十章 第23話 異端の錬金術師
感情を殺すように痙攣する唇。眼振を起こしたように小刻みに揺れる瞳。シャンデリアの光を後ろから受け、陰影が協調されて病的に痩せたように見える顔。背が高く、肉がない、やや猫背な体躯。ここ数日で少しは見慣れた、妙に若返ったトワリ侯爵の姿。それを視界に収めた瞬間、俺の胸の中に痛いほどの激情が沸き上がった。
「アクセラ、ああ、……アクセラ、アクセラッ、アクセラッ!!」
強い衝動に突き動かされているのは彼も同じようで、俺の名前を繰り返すほどに声が激しくなっていく。彼の周りで大きく魔力がうねるのを感じる。それに呼応するように、俺の体内を緩やかに巡っていたなけなしの魔力もぐるりと唸った。体の全てが、感情の全てが、使命感や矜持といった俺の中の人間らしいモノ全てが、目の前の男に今すぐ刃を向けろと吠えている。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ!ダメだよ、こんなところまで来てはァ……!」
熱に浮かされたように侯爵は言った。俺を探して回るキメラの叫びから感じられた怒り、焦り、そして何か別の深く黒い穴のような感情が煮詰まった眼差しだ。
「トワリ侯爵」
「っ」
名前を呼ばれた瞬間、彼の肩が大きく跳ねた。咄嗟に半歩引いた様はまるで怯えたようだ。膨れ上がっていたコールタールのような感情がしぼんでいくのをこの距離でも感じる。
「君は……」
「こ、ここは!ここは今、そう、危ないんだよ!」
俺の言葉を遮って叫んだ彼は、咎めるような口調から一転して言い訳を捲し立てる。
「賊が、賊が侵入しているんだ!この砦に!この砦にだよ!きっと君のことを、ああ、恐ろしい!君のことをさ、攫いに来たんだァ……ああ、ああっ、浅ましい虫どもめっ!!」
不安を抱えたような表情で声を震わせていたかと思えば、次の瞬間には唾を吐き捨てそうなほどの形相になる。
彼の人格が破綻しているのは分かっていたが、とうとうここまできたか。そんな感想の中に俺は幾つもの感情を覚える。そこには確かに憐れみや同情も含まれているが、圧倒的なのは怒りだ。
「渡さないぞ、僕は、僕は絶対に渡さない!この寒さを、この感覚を満たしてくれるのは、きっと君しかないんだ!!」
脳裏に浮かぶ地下の実験室。人間性を薬物で奪われ、体を損なわれ、魂を引き剥がされる哀れな者達の棺が並ぶ部屋。侯爵の欲した能力をたまたま磨いていたために手足をもがれ、頭を開かれ、脳を暴かれた者達の無念がガラスケースに詰められ並ぶショールーム。犠牲者たちの壊された人間らしさが砕かれた鏡の破片のように侯爵へ突き刺さり、グシャグシャになったのが今の姿だ。
「君がいれば、僕はそれで、それだけでいいんだ!他には何も必要ない、そうだろう!?他の何に価値があるっていうんだい、えェ!?」
それが平然と人間の尊厳を奪った者の言葉か。
怒りに打ち震え、体中が痛み悲鳴をあげる。右手の中で紅兎の柄が軋んだ。しかし強く握ったことへの不平を漏らしたというよりも、この怒りに同調し獰猛な咆哮を上げたような印象を受ける。
「はっ……あァ、アクセラ、そんなに震えて」
侯爵が見当違いな同情の眼差しを俺に向け、ついで目を大きく見開いた。ジワリと黒いものが白い部分に広がる。
「血!?血が、出血しているじゃないか!誰がこんな酷い怪我を君に……あの悪魔か!あの悪魔だね!?あの、あの卑しいィ……いや違うっ、そうだ、まず手当を、手当をしなくては!!」
目まぐるしく変わる男の顔。鬼のように歪んだかと思えば蒼白な本来の表情に戻る。目の濁りだけは変わらず、貧血ぎみの薄青い白目を暗く汚している。
「さあ、早く帰ろう!帰ったら、そうだ、まずは手当をしてあげなくては!心配いらない、大丈夫だから!!僕にはねェ、ク、クク、治癒に長けたスキルもあるんだよ?腕のいい医者の両手があるんだ!あれを使えばこんな傷、きっと」
そこで彼は一瞬だけ真顔になり、はたと気づいた様子で手を打ち合せた。もう笑みが浮かんでいる。
「そうだ!そう、そうそう、なんだったら薬湯がいい!薬草園からハーブを摘んできてね?薬湯に浸かるのさ!あれは、ああ、あれはとてもいいものだよ……掠り傷なんてすぐ直ってしまうくらい!!」
過剰なほどの心配は掠り傷の手当てくらいに矮小化されてしまった。楽しそうに薬湯について語りだす彼の目にはもう俺すら映っていない。何のてらいもなく他者から奪った物を自分の能力だと自慢する様子は、後天的な破綻と先天的な破綻が折り重なって、トワリ侯爵という人間の性質がモザイクアートになったみたいに感じさせる。
「ふ、ふふふ、ふはは!自分で言うことでもないかもしれないがねぇ?薬湯は我ながら高尚な趣味だと思うんだよォ、だって、そうだろ?え?だって深い知識が必要で、なおかつ役に立つ!実利の伴った趣味だァ……ハハッ、医者の脳を入れてからというもの、ハマってしまったよ!いや、薬師だったか?いやいや、医者だ医者!ははは!!」
ギリギリと奥歯が鳴る。これだけ強くトワリ侯爵の趣味に影響するということは、その医者は薬湯で入浴するのを大層好んだのだろう。それこそ趣味と実益を兼ねて、患者の治療にも使っていたのかもしれない。そして人々を癒しつかれた日には自分用のブレンドへ浸かる。そんなありふれた、ささやかな、日々の中で繰り返す程度の贅沢。それすらもう、その医者は味わえない。この男はその事実に何の痛痒も感じず、まるで俺を気遣うような顔をして、自分は「崇高な趣味だ」などと尊敬されうる人物だと思っている。
「……トワリ侯爵」
もう、聞くに堪えない。なんでもいいからその話を遮ろうと思って口を開いたときだった。
ズン!
「っ」
突然襲いかかった大きな揺れ。咄嗟に力むと体中に痛みが走る。とくに内出血でパンパンになった肩と怪我の度合いが酷い脇腹。その響くような痛みに脂汗が吹き出し、かわりに冷静さがわずかばかり戻って来た。今すべきことの優先順位を考えろ。状況把握だろう、と。
「ふー、ふー、は、ふぅ……今の、揺れは?」
痛みを呼吸に乗せて吐きだすイメージで抑え込み、隙間から絞り出すように尋ねる。
「揺れ?揺れたかい?ああ、もしかしてさっきの衝撃か」
感覚までおかしくなっているのか?
「ふふ、あの程度のことで驚くなんて、君も可愛い所があるねェ?言っただろう、賊が侵入しているのさ。僕の駒が迎撃しているがねぇ、さほど優秀とは言い難いから!ははは!!」
自己主張せず命令に従順な悪魔の群れ。指揮官が有能なら身体能力や生命力で勝る分、十分な脅威のはずだが。それを役に立たない雑兵だと切って捨てる様に、やはり彼は指揮能力がまったくないのだと理解する。呆れた話だが、それでも今この瞬間はありがたいことだった。
「あァ、そう顔をしかめないでおくれよ!大丈夫、大丈夫だから!駒共がまったく役に立たなかったとしてェ……最後は僕が、この僕が出ればそれでお終いだよ!!こう見えて僕はかなり強いからね?ふふ、ふははっ」
下らない戯言には取り合わない。時間と気力、それから俺の堪忍袋の緒の無駄遣いだ。
「攻めて来ているのはユーレントハイムの国軍?」
「んー、さぁねえ?」
興味などないように侯爵は肩を竦めた。しかし俺にはそれ以外の可能性が思いつかない。バロンの報告にあった王都からの応援は数日前にジッタで戦闘中とのことだったから、日数的に辻褄も合う。
「大した問題ではないだろう?なにせこの国の軍は、まあ、お世辞にも精強とは言い難いからねェ」
たしかに軍事大国であるロンドハイム帝国や鎖国し続けるだけの国力を持つジントハイム公国に比べればユーレントハイムは軍において劣る。それは対人戦が少ない平和な環境に長年あったからであり、そのかわりダンジョンや魔物の生息地が多く、人外との戦いは軍全体が比較的得意という特徴がある。同じ理由から冒険者の数も多く、質も高い。
「それでも軍は軍」
騎士団は対人戦でないにしろ、戦い自体には慣れている。軍全体で捉えても精強でないだけで弱兵というほどでもない。そして今回、トワリ侯爵側は人間の軍勢ではなく魔物と悪魔の手勢なのだ。腕のいい指揮官が騎士と軍人のバランスを考えて運用するなら、トワリ群とてそう強大な敵でもないはずだった。
そうなると脱出して合流するのが一番いいわけだが……。
「どうだっていいじゃないか、え?そうだろう?どうせこの完璧な体を手に入れた僕には叶わないからね!一体いくつのスキルを!技を!特性を!この体に備えていると思っているんだい!?」
侯爵は自らの肉体そのものに酔いしれるように両腕を広げる。俺は視線を悟られないよう注意しながら退路へ目を向けた。それから侯爵に目を向け直す。この広場はかなりの面積がある。そこから続く廊下、エントランス、砦と城壁の間のアプローチ、城門と超えてようやく外だ。
「さあ、もういいだろう?戻ろう!僕の、僕たちの、部屋に!愛の巣に!!」
急かすように彼は言う。瞳が独立した生き物のようにギョロリと動いた。破れた服の隙間、手足のカーブ、胸元や首筋と視線が這いまわる。品のない形に歪められた口元には隠しきれない情欲が滾っており、最初の頃に漲っていた怒りも不安もいつのまにか下心へと取って代わられていた。
「……」
俺は沈黙したまま彼の武装を見る。長身痩躯を包むのは奇妙に鋭い意匠をした黒い鎧。材質はおそらく黒い騎士たちの纏うそれと同じだ。上から羽織ったサーコートは髪と同じ青紫に染められ、一見ただの布のようだが強い魔力を感じさせた。
「さあ!」
一言も返さない。ただ慎重に、慎重に、彼の立ち姿を窺う。隙だらけで武人らしさなど皆無だが……両腰へ佩いた二振りの巨剣が目に入る。それぞれ俺の身長ほどある巨大な剣で、むき出しのまま革のベルトを組み合わせた鞘というよりホルスターと言った方がいいような物に収まっていた。
左腰のソレは刃こそ銀だが刀身の地金はくすんだ赤茶色。しかも大抵の刀剣が刃元から切っ先へ規則だった肌目をしているのに対し、粗雑な鋳物のごとくうねり捻じれた不気味な質感を持っていた。どこか生物的な雰囲気も感じる。
右腰の方は逆に酷く無機質だった。刃は同じく銀で地金は濁った灰色。全体に小さく歪な黒い金属片がまぶしてある様は、もう一振りと並べても方向性が違うだけで同じくらい異質で不気味だった。
「おい、いつまで待たせるつもりだい?」
それらの装備は馬子の衣装というわけでもない。着こなせてはいないが、それでもわずかな重心の置き方で動けるか動けないか程度は分かる。噴水のレンガを癇癪で蹴り砕くような筋力だ。体力も見た目通り下り坂ということはあるまい。肉体性能による強引な追いかけっこが始まれば、出せて瞬間的な攻撃力と機動力しかない俺には分が悪い。
逃げられない、か。
「アクセラ!」
諦め、落胆、そしてほんの少しの嬉しさを覚える。逃げなくて済んだと。なんとも愚かだが、しかし偽らざる感情でもあった。幸か不幸かはそんなわけで判断つかないが、どちらにせよ小細工で逃げられる状況ではない。俺がそう結論付けるのと侯爵が痺れを切らすのはほぼ同時だった。
「アクセラ、アクセラぁ……!君は、本当に、自分の立場が分かって、いるのかい?」
まるで窘めるように侯爵は言う。それからワナワナと震えた。
「君は!僕が用意した折角の部屋を飛び出し!この緊急時に鬼ごっこなど始め!あげくゥ、高価な奴隷を逃がしてしまったんだよ!?自分がどう見えるか、分からないほど愚かではないだろうっ!えェ!?」
激昂し唾を散らして叫び、虚空を殴りつけるように腕を振るう。見開かれた目は血走って今にも破裂しそうだ。白目の濁りは一段と酷くなっている。その視線に込められた言葉。彼が暗に指し示しながらも絶対に言えない言葉。
「裏切られた、とでも、思ってる?」
一音一音を噛み潰すように問う。
「き、みは……ッ!!」
侯爵は一拍の驚きから凄まじい怒りの気を漂わせた。額にビキビキと青筋が浮かぶ。だが、何が怒りだ。こちらはお前よりずっと強い怒りを、お前よりずっと長い時間抱え続けている。地下室から、攫われたときから、いやそれよりも前から、どれほどの犠牲をこんなくだらない事のために出してきたか。
「僕は、僕は君が……ぃ、ぐ、ヒッ」
叫びかけた男の喉から引き攣った音が漏れた。まるでスイッチが切り替わったように、怒りも情欲も消え失せ、怯えと狼狽だけがその表情に残る。じっと俺を見る目が虚空を彷徨い、最終的には鎧に包まれた手がその目元を覆い隠した。
「いや、違う、そうじゃない……そう、裏切ったなんて、そんなことがあるはずがない」
ブツブツと呟く声にそれまでの勢いや力はない。どこか病的な、死の淵の祈りのような声だ。破滅から目を逸らそうとする者の、必死の祈りだ。
「そうだ、そうだとも、僕は裏切られていない。僕を裏切るはずがないじゃないか。なんだってそんなことを、そんな風に思っては、ダメだ、それは、ダメなんだ。僕の愛は、僕たちの愛は」
「……」
彼はボソボソとしばらく呟き、はっと顔を上げる。今度はその目に怯えと同じだけの罪悪感が見えた。瞳の痙攣は激しさを増しており、それはトワリという男の中で何か恐ろしい事が起きている表れのようでもあった。
「ち、違うんだ。僕は君を疑ってなどいない!本当だとも……ただ、そう、今は外に賊が来ているんだ。君は知らなかったかもしれないが、でも今こんな鬼ごっこをする余裕はないのさ。それで、ちょっと気が立っていてね。大丈夫、大丈夫だから、戻ろう」
止めどなく出てくる彼の言い訳じみた言葉。とうとうここにきて崩壊が極まり、侯爵の人格がバラバラと音を立てて千々に分かれて行く。そんな印象に、斬りかかる寸前の感情を抱えていた俺は逡巡する。それからもう一つ訊ねた。
「……トワリ侯爵、私を連れ戻して、君はどうしたい?」
その質問は明確な答えを期待したものではなかった。ただここまで壊れた頭で何に拘っているのかが分からなかったのだ。これまでトワリという哀れで狂った許されざる錬金術師の執着や軸となるモノをいくつか見てきた。しかし全てに一貫性がない。もはや目的意識すら断片的にしか保てていないのか、それともまだ何かを寄る辺にしているのか。
「……どう……したい……?」
予想より困惑の強い声で復唱するその言葉。まるで口の中に味の分からない食べ物を捻じ込まれたように、自分の中にあるものと質問を照らし合わせるように、もごもごと口を動かしながらも混乱の色を強める。
「それは、まず君を、あるべき場所に連れ帰る。うん、それから、今夜を素敵な夜にして……僕と君の、添い遂げ合う夫婦としての、そう、楽しい、夜に……愛を、愛を確かめ合うんだ……」
また好色な色が困惑の奥底から湧いて出る。生理的な嫌悪感が背中を這い回り、しかし内側に燃え盛る激情に燃やされて消えた。
あるべき場所か……。
「そ、それから」
言葉を探しながら瞳の中の感情が困惑へと沈み、また浮かんでくる。
「ああ、うん、うん……君との子供が、欲しいな……僕は、きっと君より、ずっと長く生きるんだろう……そう、そうだ、そうなるはずだよ。僕は、とても長い、寿命を得たんだ。少し悲しいことに、ね」
奪った寿命だろうにッ!!
困ったことのように寂し気な笑みを浮かべた瞬間、駆け巡る魔力は感情の影響を受けて熱く燃え盛り、それを吸い上げる魔法陣を内側からじりじりと焼く。小さな痛みが腕に走った。
「僕は、きっといい父になれる……僕を、僕をずっと、ずっとあんな目に合わせてきた、トワリの一族と同じになんて、絶対にならない。僕は君が、アクセラが居なくなってからも、きっと、子供たちを守るよ……君の子なら、きっと可愛いはずさ……」
熱に浮かされたような言葉の端々にはまだ見ぬ我が子への愛情がたしかに見え隠れしている。自分がされた痛みを子に受け継がせたくないという想いも、その一点に限って言うならば本当なのだろう。
「そ、それから、それから……」
「……もう、いい」
喜悦を増す彼の声を止める。優しさすらうかがえる夢見心地の表情を浮かべたままトワリは俺を見た。不安も獣欲も罪悪感も消え果てて、現実を一欠片も含まない空虚な家族愛に満ち満ちている笑顔だ。
「もう、わかった」
答えが得られた納得。それが犠牲に釣り合わないものだという、分かり切っていた落胆。あとはほんの少しの憐憫。彼の核は寂しさだ。子供の純粋さに憧れるのも、技術を得て狂気の研究を推し進めるのも、俺に常軌を逸した一方通行の愛を向けるのも、全ては自分が何も持っていないという凍えるような寂しさから来るものなのだ。傷ついた子供たちを多く見てきたエクセルとしての経験が答えをくれた。これを感情だけで、義憤だけで斬るのは……俺のするべきことじゃない。
「君は、可哀想だ」
きっと幼い日の彼は、幼い日のエクセルがそうだったように、人としての己を与えられずに育ってきたのだろう。感情を持つべき器に痛みと苦しみと、そしてどこから来るのかも分からない悲しみだけを入れて生きたのだろう。その責任を彼自身に求めるのは余りにも酷で、必要だったのは偉大な苦難でも退廃的な逃げ道でもなく、ただ抱き止めてくれる誰かの腕だったのだろう。
「かわい、そう……?」
トワリは怪訝そうに眉根を寄せる。彼の浸っていた幸せな虚構からも、きっと頭のどこかで理解しつつも意識に上らぬよう急き止めている現実からも、かけ離れた言葉のせいだ。
「エクセルの守護する奴隷とは、奴隷契約にある者だけ。けれど与えられず、奪われ、踏みにじられ、失意の底で誰かに……あるいは何かに隷属する全ての者が広い意味では奴隷」
スキルが尊ばれる世界でそれを持たない事実に翻弄されるブランク。
人間を至高と捉える帝国に生まれた獣人。
才能と血筋の狭間で苦しみ道を失う貴族。
皆、それぞれに自分の人生のある面で束縛され、ある面で諦め、ある面で頭を垂れる。誰も彼もが何かの奴隷だ。それ自体はきっとある程度仕方がない事で、生きるとはすなわち何かに隷属し、何かを隷属させることなのだ。
「技術は、その可能性を広げる手立て。そうなってほしいと思った。エクセルにとってそうだったから。自分が何に隷属するか、何を隷属させるか、それを自分で変えるための切欠になってほしかった」
そう言う意味でトワリ侯爵という男は確かに奴隷だった。親の奴隷であり、一族の奴隷であり、また己の胸に空いた虚ろな穴の奴隷だった。そんな理不尽から救ってやりたいと、幼い日の彼のような子供を何人俺は引き取って来ただろうか。多くは剣を学び、そうでない子も何か寄る辺を得て、一人の人として旅立っていった。ごくわずかにひっそりと消える道を選んでしまう子もいた。
「けど」
押し黙った侯爵を前に一度深く目を瞑る。脳裏に浮かんでくるのは冒涜的な景色だけ。
「けど、君は……あまりにも道を間違えた」
道を間違えたことを責められるべきだろうか。止められる者がいなかった不幸を咎められるべきだろうか。技術というチャンスを好転の契機とできなかった弱さを罵られるべきだろうか。俺はそうは思わない。それでも間違った先で犯した罪は、自分で償うしか方法がないのだ。償いすらできない場合は……人ですらなくなってしまった「子供」は、ここで止めてやるのが「大人」の責任だ。技術神としての責任だ。
「……アクセラ、君が何を言おうとしているのか、僕にはまったく意味が分からないね。ああ、分からない。分からないが、もうここで悠長に哲学じみが問答をする時間はないんだ」
再び開いた俺の目に映る侯爵は、何かを察したように口調を硬くした。確かに段々と大きくなる爆発音と振動は危機感を煽るものだろうが、きっと彼が身構えた理由は違う。俺の意思が決まったことを悟ったのだ。それが共に歩む道ではないことを含めて。
「そ、そうだ!君だって僕を残して去るのは、きっと気がかりになる。そうだろう?だから僕の求めに応じてくれない!そうなんだろう!?」
大きく見開かれた侯爵の目から涙が溢れて頬を伝う。全ての現実を糊塗するような、縋りつくような、幼い笑みの奥から。俺はその涙を前に首を振る。犠牲者のために胸の中で燃え上がる怒りと同じくらい大きな悲しみを抱きながら。
「違うよ、侯爵」
いっそ優しさすら含んだ声で俺は言う。
「いや、いや、いや!違うはずがない!そんなはずがないじゃないか!」
叫びながら首を大きく振る彼の白目が黒に染まり切った。
「そうだ、君が使徒だから!だから、だから僕の錬金術では君を救えないんだ!だって、だって今は、ほら、悪魔を使っているから!!繋ぎの方に反発して、他人の命を君に注げない、それが問題なんだよ!分かるだろう?でも、そう、そうだ、もっと研究して、悪魔なんて使わなくてもよくなれば!そうか、あァ、使徒をどうにかできるなら!そうすれば君にも長い寿命を、僕と、僕と同じ永遠にも等しい時間を……ッ!!もう少し、もう少しだけ時間が必要だ!もっと、もっと実験をして、もっと、もっと、もっとォッ!」
侯爵は気が狂ったように髪を掴んで頭を抱え込み、早口で自分に言い聞かせるように叫ぶ。ブチブチと青紫の髪が千切れ、そのたびに瞳の奥から溢れるようにサーコートや髪と同じ青紫の光が現れる。生え際から幾筋か、顎へと伝った血は黒々としていた。
「君はさっき、あるべき場所と言った」
あるべき場所とは、とても難しい概念だ。今この瞬間のあるべき場所。人一人の歩みの果てに見えるあるべき場所。一面から見たあるべき場所。他面から見たあるべき場所。人間にとってのあるべき場所は無数にある。
「君のあるべき場所は僕の隣だっ!僕のあるべき場所も!それ以外はないんだっ!嫌なんだ、それ以外は!僕は、僕はもう……」
血を吐くような言葉に、しかし俺はもう一度決然と首を振る。彼があるべき場所を求める資格はもうないのだ。犠牲者たちにもきっとあったはずなのに、それを奪ってしまった彼には。少なくとも俺はそれを許せない。だから突きつける。
「君のあるべき場所は、もうどこにもないよ」
「ッ!」
血と涙でグシャグシャになった顔が絶望に染まる
シャンデリアの光を反射して鍔の兎が目を煌めかせた。
「使徒として、剣士として、そして……君が無垢な目の持ち主だと言ってくれた私として。トワリ侯爵、君の前に立つことが、今の私のあるべき姿だ」
そうして俺は口にした。最後の言葉を。
「私は君を愛さない」
全然終わらないコロナ禍の中、いかがお過ごしでしょうか。
私は最近ようやくコロナ鍋に空目しなくなりました。
さてさて、企画のご連絡です。
最近はすっかりイラストといえばこの方!になりつつある
絵師のぽいぽいプリンさんにお願いし、ハロウィン連続イラストを
描いていただいております。
10月の最初の更新or二回目の更新から連続でヒロインたちの
可愛らしいハロウィンコスをお楽しみください!!
それといつもおお願いです。
読者さんが思う通りの★数で構いません、もうちょっと下にいくと
評価ボタンがあるのでぜひお願いいたします。
~予告~
孤独と恋慕に狂う侯爵だが、
アクセラは怒りと決別を突き付ける。
次回、二の舞 焔刈り




