十章 第27話 怒れる魔法使い ★
トワリ侯爵領の領都ソルトガ。そのメインストリートを疾駆する馬の姿がある。その背にわたしはしがみ付いて共に駆け抜ける。後からはキメラと魔物が数体、商店を足場に立体的な機動で追いかけて来てる。足音は軽妙に、けれど振動と状況は極めて重く。ゴーストタウンの中心で命を掛けた鬼ごっこだ。
ああ、もう、追い付かれそう!急いでるのに!
「火よ!」
背後を見る余裕はない。杖を握りしめて魔力糸を放つ。後方に広げたそれと接触した魔物が片端から燃え上がった。速度はそのままに制御を失って燃える死体は路上に着弾、鈍く湿った音と骨や殻が砕ける乾いた音を盛大に響かせる。けれどもすぐに追手は補充される。
「新手は……5体!」
灰狼君につけられた古傷が引き攣るように痛んだ。進行方向から5つ、翼を生やした悪魔が突撃してくるのが見える。ジッタでも見かけた、変異まで至った騎士タイプだ。キュリオシティのクリスタルを向けて魔力糸を結ぶ。
「アクセラちゃんが待ってる、待ってるんだ!退けぇ!!」
開いた鎧の胴体部分から内側、黒い内臓へ火魔法を叩き込む。爆発の威力で上空へ弾き飛ばされる悪魔に目がけてもう一回火魔法を撃ちこんで確実に殺す。逃げ場をなくした爆発力が花火のように敵を内側から破裂させた。しかしこのトドメがよくなかった。
「ヒヒーンッ!!」
「きゃぁ!?」
爆音で馬の姿勢が乱れた。馬からすればほんの数歩の混乱。けれどわたしは左右に振り回されてそのまま落馬しそうになり、必死に太股を締めて馬体にしがみ付く。手綱を二重三重に腕へ巻いておいたおかげもあってなんとか持ちこたえる。けど今度は酔い止めの効果を越えた吐き気が襲ってきた。
「う、おぇ……乗馬、習っとくべきだった……!」
真っ直ぐ進むよう魔法で視界を制限し、鞭を与えて暴走させた馬。その背中に必死でしがみついてるだけで、まったく操縦はできてない。可哀想だし、何よりとても不安定で危険。でも今はそうするしかない。広い領都を自分の足で踏破し砦に行くのは無理だ。
「もし、砦にいなかったら……」
吐き気を堪えて揺れに耐えながら、胸の内に不安がジワジワと湧いてきた頃だった。
おぉおおおおおおおおおおお!!
遥か後方からこの距離でも聞こえるほどの雄叫びが轟いた。
「この声……そうか、百足を倒したんだ!」
森からジッタ、そしてソルトガまで一緒に来た国軍が、ようやく外壁を守る百足の魔獣を倒した勝鬨だ。
「……間違って、なかったよね」
高い防御力と分裂する特殊能力で一度は国軍から時間を稼ぐだけ稼いで逃げたらしいその魔獣に、わたしはともに立ち向かうより一人こっそりと迂回して壁を抜けることを選んだ。また時間を稼がれたら……そう思って。でも予想以上に早い撃破の知らせは、これでよかったのかという疑問を抱かせる。
「ううん、大分先には進めてる」
外壁からここまでの距離、けして短くはない。この差がきっとわたしを、そしてアクセラちゃんを助けてくれるはず。そう信じ、目を閉じて雑念を追い払う。あとは追いかけて来る本隊に迎撃の戦力が集中してくれることを期待するしかない。
「ギャギャギャギャギャ!!」
「ちっ、そう簡単には、いかないよね!」
こっちの思惑なんて無視して突っ込んでくる敵に魔法を撃ちまくる。手数を増やして。それでいて効率的に。集中力も魔力も有限だ。無駄にはできない。だから単一の属性、可能な限り同じ魔法を選んで使う。イメージを固定し、魔力糸も火の一色にすることで消耗を抑える。
「キィイイイイイイ!!」
蛾の魔物が数匹、蜘蛛キメラに率いられて横から襲い来る。
「数が多い!」
思わず舌打ちをしてから魔力糸を編み上げ放つ。わたしの視界でだけ赤く輝く糸が、漁網を投げかけたように蛾の群れに触れた。
燃えろ!!
魔力糸が瞬間的に爆炎を上げ、火に弱い魔物の羽根をぱっと燃やし尽くす。続いてキメラも同じ網にかかった。感覚頼りに糸を絞る。網が閉じる。それは焔の壁となってキメラを包み込んだ。
「オォオオオオオ!!ア、アヅ、アヅ、ィイイイイイイイ!!」
濁った断末魔を振り切り走る暴走馬。
「痛ッ」
魔眼に強烈な光が映り込む。ソルトガについてからずっとだ。バチ、バチと光が弾ける。まるで視界を瞬間瞬間に切り取って頭に保存するように、猛スピードで過ぎて行く景色が気持ち悪いくらいハッキリわかる。建物はほとんどが無事で、しかし人の気配は皆無。神塞結界が解除され、悪魔と魔物が跋扈する場所だ。領民数十万人がどうなったかは想像もしたくない。
「ッ」
それでも弾ける光に混じって嫌なイメージが脳裏に浮かぶ。黒い騎士に、あるいは魔物に追い立てられて砦へ連行される人々。抗おうとして殺される男の人。髪を掴まれ引き摺られて行く女の人。親を奪われて泣く子供。
「邪魔だ……っ!」
魔力糸を広げる。周囲の魔物が燃える。その現実の隙間に幻像が捻じ込まれる。人語を解するキメラ。領軍にしては多すぎるジッタとソルトガの騎士たち。1人として見かけない脱出者。紫と白の短剣。マレシスくんと悪魔。嫌な歯車がどんどん噛み合って、そこに想像や類推が加わる。それがより鮮明なイメージになって矢のように後ろへ流れて行く景色と重なる。目を閉じるわけにいかず、頭を大きく振るうわけにいかず、イメージの羅列に耐えるしかない。
「消えろ、消えろ、消えろ!」
一際激しい光の連続が起きる。全てのイメージに映るヒトがアクセラちゃんに置き換わる。定まらない焦点を天に向けて横たわる死体に、口や鼻から血を流して引き摺られる死体に、薄暗い地下室の奥深くに積み上げられる死体に。まさしく瞬き一回分の光景に心臓が大きく跳ねた。そしてその隙をついて魔物が飛び込んでくる。
「……違う、まだ、まだ間に合うっ」
吼えるその声が実体化したように、感情に引っ張られた魔力が現象化して小型魔物を凍らせる。地面に叩き付けられて砕ける氷像を置き去り、滲みそうになる視界で前を睨む。アクセラちゃんが攫われてから何日経った?そう冷たい声で訊ねる自分へ突きつけるように杖を前へ向け、迫りくる敵に火の雨を降らせる。敵の数がぐっと増えて、放つ魔法も爆炎もより凄まじくなる。当然すり抜ける敵も増えるけど、わたしだってアクセラちゃんに鍛えられてるんだ。小型の虫系魔物は杖で叩き落とし、それ以上の大きさの敵は無詠唱のウィンドカッターで切り裂く。
「退けぇ!!」
何度も落馬しそうになりながら、道を塞ぐように列をなして構えていた十数体の悪魔に魔力糸を一気に殺到させる。
「火の一番!」
杖に施した仕掛けを発動させる。キュリオシティに巻きつけたベルトの下でバチッと何かが弾けるような音がし、描かれた銀の模様が赤く輝く。すぐにクリスタルが炎の色に染まった。杖の魔力循環が異常に活性化、両手を覆う魔織の手甲にも赤い光が灯って魔法糸に流れ込む。
「焦がせ、焦がせ、焦がして焦がれよ!汝、怒りの炎を孕む者、万物を食みて焦がす者!」
魔力糸が一回り太く見えるほど激しく光る。複雑に絡んだ敵のもとへ、わたし一人がすぐに注げる量を圧倒的に超えた魔力が殺到する。
「火の理は我が手に依らん!」
上級魔法・スコーチングスフィア
ボっと音を立てて小さな火球が敵の中心に生じる。悪魔たちは弾かれたようにそこから距離を取ろうとするも、それより速く紅蓮の球体は膨れ上がり、触れた悪魔の体を一気に炭化させた。轟々と音を立てて悪魔を呑み込み、更に広がって地面と建物にまで爪痕を残してから幻のようにぱっと消滅する魔法。煙と湯気の立つ地面を突っ切ったことで馬が悲鳴を上げる。
「ブルッヒヒーン!!」
「見えたっ」
暴れ、わたしを振り落とそうとする馬。雁字搦めにした手綱を咄嗟にブラックエッジで切って外し、鞍から飛び降りて地面を転がる。馬はどこかへ走り去る。けどもうどうでもいい。埃を払って立ち上がる。そこには石造りの壁があった。魔眼の見せるイメージに翻弄されながら戦ううちに、砦の門までたどり着いてたらしい。
「アクセラちゃん……」
聳え立つ砦の外壁は都市外壁ほどじゃないにしても高く分厚い。門はそんな外壁の7割ほどまであり、硬そうな黒い木材に金属の補強がされた重厚な作りだ。正面には小扉の類もない。
敵は、いない?
今焼き払った騎士たちが最後の兵士だったのか、門には悪魔もキメラもいなかった。沸き起こる警戒を振り切ってわたしはすぐさま門へ杖を向ける。
切り札、二連続だけど……惜しんでられない!
今、キュリオシティには大量のクリスタルがベルトで巻き付けてある。全て移動中に魔法を途中まで刻印した、いわば魔導銃のロッドのようなものだ。魔力源にもなるし、術式を選べば詠唱の省略にも使える。既にジッタの救援で水を2つ、今の悪魔を薙ぎ払うのに火を1つ潰した。最初から火、水、風が5つずつしかない貴重なものだけど、切らずに短時間でこの門は破れない。
「火の二番!」
もう一度バチッと音がして強烈な魔力がキュリオシティに流し込まれる。銀の模様もクリスタルも赤く燃えたち、門に目がけて投げかけた魔力糸が通される力に太く膨張する。
「焦がせ、焦がせ、焦がして焦がれよ。汝、怒りの炎を孕む……痛っ」
魔法を放つ直前、急に胸元に痛みを覚える。ついで熱。左胸に焼けるような熱を感じて、わたしは慌てて鎧を少し緩めボタンを外した。鉄板と布をぐいっと引っ張る。押し込められた胸の上、刻まれた技術神の加護の紋章が不思議な色に揺らめいてた。疼くような痛みも焼けるような熱もその紋章からだ。
「なに、これ……」
同時に視界で瞬く光が強まる。脈動するようにある程度のリズムを持って強くなり、弱くなるその光。強く瞬くときの眩んだ視界には魔力糸だけがくっきりと残る。いや、違う。魔力糸だけじゃない。杖も、わたしの体も、それに砦の奥の方の光も……。
「何が、見えてるの?」
ヂカヂカと痛む目を閉じることすら忘れて光の中に見えるものを見つめる。杖は軸もクリスタルも模様も、全てが強い赤色に染まって見えた。魔織の手甲も、そこから伸びる魔力糸も。糸には鮮やかな赤と薄い赤がある。正面の門はほんのうっすらとだけ土色の光を帯びて、その向こうは一面薄い紫が広がってる。その中には強いけど小さな光が。
でも、本当に強い。それになんて美しい紫の……。
「あれは、アクセラちゃん?」
何度も見たことがある。彼女が使徒として使う聖なる魔力の、優しくて上品な紫色。それが異様な輝き方をしてる。凄い速度で燃え上がって、次から次に周囲の薄い煌めきを取り込んで更に燃え上がる。まるでストーブが空気を吸って炎を噴き上げるように。
「蹈鞴舞を使ってる……?だとしたら、なんであんなに小さいの?」
アクセラちゃん自身が制御しきれない強化魔法。直接見たことはないけれど、何度も練習中に感知した魔力の規模はもっと大きかったはず。それが今は流れこそ激しいけど頼りないくらい小さい。
まさか、もうほとんど戦えなくなってる……?
背筋がゾっとした。使えば使うだけ苦しくなる技を、必死に維持して戦わないといけない状況。そこまで彼女が追いこまれてるのだとしたら。ギリっと我知らず噛み締めた奥歯が鳴った。
「汝、怒りの炎を孕む者、万物を食みて焦がす者!」
途切れた詠唱を繋ぎ直して魔力糸を扉に殺到させる。
「火の理は我が手に依らん!」
杖を振り下ろす。火球が門の中央で生まれ、瞬時に巨大化して黒い木肌をより黒い炭へと変える。バチバチと音が弾け、炭片が砕け散り、鉄が赤熱する。黒と赤に彩られて門自体が熾った火鉢のようになりながらも、しかし砦の顔は崩れ落ちなかった。上級魔法を正面から叩き込まれてなお、形を残してる。
「砕けろ!」
なんとか立つ炭の塊にアイスボールを叩きつけ、脆い部分から割っていく。そうして作った大きくはない穴を服が汚れるのも構わず押し通り、砦の敷地へと侵入する。
「急げ、急げ、急げ!」
外壁と砦の間は広々とした空間だった。何かしらの防衛設備があるわけでも、逆に来客者を楽しませる花壇があるわけでもない。兵を並べるためにあえてそうしてるのか、ただ石畳が敷かれた広い空き地だ。その走りやすい場所をブーツの音も高らかに駆け、正面の扉を蹴破る。悪魔やキメラに一々扉を閉める頭はなかったようで、いとも簡単にそれは開いた。
「……ッ!?」
広間に続くと思しき細長い部屋に入ったとたん、建物の石材越しにも見えるほどだった紫の魔力がふっと消えた。反対に胸の紋章は燃え上がりそうなほどの熱をもつ。それがどういう意味か、嫌な予感に肌が粟立つ。
「誰かァ!!」
酷く荒々しい男の人の声が聞こえた。わたしはそれ以上何を考えることもできず、杖を強く握りしめて走り出す。飾られた鉄の甲冑を通りすぎ、扉のない出入り口を踏み越え、来客者を出迎える大きな部屋へと飛び込む。絢爛豪華とは言わないまでも飾られたその広間は今や飾り柱が砕け、シャンデリアが落ち、カーペットや垂れ旗に火がついて酷い有様だった。そして、その部屋の中央にソレはいた。
「ヒュー、ヒュー、カッ、コホッ」
この距離でも致命傷と分かるほどの喉の傷から空気が漏れる音をさせ、それでも倒れる様子なく立つその人影。遠征の初日に見た青と黒の髪をした中年男性。青紫のサーコートがぼろ布のようにひっかかる黒い鎧からは、濁った魔力がくすぶる煙のように立ち上る。右腕は肘から千切れかけてぶら下がり、左腕はすっぱり切り落とされてもうない。あちこちに大小の傷が刻まれてまさしく死に体だが、黒い目でぼうっとどこかを見てる。
「あれ……」
凄絶な姿で立つトワリ侯爵の腹には紫の何かが貫通して見える。濁った魔力と弾ける光の中で目を凝らすと、それが根元から折れた刀だと分かった。心臓から体へ押し出される血液が全て氷水になったような感覚。頭の中が冷たく痺れ、手足が小さく震える。動こうとしない首を無理やり動かして侯爵の視線を追う。それは砕けた飾り柱の一つに注がれて……。
「アク、セラ、ちゃん……?」
真っ赤に染まった瓦礫の中、柱の残骸にもたれるように脱力する小さな姿を見つける。血と埃でどろどろになった白髪。ラベンダー色の目は蒼白な瞼に隠され、唇は血の気を失って青くなり……。
「うそ……うそ、うそ、うそ!!」
敵が目の前にいる。そんなことはどうでもいい。彼女のもとに走り寄り、近づくほどに力を失い、目前でへたり込む。アクセラちゃんの、わたしの大好きな人の体は、ぐちゃぐちゃに壊れて、服が破け、肌が破け、赤黒い内蔵や白い骨が見えてしまってて。
「そんな、まって、今、いま、なおして……水を、違う、先に、凍らせ、バ、バイタルフラックスで、傷口を……あ、ああ、ああ!!」
涙が溢れて視界が歪む。どうしたらいいか分からない。魔力糸を何種類も作って、それから、それから。茫然とする頭が何も動いてくれない。
だって、こんな大怪我!!
見たら分かる。これは普通の方法で助かる傷じゃない。内臓がいくつも崩れてわたしにもなんだか分からない液体や組織が混じり合ってる。辛うじて彼女のナカが動いてまだギリギリ生きてると教えてくれるけど、どこをどうしたらいいかなんて分かるはずもない。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け!わたしがやらないと、わたしが、わたしが治さないと」
治さないと、彼女は。
「あああッ!!」
その先が浮かんだ瞬間喉から悲鳴が上がる。恐怖で押しつぶされそうだ。足元の床が消滅したみたいにぐらぐらする。景色が全て黒に塗り替えられて、絶望から逃れたい一心で自分の喉を掻き切りたいような、破滅的な衝動に駆られる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……あっ」
どんどん酷くなる呼吸を必死に抑えて魔法糸をひたすら作り続ける最中、ふと目が彼女の手に止まった。蒼白な指は刀の柄を握ってる。刀身は砕けて鍔も留め金も全部どこかにいってしまった、柄だけの刀。それを死の淵にあってなお強く握りしめる姿は、わたしの心に小さな楔のように突き立った。
「ああ、うん、うんっ、そう、そうだ、諦めちゃダメ。ダメだよね……ッ」
折れるな。折れちゃダメだ。折れることだけは、絶対に許されない!
わたしは雷嵐の賢者と技術神の使徒に魔法を習った六属性使いだ。できないなんて簡単に言っちゃダメだ。最後まで工夫して、足掻いて、無理でも何でも押し通さないと。わたしが学んできたのは技だけじゃないから。心構えだから。杖が折れて、ナイフが折れて、魔力が尽きてもわたしは折れず、わたしの戦いをやりぬく、心構えだ!
「はー、はー、ふー……満たせ、麗しの泉よ」
『静寂の瞳』内包スキル『アイスマインド』
『静寂の瞳』内包スキル『フラットサイト』
『静寂の瞳』内包スキル『感情抑制』
『静寂の瞳』内包スキル『忍耐』
紫伝一刀流・武息『制息』
スキルと呼吸法を合わせて無理やり集中状態を作り出す。いつもみたいな冷たくなるほどの感覚には陥れない。それでもいい。冷静に、急いで、そのギリギリを目指して、短縮詠唱。体液に微量の回復効果を与える水魔法中級・バイタルフラックスをかける。
「水の三番、滴れ、癒しの涙」
バチッ。水の切り札を一つ潰して魔力をブーストし、水魔法中級・ヒールドロップを大量に行使する。人の頭より大きな、弱い治癒効果を持つ雫の集合体が生まれる。体液に馴染むその特性に期待して、アクセラちゃんの体の血だまりへ塊を入れる。魔法で水球を維持したまま馴染ませると、まるで失った体の一部を液体が補ったようにも見えた。じわりと澄んだ液体に血やそれ以外の液体が混じって、透明な欠損を汚してく。肉片も浮かんで対流に漂う様は思わず吐きそうになるほど酷い光景だ。
「そ、そうだ、体温を……血潮よ、熱よ、癒しを」
火属性中級・ヒートブラッド。血液を媒介に活力と熱量を補い、血そのものも強化できる魔法。これからの処置を考えて可能な限り強く施す。魔力糸もぐるぐるに巻き付けて持続力を確保する。
「それから、そう、固定を……凍てつけ、霜の檻よ、閉ざす物よ。滴る水に導かれ、深く広がり戒めよ。氷の理は我が手に依らん」
唱えるほどに傷口の周りが白く色を失う。細胞を壊さないように芯から凍らせる氷魔法中級・コアフロスト。狩の得物を新鮮なまま解体するために作った魔法だけど、こういう時には応用が利くかもしれないと前々から思ってたやつだ。細心の注意を払って極力血管を塞がないよう、魔力糸を丁寧に這わせて行使した。それから氷でヒールドロップの外側をすっぽり覆って頑丈な外殻を作る。
「て、呼吸は!?」
確認を失念していたと慌てて手を彼女の口にかざす。幸い肺は破れてないのか、弱いが息はハッキリある。もし腹腔と肺に通しで穴が空いてたら、ヒールドロップで溺れさせるところだった。その事実に改めてゾッとする。
「でもちょっと弱すぎる……風の理は我が手に依らん」
風魔法中級・オキシラング。火事や洞窟の奥深くで呼吸を確保する魔法は、その作用原理から考えて呼吸の弱っている怪我人や病人にも効果的なはず。その考えは間違ってなかったようで、少しだけ唇の色がマシになった。
「あとは、あとは……」
バイタルフラックスは自分の細胞を攻撃するような体液の分解作用を抑え、それとは別に抗菌作用も与えるから、これで化膿と感染症はある程度抑えられる。失った血は短時間ならヒールドロップが血管から染み込んで代替してくれる。これ以上の出血も液だまりを経由して一つの閉じた循環を作ることで最小に留めてる。血が薄まる問題はヒートブラッドで血の持つ運搬能力を底上げして、オキシラングの術式を弄って酸素濃度を上げることで酸欠を回避。傷がふさがりにくいのはこの際無視だ。コアフロストが効いてる間は傷が乾いたり壊死したりする可能性も低い。雷を使わないといけないほど心臓が弱っていないのは、うん、不幸中の幸いだ。
「……ッ」
もうできることはない。必死に手当てをして、治したというより死ぬのを少しだけ先送りした。それが聖属性を使えない、治療師じゃないわたしの限界。また滲みだす視界で彼女を見る。破れたシャツのあちこちが蹈鞴舞の作用で焦げて、手足だけじゃなく顔にまで青あざが浮かぶ。その白すぎる頬を指で撫でると、まるで死体のように冷たくて……。
「待っててね、アクセラちゃん。すぐに連れて帰って、ちゃんとした神官の治療師さんに治してもらうからね」
土の魔力糸を床石に突き立てる。魔法を弾く性質があるのか、やけに通りの悪い頑丈な石材。
「っ」
魔力抵抗を無理やり貫いて糸を巡らせ、土魔法で変形させて壁にする。どんな攻撃に対しても曲面が当たって逸れるような繭状の防壁。それをアクセラちゃんの周りに二重三重に立ててからわたしは立ち上がった。
「トワリ侯爵……!」
アクセラちゃんを傷つけた張本人を前に、魔力が体内で膨れ上がるのを感じる。そんなわたしを見て彼は首を傾げた。傷のあった喉のあたりは硬質な殻に覆われて、もう塞がって見える。
「お前は……」
変な金属質の反響を伴う声。鉛筆で塗り固めたみたいな黒い両腕。大きな百足の足を絡ませて繋ぎ合わせたような胴体の質感。そして周囲に散らばる悪魔やキメラの死骸。
この人、自分をキメラにした……?
状況から浮かんだ想像に背筋が冷たくなる。魔物や悪魔を自分の体に混ぜて回復を図ったんだ。あるいはもっと前からそうだったのかもしれない。そうでもなければアクセラちゃんが負けるはずがない。
「あァ、エレナ=ラナ=マクミレッツ!アクセラの乳兄弟で侍女の……ふ、ふはっ、なるほど、なるほどォ……噂以上の魔法使いだ!複数属性を入れ替え使っての施術、素晴らしいィ!!」
わたしのことまで調べたのか、妙に嬉しそうに笑う侯爵。それだけで彼がずっとアクセラちゃんを付け狙っていたんだと察しがついた。
「素晴らしいがァ……その分腹が立つ」
黒と青紫の目が急に細められ、それまでの笑みから喜びのような感情が抜けてく。代わりに浮かぶのは冷たい嫌悪だ。まるで何かのはずみがついたように、ベキベキと音を立てて彼の背中から触手が生えた。百足の魔物を合成して手に入れたのだろうか、側面にビッシリと赤い足が生えた黒い扁平な触手。それが4本。なけなしの鎧がはじけ飛んで彼の上半身を守る物は不気味な生物質の装甲だけになる。
「飢えたことがあるか?お前は、明日食べるパンに困った覚えがあるか?」
「……?」
忌々しげな表情のまま放たれた次の言葉にわたしは困惑する。飢え?パン?何の話を始めたのか、と。まるで苦しみ抜いて生きてきた世界への恨みをわたしにぶつけるような視線。ケイサルの孤児院を始めたとき、引き取ったばっかりの子供が浮かべてたのと似た目だ。
どういうこと……?
「それなのに、本当に腹が立つ!」
なおも呪詛の言葉を吐く侯爵。けれど彼は生まれながらの高位貴族。この国は貴族が飢えるほどの飢饉を出したことがない。つまり彼は明日のパンの心配をするような経験はしたことがないはずだった。そんな歴史があれば屋敷の書庫を読破したわたしが知らないはずがない。
「お前には分からないだろう!僕の想いなどっ!!」
「あ、あなたが、それを言うんですか……っ?」
繰り返される身に覚えのない恨み言。困惑に慣れ始めたわたしの胸には、『静謐の瞳』による思考の冷却を越えて激情が込み上げる。彼は侯爵だ。飢えたことなどあるはずがない。むしろ領民を飢えさせないように、傷つけないように、心を砕いて守るべき立場の人間だ。それが命を沢山奪って、悪魔を大量に解き放って、そしてアクセラちゃんをあんな目に合わせた。
そんな人の想い?知りたいとも思わない……!
「いや……」
ふと怪訝な顔になり、考え込むように顎へ指を当てて俯く侯爵。一方でわたしは怒りに任せて膨れ上がる魔力をキュリオシティに流し込む。杖に巻きつけた切り札は火が3つ、水が2つ、風が5つ。鞄とベルトに通常のクリスタルがいくつか。腰のブラックエッジには既に室内杖を差し励起状態にしてある。いつでも戦える。
「本当に?」
自問自答を始めた彼を無視してベルトから袋を一つ、刺激しないようこっそりと取り外す。『気配遮断』と『隠蔽』を重ねれば目の前にいても意識を向けてこない相手くらい欺ける。
「次のステージがある、ということか……?」
「っ」
黒い目玉がギョロリと視線を彷徨わせた。一瞬悟られたかと身を固くしたが、そんな様子はない。袋の口を全開にしてスカートの影になるよう床に落とす。
「次のステージ……そうだ、それだ!」
叫ぶと同時に彼の顔に変化が現れた。顎から頬にかけての皮膚が硬質化し、更には唇から耳にかけてバキッと亀裂が入る。古代の壁画にある悪魔の絵や、一部の装甲を纏った魔物のようだ。
相応に頑丈、と思った方がいいね。
「生命は生命を喰らい、生きながらえる!それだけは絶対に変えられない……人の手だけで完璧な生命は作り出せない!!」
今度は喜悦を爆発させ、体をくの字に曲げて哄笑を上げる侯爵。叫んでいる内容は相変わらず意味不明だが、もうそれを理解しようとは思わない。少し触れただけでも彼の中に凄まじい感情の渦があるのは分かる。妄執、怒り、悲しみ、寂しさ、嫉妬、願望……これ以上触れれば、わたしが辛くなる。殺す相手の心には触れたくなかった。
「エレナ、アァ、お前を誤解していた……ふは、ははは……きっとお前が最後のピースだ!」
夢見心地で笑う様はまるで酒に酔ったようだ。でもその目にはもっと歪んだ確固たる何かが宿って見える。体から立ち上る薄汚れた煙のような魔力も酷く濃密になった。
「さあ、来るがいい。僕のナカへ。僕という器に満ちろ!お前と、あそこで死にかけている我が最愛のアクセラ!!揃えば僕は完璧になれる!満たされる!」
最愛の。その言葉にわたしはベルトから引き抜いた魔力ポーションを握りつぶしそうになる。
「あなたが、愛を、語るな」
聞こえたかもわからないくらいの声で怒りを絞り出し、ポーション瓶の蓋を指で弾く。中身を一気に呷る。清涼感のある味が広がった。体内の魔力が少量回復するのを感じながら、空の瓶を侯爵に放り投げる。背中の触手が瞬時に反応して叩き落とし、硝子は床に当たって砕け散った。
「……行儀が悪いぞ」
一瞬驚いた顔になり、それから眉をひそめる男。その顔面に杖を突きつける。今ので大体の触手の速度は分かった。たぶん不随意で迎撃してくるタイプ。
「アクセラちゃんを傷つけた相手に払う礼儀なんて、わたしは持ってない」
「傷つけた?直にアクセラは僕と一つになる。もちろんお前も。それまでの肉の器など」
「風の一番ッ!」
バチッ。声に重ねるように叫んだ。
「いくら壊れようが」
「刈り取れ!!」
杖を振り抜く。風魔法上級・ゲイルハチェット。鋼でも真っ二つにする威力の魔法。肉厚な不可視の大鉈は、空を切った。侯爵がギリギリで体を逸らしたのだ。
「っ」
仕留めそこなった!
触手の反応と硬質化した皮膚を考慮し、切り札を使ってまで速度と切断力を両立させた。そのための上級魔法だった。それなのに、首を落し損ねた。大きく見開かれた右目が赤く光ってる。何かしらのスキルを使ったんだ。けど躱せたのは本当に紙一重だったようで、頬には一拍遅れて浅くない傷が走った。黒い血が顎を伝って地面に落ちる。
「……?」
回避したくせに困惑顔で侯爵は自分の頬を触り、べっとりと指を濡らすそれを見てようやく怒りの形相を浮かべた。
「な……お前、お前ェ!」
瘴気が更に膨れ上がる。周囲に展開した魔力糸が圧され、魔法が一気に通り辛くなる。
「お前は、お前はァ!!アクセラとお前と僕、三人で、三人で溶け合えば完璧だったのに!それを、それをお前はァ!!」
「もう、その口でアクセラちゃんの名前を呼ばないで!」
ブラックエッジを抜く。
迷うな、迷うな、迷うなっ。
「なんだとォ?」
不快気に眉をひそめる侯爵。一度、二度と呼吸を整えてわたしは異形の黒幕を睨み付ける。
「トワリ侯爵、わたしは貴方を殺す!殺してアクセラちゃんを連れて帰る!!」




