十章 第19話 エクソダス・トワリ★
「イーハの意識がない状態でバロンはどの程度活動できる?」
バロンを誘惑し終えた俺はベッドに腰かけてそう尋ねる。膝には目を覚まして甘えてきたイーハを乗せ、悪魔とは距離を置いている。というか向こうに距離を置かれてしまった。長生きの悪魔といえど使徒転生については知らなかったようだ。
「基本的にはできぬである」
「イーハが起きてないとダメなのです」
くりくりの瞳で見上げてくる少女と靄の紳士が言うには、バロンの力のほとんどはイーハが眠っていると使えなくなる。これは二人の現実における在り方がイーハ寄りだからとのことで、会話したり多少侍女を操ったり以上の事はできないらしい。
「イーハに憑依して操るのも?」
「であるな。乗っ取るならその必要もないのであるが、そうもいかないであるからして」
普通の悪魔の憑依は地上に顕現した悪魔の側に存在の主権とでもいうべき何かがある。だから体さえあれば自由に振る舞える。対して主権が宿主寄りである悪魔持ちのバロンは半分以上が実態を持たない魔力そのものであり、イーハを通して現実に干渉しているのだそうな。イーハとの契約を破棄して暴れると言う選択肢が一応存在しているのは、魔力の魔法化現象と同じで強引に密度を高めて現実側に顕現するから。
存在の主権と地上での顕現率……なるほど、その辺りは憑依の解除に役立つかもしれない情報だ。
「イーハ眠くないのですよ?」
ふとそんなことを言う少女。彼女の頭を撫でて大丈夫だと言う。クセのある髪が指に絡んでは流れる感触。とても気持ちがいい。エレナもそうだが、ストレートよりちょっとウェーブのかかったくらいが撫で心地はいいのだ。
「わふん」
イーハは小さな頭を俺の胸にあずけてくたーっとなる。しばらく俺は彼女の髪と耳を触って楽しみながらどうするべきか考える。警戒しているのはイーハの認識だ。彼女が奴隷である以上、いくら侯爵が無頓着といえどいくつも基本的な命令がなされているはず。その中には自身の脱走を阻む命令や俺の脱出を止める命令も入っていることだろう。そうなってくると眠ったイーハを担いで逃げるのが一番の解決なんだが、あいにく今の俺にはそんなことができる体力はない
「侍女を一人宛てるであるか?」
バロンの力で侍女を乗っ取り、意識のないイーハを運ばせる。それも悪くないかもしれないと思い、しかしすぐに首を横に振る。
「バロンの能力は取っておきたい」
操れる侍女は一人か二人が限度と言うし、それなら移動中の監視をなんとかするために使ってもらうべきだ。
「む、たしかにそうであるな」
俺とバロンが声なく唸る間、暇になったイーハは俺の手で遊び始める。最初は頑張って意見を出そうとしていた彼女だが、まだ幼い集中力は長く持たなかった。情報を意図的に制限しているので考えるにしても限界がすぐ来てしまったのだろう。
「腕のソレはどうするである?」
腕に刻まれたトワリ侯爵の魔法陣。魔力を奪う以外にも追跡という厄介な機能が付いている。無理をすれば破壊はできるだろうが、かなり深い所まで刻み付けられているのが気になった。高位の聖魔法がないと腕がダメになりそうだ。
「『完全隠蔽』で隠す。光以外、全て隠せるスキル」
「上等なスキルであるなぁ……で、どうするである?」
「……ん、仕方ない」
イーハは俺の右手の中に自分の右手を収め、指を絡めてぐいぐいと動かす。その様子を見ながら肩を竦める。
「最後だけ、バロンの能力を頼ろう」
行ける所までイーハと俺が自力で移動し、バロンの能力で監視を誤魔化す。最後の最後、これより先はイーハ自身が脱走だと判断してしまうというラインまで来たら、俺がイーハを気絶させる。バロンが侍女を操って移動し、目が覚める前にバイバイだ。
「雑である」
「夕飯の時に早く寝ると伝える。それで彼はこちらに来ないはず」
実際これまでにトワリ侯爵は夕飯以降で俺を呼び出すことはなかった。疲れたと伝えればすぐに休ませてもくれた。嫌われまいと必死なのだろう。悪いがそこを利用させてもらう。
「……」
「……」
俺とバロンの間で無言のやり取りが生まれる。お互いに不安や懸念はあるのだ。たとえば道中、偶然侯爵に見つかったらどうするのか。たとえばバロンの支配が及ばない数の侍女や騎士が来たらどうするのか。諸々を勘案するに確率が高い脱出だとは言えない。
でも、時間は俺たちの味方じゃない。
侯爵の変調の理由が分かった今、脱出は早い方がいい。これから彼が力を増すほどに難易度は上がり、人格が崩壊するほどに行動が読みづらくなる。俺の状態だって今はまだ疲れやすく、回復が遅い程度で済んでいるが……このまま鍛錬の一つもできないまま時間が過ぎれば刀を振る力もなくなるだろう。
「ベストのタイミングじゃない。けどベターなタイミングは、きっと来ない」
「……そうであるな」
ここは敵の腹の内。最良の状況やローリスクな方法に拘っていては、選択肢が狭まっていくばかりだ。
「わふん、何のお話なのです?」
後頭部を俺の腹にぐりぐりと押し当てながらイーハがこちらを仰ぎ見る。乱れた前髪を整えてやりながら、俺は小さな獣人の少女に微笑みかけた。
「今晩、夜のお散歩にでかけようか」
~★~
「ふっふふーん、ふふ、わふーん、なのです!」
『お姫様』
夕食のあと、侯爵に早く休むと伝えた俺はバロンの力で部屋前の侍女の目を塞ぎ、夜の廊下をやや速足で歩んでいた。服装はレース細工のふんだんに施されたシャツと足首まであるズボン。バロンが回収してくれた冒険者衣装のベルトを巻き、右腰にはベッドシーツを裂いたものでくるんだ紅兎、後ろには屋敷の皆から誕生日に貰った赤い下げ緒を付けている。遠征前の装備品で残ったのはこれだけだ。
「何、バロン」
首筋にさらりとした白髪の感触を覚えながら振り向くと、そこには楽しそうな表情のイーハだけがいる。片手を俺に握られているが、そうでもなければ走り出してしまいそうなテンションの高さだ。やはり普段は部屋でウトウトしている時間帯の外出、子供としては大冒険へ出発するような心持なのだろう。しかし彼女の瞳は薄暗い廊下にあってもそうと分かるほど黄色く染まって薄っすら輝いていた。
『いいのであるか、こんなにも騒いで』
「ん、スキルで隠蔽してある」
通路の端からそっと顔を出し、長く伸びる通路に敵がいないことを確認する。いくつか扉があり、なんとなく中には気配を感じる。侍女や騎士か、あるいは別のなにかがいるらしい。
「行くよ」
さっと飛び出して俺は走り出す。一拍遅れて走り出したイーハが手を振りほどいて加速。道半ばで俺を追い抜き、更に元気よく側転をかまして廊下の端へ着地した。褐色の太股がはためく侍女服のスカートから思いっきり見えたが、本人はまったく気にした様子がない。
『はしたないのである』
「ぶー!ずっとお部屋の中で疲れたのです!お散歩の間は動きたいのです!」
頬を膨らませて文句を言うイーハに追いつき、その頭を撫でてやる。
「バロン、『完全隠蔽』はイーハと私にかけてある。離れても効果は持続するから、大丈夫」
『そう言う問題ではないのである……』
「でもイーハ、内緒のお散歩だからね?」
「あ、は、はいなのです!」
失念していたらしく、慌てて周囲を見回すイーハ。彼女にはこれを運動不足解消のための秘密の散歩だと説明してある。夜更かしはよくないから、誰にも見つからないようにしようとも。今の所順調に進んでいるのは生来の楽観的な性格と、イーハ自身が走り回りたい欲求を溜めこんでいたおかげだ。
「ん、いい子」
もう一度わしわしと頭を撫でて手を繋ぎ直す。それから曲がり角の向うを覗く。正面はまっすぐ続く廊下だが、その横には階段の踊り場があった。肝心の階段は上下両方に続いている。
「正解は下?」
『と思うのであるが』
侍女たちの記憶からある程度の道を知っているバロンだが、さすがに外への経路を完全に把握しているわけではない。侍女からして居住区以外にあまりでないのだから当然だ。しかしそれでも分かることはある。
「砦は普通、中心か上の階に居住区を置く」
『であるな』
「中庭の壁の向こうは防衛施設と言っていた。つまりここは居住区の外周付近」
部屋の窓からの景色が高い位置にあったことを加味すれば、ここら辺で下に降りておきたいところではある。
『しかし随分と古い砦である。改築の結果どうなっているかは流石に予想がつかないのである』
そう、それが問題なのだ。砦には上の階に行くために一度下の階を経由する場合や、折り返しを三度挟んでからでないと進めない場所など厄介なルートが山ほどある。
「ん、誰かくる……侍女が一人」
『任せるのである』
「お任せなのです!」
青白い顔の侍女が上の階段から下りてきた。二心胴体の二人は角を出てそのまま侍女へと近づいて行く。『完全隠蔽』がかかっていても姿は見えるはずだが、特に侍女が反応を示す様子はない。ただ楚々とした足取りで道を進むだけだ。
『インヴェイド』
すれ違う瞬間、小さくバロンが呟いた。同時にイーハの首輪を覆い隠しているマフラーが黒く染まる。巨大な鉤爪を備える腕に変貌したマフラーは侍女の頭をがっしりと掴み、反応を返す間も与えず薄く二度光った。それだけで侍女はピタリと動きを止める。
「ん、合図」
来い来いと鉤爪で合図されたので走り寄る。侍女は俺のことを見ても、見えていないように直立したままだ。現状、彼女の視界も記憶もバロンが制御している。
「この人はどうするのです?」
『吾輩が支配できるのは、この状況だと二体が限度である。今はコレと寝室前の一体であるからして、できるだけ早くコレを解放しなくてはならないである』
なので廊下を過ぎたところまで移動させたら解除するとバロンは言う。なんでも既に二体支配した状態で三体目を支配すると、先に支配していた一体が解放されてしまうのだとか。
『解放されても彼らは違和感を報告したりはしないであろうが、元から受けていた命令に戻るであろう。寝室前の個体を解放してしまうと、すぐにお姫様がいないこともバレてしまうである。アレの仕事には監視も含まれているであるからな』
「ん、お散歩は強制終了」
「がーん、なのです!」
イーハは頬っぺたを手で下へ引っ張ってオーバーなリアクションをする。マフラーの腕が傷つけないように頭頂部を撫でた。
『さて、解放するまえにであるな……うむ、下でよいようである。行け』
記憶からルートの確認をしたのち、バロンは目の前の侍女に命令をする。死体のような青白い肌の彼女は何事もないように廊下を進み始め、俺たちは階段へ足をかけた。
「あっ」
「きゃっ!」
『む!』
三歩目で階段を踏み外した俺。すかさずバロンの鉤爪が受け止めてくれる。
「ありがと」
なんだかんだ走ったりはしているが、それでもまだ体力は全然戻っていない。萎えた足も既に筋肉がヒクヒクとしている。
『階段を下りきるまで吾輩が持つのである』
「……助かる」
限界を見誤るとただでさえ難しい脱出行がより難しくなる。そう判断して素直に頷いた。巨大な手に掴まれたまま階段を下りて行く。どうなっているのか、俺の体重はマフラーにとって唯一の支えであるイーハに全くかかっていないように見える。あるいは強烈な身体強化で耐えているのかもしれないが。
『下すであるよ』
踊り場を挟んで2階分降りたあたりで幅広の廊下に出た。身を隠せるくらいの大きさの飾り柱が等間隔で壁に作られたそこは、おそらく居住空間とそうでないエリアを区切るものだろう。防衛戦の際に守る側が有利になるよう、兵を潜ませておける遮蔽物を設けてあるのがその証拠だ。
「ん」
そっと下してもらって俺は自分の足で立つ。一歩目はまたぐらりと来たが、それでもちゃんと二歩目は耐えた。今日は庭や地下に行って随分と歩き回った分、思った以上に疲労が溜まっているらしい。
「ん」
『ム』
状況は俺の体力に合わせて待ってはくれない。俺たちは気配を感じて足を止める。飾り柱の通路を進んだ突き当りの右側から、ほどなくガシャガシャと足音が聞こえてきた。侍女ではなく騎士だ。
『足音は……2であるか。先ほどの侍女はもう解放したであるから、片方はなんとかなるであるが』
「倒すのは不味い?」
「倒しちゃうのです!?」
驚くイーハ。しかし彼女にはバロンがしっかり言い含めている。侍女も騎士もそういうもので、生き物でない以上は気遣わなくてよいと。
「大丈夫、あれはコップや花瓶と同じ。痛がったりしない」
「う、うぅー……」
「きっと侯爵も怒らない」
実際、怒らないとは思う。脱走の方は別として。
『しかし微妙なところであるな。侯爵は侍女タイプの行動を細かく管理してないであるが、さすがに警備が倒されれば分かるようにしていそうである』
「ん、さすがにね」
「こっそりお散歩、おしまいなのです?」
「そうならないようにしないとね」
とりあえず柱の陰に隠れて音に集中する。このまま通り過ぎてくれればそれが一番いいが。
『ただまあ、同じくらい全て自動にしている可能性もありそうであるが』
「可能性は……判断材料がなさすぎてトントン?」
『何の役にも立たない机上の確率論で言うなら、そうであるな。半々の確率である』
どちらの可能性が侯爵らしいかなんてこと、俺もバロンもわからない。貴族としての教養はしっかりしているし、当たり前のことは当たり前に手堅く固めるタイプだと言われても違和感はない。一方で常識がなく自分の興味が湧く範囲にしか思いつきレベル以上のことしないタイプだと言われてもしっくりくる。魔獣の運用を見ていると後者の可能性がやや強いか?
「オススメは?」
『そうであるなぁ』
廊下の端から姿を見せた黒い全身鎧の二体をちらっと確認しながら訪ねる。
アレを両方支配すると俺の部屋の前にいる侍女が解放され、すぐさま確実に脱走がバレる。ただ自室からいなくなったということしか分からないはずなので、捜索対象エリアは砦全域となり穴ができやすくなるだろう。
対してここで騎士を始末した場合、バレる可能性があると同時にバレない可能性も存在している。ただ今度はもしバレたときに最新の居場所を掴まれてしまうという大きすぎるデメリットがある。
『難しいであるが……うむ?』
何事かを言おうとしたバロンが首をかしげる。ざわりざわりと形を変える靄の手がそっと上を指さした。
『アレを使ってみるのはどうであるか?』
見上げるとそこには、今身を隠している飾り柱の一部としてちょっとした装飾が施されていた。装飾といっても要塞の一部、すぐ取れて来そうな金細工などではない。柱の石材と同じ対魔法力に優れた濃灰色の彫刻だ。
「あれに掴まる?」
『全身鎧の視野は狭いのである。悪魔の感覚を使って探索しているであろうが、あれはお姫様のスキルに滅法弱いであるからな』
なるほど、バロンの言う通りだ。目に頼らない感覚で周囲を把握しているタイプにとって『完全隠蔽』は最強のスキルかもしれない。
「わたしとイーハ、二人支えられる?」
『造作もない事である』
それだけ言うとバロンはマフラーを変異させた腕の片方で俺を抱き上げ、もう一方で装飾を握り込む。
いや結構伸びるな、マフラーなのに。
俺のしょうもない驚きを他所に、がっちりとホールドしたまま片腕が縮んでいく。すると俺たちは巻き上げられるように天井へと持ち上げられ、あっという間に3m近い高さへ至って停止した。
「わ、わ、わ」
急に足元の地面が消えたのでイーハが小さな足をばたつかせている。落ち着かせるようにバロンの腕の中で姿勢を変えて彼女を抱きしめる。獣人の多くは足が大地から離れるのを感覚的に嫌う。抱きしめてしっかり足腰を支えてやる。すると一瞬身を固くした彼女はじっと至近距離でこちらを見つめ始めた。それから手を伸ばして頬を触りだす。
「もちもちなのです」
ペタペタと触れる手の高い体温としっとりした肌が実に子供らしい。
「むにむに」
彼女は俺の頬を抓んでひっぱる。大した力ではないので痛くはない。お返しに同じくらいの強さで頬を抓んでやる。なんとも気の抜けたものだ。
『しまらんであるなぁ』
「息が詰まるよりマシ」
『それはそうであるが……下に来るであるぞ』
呆れ声を途中で引き締めてバロンが言う。俺とイーハは揃って身を乗り出して足元を見た。黒い甲冑が揃った足並みで下を通りすぎ、踊り場へ至り、止まることなく上の階へと昇って行った。
「行ったのです?」
「行った、ね」
足音が聞こえなくなったところで地面に降りる。イーハは数度床をぐりぐりと踏み付けて感触を馴染ませた。まるで残った浮遊感を踏みつぶすような動作だった。
「光魔法のありがたみが身に染みる」
インビジブルと『完全隠蔽』の組み合わせは本当に便利だったなとしみじみ思い返す。
『さて、ここからは脱……お散歩の第二パートである。騎士が増えるであるから気を付けるであるよ?』
「ん。任せておいて」
「まかせてなのです!」
居住区と防衛施設を隔てる廊下にて、俺とバロンはお互いに頷きあう。イーハはすっかり隠れ鬼の気分だ。
「きっと、そう時間はない」
「お姫さま、おねむなのです?」
首を傾げる少女の頭を無言で撫でてやる。当然眠くなどない。だがこんな綱渡りの脱出行、いつまでも続くものではない。差し当たってのタイムリミットはイーハが散歩という言い訳に違和感を覚えるまでだろう。
「ん、行こう」
『うむである』
「うむ!なのです!」
状況が大きく動いたのは、それから1時間もしないうちであった。
~★~
「どうしてだ!!!!」
抑えきれない感情に突き動かされ、僕は腕を振り払う。手が当たった水差しの魔道具は弾け飛んで壁を叩いた。足元を飛び散る水が濡らす。その湿った感触に少しだけ冷静さを取り戻した。まだ戦闘用の脳が馴染み切っていないのか、どうにも手が出てしまう。
「いや、いや、いや、これは、僕が悪いのかい?」
深夜、僕は愛する妻の部屋を訪れた。目的は単純だ。地下室で僕を受け入れてくれたあのあたたかな笑顔。それを今日こそ自分のものにするために。
「誰がいったい、怒りを抑えられるというんだね、こんな、こんなァ!!」
意識を向けるだけで腹からも胸からも手足からも怒りが吹き出す。我が秘術をもって作り変えた筋肉がギシギシと軋む。今すぐに何かを叩き切りたい欲求が湧きだす。どうしても抑えられなくなった僕はベッドを蹴った。たった一撃で頑丈なはずの土台が割れ、天蓋と繋がる柱が折れ、猫足が床板に穴をあけた。
アクセラが快適に眠りに落ちれるよう香木の削り出しで設えたベッド。
アクセラの体を気遣ってレベル9スキル持ちの職人に作らせた柔らかなマットレス。
アクセラの肌を傷つけないよう異国から取り寄せた雪絹のシーツ。
アクセラの体格から最適な高さになるよう十五回作り直させた枕。
掛け布団も、ベッドカバーも、天蓋から垂れる紗のカーテンも、全てアクセラのためを思って数年かけて用意した最高級の品ばかり。だがその上に彼女はおらず、それどころかどこにいるか皆目見当もつかない。
「僕は、僕は裏切られたのか……?」
彼女が何不自由なく生きていけるように、ベッド以外も全て僕が手ずから整えた彼女のためだけの部屋。そこに彼女は今、いないのだ。気に入るだろうと思って与えた小さな従者だけを連れて失踪した。扉前に置いていた侍女は僕が近寄っても、話しかけても、あるいは横を過ぎて部屋に入っても反応しなかった。これはあの従者に憑いている悪魔の仕業に違いない。
「どっちだ、どっちなんだ!あの悪魔が僕の妻を浚ったのか?それとも、本当に……いや、いやいや、いやいやいや、そんなことがあるわけない!あるわけないじゃないかっ!彼女が僕を置いて行くなんて、そんな、意味が分からない!!」
確かにこの城へ来た当初、彼女と僕は打ち解けていたとは言い難い。それは仕方のない事だ。だってそうじゃないか。僕は彼女を5年1か月24日も知っているのに、彼女は僕のことを1日未満しか知らない。だがそれでも、そう、彼女は僕のことを知ろうとしてくれた。ピアノを聞いてくれた。庭を見てくれた。研究も、僕の最も大切にしているアクセラへの愛の次に重要な研究のことも見てくれた。そして受け入れてくれたのだ。
「そうさ。ディナーのときだって、そう、先に寝ていると言っていたじゃないか。先に寝ていると。僕は、僕はそれに後から行くからねと、言った……?いや、言っていなかっただろうか?言っていない?僕は何と答えた?」
混乱しそうになる頭を抑える。ずくずくと奥が痛む。研究を進めて行くうちに生じるようになったこの鬱陶しい痛み……そう、研究だ。研究。僕の研究。僕は崇高なる技術をこの国で誰よりも深く理解し、実践している敬虔な男だ。そして彼女は技術を司る神の使徒。この国に僕以上ふさわしい男がいるだろうか。いるはずがない。いてはいけない。
「それに彼女は研究を褒めてくれた。その要訣がどこにあるかなど全てお見通しといった様子でね!そうだとも、そうだとも!僕の研究を前にして罵詈雑言を吐いた騎士団長や無学な冒険者とは根本的に違うと思わされたね!!彼女は一言も僕の作品にケチは…………一言も?」
おかしい。なにかおかしい。恋に舞い上がる僕の中で研究者の僕が言う。僕の素晴らしい研究は、善なる神を信奉する彼女が苦言一つなしに受け入れるものだろうか。いや、それを言うならば違和感はもっと別のところにもある。あのサバサバとして媚びる所のない高潔な少女が、まるで指先で焦らすように僕の期待を高め、あまつさえ淫靡な声で甘い言葉を囁くだろうか。おかしい。おかしい。おかしい。
担がれた?
その想像が脳裏をかすめた瞬間、僕の体は内側から開いた。ベッドが、天蓋が、サイドテーブルが、砕けて壁に叩き付けられる。その轟音は瞬間的に白で染められた僕の意識を強引に現実へと戻す。現実へと。
「そ、そんなわけがないじゃないか、そんなわけが、ない!そうだろう!?だって彼女も言っていた!愛は信じて育むものだと!そう、えっと、誰だったかな、もう、ああ、忘れたけれど……たしかにこの耳で聞いた!素晴らしい言葉だ。至言だよ、至言」
ガタガタと震える手で腕を抑える。脳裏に浮かぶ幻影。その言葉を僕にくれたのは、そう、狩人の恋人だ。それはつまり、誰だ?揺らぐ視界と頭の奥の痛みに耐える。
「そうだ。僕の不信心、僕の愛を僕が疑うようなことは、いくら僕でも許されない。そうさ。ひ、ひひ、ふ、ふは……」
そうだ。こんなに不安になるのは彼女に対して遠慮する気持ちがあるからだ。好きあう者同士が共に暮らすと言うのに躊躇い、遠慮し、距離を置くのはむしろ失礼だろう。きっと部屋にいないのは何かの間違いだ。探しに行ってあげないと。見つけたら動けなくして連れて帰ろう。それで僕の想いを君に教えて上げよう。まだ早いかもしれないが、一つになろう。朝日が昇るまで愛し合おう。繋がり、溶け合い、混じり合うのはきっとトテモキモチイイ。
「僕が、教えて、あげるよ」
そうすれば、きっとこの飢えも、渇きも、妙な寂しさも、全部消えてくれるはずだから。




