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十章 第24話 二の舞 焔刈り

 この感情をなんと言えばいいだろうか。僕の中に渦巻くこの感情を。もっと尊い感情だったはずだ。そう、始まりは……憧憬だった。彼女の紫に煙る瞳。そこに宿る揺るぎない強さと無垢な何かに、僕は幼少から渇望して止まなかったモノを見出した。何世代も積み上げられた泥のようなトワリ家の宿望に奪われた、僕にもあるはずだった美しい物を。当然の理のように、僕は彼女の中のそれが欲しいと思った。


 僕の隣にいて欲しい。

 僕をその美しい目で見て欲しい。

 欠けた僕の心を埋めて欲しい。

 僕を愛して欲しい。

 僕だけのモノになって欲しい。


 ……寒い。どうして自分がこんなことを思い出したのか。思考が急に脳裏に浮かんだ、というより思考に自分自身が浮かべられた感触だ。水面に浮かぶように。だが何故かは、分からない。


 一族の汚れた妄執に僕は疲れ切っていた。押し付けられた遺産と歪な体に苦しめられてきた。それでも錬金術から離れられなかったのはそれ以外に縋る物がなかったから。あるいは最初の先祖の姿に執着があったのかもしれない。本当に国のためを思ってその力を振るった建国時代の大錬金術師に。


 若く輝かしい願いの成れの果てを知っているからだろう。自分の原点を想起するのは気分のよくないものだ。僕は初代のような素晴らしい錬金術師にはなれない。せめて大錬金術師であろうとして、それだけは達成できそうだが……なぜこんなに胸の中が寒い。


 アクセラをより理解したくて学び始めた技術という思想は、そんな僕の捨て切れない未練ともよく馴染んだ。自らの血肉に新しい視座が継ぎ足されるにつれて理解した。なんということはない、建国の時代に成された偉業から先へと進むべく非人道的なことを山ほどしてきた一族は一歩も壁を越えられていなかったのだ。これほどの苦痛を僕に課しておいて、彼らの努力はまるで非力な猫が扉の内側に入れて欲しくてカリカリと引っ掻くような下らないものだった。気づいたときには腹を抱えて笑い転げたものだ。


 ああ。涙を流しながら、一晩中笑い続けたさ。そして同時に、私が大錬金術師になる道筋が見えてきた。彼女を手に入れるための方策も。


 あの日から僕の研究は飛躍的に進んだ。トワリ侯爵家が何代もお偉い貴族の血を重ねて大したモノを見出せなかったように、人間は思ったより価値のある固体がいない種であると気づけたおかげだ。彼女のように優れた存在はそういない。そして僕は一族の他の者と同じように奈落へ落ちる塵芥にはなりたくなかった。彼女に相応しい、あちら側の人間でありたかった。何をしてでも同じ場所に行きたかった。


 そうだ。この寒さはずっと感じていたものだ。物心ついてから、ずっと。


 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。


「アクセラァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!!!」


 何かを間違えた。凄まじい怒声で直観的に僕は悟った。凍えるような寒さの中で。だって、その声は僕の声だったのだから。


 切っ先をこちらへ向けたアクセラが立っている。酷い怪我をしているのに、血と汗と埃でぐちゃぐちゃなのに、それでも彼女は美しかった。紫の目には強い意思が見える。燃え盛る炎ではないが、たしかに熱を感じさせる熾火のような目だ。


 僕はその美しい(ひと)を、暗い場所から見ていた。距離の概念が消えたような、ひたすらに寒さと闇しかない場所。二つのがらんとした空洞が宙に並び、そこから見ているのだ。


 実験を最終段階にした頃から感じていた微熱と頭痛が強くなってきた。まるで誰かの頭蓋骨の中から外を見ているような不気味な世界が、酷い風邪を引いたような熱と寒気の二律背反に犯されて行く。


「君が、君がっ、僕の愛を否定することは、許されないことだッ!!」


 大声で口から飛び出す傲慢な言葉。待ってくれと僕は言おうとして、その言葉はもっと尖ったものに置き換えられる。


「君は僕のモノだ!僕に、僕に逆らうなら、僕に服従しないなら、それはもう君じゃない!僕の欲しい君じゃない!!」


 違う、違う、違う。僕が欲しいのはそんなモノじゃない。誰にも屈しない美しい彼女と隣あってただあること。それだけが僕の願いだ。それだけのために力をつけた。それだけのために全てを賭けた。屈服させたいなんて、そんな醜い感情は僕のものじゃない。


「ふ、ふは、正してあげるよ。僕が、君のあるべき君に……」


 僕の声で誰かが言う。腕が腰にぶら下げた巨大な剣にかかる。止めようとして自分の腕を見ると、そこには氷の鉤爪がついていた。思わず叫んだ。


「ハ、ハハッ……ハハハッ」


 悲鳴が零れたはずなのに、僕の耳に聞こえたのは狂ったような笑い声だった。僕は自分の体を見下ろして、そして気づいた。ない。手も、足も、腹のほとんども、心臓や肺も。そっと顔を触れれば、耳も目も甲高い音を立てるばかりで肌の感触がしない。全てが氷に変わっていて、生身の僕などもうどこにもなかった。


 ドクン……。


 まるで世界が脈動するような音。はっとして周囲を見れば、暗い空間はいつしか薄いピンクの何かに変わっていた。場所によって少しずつ色の違うピンクはドクン、ドクンと世界を揺るがしながら震える。見慣れたそれは人間の脳だった。そしてようやく僕は気付く。頭蓋骨の中から見ているような、ではない。そうなのだ、と。


 ドクン、ドクン……。


 寒い。寒い。寒い。ああ、なんだ。僕は、結局その器じゃなかったのか。いくら価値のない者の命を貪っても、僕は価値ある存在になれない。所詮その程度の命だったんだ。


 ドクン、ドクン、ドクン……。


 高まっていく熱に何も考えられなくなっていく。寒い。どうしようもなく寒い。気が付けば脈動する脳は四方から膨れ上がり、僕はだんだんと押しつぶされていた。狭くなっていく眼窩の向こうにアクセラが見える。美しい顔が。


 ああ、アクセラ、僕は、君が、本当に……。


 氷でできた僕はクシャリと小さな音をたてて砕けた。


 ~★~


「君が、君がっ、僕の愛を否定することは、許されないことだッ!!」


 決別の言葉を皮切りに激高した侯爵は、黒と青紫の眼球が眼窩から零れ落ちそうなほどに目を見開き叫ぶ。だがもはや何を言っても俺に届くことはない。怒りは拒絶であり、憐れみは隔たりなのだ。大義に寄って斬ると決めた以上、それは変えられない。そのことが分からないのか、唾を散らしながらなおも吠え立てる男。彼に剣を向けたまま小さく一歩下がる。


「君は僕のモノだ!僕に、僕に逆らうなら、僕に服従しないなら、それはもう君じゃない!僕の欲しい君じゃない!!」


「そんなものは、初めからない!」


 もう三歩下がって距離を開け、構えを変える。いくら旗幟を定めたからといって満身創痍の襤褸雑巾が解決するわけじゃない。初手から正面切って打ち合えば負けるのはこちらだ。


「ふ、ふは、正してあげるよ。僕が、君のあるべき君に……」


 一転して呟くようにおぞましい事を言う。それから何かに気づいたように「あぁ」と息を漏らして口元を笑みの形に変えた。人ならざる者の目はもう俺を映していない。鎧に包まれた右手が左腰の柄を握る。


「ハ、ハハッ……ハハハッ」


 引き攣った哄笑が口から血のように溢れる。それと同時にトワリ侯爵の目から二筋の涙が頬を流れた。突然の落涙は左右ただの一滴ずつ。流れる端から小さな凍りの結晶に変じて顔に線を刻む。まるで最後の人間らしい感情が潰えたように、その涙が床へ落ちて砕けた途端、彼の雰囲気は一変した。庭園での豹変時に感じた嗜虐的で攻撃的な気配を数十倍にしたような肌に突き刺さる気配だ。


「そうか。そうだ。そうだったんだ!僕はなんと馬鹿だったんだろう?最初から君をちゃんと躾けないから、だからこんなにも手間取るんだね。まったく……頭の中の靄が晴れたような気分だよ!」


 どこか晴れやかに言った彼は両腰から巨剣を引き抜いて構えた。銀の刃を備えた鉄板とでもいうべき肉厚なそれは、ゆうに俺の体を越える幅と刃渡りを持っている。溶かした金属をグチャグチャに掻き混ぜて冷やしたような刀身の肌目は言い知れぬ気持ちの悪い印象を与えた。『技術者「刀鍛冶」』内包スキル『目利き』で性能が分からないということは金属ではないのか。

 いや、悪魔を素材にしているんだったな。

 純粋な金属ではないから金属武器の鑑定に特化した俺のスキルを弾いているのかもしれない。鎧にも同じことが言えるようで、ダークグレイの鈍い照り返しを持った鋭角的な一式からは異様な圧が感じられた。


「さあ、教育の時間だ!」


 ゴンと鈍い音を立てて二つの切っ先が床石を打つ。甚振る者の快楽が深く刻まれたひび割れじみた笑顔。苛立ちをぶつけるだけでレンガの噴水が壊れるような筋力で、今から一切の躊躇いなく剣を振り回して突っ込んでくる。そう思うとさすがの俺も震えが走る。

 コレを覆すには一二三唄(ひふみうた)か、虎条あたりが使えれば……いや、言っても仕方ない。

 健康な状態でも今の俺には荷が勝ち過ぎる紫電の技を想起し、すぐさま頭から振り払う。一二三唄は紫伝の師範代以上に許された一種の暗示による強化だが、高まった身体機能にカロリーも魔力も食い切られて動けなくなる。超高速の突進技である虎条は踏み込んだが最後、今の俺の筋力ではどこかに激突して自滅確定だ。いずれも制御が効かない。


「アクセラァ!!僕の、僕のモノだァッ!!」


 俺が思考を巡らせている内に、だらりと両腕を下げたまま侯爵が踏み込む。都合十歩ほどあった距離は消し飛び、肉迫する巨剣のエッジ。そのぎらつく光を避けて後ろへ飛ぶ。予想以上の速度に回避以外の余裕がない。


「チッ」


 とんでもない運動能力だ。

 着地と前後してもう一振りの切っ先が鼻先を掠める。心臓が跳ね上がる。動悸を飲み込んで、二枚の鉄板じみた剣を侯爵がぐるりと取り回す間に横へ飛び込む。纏めて巨剣が叩き込まれたコンマ数秒前の俺の居場所は、砦の石材が土の地面のように爆ぜてクレーターとなった。しかし恐ろしいのはそれだけの衝撃の反動を筋力でねじ伏せ、もう二撃、三撃と追い打ちしてくる侯爵だ。グルン、グルンと突風を纏って刃が薄皮一枚先を掠める。そのたびにペンで線を引いたように俺の肌には傷が刻まれる。


「僕の『剣術』の威力、見るがいいさ!」


 数合を交わして距離を取った瞬間、ぐんとトワリが腰を落とす。青い光が灯ったその剣に俺は警戒を強めた。完全に切り札を切るタイミングを逸したことに歯噛みする。苦し紛れに刃を腕の魔法陣へ宛がい、しかし先に侯爵が踏み込んだ。


「ハァ!!」


 気合い十分の振り下ろし。だが振り上げた剣は頂点へ至る前に光を失い、それまでと変わらない強烈な重量攻撃として床を砕いた。跳び退けた俺に破片だけが襲いかかる。


「な、なに!?」


「っ……ファンブル?」


 その結果は彼にとっても予想外だったようで、漆黒に青紫の目が大きく見開かれた。


「僕のスキルが……なぜだ!なぜ発動しない!?実験では確かに、確かに上手くいったはすだァ!」


 狼狽し、それでも彼は剣をもう一度構えた。引きつけた巨剣に薄青い光が灯るが、繰り出す瞬間にはやはり霧散しただの刺突と化している。俺はそれを屈んで躱し、足に一撃入れようとしてもう一振りに阻まれ下がる。


「鬱陶しいッ!」


 侯爵の追撃の構えに赤い光が灯る。踏み込みと同時に消える。二度目は勢いの変化を逃がさない。鉄板の一撃に紅兎を合わせて逸らし、切っ先を跳ね上げてガントレットの手首を捉える。しかし頑丈な鎧は反発の雷光に焼かれながらも、凶悪な装飾の棘を失うだけだった。


「グネグネと邪魔臭いぞォ!」


「君は、大振りだッ!」


 一瞬だけ青く光った巨剣。迫る刃の硬質な肌に刀を這わせてあらぬ方向へ導く。


 紫伝一刀流・流鉄


 勢いのままに床を打ち据えた剣は重い反動を侯爵に返す。彼の筋肉が鎧の下で軋む音が聞こえそうな至近距離で、俺は紅兎を身に引きよせてくるりと舞う。


 紫電一刀流・弧月の変化『刃月』


 真円を描く紫の太刀筋がザッと鎧を薙ぐがあまりに浅い。振り払うように放たれた巨剣は、やはりその出だけに光が輝いた。


「クソッ、クソッ、クソッ!!」


 失敗に次ぐ失敗。それでも何度となく剣技の構えを取る侯爵だが一度たりとスキルは発動せず、ただ力と質量に任せた攻撃が飛び出すのみ。流鉄でひたすらそれをいなし、隙を作り、位置を入れ替えるように背後へ抜ける。鎧を少しずつ削り、侯爵の冷静さを奪い、ひたすらに好機を探す。腕の魔法陣を壊し、奥の手である蹈鞴舞をしかけるための大きな隙を。


「アァアアアアア!!何故だ何故だ何故だッ!!何故スキルがうまく発動しない!?」


 怒り狂って痩身の男は巨剣を激しく振り回す。飾り柱が砕け、床が割れ、シャンデリアが千切れて降り注ぎ、カーペットが無残に切り裂かれる。破壊の嵐とでも言うべき斬撃と突風の最中を俺は間一髪で避け続ける。


「く、コレで……がぁ!!何故発動できない!?」


 また光が瞬いては消えた。折角手に入れた力を振るえないストレスに滅茶苦茶な暴れ方をしだす。しかし必ず俺を追い回す執念だけは失わないせいでまったくブレイクポイントが作れない。


「ぎッ!?」


「痛っ!」


 何度目かの流鉄から迸った反発の光が一際激しく散って互いの頬を焼く。その痛みに侯爵は怒鳴りながらも再び巨剣を揃えて振り上げる。今度は光が灯らず、ただの質量攻撃として俺に襲い掛かった。


「っ……!!」


 軋む関節を無理やり動かして死角へ走り込む。爆ぜる床石から身を守るべく数度受け身をとって転がる。反撃の一刀は、しかし分厚い鎧の表面に小さな傷と反発による焼け目をつけるに留まった。切っ先で貫くには頑丈すぎる。


「ん、くっ!!」


 踏み込みが浅い。深く踏んで刃元で喰らいつかなくては。そう判断するが早いか距離を大きく開ける。

 下手にスキルなど使おうとせず質量任せに来られた方が脅威度は高いなッ。

 冷静に分析しながら次の一手を練る。やはり体格差と体力の問題は大きな壁だ。刃を届かせるには突進力か機動力が、届かせた先に至るには威力が足りない。足りる領域まで押し上げるのは大きな負担だが、このままでは届かず終わってしまう。賭けるなら元手がゼロになる前、つまり今だ。あとは隙を作れば……。


「っ!」


 剣戟によって床から弾け飛んだ特大の欠片が俺の耳もとを掠める。髪が数本引きちぎられて微かな痛みを覚える。躱してもジワジワと削られる嫌な感触。隙だらけで、しかし隙がない。攻め込むには足りない。


「ぐ、ぐぅ……」


 トワリ侯爵はというと、俺の焦りなどまったく知らぬ風で歯噛みしていた。彼のスキルが発動しないのは他人の脳と手を奪い取った不正の産物だから、ではない。それでも使えることをこの男は実証している。ではなぜうまく行かないのか。


「……はぁ、ふぅ、ふぅ」


 あんな巨剣を二振りも持っていたらファンブルするに決まってるだろう。阿呆が。

 原因は単純、両手に重量級の武器を持っているから。つまり片手で扱う剣系スキルの発動姿勢を正しく取っても、あまりに重いもう片手の剣に体が引かれて次のモーションへ移る前に発動姿勢が崩れているのだ。


「……すぅ」


 一瞬の間隙に呼吸を整える。

 何としても、次で大きな隙を作る。


「……はぁ」


 剣を握って怒りに打ち震える侯爵を見る。往生際悪くまだ突進系スキルの構えを取っているが、どうせ次も失敗するのは目に見えているのだ。スキルの発動条件を満たせない装備で強引に戦うことなど、普通にこの世界で生まれ育ってきた人間にはありえない戦い方だ。


「今度こそ、今度こそ、きっと大丈夫だ、大丈夫、大丈夫だッ!」


 まあ、突き詰めるとやっぱり奪ったモノだからになるのか。

 不安を打ち消す言葉を呟き続ける侯爵。不慣れだからこそ不安になる。自分のスキルなら、自分の得物なら、自分のモノにすべく使い込んでいたなら、話は変わってきたのだろうに。技術的に可能であるとだけ立証して訓練を投げるからこういう無様を晒すのだ。


「行けるッ行けるッ、あァ、行けるッ!」


 工夫と試行は技術の要だと、確かに俺は言った。だがもともと要とは大きな構造物の最も大切な一点を指す言葉。繋ぎ合わせる結節点なのだ。つまりその一点を除く全体像がなければ要もクソもない。そして技術にとっての全体像、要を要足らしめる最も大量に存在するパーツはすなわち知識と研鑽なのだ。


「ウラァッ!!」


 両巨剣を揃えての強烈な振り下ろしが迫る。スキルの光は足元に瞬いて消えるばかり。跳び避けた俺に右の巨剣が床で跳ね返るようにしてすぐさま繰り出される。二の太刀を流鉄で上に流す。反発の光が流星の尾のように毛先を焼いて昇る。


「ぐぬッ!?」


 侯爵の体勢が崩れた。あまりの筋力ゆえに腕が大きく逸れれば体が引っ張られるのだ。それでも無理な体勢から左の刃を跳ね上げてくる。間一髪うなじの側を鉄板が通りすぎるのと、紅兎の切っ先を届かないまでも彼の目に突きつけるのはほぼ同時。

 ここだッ!!


「水よ貫けっ!」


「ま、魔法ッ!?」


 刀身を覆う紫の霧が反発の雷光を纏いながら水の矢を模る。拳三つほどの距離で放たれる魔法。さすがに回避はできず、驚愕に見開かれた男の左目に突き立つ。迸る水の圧力を受けて眼窩で目玉が弾けて溢れ出た。


「ぎぃィぃやァああああああああ!!!」


 鼓膜を破るほどの悲鳴。爆風のような音圧を受けながらもさらに刀を重ねようとして、真横から硬質な衝撃に襲われる。それが出鱈目に振り回した巨剣の腹だと認識したのは、三度床にバウンドして止まったときだった。


「あ、く、うぅぅッ」


 喉から込み上げる悲鳴を噛み殺す。何度も床に叩き付けられたせいで痛くない場所がないほど全身を打ち付けた。じわっと染み渡るような痛覚。鼻の奥に何とも言えない苦みを感じつつ体を起こそうとして、まったく力が入らないことに気づく。


「痛い、痛い、いだィいいいいいいッ!!」


「な、に……?」


 絶叫を遠くに聞きながらもう一度立とうとして、まるで筋肉に込めるべき力がどこかへ抜けて行くような、足の先から冷えて行くような、そんな嫌な感触に包まれた。


「あ……?これ、血……」


 横倒しの視界を赤黒い液体が侵食していく。ぼんやりと視線をそこへ向ける。床に広がっていくのはおそらく俺の血で。


「はぁ、はぁ、やば……これ、肩、から……?」


 随分と遅れてその出血が腫れ上がった肩からきていると理解する。肉を潰されて血が皮膚の下に溜まっていた、あの傷の部分だ。緩慢に視線を向けると、片方の剣を床に突き立てて目元を押さえ苦しむ侯爵が見える。その左手に握られた巨剣は広い腹の部分に水風船でも叩き付けたようにべっとり赤が散っていた。衝撃で肩が破裂したらしい。


「や、ば……」


 出血が酷い。ショックで死んでもおかしくない量に見える。なんとか薄れる意識を繋ぎ合せ、もう動きたくないとごねる体を動かし、紅兎の刃元を左腕に刻まれた魔法陣にもう一度宛がった。麻痺した感覚でも妙に冷たかった。


「ひィ、ひ、ひぃッ、ア、アクセラァ、そんなことで、僕の魔法陣は、壊せないぞォ……」


 のたうち回って剣に取りすがりながらも、しかし驚いたことに地獄の底から覗くような一対の視線で俺を嗤うトワリ。指の間には鳶色の瞳がギョロギョロと蠢くのが見えた。スペアの目玉を『生体錬金術』で繋いだようだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、目玉なんて、持ち歩くな……気持ち、悪い」


「ひ、ひは、ははっ!ぼ、僕の、僕のォ!魔法陣はァ!あ、愛の、愛の刻印だァ!ひぃ、は、ハハ、物理的な傷で、壊せるはずが、ないんだよォ……!!」


 バカが、こっちは技術神だぞ!とっくに魔法陣の暗号化してあった記述なんて解読してるんだよ!

 そう叫んでやろうかと本気で思いながらもなんとかトワリの嘲笑を無視して刃を皮膚に潜らせた。薄紫の光を纏う鋼は引けばスッと音もなく俺の肌を分ける。


「あぅっ」


 ほんの少しの熱感と奇妙な痒み。一拍遅れて血がぱっと散るが、お構いなしに不気味な模様を分かつ。よく砥がれた紅兎の牙が腕を離れた頃にじくじくと痛みが襲ってきた。ただ失血が幸いしてかそこまで酷くない。反対の手をポケットに突っ込み、粘土になったような感触の指で一つの石を取り出す。赤く透き通った小粒の石だ。


「それは……な、なぜそんな物を!?」


 嘲りに歪んでいた男の顔が一転して驚愕に染まる。それもそのはず、俺の手の中にある親指程度の綺麗な石はただの石ではない。ダンジョンクリスタルなのだから。


「ふーっ、ふーっ、魔道具は全て、クリスタルが入ってる。ん、当たり前」


「魔道具!?しかし、どこにそんな、それも小さなクリスタルが!そもそも、火を扱う魔道具など与えていな……は、そ、そうか!そうかッ!部屋の空調魔道具から抜いたなッ!?」


 ビキビキと侯爵の額に青筋が立つ。


「ん、ふふ……ご名答」


 そう言って俺は図案を修繕すべく熱を持ちだした傷へとクリスタルを捻じ込んだ。そして聖なる魔力に滾る紅兎の刃を当てる。


「止せ!腕が、腕が吹き飛ぶぞ!!」


「元より承知ッ!」


 後遺症がどうこうと言っていられる状況はとうに終わった。他ならぬ侯爵が終わらせたのだ。怒りと焦りと恐怖が混然となったバケモノの目の前でクリスタルを斬る。


「っっ!!」


 傷を石が押し広げる激痛に、奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締めて耐える。異物が筋肉と神経を掻き分ける気色の悪さなどまだ序の口だ。更に刀の魔力を注ぐ。紅兎のオーラが揺らぐと同時に赤い石は強く瞬き、そして小さな爆発を起こした。


「がっぁあっ!」


 獣じみた声が出る。夏の終わり、暖房用のクリスタルは前の冬の残りでしかない。しかしそれでも自分の腕の中に爆発物を埋め込んで着火したのだ。肉も皮も神経も焼けて吹き飛び、周囲に散って悪臭を立てている。頭が真っ白になるほどの激痛だった。


「フーッ、フーッ、フーッ!!」


 食いしばる歯の感覚がぼんやりするほど強く噛み締めながら、脂汗が吹き出す感覚に耐える。体が前に傾ぐ。ゴッ、と音がした。俺は床石に額を押し当て、腕を抱え込んでひたすら呼吸を繰り返す。歯と歯の隙間から吐きだす息の荒さだけが微量、痛みを紛らわしてくれた。

 けど、ああ、とりあえず、魔法陣は壊せた。


「あ、ああ、あぁあああああ!!僕の魔法陣が!僕の愛の首輪が!なんてことを、なんてことをッ!!」


 泣きそうな表情で叫ぶ侯爵の鳶色の右目が怒りで青紫に輝く。白目があっという間に黒く塗り替わり、目玉の交換が終わったことを示した。互いに恰好の隙をさらす間抜けな時間が過ぎる。前髪の間から睨み付ける俺の視線を受け、それでも男は剣に体を預けて俺を睨み返すばかりだ。


「何度、何度!僕の愛を、虚仮にすれば、気が済むんだねッ、君はァ!?」


 戯言を抜かす侯爵を無視し、ようやくの思いで俺は体を起こす。腕を見れば酷い有様だった。色白の肌はグチャグチャにめくれ、焦げた血と新鮮な血が混じる中に筋肉が見えている。角度によって七色に変わる破片は魔弾の魔術回路だ。


「く、うぅ、回路、ダメにしたかな……」


 痛みのあまり変な痙攣をおこす指で細長い鉄の容器を取り出す。クソほど不味い植物用魔力ポーションを一気に呷った。胃の中身がひっくり返るような嘔吐感は同じだが、一本目とは決定的に違うことがあった。そう、湧いてきた魔力がどこにも奪われないのだ。


「君は、そんな下らないことより、もっと気にすべきことがある」


 紅兎の刃を舐めるように確認する。刃が二か所、小さく欠けていた。


「く、下らない……?下らないィ!?僕の、この僕の愛を!今、今君は、下らないと言ったか、君は、え?えェ!?」


 危機感のない男だ。呆れを混ぜて微笑む。


「私に魔法と魔術が戻ったことに比べれば、ね」


「ッ……!」


 それだけで彼は気圧されたように半歩下がった。意味は理解できただろう。


「はー……ん、んん」


 大きく息を吐いて体を解す。痛い。とても痛い。けど、マシだ。


「ようやく感覚が普通になった。けほ、けほけほ……」


 全身が痛いのは変わらないし、叫ぶのを無理やり抑えたからか喉がガラガラする。だがこの数日ずっと感じていた皮膚の上に油でも塗られたようなネットリと気持ち悪い感覚は消え去った。一枚の膜を隔てて世界と繋がっていたようなもどかしさがない。呼吸すれば魔力が気道から肺へ流れ込み、酸素と一緒になって全身へ巡る。


「だ、だがそれほどの深手だ!君はもう刀を満足に振れない、そうだろう!?」


「すぅ……はぁ……悪いけど、まだ奥の手があるからね」


 深呼吸を一つすると体中に青い幾何学模様が浮かび上がった。外から取り込んだ魔力が体を巡り、治癒の魔術回路が一斉に活性化した証拠だ。急激に上昇した魔力消費にくらりと眩暈を覚える。意識的に傷の酷い部分だけを残して回路への供給を断つ。肩と腕の肉が異音を立てて再生するごとに失われていた指先の感覚が戻ってくる。

 傷が回路のある骨まで達していたらお仕舞だったけどな、賭けには勝ったぞ。

 激痛はそのまま。体力はむしろ腕を爆破したせいで著しく消耗した。魔力も供給されるようになったと同時に消費がぐっと増えて微増くらい。賭けには勝ったし、戦える程度の怪我に抑えることにも成功したが……さて、残された時間はあと何分か。


「ふぅ……けほ」


 一息つく。トワリが切りかかってくるかと思ったが、彼は状況に圧倒されたように一歩も動かない。やはり根本が戦士ではないのだ。どこで踏み込めばいいか、どこで押し込まなければいけないか、そういったことがまったく分かっていない。あげく初めての戦いの痛みに腰が引けている。

 それに俺の見立てが正しければ……まあいい。


「すぅ、はぁ」


 ここからが正念場だぞ、アクセラ=ラナ=オルクス。

 右手の刀を立て、左手にポケットから取り出しておいた水のクリスタルを握り、変則的な剣と杖の二刀構えを取る。クリスタルは火のヤツと同じく空調魔道具から抜き取っておいた俺の切り札。バロンの目をくらましたときのアレだ。


「すぅ、はぁ」


「フン!それだけ息が上がっていて、何が奥の手だ、馬鹿馬鹿しい!ああ、馬鹿馬鹿しいねェ!君の我儘にィ、僕は付き合っている暇など、もうないんだよォ!!はやく、僕の……僕の?お、ォ?ぼ、僕は、なぜ君が……いや、いやいや、いいさ!君の手足をもいで連れ帰ってからゆっくり考えるとしよう!!」


 侯爵はまるで迷子になったように一瞬表情を曇らせたが、すぐにそれまで以上の獰猛な笑みを浮かべた。ゾワリ。背筋を寒いものが伝う。直観的に今まで魔力をケチって使っていなかった神眼を宿すと、彼の腕から両手の剣に濃い泥のような力が流し込まれるのが見えた。

 瘴気……?


「この剣はね、僕の研究の、ふふ、そう、集大成の一つなんだよ!君が僕を誑かした地下室の一件では、あァ、残念ながら見せられなかったけれどねェ?」


 誑かしたとは酷い言われようだ。まあ、事実だが。


「いくつも、いくつも、いくつもいくつもいくつもッ!厳選に厳選を重ねた素材と、大量の悪魔を使って作りだした……そう、僕だけの剣だ!僕にしか扱えない、僕の命令しか聞かない、真価を引きだせるのも僕だけの、僕だけの、最高の武器だ!!さあ、見せて上げようかねェ?代価は君の手足でいいよォ?きっと素敵な手触りだろうからァ……!」


 黒い目を三日月の形に歪める侯爵。


「イーヴルブラッドォ、さぁ、滴れェ!!」


 嗜虐的な嘲笑と残酷さを練り込んだ声で侯爵が叫ぶ。

 変化はまず右手の剣に生じた。煮溶かした鉄をグチャグチャに掻き混ぜてそのまま冷やしたような歪で不気味な地金の肌目が、バキリと音を立てて開いたのだ。バラバラと欠片を落としながら剣の側面に刻まれていた溝が開き、巨剣そのものがわずかに長さを伸ばした。ドロリと溝からは血のように粘り気のある液体が滴り、剣を濡らすだけでは飽き足らず床へゆっくりと糸を引きながら落ちる。


「ヘヴィボォーン、落ちろ、落ちろ、落ちろォ!!」


 続いて左の剣がガコンと鳴る。刀身の各所から小さな金属片が剥がれ、それらはなんと宙に浮かび始めた。まぶされた金属のチップが全て剥がれ浮かび上がる頃には、俺たちの頭上にちょっとした星屑の雲ができていた。


「黒いエアロメタル……ルデオナイト」


 エアロメタルは重力に反して空中に浮く希少な魔法金属の総称だが、アクセラとして生を受けてから一度も見たことがないほどにバカ高い素材だ。中でも黒色のエアロメタル、ルデオナイトは希少性と溶接した物体に対しても浮遊効果をある程度及ぼす性質から最上位級に位置している。俺の小さな拳一つ分でネンスが持つコンクライトの剣と同じくらいの値段と言えば凄まじさが分かるという物だろう。


「ほう、さすがに詳しいねェ!しかしィ?そんなことに気を取られていて、イィのかなァ?可愛らしい手足とのお別れは済ませたかい?ふ、ふはっ!」


 ルデオナイトを欠片とはいえかき集めれば拳3つか4つほどの量……それでも受け流したときのあの重量感だったのだ。

 左手の剣がバカほど重いということだけは確かだな。

 実際、彼が左手に握り込む巨剣の切っ先は最初に比べて数センチ低くなっている。合言葉のようなものを唱えていたので巨剣が両方とも魔剣だというところまでは分かるのだが、ルデオナイトをパージするだけが能の鈍器ということもあるまい。右手の黒い液が滴る方については邪悪な気配を感じる以外に何も読み解けない。

 まあ、タイムリミットは変わらないんだ。剣士として、使徒として、大人として……やれるだけ、やるだけだ。


「すーっ、はーっ」


 息を吸う。酸素を吸う。魔力を吸う。肺へと流し、燃やし、体へ解き放つ。


「剣士の価値は剣の腕前」


 血管を炎が駆け巡る。足を踏み出す。強く踏み出す。血が更に巡り、火の適性が溢れる魔力を強力な強化魔法に変えていく。


「人としての価値はその剣で何を成すか」


 肉体は焼けるほどに漲り、余った熱が空気を焦がす。濃密な魔法の力が火巫装の流れに沿って俺の周りで赤い焔の幻影となる。


「両輪揃ってこそ、紫伝の一刀は(ひら)ける」


 俺は紫伝の教えが煌々と輝く、一つの炉だ。


 仰紫流刀技術・魔ノ型ムラクモ「蹈鞴(たたら)舞」

 重ねて仰紫流刀技術・反克「奪火」


 魔法の炎を刈り取り奪う同門殺しの剣技を蹈鞴舞の動きに組み合わせる。己の炎を紅兎で削っては攻撃に混ぜるという熱暴走に対する強引な解決方法。しかし剣舞の要素は足を止められない蹈鞴舞とも相性がいい。動きそのものが遥かに安定する。急場しのぎの打開策だが、感触は悪くない。


「蹈鞴舞、二の舞い「焔刈り」……紫伝一刀流アクセラ、参るッ」


 焔を吐きだすように、俺は叫んだ。


~予告~

勝ち目は薄く、しかし退路は皆無。

アクセラは焔を纏い、死地へと立ち向かう。

次回、紅兎の最後

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