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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
外章 青き狼の編-Ⅰ-
240/367

ナズナ外伝 砂漠彷徨う青き狼 始動―Starting―

年末年始の連続更新、第一回です!

 大砂漠を覆う灼熱の空に珍しく雲がかかっていたある日のこと。武術都市エクセララの裏門にはちょっとした人だかりができていた。そのほとんどが元は白かったであろう汚れ果てたツナギか上着をきており、今にも踊りだしそうな喜色を溢れさせていた。一言で言うと異様な雰囲気である。


「いやー、こんな日が来るとは思ってなかったっすから、嬉しさが爆発っすね!大爆発っすね!」


「よせ、爆発とか。いくら口癖でもメトランデ、オマエ、この状況で爆発はよせって。頼むから」


 声を弾ませて何度も同じことを言う細身の白衣。笹のように尖った耳は純血のエルフであることを示しているが、およそ一般的な彼らのイメージとはかけ離れたはしゃぎようだ。その横で猫系獣人の中年が神経質そうに両手の爪をカチカチ合わせながら、これまた何度目かも分からない苦言を呈する。


「でも、これでボクらの研究は一つの集大成を得たんっすよ?技術の大爆発っすよ?そりゃもう喜びも感情も何もかも爆発っすよ!」


 両腕を振り上げて大爆破を表現するエルフ。長身の成人が砂地の上でピョンピョンと跳ねる様子は中々に奇異だ。


「何もかも爆発するのは、さすがに私も勘弁してもらいたいですね」


 エクセララの最外壁、その内側に等間隔で設置された送風の魔道具。慣れれば気にならないその稼働音を断ち切るように凛とした声がざわつく研究者たちの間へと差し込まれた。その瞬間にほとんどの者が背筋を正して私語を慎んだ。長身のエルフを窘めていた猫系獣人など直立に彫られた石造のごとしだ。


「楽になさい。エクセララの民は皆が一つの群れ、一つの家族です。威儀を正さなくてはいけないところ以外で堅苦しい礼儀は不要ですよ」


 まだ早朝とはいえじわじわ熱くなってきた季節にあってその声は酷く涼やかだ。まるで都市に張り巡らされた青黒い魔鉄の採水パイプのように。


「メトランデさんほどとは言いませんが」


 そうして付け加えられた言葉に空気はやや弛緩する。一方で名指しされたエルフの研究者、メトランデは照れたように後ろ頭を掻く。


「そりゃないっすよ、ナズナ様」


 ナズナ=エクス=ミヤマ。それがやってきた女性の名前。背は女性にしては高く、怜悧な顔立ちは笑えば愛らしいのだろうが困り顔か怒った顔ばかりが目立つ。藍色の長髪を後ろで括っており、同色の毛に包まれた三角の耳と長いふさふさの尾が狼の神獣・嵐月の獣人であることを示している。

 技術神エクセルの愛娘。仰紫流刀技術の師範。エクセララを防衛する五爪将の一角。武術の最高決定機関たる師匠連の大師。そうした凄まじいまでの肩書に似合わず、彼女は上質ながらシンプルな衣装を纏っている。エクセル神の貴色である若紫に染められた道着と日を避ける白い薄布の羽織り、そして黒い鞘に納められた簡素な刀一振り。それだけだ。首の半ばまで肌にぴったりと貼り付いて見える黒のインナーも、見栄えという意味では非常に地味と言える。


「もう動かせますか?」


 ミントを含んだイエロートパーズの瞳が研究者と鍛冶師の群れの中で一際年季の入った白衣のドワーフに向けられる。プロジェクトリーダーのヴェガ=グラシア、商工会議所に所属する技術者の中でも機密アクセス権限の高い古参だ。


「へい!もちろんでさ」


 ニッと人好きのする笑みを浮かべてヴェガは視線をメトランデに向ける。


「エンジンもあの爆発モヤシが最後の調整をさっき終えましたんで。こんなアレな奴ですが、腕は確かでやすから安心して乗っていただけやすぜ」


 爆発モヤシと呼ばれた男はまた照れ笑いを浮かべて隣の中年猫男に腕を回す。


「ヴェガのおやっさんの設計、ジステの鍛造魔鉄、それにボクの魔導炉が合わさった最高傑作っすからね。もちろんその他大勢の仲間たちの努力もっす」


「やめ、やめろって!オマエの気持ちは嬉しいが、オレは同僚に後ろから刺されたくねえ!!」


 じたじたと暴れる猫男、ジステ。だが彼の心配をよそに周囲のその他大勢扱いされた技術者は苦笑いを浮かべる程度だ。それだけ三人の腕がいいということでもある。仲の良さそうなプロジェクトチームにナズナは小さく微笑み、一瞬で表情を引き締める。


「それでは時間も押しています。説明をお願いします」


「もちろんでさ」


 大きく頷いてヴェガがさっと指さした先には凄まじく目を引く物体が鎮座している。都市外壁の陰にあってなお煌めく純白。馬車の車輪を何十本束ねたら並ぶのかというほど太く巨大な車輪を前後に持つ、流線型で洗練された印象を持ちながらいやに巨大で威圧的な金属塊。前と思われる方には明度の高く薄い硝子が盾のように張られているが、後ろと思われる方にはいくつものパイプや噴射口のようなものが口を開けている。既存のどんな物体にも似ない、摩訶不思議な装置だ。


「エクセル神の師匠、原初の刀使いハヅキ=ミヤマの機械鎧より得た種々の技術とイメージの中でコイツがテスト段階を突破した実機第一号になりやす。ただの再現や中途半端な模倣品じゃねえ、オレたちの生み出したこの世界の技術とアイデアで再設計した……魔導機械計画の第一号、魔導ビークル・フェルグランテ!!」


 ヴェガは声を張り上げる。同時に技術者たちから喝采が上がった。それはあまりの熱量にナズナの弟子たちが気圧されるほど。歴戦の高弟たちが、だ。


「魔導ビークル、フェルグランテ……テスト段階のフェルニードには乗りましたが、あれよりは随分と大きいですね」


 ナズナが試乗した試作品に見られたタイヤを保持するステークや座席周りの華奢な印象はまったくない。その指摘にヴェガはうんうんと頷いて見せる。


「ニードは外で走らせるモンじゃありやせんでしたからね。でもこいつは砂漠でも走りやすいようタイヤ面積をデカくとってやす。燃料の貯蔵量も四倍近く、燃費の改善と合わせれば無補給で大砂漠を往復できるレベルでさあ。なにより重く大きくなった分、スピードを出しても危なくありやせんぜ。むしろこれで横転できるならしてみやがれってなもんで」


「それはなによりです。正直フェルニードは結構重心が難しかったですから」


 珍しく心からホッとした様子をナズナが見せたので技術者たちは目を瞠った。ただ常日頃から共に過ごすことの多い弟子たちは知っている。意外とナズナは心配性であることと、並の獣人をはるかに凌駕する彼女のバランス感覚が試作ビークルの揺らぎに過剰反応していたことを。特に一番弟子でもあるエルフのアネスは自ら頻繁にテスターを買って出ていただけに、フェルニードのバランスが十分に石畳程度なら走破できるものであることを理解していた。もちろん師の名誉のために誰も口を開かないのだが。


「早速荷物を載せてしまいたいのですがいいですか?」


「へい、それはこちらに」


 ヴェガと慌てて前に出たジステが荷物を持った弟子たちに白い装甲を開いて収納場所を見せる。鍵がかけられる収納は二か所だけ。そこには食料と水が納められた。それ以外には最低限の着替えや下着類、ポーション、道具類が入る。


「よく入りますね」


「魔道具だけ砂漠越えできても意味がありやせんからね。将来的にはこの巨体でやすから、副座式にしてサイドカーなんかも付ければ3人か4人を運べるようになりやす。収納はそこまで見越しての仕様でやすぜ」


「そうなればいいですね……この大砂漠では馬車の移動が難しいですから」


 しみじみとナズナが頷くのには理由がある。大砂漠の東西を繋ぐ新しくて安全な交易路を持つエクセララは商業的に大きなアドバンテージを持っているわけだが、そのネックは過酷すぎる天候なのだ。いくら強力な魔物を討伐できるエクセララの戦士が護衛をやっているといっても、荷を運ぶ馬や家畜化した魔物の体力を日光と焼けた砂は容赦なく奪っていく。


「それについてはボクにお任せっす!なにせ今研究中の爆縮型魔導炉が完成すれば爆発的に効率も出力も上がりまくりっすからね!そうすれば魔導ビークルだけじゃないっすよ、魔導戦車でも魔導飛行機でもなんなら魔導人型決戦兵器までなんでもござれっす!!大・爆・発!!」


「落ち着け、頼むから、落ち着けメトランデ!」


 喋っている間にもどんどんとテンションの上がっていったメトランデは最後に絶叫し、慌てて車体から駆け戻ったジステが抑えにかかる。振り切れた才能の代償か、男は時折こうして感情も振り切れるのである。


「爆発モヤシ、キモい」


 そんななかでボソリと可憐な声が呟いたのを、ジステにヘッドロックをかまして爆発的を連呼していたメトランデは聞き逃さない。


「あー!今聞こえたっすよ!?」


 眦を吊り上げて彼が睨む先にはフェルグランテの側面ハードポイントに巨大な鉄板を取り付けているアネスがいた。普段は気こそ強いものの礼儀正しい彼女が珍しく吐いた言葉に事情を知らない者は一様にぎょっとしている。


「人をキモいとか言っちゃいけませんって教えたつもりっすよ、お兄ちゃんは!」


「自分をお兄ちゃんとか言うな、爆発馬鹿!」


「あ、爆発を馬鹿呼ばわりしたっすね!?」


「いや、馬鹿呼ばわりされたのはお前だぞメトランデ」


 ピントのずれた応酬に慣れた様子のジステだけが口を挟む。特に隠しているわけではないが、あまりメトランデとアネスが血縁であることを知る者はいない。といっても兄妹ではなく従兄妹で、年が離れているだけに親子のような側面もある。


「はぁ、昔はボクが爆発と叫べば舌足らずにばくはつ!と叫んでくれたのに、寂しいっす」


「あー!あー!あー!爆発しちゃってよ、その緩い口ともどもさ!!」


「発声練習っすか?」


「メトランデ、オマエ、そういうとこだと思うぞ?」


 まったく同じようなやり取りが二度繰り返されたところで、ナズナがぺちりとアネスの額を叩いた。


「アネス。アクの強い育ての親や兄を受け入れがたい貴女の気持ちはよく、ええ本当にとってもよく分かりますが……でもあまり言い過ぎてはいけませんよ」


「うっ」


 音の割に赤くなった額を抑える少女はバツが悪そうに呻く。会いたい誰かに会えなくなった者、最後の言葉を悔やむ者、気安さの中に惜別を覚える者。何かしらの傷を持つ者達が生きる場所を求めて作りだした武術都市。ここは、エクセララという都市はそういう場所(・・・・・・)だ。現にアネス自身、従兄であるメトランデ以外の肉親は顔も知らない。


「まあまあ、そこまで深刻になるほどでもないでやしょうよ。この二人は」


 執成すように入ってきて曖昧な言葉を並べるヴェガにアネスはやや胡乱な目を向けるがメトランデは珍しく顔をしかめた。ナズナはというと、むしろ納得した様子で二度ほど頷く。


「それもそうですね。ヤワな鍛え方はしていませんし」


 ドワーフの技術者はもし先立つなら戦士であるアネスの方がよほど危険だと言っているのだ。メトランデを失ってアネスが後悔する可能性は、相対的に見て低いと。だからこれも一種のじゃれ合い、あるいは成長途上への一歩として放っておいてはどうかと。それを理解していないからこそアネスは事なかれ主義者を見るような視線になり、理解しているからこそメトランデは少しだけ気分を害した。そしてナズナはというと「アネスが死ぬことはまずない」と言い切ったわけだ。なんとも精神性の違いが見て取れる。


「戯れはこれまでとしましょう」


 一区切りついたところでナズナは巨大な魔導ビークルに袴を翻して跨る。せっかく早朝を選んで出発するというのに、話し込んでいては昼になってしまいそうだ。そんな師を見てアネスはとたんに表情を引き締める。何事もないとは思っていても、自分などが心配するのは烏滸がましいと思っていても、師匠が大砂漠に一人で数日も繰り出すときにはいつも心が引き締まるのだ。


「ナズナ様、もし機体トラブルが発生した場合には魔法で砂に埋めて頂ければ、あとで掘り出しやすんで」


「もし敵の手に渡りそうになったら飛び切り派手な爆発で送ってやってほしいっす!」


「オ、オマエ、そんな縁起でもないこと、止せバカ!あ、でもロンドハイムなんかにわたるくらいなら、オレも壊してほしいって思ってます、はい」


 三者三様に言葉を投げかける技術者たちに苦笑と了承を返したナズナは最後に直弟子たちを見る。


「よろしく頼みますよ」


「「「「お気をつけて!!」」」」


 各々の刀の柄に手を添えて深々と頭を下げる若紫色の集団。その先頭でアネスは一拍遅れて同じように腰を折る。


「実りある旅路とお早いお戻りをお待ちしています」


 その言葉を聞いて、エクセララ最強の剣士は魔導ビークルのエンジンに火を入れた。


 ~★~


 岩の多い砂漠というのも世の中にはあるが、大砂漠は違う。無限にも思える広大な世界は多少の砂丘とオアシスを除いてひたすら砂の平地だ。クリーム色の大地と褪めた青の夏空しかない。その砂漠を火薬銃の弾丸のように駆け抜ける魔導ビークル。ギラギラと降り注ぐ太陽を弾く純白の車体、風を切り裂く鋭利な形状、この世のあらゆるしがらみを置き去りにしそうな加速。微かに甲高い音を立てるエンジンを尻の下に感じながら、ナズナはこれまでにない開放感を味わっていた。


「いいですね、これ……」


 小さく自分に言う彼女の声はたしかに弾んでいる。それもそのはず、彼女はこの数十年間をひたすら真面目に生きてきたのだ。多くの門弟を預かる師として、エクセルの娘として、都市を支える要人の一人として……己を律し、己を磨き、己を高め続けてきた。それを誇らしく思っているのも事実だが、心のどこかで煩わしさを覚えているのもまた本音だった。


「気持ちがいい」


 はためく白羽織りの音が耳も楽しませてくれる。そうして一人で無心に風を感じていると、まだエクセララはおろか旅の仲間すらそう多くはなかったころを思い出す。父と兄、姉、祖父、それに自分。誰一人として血のつながっていない寄せ集めの家族。あちらに行っては冒険者として日銭を稼ぎ、こちらに行っては問題に巻き込まれて追い出され、またあちらに行っては人を助け、こちらに戻っては騒ぎを起こす。そうしながら刀の腕を磨き続ける。そんなギリギリの綱渡り生活は、ナズナにとって人生でもっとも楽しかった頃だ。


 どうしてシンプルに生きていけないのだろうか。


 為政者の一人として武術都市全体と世界を見比べる立場だからこそ、その答えは無数にあると理解している。理解はしているが、それでも思わずにいられない。ただ居場所が欲しかっただけなのだ。得た今、守っていくのが務めだと知っていても、もう足を止めてゆっくりしたい。そんな気持ちもある。


「……いけませんね」


 最近少し寝不足なのだ。それがよくない思考の原因だろう。そう断じたナズナはハンドルとハンドルの間、硝子製のシールドに守られた各種の計器を見てからハンドルを押し込んで右に切り、大きく弧を描いて方向を変える。そのまましばらくいったところには小規模なオアシスが見えてきた。


 よかった、まだ枯れてはいなかった。


 安堵しながらペダルを踏みつけた。柔らかい砂地でブレーキは効きにくく、しかも滑るのでタイヤが埋まってしまう。なので出力を落とすだけ落としてうまくオアシスの下草の際へ乗りつけた。見える水に比べて生えている草は多い。当然のように耐乾性が高いイネ科ばかりだが、強烈な輻射熱を抑えてくれる物はなんであれありがたい。


 随分と昔に寄ったのが最後だったけれど、大きさも植物も何も変わっていない……。


 完全に止まったビークルから弾みを付けて飛び降り、計器類の中心に据え付けられた灰色の魔道具、コンソールに手を当てる。コンソールは魔力の尽きた大きなクリスタルへ術式を書き込んだ特殊な魔道具だ。本体に魔力がないので周囲から吸い寄せる力を持ち、また操作にある程度長けた者ならクリスタルの魔力に邪魔されず精密な魔力入力ができる。その性質を活かして演算や処理、他魔道具への指示といった特殊な目的に使われている。


「ロック」


 指からわずかな魔力を流しながら唱えると重苦しい音が四度鳴ってビークルの機構を施錠した。フェルグランテのコンソールがナズナの魔力を感知し、音声条件に従って各所に配置された魔道具を動作させているのだ。

 魔力に満ちたクリスタルで作る普通の魔道具は魔法を行使できるが、コンソールは強い作用を発揮しないかわりに細かく複雑な伝達ができる。そうした性質の違いを組み合わせた今の施錠機構のようなものが山ほど組み合わさって魔導ビークルはできている。まさしくエクセララの技術の結晶だ。


「ふぅ」


 体の関節と筋肉を解すようにゆっくりと伸びをするナズナ。さすがの彼女も延々3時間も、ほぼ最高速度で運転していると体が凝ってくる。また座席の硬さや形状にはもう少し改善の余地があるだろうというのが感想だった。


「エクセララに戻ったらレポートを出さなくては……まあ、今くらいはいいですか」


 堅苦しい思考にカタを付けたナズナはもう一度伸びをしてから収納を開き、簡易のテントを取り出して設営する。小型化された避暑の魔道具がついている以外は普通の代物だ。最新式のものだと簡単な操作でテントの形に広がるお手軽なものもあるが、旅暮らしの長かった彼女は自分の手で組み立てる方を好んだ。


「この辺りで、よし」


 鍛え上げた女剣士にとってはテントの設営など大した手間ではないが、日差しばかりはどうしようもない。じっとりと汗をかいた彼女は羽織りを脱いで綺麗に畳んでからビークルの収納に入れた。テントの中は意外と砂が入る。その点、精密機器を山ほど内包するこの乗り物は防塵処理が徹底してあった。


「ちょうどいいですし、水浴びをしてから少し休みますか」


 ナズナは独り言ちる。早朝に出発したのはいいがそろそろ大砂漠が最も熱くなってくる頃合いだ。探し物をするには日のあるうちがいいかもしれない。ただ今は移動フェーズであり、消耗を避けるためには夕方まで休んでから再開するほうがいい。

 そうと決めたら彼女の行動は迅速だった。収納からタオル2枚、頑丈な布、銅のマグカップを1つ出して湧き水に最も近い木に歩み寄る。その枝にタオル2枚を纏めてかけ、マグカップは適当に砂地へ置く。最後布一枚を砂が被らないよう丁寧に敷き、腰から外した界切綱守(かいきりつなもり)をその上に安置した。


「はぁ、暑い……」


 靴と靴下、魔物革の足鎧を次々に外して熱く灼けた砂を踏む。下腹で結んだ後ろ紐を解き腰板の固定を外す。股立ちから後ろがばさりと落ちるので尻尾を軽く振って退けた。道着の裾から形のいい尻を包んで太股の半ばまで覆うインナーが強い日差しに晒される。しかしそんなことは気にせず前紐も結び目を解いて一周ずつ腰回りを潜らせ、袴を脱ぎ去って手早く枝にかける。その裾はうっすらと汚れていた。


「あ、少し踏んでいたんですね……魔導ビークルに乗るときは股立ちを取った方がいいかもしれません」


 形のいい眉を顰めて呟きながら衣服を脱ぐ手は止めない。道着を止める左右の紐を解いてだらりと下がった前袷を開き、袴と同じ枝に若紫のそれを重ねる。ハイネックにノースリーブというエクセララでは一般的な形状の戦闘用インナー。体に貼り付く素材はエギ布といい、希少な魔物素材だ。ただこの布、機能性はいいのだが脱ぐときにギシギシと体を締めあげてきて邪魔なことこの上ない。息を止めて一気に裾を上げ、絡む髪と頭を引き抜いた。形のいい胸が外気に触れて玉のような肌にはじわっと汗が浮く。


「インナー、どうしましょう」


 思ったより汗を吸っているのでもう一度着たいとはあまり思えない。だがそんなことを言っていると早晩、着替えが底をついてしまう。


「まあ、もう後でいいです」


 ナズナとて人目がないからといって屋外でいつまでも肌をさらしておく趣味はない。下のインナーも脱いで髪留めも外し銅のマグカップだけ片手に湧き水に駆け寄る。透明な水は一番広い所で10mほど。濁りはまったくないが魚などもおらず、粒の大きい砂が底できらきらと輝いていた。


「んんっ」


 足先を浸けると思った以上に冷たい。こんな日差しの中でなお、湧き水は肌が粟立つほどの温度だった。とはいえそれも火照った体には心地よく、ナズナは一瞬の躊躇いを乗り越えて一気に鎖骨に水がかかる深さまで進んだ。


「くぅーっ」


 冷たさが肌から筋肉の奥までぐぐっと染み入る感触。頭の上で大きめの耳がパタタと勝手に震えるのを感じながら、彼女は久しぶりの湧き水を堪能する。


「……ふぅ」


 ひとしきり泉の冷たさを楽しんだあと、彼女は体から力を抜いた。手足がふわりと浮かび、髪が水面にわっと広がる。頭皮に冷水が行きわたる感触をもう一度楽しみながら目を閉じる。周囲に人がいないと分かっているからできる、少々はしたない入り方だ。

 ナズナの獣人としてのモデルは嵐月という神獣だ。月光神シャロス=シャロスに仕え、地上と月の間に掛かると言われる虹の橋を守る、神聖にして屈強な狼の神獣。その毛並みは藍色に銀の模様が入るとされるが、彼女の体毛は髪から尾まで全て藍色一色だった。銀の毛は生えていない。そのかわり月光のように白い肌は強烈な大砂漠の日差しに何十年と晒されていても焼けることがなかった。

 水面に広がる藍色の髪。心地よさそうに扇がれる同色の狼耳、水中で流れに身を任せ踊る長い尾。寄せては返す小さな波が色白な腹筋の上を行っては帰る。惜しげもなく晒されたその裸体は、剣士としても女としても完成された美しさを持っていた。


「……」


 とうのナズナは己の美醜に頓着など一切せず、ただ燦々と降り注ぐ太陽を薄目で睨み付けながら浮かんでいる。今回の一人旅は新発明の魔導ビークルのテストであると同時に、彼女と兄の悲願に一歩踏み込むものであった。頭の中ではこれからの道行きに対する漠然とした期待と躊躇い、不安、それにあの日(・・・)から父に抱いている怒りがグルグルと巡っている。それらはしばらく巡って耳の中で水が立てる不思議な音へと溶けだしていき、また胸の奥から生じて巡りだす。


「……潜りますか」


 堂々巡りに飽きがきたところで彼女は足を引き寄せ、尻を落とすように体を丸める。腰が落ちれば体は沈む。透明な水の中にあっという間に落ちていく美貌の剣士。すぐに滑らかな白砂の水底に背中が当たった。


「……」


 冷たい。波間に区切られた日の光が幻想的に裸体を照らす。静かで、澄んでいて、心地の良い空間。


 こぽ、こぽ……。


 彼女が小さく口にした名前は、気泡になって空へと昇って行った。


 ~★~


 マリー=ラングウォートという名前を今でも覚えている人間は多くない。


 彼女は現代から百年以上も前に活躍した超越者の一人だった。番号付きと呼ばれる上位十人には入っておらず、若くして亡くなったこともあり有名だったとはいいがたい英雄だ。しかし彼女を知る者は口を揃えてこう言う。もし生きていれば、彼女は後の技術神エクセルを抑えて超越者筆頭になっていたかもしれない……と。


 火神ドルファーゼスの加護を生まれながらに持つマリーは炎を自在に操ることができた。また異界より来たと言われている紫伝始まりの剣士ハヅキ=ミヤマに師事し、エクセルとは跡目争いをするほどの実力だったという。


 マリー=ラングウォート。今はもうエクセララに住まう者くらいしか覚えていない、炎を纏った女剣士の名前だ。百年以上前に死んだ、一途な女の名前だ。

年の瀬が迫るこのタイミングで読みに来てくださった方、ありがとうございます。

最後の最後に景気の悪いお知らせをしなくてはいけない私をお許しください……。


十一章の開始時期を二週間ほど後倒しにいたします。


現在は発見し、事なきを得たのですが、小説用のUSBを二週間ほどなくしていました。

散髪に出たあと喫茶店で書いていたら、道すがらで落としまして……。

そのため毎章行っている校閲と辞書化作業が済んでおりません。

物語の整合性と完成度を維持するために必須の工程となりますので、

申し訳ありませんがご了承いただけますとm(__)m


というわけで連続更新が空けてから時間を頂戴しまして、

1月29日(土)から十一章を始めさせていただきます。

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