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十章 第8話 過日ありて、今★

「あまり甘いものは好きではないかな?」


 衝撃的な告白と悪魔との約束から一夜あけ、俺は再び茶会に呼ばれていた。今度はピアノ演奏なしで侯爵も俺と同じ食卓に着いている。皿の上にはマーブル模様のケーキ。蜂蜜の小壺があるのでそれをかけて食べるお菓子だ。スプーンでそっと黄金色の液体をとってケーキに垂らす所作は、流石に育ちがいいので変態のくせに腹が立つくらい優雅。スプーンを摘まむ指の加減すら気品を感じさせる。悪神の力を使っていることやあの大量の魔物をけしかけてきたこと、それから俺を拉致した上で一目惚れだと告白してくる精神の異常性に目を瞑れば比較的まともな貴族だ。

 いや、目を瞑るにも限界があるだろ……。

 そう思いながら俺の意識は半分以上その手に向けられている。なにせ白く嫋やかだと感じた指が、今日は少し骨太な印象に変わっているのだ。いや、印象が違うというより指そのものが記憶にあるそれと違っているのか?


「おや、調子が悪いのかな、アクセラ?」


「……ん、甘いものは嫌いじゃない。でも量はいらない」


 辺り障りのない返事をしてとりあえず視線を侯爵の顔に戻す。


「なるほど。そうなれば昼はもう少ししっかりしたものを用意しよう。リクエストはあるかい?」


 優し気な笑みで訪ねる長テーブルの反対に座ったノッポ。こけた頬を歪めて待つ彼に俺は少し考えてから素直に食べたい物を告げる。


「……フラメル貝が食べたい」


「フラメル貝か、分かったよ。手配しておこう」


 本当に貝が食べたい気分とか、そういうことではない。ただフラメル川に固有で生息する大粒の淡水貝類、フラメル貝は滋養強壮の効果を持つ。そういう食材は微量ながら魔力回復能にも優れている。なけなしの抵抗、というよりギリギリのラインで回している魔力生産に少しの余裕を作るための努力だ。


「昨日の話は、あれから少しでも考えてもらえただろうか?」


「……」


 ほら、きたぞ。内臓が全てぎゅっと収縮するような不快感が襲いかかってくる。だがここでそれを丸出しにして突っ撥ねればどうなるか。イマイチ、トワリ侯爵という男が掴めないのもあって対処しにくいところがあった。

 話を逸らすか……どうせ聞きたいこともあるし。

 同じ不快感でも告白そのものに対してではなく、俺に施されたとある処置について。それなら侯爵も一定の理解を示したうえで情報を出してくれるだろう。今まで見せてきた、少なくとも表面的には理性的な態度から判断し、眉を寄せてみせる。


「トワリ家では婚約者に刻印を刻むのが伝統?随分いい趣味」


 吐き捨てるように言ってやると、案の定、彼は困ったように笑むだけで激高する様子は見せなかった。


「すまないね。本当に、すまないと思っているんだ」


「これ、何?」


 俺は最初の茶会で頼んだ通り支給された、着やすく動きやすいドレスシャツのカフスボタンを全てはずす。それから袖を肘までまくり上げてこれ見よがしに左腕を見せてやった。白い肌にはいくつか幼少期についた傷以外に、威圧的な文様が刻みつけられていた。


「これ、肌に融合してる。簡単には取れないもの。違う?」


「いや、その通りさ」


 黒い縁取りを持つ真っ赤な太い線。鋭角的な曲線と図形で構成されたそれは、魔法陣を分解して腕に巻きつけたようなデザインだ。いや、事実そうした由来のあるものなのだろう。昨日ドレスに着替えたときは読み解けなかったそれも、なんとなくの効果が分かる程度には解読できてきている。


「魔力の吸収と拡散?あとは位置の把握だね。それに何か、周囲に影響する魔法が組まれてる」


 左腕の線を右の指で撫ぜながら言えば侯爵は驚いたように目を見開いてから、満足げにパチパチと手を叩いて見せた。一々癪に障るやつだ。


「さすがは技術神の使徒といったところだ、素晴らしいよアクセラ」


「……」


「そう、君の言う通りその陣は魔力を体から吸い上げ、周囲に散らしてしまう。本来は魔力の多すぎる素材に用いる『錬金術』の陣だがね」


 また錬金術か。あの赤い角の魔物もキメラだったな。


「周囲への影響は拡散した魔力の支配と、ふふ、秘密だよ。これは僕の家に伝わる特別な陣の一種だから分からなくても仕方がないね」


「家が伝えてきた錬金術用の魔法陣……トワリ家はもともと術師の家系?」


 俺が首を傾げると侯爵は更に笑みを深めた。そして大きく数度頷いてから自らも袖を肘までまくり上げて見せる。そこには青い模様が俺の腕に刻まれている数倍の密度で彫り込まれていた。


「こうして体に文様を刻みつけて伝えている、忌々しい一族でね」


 疲れ切ったように己の家名をせせら笑う侯爵。なるほど、選ばれた一族だと誇大妄想を膨らませていたのだと彼は言っていたが、これがその結果か。


「知っているかもしれないが、体の表面に刻んだ文様というのは成長とともに歪むのさ。だから成人を待って刻むわけだが、それでも15歳から体形は刻一刻と変わっていく」


 成人を迎えたばかりの子供にあの量の文様を刻み付ける。入れ墨ではない別の方法、おそらくは彼らの持つ『錬金術』系のスキルによって行っているのだろう。だがその前置きからして、だから苦痛を伴わないということはないようだ。


「それを抑え込むためにはどうすればいいと思うね?」


「体に刻むのを止めればいい」


 即答するとトワリ侯爵はもう一度笑った。


「ふふ、ふはは!その通り、その通りだ。それが当たり前のことだね。けれど一族は本当に馬鹿でねぇ、文様に合わせて成長を歪めることにしたんだ」


 刻み付けた模様が成長とともに崩れないように体の成長をコントロールする術式をあらかじめ組み込んでおく。それは応用という意味ではテイマーなど別分野から技を持ちこんだ、エクセル以前の技術の萌芽の一つなのかもしれない。だがあまりに歪すぎる。そんなことをするくらいなら紙でも人形でも用意して描けばいいだろうに。


「模様のある部分は均等に成長し、そうでない部分は過剰に成長する。おかげで背ばかり伸びてまったく筋肉がつかない、みっともない体さ。まあ、もう関係ない事だがね」


 見た目がどうこう以前に成長を矯正するなんて激痛を伴うはずだ。侯爵が子供に対して純粋でいて泥のように濁った憧憬を向けるのは、彼自身は政治的なしがらみや純粋無垢さからだと言うが、よっぽどこっちの経験の方が大きな割合を占めていそうだ。


「もちろん君に刻んだ文様は、先ほど説明した通りの効果を持っているが、それ以外はいたって影響の少ないものだよ。そもそも僕ほど緻密に無数の陣を描いたりしなければそんな配慮は必要ない。君なら知っているだろうがね?」


 俺が内心でわずかな同情を抱いているとは知らぬまま、侯爵は得意げにそう言って意味深な視線を投げかけてくる。その視線の意図を俺は確かに理解している。


「……やっぱり、魔術回路の技術?」


「その通り!」


 侯爵の声が上ずる。椅子からわずかに腰を浮かして目を見開き、青い模様の入った腕に筋を浮かばせる。


「もちろん気づいてくれるだろうと思っていたが、それでも驚かざるを得ない!どこで気づいたんだい?」


 昨日のピアノといい、こいつは普段がまともっぽいのに好きな事が絡んだ瞬間ネジが全部外れるらしい。目をかっ広げてまくし立てる侯爵になんとなくそのことを理解する。


「追跡用の式、ここだけ魔法陣じゃない。これ、エクセララの犯罪者に使う追跡魔術回路のもの」


 自分の腕の模様を所々指さして言うと彼はバンと机を叩いて天へと吼えた。


「そう!その通り!その通りだ!さすがはエクセル神の使徒だけあって素晴らしく詳しい!!ああ、そうだとも、そこは手に入れた魔術回路をそのまま参考に取り込ませてもらったんだ……これが僕の研究にブレイクスルーを引き起こしたと言っても過言ではない!」


 彼はそれから語ってみせた。ブレイクスルーとやらがどう作用してあのキメラが、あるいはより高等なキメラ理論が、そしてその実物ができあがったのかを。発想力は確かにある。頭も回る。それは面白いと思う部分もあるプレゼンテーションであった。俺をストーキングしていた間に身に付けた技術は評価に値する結果を伴ったものだ。


「……」


 だからって、なんでこう、もう少しマトモなことのために技術を使ってくれないかな。

 良からぬことを企むやつばかり技術を修めている気がするのはなぜだろうか。やはり大抵の事はスキルで問題ないからか。スキルでできないことをしようと思い立つのはその社会構造に組み込まれていない者だけということか。

 ……まあ、俺だって当時の社会構造からすればそういう連中の側だったわけだしな。


「ふ、ふふ、ふはは!どうだい、僕の研究も捨てたものではないだろう?技術というのは本当に、勉強してみると楽しいものだ。初めて魔法とスキルを行使するのが楽しくて仕方ないという気持ちを味わったよ!」


 まさしく俺が経験してほしい興奮、それをよりによって異端者が俺を攫うために使って覚えているというこの状況に何とも言えない脱力感が湧いて来る。


「どうやってそれほどの知識を……?」


「言っただろう?僕にも伝手はあるのさ。いくつも本を入手してね。もし読みたければ書斎に案内しよう」


 この提案だけは、情報代にしても大きな疲労と心的負担を被るこのお茶会にあって、純粋に嬉しい情報だった。ただし本を読んで伝手を辿った程度で手に入るほど魔術回路の情報は安くないことを踏まえると、やはり探らなくてはいけない問題が増えただけかもしれない。


「ん。で、この刻印、いつまで着けさせておくつもり?」


「一応このままずっと、というつもりだが?」


 いけしゃあしゃあと。


「魔法が使えれば君はいとも簡単にこの砦を去ってしまうだろう?そうすると僕は君を愛せないからね」


 もう突っ込む気力が湧いてこないほど滅茶苦茶なことを言われている気がする。


「……疲れてきた」


 幸いと言うべきか、そう素直に伝えれば彼は恥ずかしそうに頭を掻いて謝ってみせる。


「ああ、すまない。体力も戻りが遅くなってしまっているのだったね。僕としたことがついつい熱が入ってしまった。もし体内の魔術回路と干渉するようなら言ってくれれば調整を行おう」


 まるで心から心配するかのような言葉に俺は奥歯を噛み締めながら席を立つ。どうでもいいが、調整じゃなくて除去を頼みたいものだ。


 ~★~


「ふむ、これくらいであるな」


「ふむ、なのです」


 一仕事終えた吾輩と終えた気になっているイーハ。我々は新たな主として定められたお姫様、あの使徒の少女の部屋にいる。テーブルの上には抜身の剣、細長い組紐、ベルト数本などが置かれているのだが、それは全てお姫様の持ち物だった。


「まったく、想像以上の重労働だったのである」


 戦闘中に攫われてきたお姫様の持ち物は当然のように少なかったが、運搬には細心の注意を払う必要があった。特に剣だ。あれは聞いていたより断然危険なシロモノだった。


「綺麗な刀なのです。もう一度触ったらダメなのです?」


「駄目である。イーハはおっちょこちょいなので、怪我をするのである」


「そ、そんなことないのです!」


 憤慨したように頭上の吾輩目がけて手をぶんぶんと振るイーハ。確かに彼女はおっちょこちょいだが、さすがに刃物を無暗に振り回して怪我をするほどの馬鹿ではない。ただ問題は剣そのものの方にある。

 確かに美しいであるが、お姫様の言っていた剣はたしか銀色だったはずである。

 西の砂漠産の剣で、赤ミスリルを配合した結果として魔力を通せば紅色に輝くという。紅兎という銘の通り鍔にはウサギの透かし彫りがしてある。ただし聞いていた話と一致するのは片刃で美しい反りがあること、成人男性には短い刃渡りであること、そしてその鍔の模様だけ。銀であるはずの部分は眩い紫に色づいていた。

 強すぎる聖属性を流し込まれてミスリルが変質したのであろうか。見たことがない現象である。


「凄まじいほど聖なる力が満ちているのである。美しいであるが、同時に恐ろしくもあるのであるな」


「怖いのです?」


 きょとんとした顔で吾輩を見上げる獣人の少女。悪魔持ち(デュアルハート)であるイーハは悪魔憑き(ポゼッション)と違い、精神において吾輩と融合していない。そのためこれだけの清浄な魔力を浴びてもむしろ心地いいくらいで害など受けないのだが、それだけに吾輩がどれほどの危機を感じ取っているか分からないのだ。マフラーを使って巨大で凶悪な掌を作り、それの真ん中あたりでぐしゃぐしゃと頭を撫でてやる。


「わふん!なにをするのですか!?」


「減らず口を叩く子はこうなのである」


「ちょ、止めるのです!お姫様が返ってきたらイーハぐしゃぐしゃなのイヤなのです!」


 一丁前に髪の乱れを気にするイーハというのは新鮮なものがあった。彼女は権力者の庇護がないという意味では過酷だが、農作物はしっかりとれる比較的安定した村に生まれ、そして最年少の子供として大人たちにひどく可愛がられて育ってきた。奴隷になってからはもっぱら吾輩としか会話をしていないせいで、余計に幼さは拍車がかかってしまっていたようにも思う。それがあのお姫様に会ってから、少しだけ身だしなみに気を使うようになったのだ。まだお姫様の意識が戻ってからは二日の付き合いだが、その変化は著しかった。


「新しい服でも、あのお姫様経由で強請ってみるのもありであるな」


「何か言ったのです?」


「いや、なにも言ってないであるよ」


 たしかに神秘的な紫の目と白髪のお姫様は大変な美少女と言ってよく、そんな彼女の前に立つと襟を正さなければいけないような気になる。その感覚が垢抜けないというより幼稚な少女に自己を顧みるよう促しているのだ。面白い。

 シティガールになる道もイーハにはあるのであるな。

 ふとそんなことを思う。ついついお姫様には話しすぎた気もするが、吾輩がイーハを心配して過保護に接しているのは事実だ。天真爛漫な彼女の性質は愛おしいが、それだけで生きていけるほど平原も森も荒野も優しくはない。力を付けなければ自由村落で暮らしていくことはできないし、吾輩の助けなくしては奴隷商たちから身を守ることもできない。

 もし、もしも、イーハを町娘にしてやれるのなら……その方がいいのである。

 ふと思い出すのは黒く長い髪をした、お転婆そうな釣り目がちな少女の笑顔。同じ色の耳と尾をした獣人たちに囲まれ、楽しそうに馬の世話をしている横顔。人の中で生まれ、人の中で生きた女のことだ。彼女の最後は幸せな物ではなかったが、その生涯は幸せに満ちていたと断言できる。


「……」


「考え事なのです?」


「ちょっと、なのである」


 吾輩がイーハと共にあるからこそ、彼女はなんとか今まで生きてこれた。それは奴隷狩りにあってから一貫して吾輩が感じていることで、きっと自惚れではないと思う。しかし同時に吾輩がいるからこそ彼女は結界の中で生きていけないのも本当で……。もしあの使徒が本当に音に聞こえるエクセル神の奴隷や獣人を保護するという思想を守っているのなら、自分が消えて彼女にイーハを託すという選択肢もナシではない。そう思う程度には思考が渦巻いているのである、今の吾輩は。


「……イーハ、あのお姫様は好きであるか?」


 訊ねてみると彼女はナイフのように鋭利な巨手の指の合間からこちらを見上げてにっこり笑む。


「好きなのです。お姫様はいい人の匂いがするのです。それになでなでが上手なのです!」


 このいい人の匂いだとか悪い人の匂いだとかいう表現はイーハの一族が持つ独特のセンスだ。彼女の母もそうであったし、そのまた母もそうであった。だが私はその精度に一定の信頼を置きつつもある一点で疑わしいと思っている。彼女たちは揃って吾輩を、血塗られた悪魔を底抜けにいい人の匂いがするなどと言うのだ。人間限定で精度がいいのか、それとも他のケースがたまたま当たっているだけでテキトウなのか。


「でも、バロンも大好きなのですよ?」


「……イーハ」


 にぱっと人好きのする笑みを浮かべるイーハは、こうしてときどき不意打ちをしてくるから侮れない。そう、あの娘もそうであった。ここにはない香りを感じる。トマトを丁寧に煮込む湯気の香りだ。

 未練、であるな。


 ~★~


 バロンがイーハの母に出会ったのは、かれこれ40年近くも前の冬のことであった。当時のバロンは爵位と領地を失い、当てもない旅を延々と繰り返し、それにも飽きていくつか縛りのようなものを設けた旅程を歩んでいた。具体的には影移動など便利な手段は使わず、拾い物の死体を依代に人間らしいことをするというものだ。


「旅人さん、死んでる?」


 それがイーハの母、メランナ=ジンナがバロンを見つけたときの第一声であった。間違ってはいない。憑依しているのは完全に死んで魂の抜けた死体だ。だがバロンがということならまったくもって死んではいなかったが、行き倒れというものを経験している最中だった。


「あ、生きてる」


 目が動くのを見てメランナは村へ大人を呼びに行った。馬や羊の飼育と麦畑を糧とする小さな村であった。それから冒険者風の格好をしていたバロンは害獣の駆逐を宿代に食事と寝床を世話してもらった。メランナの母が作るトマトスープは素朴だったがバロンの舌に合い、彼の戦闘力は自警団しかない自由村落では重宝された。

 メランナは村長の孫娘であり、比較的珍しい長毛の犬系獣人で構成された村全体にとって娘のような存在であった。好奇心旺盛な姿は今のイーハに通じる物があったが、若きメランナは娘よりはるかにお転婆でもあった。馬の扱いにも長けていた。日々バロンの旅の話をせがみ、鍛錬と称して彼の脛を蹴飛ばすような少女だった。


「アンタは底抜けにいい人の匂いがするね。ちと香水をつけすぎてるけどね」


 そうして過ごすこと半年ばかり、苦笑交じりにメランナの母が言った言葉にバロンは長居しすぎたことを悟った。暑くなってくると死体の身で一所に留まるのはよくない。注意をしていてもつい腐らしてしまうことがあるし、厚着をしていると訝しまれてしまうからだ。結局バロンはまた次の冬に来ると約束して村を去った。


「ふーん、ほんとに戻って来たんだ」


 少しだけ背が伸びたメランナは次の冬にやってきたバロンを見てそう言った。拗ねているようでもあり、怒っているようでもあり、照れているようでもあったと悪魔は記憶している。随分と昔のようで、彼の生涯で言えばついこの間の出来事のようでもある。不思議な記憶だ。


「約束であるからな」


「あっそ」


 素っ気ない態度をしながらメランナは母から教わったというトマトスープを振る舞ってくれた。塩の量を三倍ほど間違えていて、死体なのに死ぬかと思ったのは最後まで黙っておいた。

 メランナと遊び、獣を狩り、トマトスープを飲み、そして夏が来れば去っていく。また冬になればやってくる。そんな生活を何年続けただろうか。ほんの3年か4年程度だったろう。しかしバロンにとってはそれまでの数百年に及ぶ生の中で一番素直に楽しめた時期だった。ちなみに次点で男爵時代に領民と処理しきれない大豊作の畑を走り回って収穫を行った日が楽しかった記憶だ。元来、バロンという悪魔はそうした長閑な生き方を好む変わり者だった。


「すまないが、もうこの村には来ないでくれないか」


 そう村長に告げられたのは最後の年の夏の直前、まさに旅立とうと思っていた頃だった。村の仲間だと思っていると、客人というより家族のようだと言っていた村長の言葉にバロンはハっとした。理由はメランナがバロンを通じて募らせている外の世界への憧れとそれを危惧する村長たちのすれ違いだったが、それを抜きにしても彼は自分が何者であるかを半ばまで忘れていた。永遠の闇にも思える追放生活の中で見つけた火花の瞬きのように美しく優しい時間は、やはり火花の瞬きのように儚く消えてしまったのだ。


「メランナが外の世界で生きて行けるとは、わしは思えんのだ。わしも昔は少しだけ、外におったからな」


 村長の言葉にバロンは同意せざるをえなかった。自分の生きてきた世界と違う場所で生きるということは、特に自由村落に生まれた者には難しい道のりだ。まず戸籍がないところから始まるのだから。


「すまない。本当に、すまない」


 涙ながらに頭を下げる村長を見てバロンは一言も恨み言を言わず、ただ分かったとだけ伝えた。その夜、メランナに彼は一つの魔法を授けた。それは召喚魔法に類するものの中で最難関、上級爵位を持つ悪魔の召喚と使役を目的としたものだった。ただし呼び出せるのはバロンだけ。およそメランナの魔力で成功させられるものではなかったが、お守りと言って与えた。


「これは一度だけ使える魔法なのである。使えばたちどころに吾輩が駆けつけるであろうが、それを最後に二度と会うことはできないのである。自分ではどうしようもなく、誰にも頼れず、それでも何とかしなくてはいけない危機に直面したときに使うのであるよ」


 聡明な少女ならそれほど重要だと説明したものを興味本位や寂しさから使いはしない。そう確信してのことであったが、実際バロンが村を去ってから30年以上使われることはなかった。その間も縛りを設けて旅をつづけたバロンが自身も忘れかけていたその魔法を感知した頃には、彼は魔の森を抜け、砂漠を超え、遥か西の獣人国家アル・ラ・バード連邦へ到達していた。


「メランナ!!」


 か細い召喚の魔力を強引に己の魔力でこじ開けて魔法を強制的に成功させたバロン。彼が最初に見たものは息絶えた立派な馬だった。メランナが世話をしていた黒馬の面影がある若い牡馬だ。それが召喚魔法の生贄であることはすぐに分かった。焦って目を走らせる。自分を呼んだ少女を探す。馬のすぐ傍に面影のある女性と幼い少女がいた。少女はあまりにも幼く、彼が初めてあったときのメランナよりなお小さい。だが隣の女性の勝気な釣り目は……。


「メランナ、であるか……?」


「バロン、来たんだ……ふーん、早かったね」


 少女だった頃と同じようにどこか素っ気なく言う女性。蒼白な顔でじっとバロンを見つめ、それから小さく笑って見せた。バロンは強引な召喚に応じたため依代の死体を損壊しており、己の魔力を急速に消費しながら顕現していた。つまり黒靄の紳士姿だったのだ。それでも彼が彼女をすぐに見つけられたように、彼女も彼をすぐに見分けてみせた。


「悪魔だったんだ、バロン」


「止せ!もう喋ってはいけないのである!傷が、傷が……っ」


 霧のような手で女を抱き起こす。最後に肩車をしてあげたときより随分と重くなって、彼女が立派な大人に成長したことをバロンは感じた。同時にその命がもはや風前の灯火であることも。バロンは博識で温和な悪魔だが、向いているのは何かと言われれば戦闘である。回復の魔法は苦手で、そもそも一番回復力に優れる聖魔法を使うことができない。メランナの傷は彼の手に負える範囲をはるかに超えていた。


「誰が、こんな、これは……獣ではなく剣の傷であるか!?」


 メランナの村は奴隷狩りの大規模な集団に襲われたのだと、血の混じる咳をしながら彼女は言う。ひたすら穏やかな表情で夫も友人も他の村の者達も殺されるか捕らわれるかしたと。

 バロンの脳裏に黒い毛並みの獣人たちが浮かんだ。

 弱いくせに風格ばかりある自警団の男達。

 羊や馬を慣れた手つきで面倒見る日に焼けた女達。

 棒切れで自警団ごっこをする少年達。

 植物を編んで自作のアクセサリを作る少女達。

 そして苦笑を浮かべながら鍋をかき混ぜるメランナの母。

 そもそもこの時代、どれほど彼の見知った者が生きていたかは分からない。だが、もう、彼らのいた村は滅んだのだ。バロンが暗く閉ざされた放浪に見つけた一つの明かりが、他者と語らうことの暖かさを思い出させてくれたかけがえのない場所が、火に包まれて失われたのだ。


「バロン……ねえ、バロン、イーハを、娘を……やく、そく」


 段々と穏やかな表情のままメランナの目から光が消えて行く。茫然とする悪魔の腕の中から、傍らの少女に手を伸ばしながら。


「まもって、イーハを……トマトスープ、すき、でしょ……また、つくって……イーハ……」


 朦朧とする意識の中、混濁する記憶の中、娘を守って欲しいと訴えるかつて自分に纏わりついていた小さな命。その最後の息遣いにバロンは震えた。爵位を奪われ、領地を奪われ、領民を奪われたとき以来の慟哭を空に上げた。


「守るとも、メランナ。守るとも。吾輩はバロン=バロン=バロン、誇り高き悪魔の貴種である。約束は、契約は、ここに締結された!」


 心もとなくなっていく魔力の消耗を抑えるべく、母の傍らで事態の変化について来れていない幼子へと憑依する。瞬間的にバロンは理解した。脆い体、乏しい魔力、多すぎる敵。まともに戦っても消耗戦の先に待つのは死だと。イーハを守るために自分がすべきは、害するには高くつくが生かしておけば利になる存在だと思わせること。つまりそこそこに戦うことだと。


「メランナ、トマトスープ……待っているのである」


 最後にかつての少女と愛馬を欠片も残さず闇に引き込む。彼の持つ異能が記憶の奥底に一つの情景を、メランナの中に強く残っていた情景を焼きつける。村の者達と愛馬、メランナとその夫と思しき男、小さなイーハ。仲良く並んで微笑む中にバロンもいる。本当の光景ではない。しかし彼女の幸せが詰った一枚の心の絵。彼女が自分の事を大切に思っていてくれたという、これ以上ない感情のプレゼント。


「おお、おお、おお!!」


 言葉にならない声が喉を震わす。魔力の霧でしかない体から涙が溢れだす。バロンは黄色く輝くイーハの目で追いついてきた敵を睨み付けた。皆殺しにしたいほどの敵だが、そこそこで止めなくてはいけない。奥歯を噛み締めながら、悪魔は最初の一歩を踏み出した。きっと消滅するときまで果たされることのない契約を果たすための、長い長い道のりの最初の一歩を。


急遽二週連続イラストです!

先週掲載いたしました漫画家高梨沙良/くめゆるさん(@kumeyuru)からです(/>ω<)/

九章最後まで読破した記念(?)とのことで、サービスが強すぎる!!

ありがたさと嬉しさで脳内が祭りです!!


挿絵(By みてみん)


美しさに僅かな狂気を混ぜると圧がすごい。そう分からされますね。

今回注目は地味にイラスト化が初となる魔術回路!

表情と相まって実に禍々しくていいですね~!

アクセラの基軸はあくまで戦闘が大好きな戦士であることを思い出させられます。


~予告~

教師ヴィアもまた戦っていた。

プライドと引き換えた新しい魔法が輝く。

次回、教会都市ジッタの攻防

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― 新着の感想 ―
[一言] 根っからの善人の悪魔とはずいぶん変わり者ですね、こういう人?は幸せになってほしいものです
[一言] この話は俺にきく… 涙腺が緩みました
[一言] バロンさんの回想を見ると、凄く良い人じゃん! 当初はわざわざ出ていく必要はないと思います。良いか悪いかは何とも言えないですけど。
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