十章 第6話 伏魔殿のお茶会
トワリ侯爵領領都ソルトガにそびえる砦の奥深くの長い廊下、着慣れないフリルの豪奢なドレスを纏った俺は粛々と……というには覚束ない足取りで歩いていた。後ろにはバロンをマフラーに宿したイーハと表情のない侍女が一人付き従っている。侍女の方は死人だ。
いや、死人だということにしたい、か。
侍女は厳密に言えばかつてのマレシスと同じ状態と言える。悪魔に宿られ、肉体を使役されているのだ。意思を保ち一つの体に共存しているイーハとバロンの、悪魔持ちの関係とは違う悪魔主導の状態。それが悪魔憑きだ。しかし侍女が悪魔らしく振る舞っているかというとこれも否。
角の魔物に混ぜられていた自我の希薄な悪魔、あれを憑りつかせてあるのか?
そうだとすればこの侍女は人間にも戻れず、悪魔にも成れない不気味な人形だ。角の魔物とまったく同じかは分からないが、自己判断の幅が狭く命じられたことしかしない。そういう使い勝手の悪い哀れな存在である。人間の器用さや自主性がなく、悪魔の能力を十全に発揮できるだけの自意識もない。そんな駒を抱えていても、正直デメリットしかないだろうに。侯爵の意図が分からない。
そんな俺の疑問にバロンはマフラー製の肩を竦めて応えるだけだった。つまり意味が知りたいなら侯爵に聞けと。まあごもっともと言えばごもっとも。そんなやり取りをしている間にたどり着いた一際大きな扉は目的地だ。
「吾輩たちはここで待機しているのである」
「おひめさま、行ってらっしゃいなのです!」
肩越しに巨大な黒い腕を生やしたイーハを撫でてやってから扉に向き合えば、侍女と同じく生気のない顔をして立つ騎士が押し開いてくれる。一番最初に気づいたのはポロン、ポロンとなるピアノの音色。音楽には詳しくないが聞いていて不快なところはないくらいに腕がいいのはたしかだ。
「……」
扉を潜るとそこはかなり大きな広間だった。中庭に面した壁が全て硝子戸でその半分以上が開け放たれている。晩夏の風が極薄のカーテンを揺らすその場所の中心にはいったい何人が座るのかというほど長いテーブル。調度のほぼ全てが白と淡い金で装飾されたそこは他の部屋に比べると随分落ち着いた印象だ。
ポロン、ポロン、ポロン……
夢遊病患者の足取りのようにおぼろげな音は長テーブルの奥、主人が座る席のやや後ろに設置されたグランドピアノから聞こえてくる。部屋の全体と同じく白で染められたピアノの向こう側、俺からは見えない位置に奏者はいた。
「ああ!アクセラ、我が愛おしい姫君!どうだい、目覚めは?」
数日前に聞いたきりの声がピアノの向こうからした。えらく嬉しそうな声だ。
「いいと思う?」
「……」
俺の問い返しに少しの沈黙をおいて声の主はピアノの演奏を止めた。そして彼、トワリ侯爵は椅子を引いてこちらに一歩姿を現す。
「それもそうだ。すまないね、できるだけ穏便にお連れしたかったんだ。本当さ。けど連中と来たら、あまり細かい指示を受け付けない。魔獣もやはり借り物では勝手をするし……随分と手荒になってしまった。不甲斐ない僕を許しておくれ」
肩を落として言い訳がましく語るその男はとても初老を過ぎているとは思えない若々しさで、背が高く猫背気味なところや顔の面影以外はやはり俺の面識がある侯爵とは似ても似つかない有様だ。
「……変な髭、止めたんだ」
何を言えばいいか分らなくなって、というより何から言えばいいのか整理がつかなくて、俺はそんな質問を投げかけた。するとすっかり錨型の顎髭と嗜み程度の口髭に落ち着いた侯爵は意外そうな顔になり、筋張った右手の指ですりすりと自分の顎を撫でて見せた。ピアニストらしい白く細長い、嫋やかな印象の手だった。
「そうか、そうだったね。君と最初に出会ったときは北方貴族の間でウェルゼンスタイルの髭が流行っていた時期だった……ふふ、懐かしいものだ。君のほうは大きくなったね。見違えるほど美しくも。いや、当たり前のようにかな?」
キザったらしいことを言いながら昔を懐かしむ男。俺は改めてウダカで感じたのと同じ気持ちの悪さを覚える。その不機嫌な空気を察したのか、彼は全く見当違いのことを言いながらこちらへ一歩踏み出した。
「ああ、いつまでもレディを立たせておくものではないね。すまない、気づくべきだった。紳士にあるまじき行いだよ」
お前の中の紳士は魔物の大群を差し向けて学生を封殺したうえで少女を攫ってくるのかよ、などと毒づきはしないまでも近寄ってほしくない俺はさっとテーブルの端の椅子を引いて自分で座った。二歩目で意味を失った彼は三歩目を刻まない。困ったようにしばしそのまま立ち尽くし、それから思い出したようにピアノの後ろへ帰っていく。
「そうだ、折角来てくれたんだ!私なりの歓待としていくつか曲を奏でさせてもらおう」
ポロロロン……と鍵盤が弾かれる音。それに合わせるようにして俺が入って来たのとは別の、小さめの入り口を潜って一人の侍女が入室する。やはり悪魔に憑りつかれているようで顔色の悪い彼女は、ティーセットを乗せた銀のカートを押している。
「演奏の間、お茶を楽しんでくれたまえ。あまり朝も食べられなかったと聞いてね、甘いものとお茶なら多少は入るかと思ったのさ」
攫っておいて「来てくれた」と言ってみたり、その戦闘のせいで数日倒れ伏して胃が弱っているのに心配してみたり……まったく薄ら寒い言動を重ねてくれる。ただ腹が空いていることは事実だ。
「なに、慣れた曲を披露するだけだよ。この砦に君のお茶を華やかにする楽団などは、残念ながらいないのでね」
日頃から楽団の音楽を背景にお茶をするような優雅な遊びは嗜んでいないのだが、まあ勝手に弾くと言うなら弾けばいい。顔が見えない場所へ引っ込まれるのはやや不安だが、10歳の折に嘗め回すような視線で見られ、先日も背筋が寒くなるような猫なで声をかけられ、しかも現在進行形で俺を拉致している異端者……そんなモノと顔を突き合わせてお茶がしたいかと言われればそれもそれで断固たるノー。
「愛しいアクセラに贈るにはもっと荘厳な曲の方が、いや、無理はしない方がいいな」
なにやらブツブツと呟いては数度鍵盤を押さえる侯爵。繰り返される愛しいという言葉に背筋がまた冷え込んでいくのを我慢する。なぜこれほどの労力を裂いてまで俺を攫ったのか、どうやってあれだけの魔物や魔獣を用意したのか、誰と繋がっていて背後に何がいるのか、そしてこれから何をするつもりなのか。聞きたいことは尽きることがなく、時間は効率的に使わなくてはいけない。
「慣れた曲なら、話ながらでも弾ける?」
「うん?まあ、それはできるが」
侍女が俺の前に茶器を用意し、お茶菓子を含めて色々なものを置き始める。その音で問答していると曲の出だしが遅れると察したか、侯爵はそれ以上問い返すことなく鍵盤を叩き始めた。
「……ん」
部屋に入ったときのふらふらとした調子ではなく、はっきりと組み立てられた音色が広間を満たす。それ一本で食べて行けるかと言われれば流石に疑問だが、趣味の範疇と考えるのであればとてもレベルの高い演奏だ。芸術系のスキルは基本的に動作のアシストがあまりない。つまり彼は定期的に腕を維持する程度の努力をこの分野でしているということ。少し意外に感じるのは偏見というものだろうか。
「お茶受けには柑橘系を使っているから、食べやすいと思うよ」
だれが作ったのか、なんてことを聞くと味が悪くなる返答を貰いそうだったので黙っていただく。憑りつかれた料理人が言われるままに作ったものだとして、喉を通らなくなるほどの繊細さは持ち合わせていないが、どうせならげっそり以外の気分を抱えて食べたい。
「ん、おいしい」
そうして口に放り込んだお茶菓子。小さく可愛らしいミニタルトはクラストが適度にしっとりしていて、口どけがよいクリームに裏ごしされた柑橘が香って食べやすい。クリームそのものもたっぷり空気を含ませてあるのか軽かった。体力の消耗と数日の断食状態で弱っていた俺は確かに朝をほとんど食べられなかったので、そういう意味ではありがたい配慮だ。
「んん……お言葉に甘えて、質問タイム」
二つほどミニタルトを紅茶で流し込んだ俺は咳払いを一つ挟んで侯爵に言葉を向ける。
「あまり考えこまなければいけないような質問は後回しにしてくれると、演奏するうえでは助かるよ」
そんなことをぬけぬけと抜かす侯爵は、やはりどこか人間的にずれているのだろう。もっとも、そうでなければ砦の使用人に悪魔を憑依させるようなことはしない。根本がずれ切っているのだと認識しておいた方がよさそうだ。
「あの子、イーハは、なに?」
うず高く積まれた疑問の山。しかし俺が最初に尋ねたのは小さな侍女のことだった。
「奴隷さ。あの首輪、もしかして見たことがないかい?」
「そういうことじゃない。どういう素性の子?あとあの悪魔は?」
俺の中で積み上がっている疑問はどれも重要なものだが、彼女の境遇と正体は群を抜いて優先度が高かった。なにせこれから俺はこの砦を脱する方法を考えなくてはいけない。それには身の回りに張り付いているイーハの情報が必須であるし、また何をもってどう脱出するかを決めるには彼女をどう遇するかも決めなくてはいけない。捨てて行くという手はあり得ない。
「素性は知らないなぁ……たしかどこかの村の出身だったと聞いたような、いやすまないね、あまり覚えてない」
演奏を止めずに答える侯爵の申し訳なさそうな声。俺はわずかな落胆を覚えつつ先を聞く。
「悪魔の方はもともとさ。つまり悪魔持ちとして売られていたんだ」
イーハとバロンのように依代となる人間が自意識を持ち、悪魔と共存している状態の者を悪魔の契約者や悪魔持ちと呼ぶ。憑依者や悪魔憑きと呼ばれる、使用人たちやマレシスのように一方的な乗っ取りによって悪魔が顕現した状態に比べて、非常にレアな存在だ。
どちらにせよ異端だけどね……。
悪魔憑きは地上界に顕現した悪魔そのもの、時間経過とともに完全体へと至り災害をまき散らす。しかし悪魔持ちはある程度その力を制御できる。これだけ聞けば危険だが有能な戦力に思えるだろう。ただマレシスに取り付いた固体とバロンを見比べれば察しがつくように、顕現してすぐ契約を結べるような悪魔は古く強い存在ばかりなのだ。しかも強引に乗っ取るのではなくあえて契約を結ぶところに危険な恣意が潜んでいる。
下手をすればただの悪魔憑きより危険視されるのに、よくまあ奴隷として売り買いしたな。
もういっそ驚きや呆れを通り越して感心が湧いて来る。バレれば教会から指名手配をくらうどころか、最悪の場合は奴隷商人自身が異端の疑惑をかけられるだろう。あれの審判は極めて厳正なのでおそらく本当に認定はされないだろうが、それでもリスクとしては大きすぎる。
「仕入れた業者も困っていてね、それで僕が格安で引き受けたというわけさ。他の貴族なら物珍しさくらいしか価値がない、リスクの塊だろう。けれど僕にとってはそうでもない。むしろいい買い物だったとすら思っているよ」
それはそうだろうとも。自分が異端なのだから、異端認定のリスクはないも同じだ。
「もともと君専属の側付きを用意しなくてはいけなかった。年齢がある程度近くて愛らしい、しかも戦闘力のある奴隷は最適だったよ」
端から俺に宛がうために買ったという趣旨の言葉。もしそれが本当ならイーハが身綺麗にされ、栄養状態も悪くないように管理されているのも不思議ではない。もしかするとロリコン侯爵なりの矜持かもしれないが。
いや、待てよ。なんで俺を攫うこと前提で……イーハを買ったのは最近?いや、あの子の様子からしてそんなはずはない。
一瞬でいくつかの思考が廻ったあと、俺は紅茶を一口啜ってから駄目元で一つの頼みをしてみる。
「私にあの子をくれる気はある?」
「くれる、というのは所有権を渡せということかい?おやおや、そんなに気に入ったのか」
プレゼントが喜んでもらえたように嬉しそうな声。しかし続く言葉は意外としっかりした否定だった。
「残念ながらそれはできないんだ。さすがの僕も手を噛むのが分かっていて鋭い牙を与えたりしないよ、いくら愛しい君にでもね」
だろうな、というのが率直な感想。そこまで馬鹿だったらこの先が一気に楽になるなと、そんな甘い考えをわずかに抱いていた程度なので落胆はない。
「残念」
俺がイーハの所有権を得ればバロンの力も振るいたい放題だってこと、分からなきゃ大馬鹿もいいところだわな。
おそらくイーハに付けられている最上級の奴隷用魔道具、あれは実質バロンを抑え込むためのものでしかない。イーハを依代に顕現しているあの悪魔は、イーハを殺されれば長く地上に存在できないだろう。そういう意味で厳重な罰則をイーハに強いることはバロンを縛りつけることとイコールになる。
「ふふ、しかしさすがは技術神の使徒だ。真っ先に奴隷の心配をするなんてね。中々いないよ、そこまで真っ直ぐで純粋な者は」
侯爵はそう言って楽し気に笑う。俺からすれば笑いごとではないのだが、貴族で奴隷を気遣うような者は多くないのが実情だ。扱いに人道性を求めつつ奴隷自体は容認しているレグムント侯爵の派閥でさえ少数派と言ってよく、プライドの肥大と懐の余裕が良くない方向に釣り合っている中位貴族になれば家具と同じ程度に思っている連中さえいるだろう。そうでなくとも権利や存在を制限された奴隷を、自分の窮地にあって真っ先に慮る人間がどれだけいるというのか。
なるほど。前世は共感にせよ反発にせよ当事者として同情や蔑みを投げつけられていたが、今生ではただ異質に映るというわけだ。
侯爵から好奇の目を向けられて初めて、どちらかというと感覚が近いレグムント派の友達に囲まれていたせいで少しピントがずれていたのだと自覚する。あの子たちはこの国の常識で言えばかなり人道路線に極振りされた子供達だ。
しかしまあ、この男……使徒についてはバロンから報告を受けていたとして、技術神の教義や性質まで知っているのは何故なのか。
「……技術神、どの程度知ってるの?」
「どの程度、とは難しい質問だ」
ピン!
そう言ったと同時に一音、ピアノの鍵盤を引き間違えたであろう場違いな音色が混じった。
「……はは、やはり深く考えようとするとミスをしてしまう」
困ったように笑う侯爵。何かしら苛立ちめいた震えがそこに込められているのを俺は感じ取った。しかしすぐにそれは振り払われ、穏やかな声で男は自分の知識を披露してみせた。
「スキルに頼らない力を説いていること、奴隷解放に身を捧げた脱走奴隷だったこと、他にも色々とね。柑橘が好きだったとも聞いて、実はそのタルトに使わせた理由の半分は話題作りのためさ。マンダリンが好きだったそうだね」
彼の言葉に唖然とする俺。エクセルは確かに柑橘、それもマンダリンの類を好んだ。中でもエクセララの気候でよく育つシャコンというマンダリンは、酒にしろ果実水にしろ調理して出すにしろ好きだった。
そんなことは同じ時を生きていた人間か、エクセララに住んでいる人間しかしらないぞ。
「どうして……」
「だから、調べたのさ。しっかりと、念入りに、君を迎えるために」
ピアノの調子を戻して奏でる侯爵。ぞわりと質のいいドレスの下で肌が粟立つ。俺を攫ったその本当の理由。はからずもその核心が一気に迫ってくる感覚に、俺は手にしたフォークを強く握る。
「そもそも僕が君に注目しだしたのは、5年ほど前のお披露目パーティーのことだった」
「……」
それくらいしか俺と彼の接点はないのだからそこはおかしくない。だが続く言葉にはどうにも身構えた力を削がれる雰囲気があった。
「僕はね、幼い子供の持つ純粋さが羨ましくて仕方ないのさ」
いや、ロリコンなのは知ってるけど……。
急な性癖の開陳にどう返事していいか分からなくなる。と思いきや、そういうアレな話ではないらしくどこか沈んだ声で彼は捕捉した。トワリ侯爵は先代まで極めて鬱屈した権力志向と悪しき伝統を持つ家柄だったと。自分たちは王家より古い家柄で、特別な力と特別な血を持つ優れた一族だと。ユーレントハイム建国の頃、時の支配者を裏切って現王家についたのもより有利な立場で国を得るためにすぎなかったのだと。
誇大妄想の最たるものだな。
その感想は幼い頃の侯爵も同じだったらしく、物心ついたときからそんな妄執を疎ましく感じていたそうだ。そんな環境でずっと馴染むこともなく年を取っていった彼は、子供の持つ無垢な有様に人間の正しさを求めるようになった。
と、言われてもな……だからなんだと?
正直同情しないではないが、だからといって俺の判断に甘さが生じるような話ではない。
「けれどお披露目に出席してもつまらなくなってきていた頃だった」
俺の感想など知る由もない侯爵はピアノを奏で、懐古を続ける。
「なにせいくら彼らを眺めていてもその純粋さは僕のものになるわけでなく……また大人たちの思惑を大なり小なり背負う彼らの中の薄汚れた部分を僕は感じ取るようになっていた」
子供らしからぬ雰囲気を持っていた子はたしかに結構いた。それでも俺から見れば乳飲み子もいいところだったが。アベルとレイルをあるいはティゼルとアティネを比べたときの差をより顕著にしたような違和感。それを薄汚れた大人たちの思惑だというなら、たしかに感じ取れはした。
「そんな時に君と出会ったのさ!」
ピン!
先程と同じ音が鳴った。また音を外したのだろう。しかしもう侯爵はそのことで手を止めはしなかった。むしろ演奏は段々と激しさを増している。
「君のお父上は中々に拗れた奴でね、だが一方で酷く純粋な男だった。そんなところを気に入って付き合いが色々とあったんだが、まさか娘がこれほど素晴らしい子だったとは」
商売の付き合いがあったことは知っていたが、まさか侯爵があの男をそのように思っていたとは。少し意外な人評に俺は興味をそそられる。だが侯爵はそちらに話を広げるつもりがないようで、またピン!と音を外しながら陶酔の声を上げる。
「初めて見た時から僕には分かっていた。ああ、そうだとも。君は幼いながらに父上の所業と拗れた部分を見抜いていただろう?そして適度な距離を保ちながら何か腹の内で考えていた!」
「!」
「最初はそれも獅子身中の虫が伯爵に反するべく色々と吹き込んだ結果かと思ったさ。そういう例もよく見てきたからね、一瞬がっかりしかけた。まったく慌て者だよ、僕と来たら!」
ピン!
「だが見れば君の目はどこまでも澄んでいるではないか。穢れのない稚児の無垢を宿しながら、容易に穢れてしまう脆さを持たない目だった!」
ピン!
「そう、言うなれば君は赤子しか持たないはずの、見た目通り真っ白な魂を持っている!それなのに、それなのにどうしてか、同居するはずの脆さがない!」
ピン!ピン!ピン!
「善悪!正しさ!間違い!穢れ!葛藤!しがらみ!そんな全てを超えて、そこに超然と在るような完全性を宿している!」
乱れに乱れたピアノの音色が一気にガァンという大きな音で止まる。両手で鍵盤をたたきつけて彼が立ち上がったのだ。一呼吸、二呼吸と空白の時間が横たわる。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「……」
「す、すまない。少し興奮してしまったね、お恥ずかしい」
侯爵が取り繕ったのはピアノの残響が消える頃。咳払いをした彼は声の調子を元に戻して続きを語り始める。
「それからというもの、僕は慎重に君のことを調べた」
演奏も途切れたところから再開した。
「侯爵の地位と金さえあれば多少の無理は通せるのでね。幸い引き籠りと揶揄される私は長年トライラント家の重要な監視対象ではなかったし、当時は薬物の件や魔獣の件でオルクス伯爵領に視線が集まっていた」
薬物か。湖楽とかいうあの日の違法薬物。結局尻尾を掴めなくなって終わったのだったか。
「神話について学ぶため、先代まで不仲だった教会に喜捨をしたりもした。西方の商人とのパイプも増えたよ、調べる中でね。手広くやっているあの情報屋一族に比べれば拙いだろうが、5年を全て君のことだけに費やした。連中ではたどり着かなかった部分にも手は伸ばせたと思うよ」
本当に実りの多い調べ物になったと彼はしみじみ呟く。その口ぶりからただ情報を得ただけではなく、何かしらの実利を手にしたのだと窺える。
それにしても、それほどまでに深く掘ったのか。
バロンから俺が使徒であると聞かされたのなら、その調査をしたときはただ信仰しているとだけしか知らなかったはずだ。それなのに……ハッキリ言って異常だ。
「なんでそこまで……」
「言っただろう、君が愛しいからさ」
ピアノが止み、さも当然のようにその言葉は紡がれる。先ほどに倍する強烈で濃い想いを込めて。瞬間的に俺は続きを聞きたくないと強く思ったが、もはやどうすることもできない。耳から流し込まれるそれは奇妙な力で萎えた俺の体を金縛りのように封じた。
「君の透明な白さに憧れた」
侯爵は席を立ち、真っ直ぐに俺の方へと歩いて来る。弾む様な足取りで。
「君の紫の瞳の奥にある強さに惹かれた」
テーブルに向かう俺の横まで来た彼はさっと傅いた。それでようやく背の高い男と椅子に座った俺の高さは揃う。青白い顔に朱を浮かべ、熱に浮かされたような重く濃さのある視線を注がれる。
「君の口から紡がれる飾らない言葉が欲しくなった」
さわっと頬に手が添えられる。俺はそれを咄嗟に跳ね除けることすらできなかった。深く昏い何かがその瞳には宿っていた。合わせた目から流れ込み、手足の自由を奪うよう毒のような何かが。
「君の全てを、僕のものにしたくて堪らない」
噛んで含めるようなその言葉。
「僕も、君の物だ」
脳が理解を拒否するそれをやけに嫋やかな白い手が頬に刻む。
「なに、を……」
喉が張り付いて声が出ない。跳ね除けてあらゆる力でもって黙らせてしまいたいのに、それがままならない。ただ一対の瞳が、手の冷たい感触が、澱んだ言葉が、それをさせない。
「つまり、君には僕の妻になってほしいんだ」
「……ッ」
「君を愛している、アクセラ」
それは純粋と言うには濁りの強い、しかしそれ以外に言葉の見つけようのない、誤解の余地もない、愛の告白だった。
~予告~
流離う紳士、元男爵位悪魔バロン
彼との共闘をアクセラは模索しだし。
次回、奥義の先の先




