上げ、躊躇いなくそれを押し込む。


 ボッ、バボンッ!!


 歯切れの悪い爆発音がしたかと思えば、ビークルの最後部に取り付けられた噴射口から真っ赤な炎が噴き出した。すでに馬車とは比べ物にならない速度を出しているフェルグランテだったが、それによりさらに数段上の加速を手にする。


「ギュチギュキィイイイ!?」


 突然の炎に焼かれて踊り狂う細い虫たちと怒りの咆哮を上げる成虫。それでもなお追撃しようとした刹那、道着を抑えるベルトから握りこめる大きさの筒を取り出し、歯でピンを引き抜いて投げた。


 バリバリバリバリッ!!!!


 強烈な放電が筒から迸り、まだ健在だったワームを片端から絡め取っていく。雷獣カイローンの魔石で作ったスパークグレネードだ。踊り狂う長虫と雷の全てを置き去りに、ナズナとフェルグランテは流れ星のように赤い尾を引きながら砂漠の彼方へと飛び去って行くのであった。


 ~★~


 未踏破領域にある小さなオアシスの辺、荒々しくビークルを停車させたナズナは勢いよく飛び降りて羽織を脱ぐ。白い生地には緑の飛沫が斑点のようについていた。袴にも汁は飛んでいる。


「うぷっ」


 胃液が戻ってくる酸っぱい感触に口元を手で押さえた彼女は、そのまま息を止め、グシャグシャにした白い上着で車体を拭った。幸いというべきか、魔導ビークルの表面は特殊な防塵コーティングがしてある。数度ゴシゴシとしただけでワームの体液は完全に消え去った。かわりに羽織が見るも無残なまだら模様になったが。


「ああ、もう!もう!もう!!」


 言葉にならない悪態をつきながら羽織を機体ともオアシスとも離れた方へ投げ捨てる。それからベルトの留め金を弾き、胴着袴をむしり取るように脱ぎ、インナーもショーツも全て剥いで羽織の上に放る。そこへ右手の人差指を突き付ける。


「燃えろ!」


 紅蓮の輝き外気に晒された腕に複雑な模様を描く。火炎魔術・火弾が指先から衣装に一発、二発、三発と叩き込まれ、シンプルなデザインのそれは焚火と化す。


「これが嫌だから避けているんですよっ!なんで、どーして、生息域がゴッソリ変わっているのですか!?」


 虚空に向けて怒鳴りながら、裸身の美女は踵を返す。双丘を揺らしながらザブザブとオアシスの水に潜るなり力強くその柔肌を洗いだした。普段の凛々しくて理路整然とした姿からは想像もつかない荒れようだ。


「本当にもう、腹の立つ!……うぅ、あの羽織は気に入っていたのに!」


 しまいにはエクセララ最強の一角とは思えない涙声になる。しかしそれもそのはず。感覚に優れる獣人の中でも特に狼系は鼻が利く。これがせめて猫科の獣人なら気分が悪くなる程度で済むのだが、彼女は狼の神獣・嵐月の獣人である。鼻は本物の狼よりはるかに鋭敏だ。


「なんでよりによって私が通るときに生息地を変えるんですか!ワームは巣をほとんど移動させないでしょう!?ハグレならまだしも群れですよ群れ!!」


 汚物をかき集めて酢酸で煮込んだような刺激的な悪臭が洗っても洗っても布に染み付くアイボリーデスワームの臭いは、ナズナにとって数少ない克服不可能の鬼門であった。いくらナズナが剣士といえども、妙齢の女であることに変わりはない。シンプルな物を好みはするが、それなりに服の一枚にもこだわりと愛着がある。


「……ぐすん。あとでマップ書き換えておかないと」


 真面目な彼女が節を曲げてでも断固討伐を受けず、遭遇しただけで半ベソになる存在。実は今のところ、この世界にアイボリーデスワームのただ一種しか存在しない。エクセララでは弱い扱いされるBランク魔物だが、ある意味で恐ろしい生物といえた。


「あぁ、もう暗くなってしまいました」


 ナズナはたっぷり一時間をかけて体を清めた。水気を含んだ耳はへにゃっとなって、尻尾もだらりと下がっている。誰が見ても落ち込んだ犬そのものの様子で、ビークルから着替えを取り出して着こみ、再び座席に股がる。


「……」


 しばらくそのまま座っていた彼女だったが、やがて諦めたように飛び降りた。フェルグランテがあれば夜通し移動もできるだろうが、もうそんな気力は微塵も湧いて来なかった。代わりにビークルの記録装置へ向かって先ほどの出来事を吹き込む。


「記録、第十七商路にアイボリーデスワームの巣を発見。南東に大規模な巣があったはずなので、分裂したか移動してきたかです。調べたくないのであとでギルドに依頼を出しておきます」


 そこでふと、しばらく前に兄カリヤとその弟子カグモが討伐した同種の魔物の腹からロンドハイム帝国兵の鎧が出てきたという話を思い出す。群れが大きくなりすぎて分裂しただけなら別にいい。ナズナ個人としてはよくないが、まあいい。問題は群生地を捨てて移動してきた可能性で、もし帝国が何かをしてアイボリーデスワームの生息地が変わったのなら、理由はナズナ自身が見ておいた方がいい。


「……記録」


 計器類に今消えたばかりの緑が灯る。記録中の印だ。


「……」


 しばらくして光は数度点滅し、ふっと消えた。


「うーっ」


 アイボリーデスワームだけは本当に嫌なんです!絶対に!絶ッ対に!!

 心の中で言い訳がましく叫んでみる。その間、口から出てくるのは低い唸り声だけ。そしてその祈りに応とも否とも意見をくれる他人は、このだだっ広い砂漠にはいない。空しく「それで?」と問い返してくる自分がいるだけ。そしてその木霊のニュアンスはどこか批判的に聞こえた。


「はぁ、もう、仕方ないんですよね、分かっています。分かっていますよ……帝国への対処は何にも優先される、エクセララの当然の掟ですからね……記録!群生地の移動に関して帝国が何かしているかもしれませんので、念のため、予定を変更して確認に向かいます」


 言い切って、緑のランプが消えるのを確認してからもう一度深々とため息を吐く。けれど自分で言った通り、帝国への対処はエクセララの命運を左右しかねない案件だ。行くしかない。


「もう、今日はご飯食べて寝ます!」


 嫌だろうが何だろうが、一度決まれば旅暮らしの長かった彼女の行動は早い。積み込んであった三脚式の調理台を取り出して平らな場所に置き、『生活魔法』で火をつけたランプをその下に滑り込ませる。上には鉄のフライパン。


「今日が初日でよかったですね、ある意味」


 一日目は新鮮な肉と野菜が沢山あるからだ。

 収納から布状に押し潰した大きな葉の包みを取り出す。包み自体は抗菌作用のあるシェクレルタの葉布で、中身は新鮮な鳥系の魔物肉。何種類ものハーブと岩塩が擦りこんであって、開けるだけで爽やかな香りが広がった。


「はぁ、これだけで幸せです。セリアさん様様ですよ……」


 出発前にカリヤの妻でもあるセリアが下拵えをして持たせてくれたものだ。


「食事が美味しければ大抵のことはどうでもよくなる。まったくもって真理ですね」


 自分に言い聞かせながら、カンカンに熱したフライパンに少量の油と干しニンニクを入れる。すぐさまキツネ色になるので、焦げる前にニンニクは摘まみだして肉を投入。皮目から豪快に焼いていく。


「おっと、忘れていました」


 慌ててナズナは調理用のナイフを取り出し、バチバチと焼ける音を立てる肉に賽の目の切れ込みをいれる。皮目を表として、裏側をこうして切っておかないと火の通りが悪くなるのだ。


「野菜はなにが……あ、玉ねぎがあるではないですか」


 ヘタれていた耳が少し立ち上がった。彼女の夕拵えは行き当たりばったりのような段取りと、ちぐはぐなくらい手慣れた調理で成り立っている。


「さすがに葉物はないですね」


 涼し気な見た目と普段の真面目な立ち居振る舞い、そして「紫伝の剣士は料理上手」というエクセララの常識のせいで勘違いされがちだが……ナズナの料理はいわゆる男飯だ。しかも旅支度を弟子に任せている。


「玉ねぎと鳥ですか。これはいい組み合わせです。誰か知りませんが、とてもいいです」


 今初めて発見し片手に握ってはしゃいでいる玉ねぎも、魔導ビークルの豊富な収納と短期的な日程を考慮して誰かが入れておいてくれたものだ。


「岩キャベツの酢漬けよりはレモンの気分ですね」


 薄緑の液にキャベツがこれでもかと入ったガラス瓶をスルーし、横の黄色い果実を手に取る。好きな物がいい具合に揃っていて、フサフサの尻尾も元気を取り戻してきた。


「あと干し飯があれば、よし」


 硬く乾いた砂稲の干し飯を手で砕き、大きな銅のマグに水と入れておく。玉ねぎを剥いてから、器用に空中でみじん切りにしてフライパンへと投じた。鍋の片側で肉を裏返し、もう片側で玉ねぎを炒める。両方いい具合に熱が通ったところでレモンをぎゅっと絞って仕上げだ。


「会心の出来です。さて、いただきましょうか」


 調理にも使ったナイフを火で炙って消毒し、簡単に肉を四つほどの切れに分けるナズナ。その一つをフォークで刺し、肉汁が服に落ちないようフライパンの上に身を乗り出してかぶりつく。前歯と犬歯が表面をぶつんと貫通し、ぞぶりと塊に潜り込む。肉の繊維を断ち切っていく感触が彼女を楽しませた。


「はふ、はふ……んんっ、さすがセリアさんの下拵えです」


 熱い肉の塊をフォークと牙で器用に裂いて食べ、ときおり顎を滴りそうになる脂を掬い取って舐める。細かく砕いた岩塩と粗挽きの胡椒が灼熱の太陽の下で活動していたナズナの体によく沁みた。そこに痛めた玉ねぎの甘味とわずかな辛みだ。


「我ながら玉ねぎの火加減はとてもいいですね……ふふ、しかし私も随分と料理が上達したものです」


 ナズナは冷え込む砂漠の中で一人、フライパンの中身を平らげながら満足げに笑んだ。大師匠であり彼女にとっては祖父でもあるハヅキ=ミヤマの方針で紫伝一刀流の高弟は料理を一通り学ばされる。特にエクセルはどんな料理でも作れた。カリヤも凝りだすと手間暇かけた豪奢な一品を仕上げだす。そんな中でナズナは一番に料理が下手だった。


「兄さんのように派手な料理は今でも苦手ですけどね」


 根本的な料理のイロハを覚え、味を予測できるだけの経験を得た今、ナズナは料理上手だと言い張れるだけの腕前がある。しかし盛り付けの才能がない。やる気の問題もある。よって宮廷料理のような目にも華やかな料理というのは無理だった。旅の中で冒険者が食らう、味と活力だけを重視した献立しか作れない。


「……食べられて、美味しいのだからそれでいいのです」


 一緒に旅するには最高だが、嫁にするにはちょっと。そう笑っていたかつての冒険者仲間や、何も言わずに苦笑する弟子たちの顔を思い出す。彼女は少しだけ頬を膨らせ、子供じみた表情のまま残りの肉を食べきった。


「ふぅ、美味しかった。あとはコレですね」


 コップの中ですっかりほぐれた干し飯だ。水を切ってから火にかけたフライパンへ広げる。油の中で水分がパチパチと弾けるのを見ながら、玉ねぎの残りとも絡めて熱を通していく。メインの肉を食べてから米に取り掛かるのは一般的ではないが、一人旅ではあまり食器を持ち込めない。一つのフライパンで食べるための工夫だ。あと干し飯はそうした方が美味いのである。


「もうちょっとだけ胡椒を足しましょうか……贅沢ですかね?」


 逡巡したのち、彼女は黒胡椒を鍋に追加投入した。


「まあ、あんなことがあった日ですからヨシとしましょう」


 明日はワームの巣かロンドハイム帝国の部隊、どちらにしても嫌なモノにあうのだ。それならいっそ、今を楽しんだ方がいい。それに米と玉ねぎだけだと彼女の舌には甘すぎた。鳥の脂も甘味がある。


「できたっと。これは美味しいですよ!」


 ナズナは一人でテンション高く月へと拳を掲げる。火を止め、フォークで器用に米を掬って口へ。鳥魔物の野趣ある旨味と干し飯の親しんだ滋味、玉ねぎの蕩けるような甘み、そしてビリビリするほどの黒胡椒が絶妙に退廃的な美味さを演出していた。


「はぁ、美味しい」


 あれやこれや、言い訳の産物ともいえるリゾットもどきを掬い上げて口に運び、彼女は幸せそうに微笑んだ。


「あとはいい夢でも見れたら最高なんですが」


 明日のことを思って贅沢なことを呟くナズナであった。


 ~★~


『親父、こんなときに何日もドコいってやがったんだ!!』


 気が付くと兄さんが血相を変えて走ってくるところだった。真っ赤な髪を逆立てて、地面を踏み割りそうなほど強く踏みしめて。それを見ながら私はぼんやりとした意識で納得した。

 ああ、これは夢ですね。

 なにせ兄さんの背がいまより低い。顔立ちも若干幼くて、しかも後ろから同じく幼さの残る私自身が駆けてくるのだ。これが夢でなければ何だろうか。


『兄さん、止めてください!』


 今にも視線の先の人物へと掴みかかりそうな兄の腕を押さえてもう一人の私が叫ぶ。


『父さん!姉さんが、マリー姉さんがどこにもいないんです!』


 これはあの日の夢だ。父さんと姉さんはどこかへ出て行って、何日も戻らなかった。帰ってきたのは昼前の暑さが増してくる時間帯で、けれど私は冷たい汗ばかりかいていた。数か月前から姉さんは悪質な病気にかかっていた。足の運動機能と肺を酷く損なう伝染性の病気で、感染力こそ強くないが治療法もない類だった。


『しかも第八(だいはち)異聞(いぶん)(まる)もなくて、また狩りに出たんじゃないかって!』


 足の筋力が衰えれば心臓に負担がかかるようになる。肺が萎めば戦いの中で脳に酸素が回らなくなる。そんな剣士として絶体絶命の状態でありながら、姉さんは構わず私たちの隙をついて抜け出していた。愛用の試作刀第八(だいはち)異聞(いぶん)(まる)を片手に携え、戦うために。


 そう、だからあの時もいつもの脱走だと思った。けれど帰ってこないから心配して、捜索隊を出そうとしていたとき。その時だった。


『……おい、待てよ親父』


 詰め寄ろうと藻掻いていた兄さんが止まった。眉間に深い皺をよせ、こめかみに青筋を浮かべ、食いしばった歯の間から呻くように尋ねる。


『なんで第八異聞丸(ハチマル)を親父が持ってるんだ』


 言われてもう一人の私の視線が動く。目の前の人が握る、ちょっと変わった形の刀。それを見て、目を丸くした。


『ほ、本当だ!姉さんを見つけたんですか!?よかったぁ』


 もう一人の私は兄の肩に額を預けることでへたり込むのをギリギリ我慢した。緊張の糸が切れて、柄にもなく脱力してしまったのだ。その瞬間のことをよく覚えている。直後に突き付けられた現実の衝撃とともに。


『まったく姉さんたら!今は治療院ですか?もう、安静にするようにって父さんからも……父さん?』


 安堵のままに小言を口にしようとして、もう一人の私は父の表情に戸惑う様子を見せた。次いで兄の体からまだ力が抜けていないことに気づき、不穏な空気を察して眉を寄せる。


『親父、なんでそんな焦げ臭いんだよ』


 兄さんが指摘した途端、私の鼻にも焦げた臭いが漂ってきた。それはもう一人の私にとっても同じだったようだ。ミント色が混じったイエロートパーズのような瞳が揺れる。


『姉貴の炎の臭いだ』


 父がいて、姉がおらず、姉の刀は父の手の中。そしてこの焦げ臭さ。いやな想像が次々と未熟な心に湧き上がってきているのが、外から見ていてよく分かった。


『なにが……何があったんですか、父さん!』


 涙を浮かべて叫ぶ先。私も振り向いてそちらを見る。そこにいたのは墨色の髪と目をした中年の男性。背は高く、体つきはしなやかだがガッシリとしていて、褐色に焼けた肌にはいくつも傷痕が刻まれている。エクセル=ジン=ミヤマ、私とカリヤにとっては父であり、師匠でもある存在。


『父さん!』


「父さん……」


 これは夢だ。


『黙っていないで、何か言ってくださいよ!』


「黙っていないで、何か言ってくださいよ」


 夢が現実に語り掛けてくることはない。記憶の中の誰かが今の自分に言葉をくれはしない。そう分かっていても声に出してしまうほど、懐かしさと愛おしさが胸の奥にこみ上げてくる。


「……ッ」


 急激に高まる感情に胸が苦しくなる。あの日からずっと抱いてきた怒りも、父が最後まで明かさなかった真相も、何もかもがどうでもよくなってしまいそうなくらい寂しくなる。湧き上がる愛情が全て流れ落ちていくほど、大きな穴が心のどこかに開いているような感覚だ。


「会いたいです、父さん」


 何でもいいから会いたい。会って話がしたい。どんな話だってかまわない。どんなことをしてきたのか、何を感じてきたのか、そんな子供が親に報告する程度のことでいい。全部話して、それから最後に頭を撫でてほしい。小さな頃にそうしてくれていたように。


『……』


 目の前の父の影は一言も喋らなかった。その瞳に移りこむ私は耳が折れ、眉が下がり、そして縋り付くような目をした子供の私だ。もう超えたはずの、昔の私だった。


『……』


 あの日の私と兄さんに問い詰められ、険しい表情のまま唇を引き結んだ父の顔を見る。声の一つも漏らすことなくただ佇むその顔には、昔の私には分からなかった複雑な表情が浮かんでいる。けれどそれを正しく察することは今もって叶わない。怒りかもしれない。悔いかもしれない。覚悟かもしれない。


「なんで、語ってくれなかったんですか」


 もとはよく喋る人だった。そんな父が好きだった。年を経るごとに口数が減って、それが寂しくもどかしかった。晩年になってまた増えてきたのだったか。その時は饒舌な様子が、まるで謝罪をしているようで、あるいは遺言を書きだしているようで、とても怖かった。

 それでも、結局最後まで姉さんの真相は明かしてくれませんでしたね。


「父さんの……バカ」


 一歩引いた私と過去の影たちの間へ砂が嵐のごとく巻き上がった。見る見るうちに遠ざかる、古傷のような記憶の風景。私はそれに抗わず、ただ目を閉じた。

 そういえばあのあと、本当は父さん、なんて言ったんでしたっけ……。


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