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十章 第22話 悪魔との約束

「バロン、利き腕は?悪魔にあるのかしらないけど」


 目の前の少女、あるいはその姿を模した存在。満身創痍の中、彼女が藪から棒にしてきた質問がそれであった。人型が標準となる高位悪魔には利き手という概念が確かにある。地上では靄の姿を取るしかない吾輩もまた同じく、とっさに使ってしまう目や耳や腕や足に利き側が存在している。


『……左であるが?』


 人間では珍しいらしいとされる左利きだが、悪魔でも明らかにそうである者は少数派だ。まあ、といっても誰も統計を取ったことなどないからして、貴族時代に見知った者達がなんとなく皆右手でペンを取っていたような……そんな体感レベルでの話になる。

 お姫様は、右利きであるな。

 剣を佩くのが左腰ということは、利き手は右ということになる。少なくともスキルで剣術を使う者は、利き手で剣を握ることが発動姿勢の第一歩のため、利き手の反対腰に剣を纏う。彼女の場合スキル補助なしで戦う技術の使い手であるからして、もしかすると違うのかもしれないが。

 ともあれ、ここから何をするつもりなのであるか……?

 意識が限りなく薄弱になったトランス状態のイーハの目を通して、吾輩は半身に構えるお姫様を観察する。美しい白髪は埃で灰色の斑になって、白いシャツはレースがボロボロにほつれたあげく無数の掠り傷から出血して赤黒くなり、左肩は不自然に腫れ上がっている。痛ましく、哀れがましく、そして満身創痍だ。もとより数日の昏睡に始まり、邪悪な刻印でもって回復を阻害され萎え切った体だ。それを更に徹底した消耗戦で吾輩が苛め抜いた。彼女はもはや立っているすら苦行。そのはずであった。


「ん。じゃあ、右は我慢して」


 彼女はこともなげにそう言った。


『何を言って……』


 意味が分からず問い返そうとした吾輩は己の視界にわずかな違和感を覚えた。それがなんであるか、と考えるより早く状況は急変した。目と鼻の先で視界が突如弾けたのだ。


『!?』


 虚空から溢れた水滴がイーハの体を捉えるよりもなお速く、少女の青い剣(・・・)は吾輩の右腕を斬り飛ばしていた。数メートルは離れていたはずの剣士が数センチの距離に。跳び退ろうとするも、爆発的な加速で追いすがられる。目が合う。真鍮に輝く美しい目。そこには殺意と見まがうほどの闘気とわずかな稚気が籠っていた。視線だけで目から脳まで刃を差し込まれたような恐怖が湧きおこる。それは死の感覚だ。


「ひっ」


『っ……!!』


 喉からか細い悲鳴が漏れる。左腕を引き絞る。鉤爪を黒曜石の輝きが宿るほど研ぎ澄ます。もはや手加減など頭から消えていた。少女の刀が引き戻される。青い輝きに黒い輝きを叩きつけようとして、失った右腕が咄嗟に前へ伸びた。まるで己の体を庇うように。


『なにっ!?』


 意図せぬその動き。依代を失ったままの強引な再生。鉤爪に回す闇がわずかに奪われ、体捌きが崩れ、致命的な硬直に陥る。青い刃は右から左へ迫り、イーハの首の(きわ)をすり抜けた。少女が左腕を掻い潜って後ろへ抜けるのが視界の端に移り込む。ゼロに等しい刹那の硬直から抜けだして振り向きざまに腕を振るうが、こんどはガクンと全身から力が失われた。膝が床石を打ち、前のめりに倒れる。イーハの小さな鼻が重苦しい石に叩き付けられる寸前で後ろに引き戻される。気が付けば吾輩は己の視界でお姫様越しの天井を見上げていた。


「な、何が起きたである……?」


 目まぐるしい変化の中で分かっていることは一つだけ。背後を取られた直後、イーハが失神したこと。長らく生きているが、こんな経験は初めてだった。後手に回ったことがではない。何をされたのか、倒されてなお分からないという状況がだ。


「吾輩は、負けたのであるか……」


 とりあえずもう一つ分かったことを口にだしたとき、思いのほか茫然とした声だったのが我ながら印象的だった。


 ~★~



「ど、どうやったのである?」


「ふぅ……」


 意識を失ったイーハの体から抜け出し、困惑しきった様子で佇む靄の悪魔が尋ねる。俺は抱き止めていた少女を床に降ろし、すとんと尻餅をついて脱力した。肩が痛い。腕が痛い。頭が痛い。足に力が入らない。喉が渇く。満身創痍と言うも烏滸がましい、陸に捨てられた死にかけの魚のような有様だ。


「その剣は、なぜまた紫に!?ど、どういうことであるか!確かに先ほどは青く輝いて……!」


 よほど意外だったのか紳士らしい落ち着きはどこへやら、バロンは悲鳴じみた問いを発する。彼の言う通り、一瞬の攻防の間は青く輝いていた紅兎。今はここ数日の通り紫の光を放っている。心なしか光自体は弱まっているが。


「一時的に、けほ、属性を変えた……けほけほっ、聖だと、イーハに負担があるから」


 悪魔憑きに対する聖属性攻撃は、憑かれている人間へのフィードバックが深刻なダメージになりかねない。それは悪魔と体を融合させている悪魔持ちにとっても同じだろう。つまり下手にバロンへ紅兎を振るえば、それはイーハへの攻撃になってしまう。だからあふれ出る聖属性をどうにかする必要があった。そこで属性の変化である。


「私、属性変化には詳しいから」


 散々リオリー商会のカートリッジ開発と改良で魔力の性質変化は長年研究してきた。国内で五本の指に入る本分野の研究者だと言っても過言ではないはず。触媒さえあれば一瞬だけ刀に宿る膨大な魔力を偽ることも可能だ。


『触媒!?触媒など、どこに!?』


「ナイショ」


『では、ではあの急接近はなんであるか!?目の前がいきなり水面の如く弾けて、お姫様が現れたのである。あんなスキルは聞いたことがないであるぞ!』


 短距離転移を可能とするスキルや道具は非常に希少だが存在する。かつて不死王が使った杖などがソレだ。しかし今回俺がやったことはもっと姑息でみみっちい小手先の技。


「水のレンズを間に作った」


 言いながら口を開けて天を仰ぐ。虚空から少量の水が溢れて乾ききった口腔を満たした。コクコクと少しずつ飲み下して喉の痛みを和らげる。


「喋りながら少しずつ近づいた。レンズの厚みも少しずつ変えて、バロンから遠く見えるようにしながら」


『詰めた分だけ遠く見えるように光を曲げたと言うのであるか!?無茶苦茶である!』


 いや、俺もここまでうまく行くとは思わなかった。手足をほとんど動かさずに前へ移動するという特殊な歩法は紫伝一刀流のある技を会得するために行う、名前すらない単なる練習用の歩法だ。それがこんな形で使えるとは。距離調整は俺から見たバロンが変わらないようにすれば向こうからも同じように見えるはずなので、そこはあまり苦労しなかったが。実際の距離は視界の端に映る砕けた扉の破片などから推測していた。


「刀を後ろに回したのも、このため」


 ズダボロでドロドロの斑模様になっている俺は多少歪んでも気づかれにくいが、真っ直ぐな刀はレンズ越しに見て違和感を与えやすい。それでずっと背に隠していたのだ。あとのスタートダッシュから追いすがりは全部『獣歩』などのスキルによるゴリ押し。おかげで今は足に力が入らない。


「最後に体が変な挙動をした理由。そっちは分かるでしょ?」


 確認するように問えば、当初に比べて少しは落ち着いた様子のバロンが神妙に頷く。


『殺意と紛う程の闘気でイーハを委縮させたであるな』


「正解」


 肉体の制御はバロンがしていても、もともとの持ち主はイーハである。しかも彼女はトランス状態とはいえ意識があり、バロンの方も彼女を決定的に侵食してしまわないよう配慮していた。そこを突いたのだ。


「奴隷の首輪は使役するためのもの。特別に命より優先しろと命じられない限り、死を逃れるための行動をキツくは縛らない」


 当然といえば当然だ。奴隷もタダではないし、高位の魔道具を付ける奴隷となれば一財産。想定外の事態や緊急時に命令を優先して逃げられない、身を守れないなどの状況に陥ればとんだ損失となる。あえて「死んでも遂行しろ」と命じない限り、生き残ることを命令に優先させてもよいのだ。


「イーハは戦闘経験がない。私の殺気は命の危機だと受け取るはず」


 案の定、殺気にあてられたイーハのトランス状態は弱体化し、一時的に意識レベルが高まった。その結果バロンの支配権が揺らぎ、イーハの体を守ろうとする反射的な動作が一部反映されたのだ。二系統の動作命令を受け取った肉体は混乱し、コンマ数秒の硬直となって現れた。


「あとは首の神経を軽く叩いてお仕舞」


『……なるほどである』


 バロンは強大な悪魔だ。それは相対しているだけで分かるし、もし十全に戦える状態であったら俺の全力でもおそらく厳しいだろう。しかし戦闘経験のないイーハの肉体で、十分な主導権も得られないまま、奴隷の首輪や脱出への期待などしがらみに塗れて……あげく慢心していたなら、話は当然変わってくる。というか変えられないほどに俺は弱くない。


「さて、お喋りはこれくらいでいい?」


 種明かしが終わり、困惑と興奮からバロンが脱したのを見計らって本題を切りだす。俺たちの来た通路からガシャガシャと足音が聞こえ始めたのだ。数は少々重なり合って聞き取りづらいが3か4程度。


「予定通り動ける?」


『ああ、あの話であるか……しかし本当に』


「いい」


 何度目か分からない確認。今度ばかりは疑念や懸念からではなく純粋な心配から問い返してくれていることは俺にも分かる。けれど今からまた問答をする気はないし、その余裕もない。


「二か月後の満月の夜、その次の土曜日」


『?』


「王都ユーレン東門の外に林がある。昼前から夕方まで、そこにいる」


『待ち合わせであるか』


 頷く。酷い風邪を引いてさらに拗らせたような悪寒に背筋を支配されながら、通路の先から姿を現した黒い鎧の一団を見つめる。画一的で無機質な4人の騎士たち。いずれも臨戦態勢で剣を手に引っ提げている。


「それ以降、毎月満月の次の土曜日に行く。どうするか決まったら来て欲しい」


 道具を作りなおすため、俺が治療を受けるため、そしてバロンとイーハが話し合うため。そのためのニカ月だ。


『……分かったである。申し出を受け入れるか否かは別として、必ず顔は見せるである』


 靄でできた体を騎士たちに向けながらバロンが頷いた。まるでそれが合図であったように騎士たちが一斉に踏み込む。


「懲りない、ね!」


『インヴェイド』


 紅兎を槍のように振り被って投擲する。兜の目を紫の輝きに貫かれて悪魔は後ろへぶっ倒れた。板金鎧の隙間という隙間から黒い液体が吹き出して悪魔の肉体が崩壊したことを示す。


「ぐ、ぅ、ぎ」


 仲間が惨死したことを意にも介さずブロードソードを掲げる残りの騎士。しかしその中で一番に振り下ろされた剣は、隣を走る僚友の首を刎ね飛ばした。断面からひしゃげた鉄と色の悪い肉、黒い血が弧を描いて散る。体は数歩、たたらを踏んでから床へ突っ伏した。


『インヴェイド』


 バロンがすぐさまもう一度唱える。味方の首を落した騎士がギクリと固まる。最後の一体がぎこちない動作で振り向きざまにその胸を突いたのだ。それだけでは致命傷にならないのかギシギシと軋みながら貫かれた方も動こうとするが、それよりも早くブロードソードが引き抜かれもう一度突き立てられた。もう一度。もう一度。もう一度。胸鎧が細長い穴でグシャグシャになるまで、ナイフでそうするように刺し続ける。


「……」


 足元に油じみた黒い液溜まりができる頃にはしぶとい化け物も事切れ、最後の一体が物言わぬ彫像のようにそれを見下ろしていた。


「乗っ取って、すぐ捨てた?」


「うむ。吾輩も今は弱っているのである。侍女ならまだしも、騎士は一体しか操れぬである。ゆえに効率的に運用しなくてはいけないである」


 人の事は言えないが、結構惨い事をする。そう思いながらえっちらおっちらと最初に倒れた騎士に歩み寄り、墓標のように頭から生えた刀を引き抜く。聖属性の強烈な影響で兜の中身はほとんどなくなっていたらしく、妙に軽い手ごたえだった。


「ん、ふぅ」


 久しぶりに握った刀を重いと感じる。それでも横たわるイーハを見れば、まだまだ踏ん張らなくてはと思えてくるから不思議だ。思えばエクセララができる前はよく同じような感情を覚えていたものだが……。


「では、お言葉に甘えて、逃げさせていただくである」


 どことなく引け目のような物が滲む声でバロンが言う。黒い甲冑がぎこちない動作で屈みイーハを抱きあげた。その危なっかしい動きにハラハラして無意識に手を伸ばしかける。できることはない。そう分かっていてもすぐには下せなかった指先でそっと少女の頬を撫でた。


「これからの道行きに、幸多からんことを」


 誰にともなくそう祈って柔らかな肌を数度なぞる。夜闇の中に隠れるような褐色は軽く押すと押し返してくる。魅惑の感触だ。


「お姫様……いや、アクセラ殿。汝の道行きにも幸の多きことを、吾輩も祈っているのである」


 そう言ってから一度言葉を切った紳士は数秒黙してから付け加えた。


「死んではいけないであるぞ。吾輩も、アクセラ殿なら信じてよいかもしれないと、なんとなく思えるであるからな」


「ん、ありがと」


 最後に小さな微笑みを交わす。騎士が窓際にイーハを運び、俺は壁に寄りかかってずるずると座り込んだ。恭しく供物を捧げるように曇天の窓へ少女の体が掲げられると、金属の柵がドロリと溶けて崩れる。


「色々小技がある」


「この状態でも使えるチンケな魔法であるよ」


 窓の枠に薄い体が宛がわれる。指1本分くらいの余裕しかないが、やはり見立て通り抜けられそうだ。


「じゃあ、気を付けて」


「うむ」


 短いやり取りを合図に騎士は窓の奥へと小さな体を押し込む。壁の厚みに一瞬だけ乗った少女は、最後の一押しを受けて向こう側へ落下した。分かっていても一瞬ヒヤっとしたが、特に音はしなかったのでバロンが上手く軟着陸させたのだろう。


「どう?」


 少し声を大きくして問う。


「いいところに巡回の騎士が来たのである」


 窓を介してくぐもった声が返ってくる。用済みになったからだろう、俺から十分に距離をとって騎士がブロードソードを自分の首に宛がった。そのまま普通の人間には不可能な挙動で剣を動かし、鎧の継ぎ目から上を切除。最後の騎士が膝から崩れたことで部屋の中には4つの死体が転がることとなった。


「都市の壁の方で戦闘音がするである。無理をせず待つのも手であるぞ」


 その報告を最後にバロンの気配が遠のく。外で確保した騎士を使役して逃げ始めたのだろう。イーハの意識が戻ってまた犬笛でも吹かれない限り、これで彼らは逃げおおせるだろう。『完全隠蔽』もしばらくは有効だ。


「……ふぅ…………」


 ようやくの一息を深く深く吐きだす。それからそっと左肩へ指を当てた。触れただけで痛むとか、そういう状況はもう通り過ぎていて、今はひたすら熱を持って腫れていることだけが分かる。


「ん……」


 さて、どうするか。足の方も痛みを通り越してただ怠く重い鉛のような感触を訴えているし、ドロドロのシャツを捲ってみると脇腹は青黒く変色していた。痛みを堪えるために噛み締めすぎて奥歯がぼんやりとした感覚になっている。魔力枯渇と過剰な疲労で熱っぽい。背筋と首のあたりが軽く動かしただけでボキボキ鳴って、骨格や筋にも限界が来ていると察しがついた。


「ぼっろぼろ」


 などと自嘲してみる。肩に溜まった分の血液が循環系から失われているわけで、壁を頼りに立ち上がるだけで酷く頭が痛んだ。しかも内出血に神経が圧迫されているのか指先が分からなくなってきている。


「今、切っても、仕方ない」


 神経を守るためには切り開いて血を抜かなくては行けない。けれど今それをすれば、止血ができないので失血する可能性がある。


「はぁ、ふぅ、とりあえず、行かないと」


 バロンがいなくなった今、自分に語りかける。黙っていると折れてしまいそうだった。刀を引き摺らないようにだけ気を付けて壁伝いに一歩踏み出す。どっちが外かなんてわからないが、適当に横に伸びる通路の片方へ入る。

 戦闘音が予想通りにユーレントハイム王国軍とトワリの手勢がぶつかったものであれば……いや、イマイチ考えが纏まらない。進むしかないか。


「……忘れてた」


 壁を這いながらポケットを探る。取り出したのは細長い金属の筒。庭にわざわざ寄って回収した魔力ポーションだ。植物用だが。


「はぁ、はぁ……ん、く……おぇ」


 人間用に調整されていない魔力ポーションは猛烈に臭く、しかも喉に絡む悪質な不味さだった。魔力の回復効率も悪く、あげくその回復分のほとんどを魔法陣に吸われていくわけだからやっていられない。それでも負担軽減と雀の涙ほどのプラス収支にはなるのだから、バカにはできないのだが。


「うぅ……不味い……おぇ、うっぷ……」


 執拗に留まる味と香りに繰り返しえづきつつ壁を這い続けることしばし。一度たりとも悪魔やキメラに襲われることなく、若干カーブした廊下を延々と進んでいく。まるで追手を撒いたような不思議な感覚に陥るが、そんなはずがない。ここはまだ敵の腹の中なのだ。


「……ああ、いや、そういうことか」


 いつのまにか聞こえなくなっていた気持ちの悪い声。そのことに気づいた俺には、侯爵の意図が分かってしまった。自分で言っておいてなんだが本当に腹の中なんだな、と。


「はぁ、ふぅ」


 肩の傷を無理やりにでも処置すべきだろうか。そう考えてから頭を振る。既に内出血で感覚がおかしくなるほどだ、切れば突然の失血で意識を失いかねない。腕の筋肉が多少ダメになること覚悟で魔法陣まで破壊すれば、治癒魔術で失血前に回復できる可能性もなくはないだろうが……。


「ん、やっぱり、ダメ」


 残り少ない魔力を治癒にあてることはリスクだ。奥の手と切り札を併用すればそこはクリアできるかもしれないが、今度は体力の消耗が限界を超える。そうなれば動けて20分程度。戦うなら10分と持たないはず。短い蝋燭に火を付けるのは、今じゃない。


 そのままトボトボと歩き続けること数分、廊下は突如として大きな部屋に出た。バロンと別れた部屋よりもはるかに広い部屋だ。十分な灯りで満たされており、それまで暗い廊下ばかり歩んできた俺の目は咄嗟に調整できず幻惑される。


「眩しい」


 薄目で慣らしながら見る天井はとても高くシャンデリアが吊るされている。床には赤いカーペットが。右手には3m近くある巨大な扉。左手には広げられた翼の形で左右へ別れて伸びる大きな階段。手前と奥には飾り柱が並び、タペストリーや家紋の描かれた旗がかけられた豪奢な部屋だ。そこは砦であると同時に領主の館である建物の顔、城壁を通ってやって来た者が最初に通されるエントランスホールだった。


「けほ、けほ……変な道、通ったね」


 おそらく正規のルートなら階段の上から居住区に続いているはずだ。こんな隠し通路から出てきたということは、おそらくどこかで遠回りをしている。


「悪趣味な砦」


 道を間違えた俺とバロンが悪いのだが、それでも小さく悪態をつく。それから扉の方を見る。あの大きな扉の外は、城壁を隔てて領都。

 もう、外は直ぐそこ。

 噛み締めるようにそう思いながらも、最後の部屋にたどり着いた喜びはまったく湧かなかった。


「悪趣味というなら」


 ホールの中心から投げかけられたのは抑えきれない怒りで震える声。真っ直ぐに俺へと向けられる憤りと悲しみ。豪奢な空間にポツンと佇む黒の鎧とわずかに紫を含んだ青のサーコートの人物は、激情を平静の仮面に押し込めようとして失敗していた。


「悪趣味というなら、こんな鬼ごっこをしかける君の方が悪趣味じゃないかね。え?アクセラ」


 神経質に震える指先を自分の顔に当てて彼は言う。二振りの巨剣を携えて。


「……」


 目を向ける。逃れきれない感情の澱みが人の形を取って、そこに立っていた。


~予告~

イーハを逃がし満身創痍となったアクセラ

彼女前に黒幕、トワリ侯爵が立ち塞がる。

次回、異端の錬金術師

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