十章 第3話 それぞれの弱さ
まるで頭の中を無理やり掻き乱されたような頭痛の向こうから、白い髪を風に遊ばせる大切な乳兄弟の姿が浮かび上がってくる。いつも薄っすらと微笑みを浮かべるその顔はなぜか全くうかがえず、ただ背中だけが、どこか遠く……。
「アクセラちゃんっ!!」
跳ね起きて、そこに彼女がいないことに混乱を覚える。けどすぐにここが天幕の内側だと、素っ気ない白のキャンバス布の壁を見て気づく。
「エレナ!」
名前を呼ばれてはっとなる。声の方を見て、ニカちゃんの顔を見て、その心配そうな表情を見て、そして直後に入って来たネンスくんを見て記憶が繋がる。今自分がどこにいて、何をしていたのかを。
「頭は冷えたか」
「っ」
弾かれたように立ちあがろうとした私へニカちゃんが抱きついて引き留めようとする。けれど軽い彼女なんてなんの重石にもならない。背中から腕を回す少女ごと立ち上がってネンスくんに詰め寄る。
「退いて」
地を這うような低い声が出た。彼の疲れ切ったような目を睨み付け、同時に魔力で周囲の状況を探る。
「何と答えるのか、分かっていて言うのは止せ」
杖もブラックエッジも、装備のどれもこれもが天幕には置かれてる。その気になれば魔力糸を使ってわたしはそれらを扱えるし、彼だってそれは理解してるはず。それどころか杖なんてなくても十分魔法を使えることも。
「退く気がないなら……」
「殺していくか?お前にそれができないのは誰もが分かっていることだろう」
機先を制して虚勢を潰された。そうだ。たしかにそうだ。わたしはこれだけ長い間、冒険者として魔物を屠ってきたのに、いまだに人間に魔法を使うことを躊躇ってる。それが見知った人、それも友人になれば分かりきったことだ。
「……殺さなくても、押し通ることはできる」
全身に雷を纏って威圧する。スプリートでの盗賊退治を経て考え方を変えた私には、非殺傷の無力化を可能とする雷という選択肢がある。それを一度は喰らっているはずのネンス君は、それでも表情一つ揺るがさずに私を睨み返した。
「させないと言ってるのだ」
「どうして」
「分かっているだろう」
「分からない!全っ然分からない!わたしは、わたしはアクセラちゃんの所に……」
「どこにいるのか分かりもしないくせにか」
彼の言葉に口を突いて出たわたしの声は先を紡げなくなる。魔織の手甲を脱がされて正確には分からないけれど、私の感知範囲にはもういない。
「それでも……それでも!」
喉を振るわせる声に力は込められて、けれどそれをどこへ向ければいいか分からない。それでも叫び、押し通ろうとする。そうしないとダメだ。そうしないとダメになる。
「わたしの魔法で探す!見つけて、わたしの魔法で助ける!だから退いて!!」
指の動作で無属性の魔力を操り、簡単な物理干渉で杖を弾く。跳ねたそれを片手で受け止めて雷を一層強く放つ。
「……」
邪魔をしないで。わたしに行かせて。わたしから、奪わないで。
でも、どれだけ睨んでもネンス君は怯まない。ニカちゃんを避けてるとはいえ、激しく明滅する雷を前にしても。むしろ憐みのような表情を浮かべる彼。それはまるでわたしだけが焦ってるようで、わたしにはできることはないと言われてるようで。
「退けっ!!」
吼えると同時に雷が爆ぜる。天幕内の空気が一瞬にして凍てつき、制御の外で現象化した紫電が迸る。その一筋が近くに落ちて片隅にいた冒険者が悲鳴を上げた。それでもネンスくんは動かない。一歩たりとも動かない。
「…………どうして、どうして邪魔をするの!」
声の限り叫ぶ。勢いがそがれて行くほどにわたしはダメになってく。弱い自分が出てくる。涙が零れて、声が震えて、手足から力が失われてく。
「アクセラちゃんが連れていかれたんだよ!?」
泣きたくなんてない。こんなところで涙を使いたくない。涙で押し通ろうとする人間だとは思われたくない。でも抑えられない。こみあげて、こみあげて、どうしようもなくなっていく。
「アクセラちゃんが、わたしの、わたしの大事な人がっ!」
ひとしきり叫び散らすと、止まらない涙や勝手にしゃくりあげる喉とは別に、頭は少しだけ醒めたような気がした。
「こんな、ところでっ」
止まってなんかいられない。急がないと。この瞬間にもアクセラちゃんは、何をされるか分からないんだから。
「ひ、うぐっ、わ、わたしは!わたしは、アクセラちゃんの侍女だ。だから、ネンスくんの命令を聞く謂れは、ない」
もうなんの力も宿らない腕でネンスくんを退けようと押す。
「そうもいかない。お前は魔法隊の隊長だ」
「そんなもの!」
「そんなものではないっ!!」
「っ!」
押しつけた手を握られ、その強さに息を飲む。初めて見る形相でわたしを睨み返すネンスくん。ぎらりと光る瞳がわたしを覗き込んで逃がさない。それから向けられた言葉は怒声ではなく、けれどそれ以上の熱量を内側に溜めて今にも破裂しそうな震えた声だった。
「いい加減、分かってくれ。そんなものと、勢いに任せて捨てようとしているものが、一体何なのか」
「そ、それは!」
「アクセラがお前に求めているものは、無謀に追いかけて行って戦うことではないだろう!?」
「そんなことは分かってる!」
「いいや、分かっていない!」
意味のない反論は叩き伏せられた。そして痛いほど握り込まれた手は放され、代わりに両肩を同じように掴まれる。わたしを覗き込んで訴える彼の目には、イエロートパーズの瞳には、哀れみはなかった。
「いいか、もうまともに隊の態をなしているのは魔法隊だけだ!前衛は騎士も戦士もない、ただの前衛部隊として再編する。輜重隊はもう崩れる間近だ。遊撃隊も前衛の補助と輜重隊の管理に振り分けなければいけない。前衛の指揮を私が取る。分かるか?ここまで懇切丁寧に説明すれば、もう分かるか!?」
畳みかけるような言葉が頭に染み入る。否応なく何が正しいのかを考えさせられる。いや、分かっていることを目の前に押し付けられる。美しい瞳が、怒りと憤りと自責と悲しみを閉じ込めた目が、わたしに逃げることを許さない。
「でもっ」
「アクセラが砦を離れている今、レイルが意識を取り戻さない今、私とお前しかいない今!何が自分の使命なのか、見失うな!」
「でも、でも……」
分かってる。分かってた。何が正しいかなんて。アクセラちゃんがどうして欲しいかなんて。でも、前へ進んでると思わないと、アクセラちゃんだけを見て走ってないと、耐えられない。
「ア、アクセラ、ちゃんが……だって、だって!」
立ち止まったら、こうなるのがわかってた。ぼろぼろ雨粒かと思うほどの雫が目からこぼれだす。膝がくじける。慌てて支えてくれるニカちゃんに縋り付いてもその場にへたり込むのを止められない。
「はぁっ、はぁっ、だって、だって!だって!」
呼吸がおかしくなる。意味のない言葉ばっかりが口から出ていく。涙も、力も。突っ走っていれば、何か行動を起こしていれば耐えられたことが、耐えられなくなってしまう。想像してしまう。攫われた彼女が、きっと最後の尋常じゃない魔力の攻撃で力尽きてるはずの彼女が、どう扱われてるのか。
脳裏に色々なものが駆け巡る。灰色鱗の蜥蜴魔獣に殺された仲間の酷い死体が。「燃える斧」の幹部と戦った時の粘つく殺気が。悪魔と融合した無残なマレシスくんの姿が。全身を貫いた不死王の即死魔法、その激痛と恐ろしい冷たさが。酷薄に嗤う狼の魔獣の呪われた爪が。
「わたしには、なにも、できないの……?」
嗚咽の合間からぶつけたわたしの言葉は届いたのだと思う。でもネンスくんはおろか、ニカちゃんすら何も答えてはくれなかった。答えなんて、もう分かってるから。きっと。
なんで、なんで、なんで。
最後の力が抜ける。足が完全に落ちて座り込んでしまう。視界の端には魔杖キュリオシティとブラックエッジが冷たく映る。
なんで、これだけの装備があるのに。これだけの属性が使えるのに。あんなに頑張って、あんなに悩んで、ようやくここまでこれたと思ったのに。
「なんで、こんなに無力なの……?」
わたしがそれ以上強行突破しようとしないのを理解して、ネンスくんが踵を返す。床に座り込んで膝の上の小さな手を見つめるわたしには彼の表情は分からない。ただ最後に残した言葉だけははっきり聞こえた。
「私は、私の務めをする。お前はお前の、お前だけができる務めを果たせ」
できることをする。それはできないことをしないことと同じだ。そんな風に思えて、わたしは視線を床に落とした。
「アレニカ、すまない。後は頼む」
「ええ、はい。わかりましたわ」
背から抱きついたままの形で、頽れ泣くわたしを抱きしめるニカちゃん。その手が気遣わし気に背中を撫でてくれるほどに、わたしの涙と嗚咽は溢れるばかりだった。
~★~
クソ!
第一王子という立場に相応しくない悪態を心中で吐きながら前線へ進む。握りしめた拳の力で指の骨が軋みを上げた。それでもどこへこの怒りを現せようか。私は指揮官であり、この怒りは自分へのものなのだ。
「殿下!」
「なんだ!」
「うわっ、え、す、すみません……その、部隊の編成が終わりました」
前言撤回だ。まったく制御できていない。報告にきたディーンについ怒鳴り声を上げてしまった。
「……すまん、少し気が立っているようだ」
「いえ、それは仕方がないかと」
気遣わしそうに私を見る新しい騎士隊の隊長。彼にくらいは少し胸の内を明かしても良いか。そう思ったのは、おそらく私の弱さゆえだ。
「……私は至らないな」
「そんなことは!」
「世事はいい。それに分かってはいる。父王ならもっとうまくやって見せたのだろうと、四大貴族の当主たちなら道を切り開けたのだろうと、思うだけ無駄なのは、分かってはいるんだ。私には今ある私以外、何もないのだからな……」
そんなことはマレシスを失ったときに思い知ったはずだった。だからこそ、あの日から私は執務に鍛錬にと励み、魔法と剣技を両立させるべく努力してきた。それが活かされていないとは思っていない。むしろ付け焼刃でもしておいてよかったと思っている。疲労と痛みに泣きながら増やした鍛錬が、最前線での戦闘と指揮を可能としてくれている。宰相に小言を言われながら増やした執務が、即興の部隊運営と士気の維持を可能としてくれている。
……が、それでも足りないのだと見せつけられて心が折れそうになるな。
「アクセラに魔獣を任せた判断、間違っていたとは思わない。最後の一体が彼女の方に行くというのも察しようがなかった。同じ状況になればやはり今回の策がベストだと思うことだろう。だが……だがな、報告を受けて私が真っ先に考えたのはアクセラ亡き後の防衛能力についてだった」
「それは、指揮官として正しい事だと思います」
騎士として家でしっかり心構えを叩き込まれているのだろう。ディーンは迷いなくキッパリと答えた。そしてその点で言えば私も彼に同意見だった。
「そうだな」
「だが」と続けた私にディーンは視線を落とした。言いたいことは既にして伝わっているのだと感じたが、それでも言葉にしたかった。こんなものを抱えたまま前線で剣を振り回すのはさすがに危ない。吐き出してしまいたかった。
「友としては最低だな」
じわりと視界が滲む。彼女の身を案じるでもなく、助ける手立てを考えるでもなく、死んだものとして戦力の計算をしていた。ああ、これでもう一体魔獣がいたとしたら、どうやって対処すればいいんだと。
「……」
「その上で私はエレナの願いをも正論で叩き潰した。私に手段がなくとも彼女の頭脳ならアクセラを探せるかもしれないのに、防衛戦力の低下を懸念してもっともらしい言葉で彼女の足を折ったわけだ」
分からなくなる。マレシスを失った私は力を求めた。そしてほんの数か月とはいえ濃密な自己研鑽を積んだ。それは全て何のためのものだったか。魔物や魔獣の登場は想定外にしても、北方貴族を相手取った当初の作戦も危険に違いはなかった。それほどリスクの高い作戦を強行したのはなぜだったのか。何のための力を、権威を、私は求めたのか。友を失う苦痛に耐えきれなかったからではなかったか。
「ああ……クソ、クソ、クソ!」
堪え切れずに私は握り固めた拳を自分の足に打ち下ろした。鎧同士が当たって鉄にしては高い澄んだ音を奏でる。アクセラとエレナのことだけではない。冒険者たちもそうだ。騎士として死んでいった学友たちもそうだ。
「無力なのはエレナではない、私だ……」
ぽつり。水滴が地面を濡らした。ぽつぽつと増えるそれはすぐに本降りへ変わり、一瞬で私とディーンを濡れ鼠にする。
「殿下」
ディーンが迷いを含んだ声で俺を呼ぶ。
「殿下は、未来の王でいらっしゃいます。それで、その、我々は未来の騎士です。死んでいった、私の……俺の、友達も」
魔獣戦でディーンの友人も命を落としたのか。それならなおのこと私やエレナの甘さは腹が立つだろう。そう思った矢先、ディーンは困ったような笑みをこちらへ向けた。
「あいつらは、誰よりも早く次の王の騎士として散った。名誉ある、最初の騎士たちとして。だから……だから、きっと」
そう言いながら、ディーンの笑みが歪む。言葉がつまり、かみ殺した嗚咽に代わる。
ああ、そうだ……私は何をしているんだ。私は彼らの指揮官だろう。彼らの王になるのだろう。彼らに涙を見せるのは、筋が違うだろう。
「……変なことを言った、すまん」
「……いえ」
「……今日死んだ者たちには、必ず王位を戴いたときに報いる。最初の騎士たちとして」
「……はいッ」
頭を振って雑念を払い、前線へと足を向け直す。ディーンは無言で私の後を追う。
生きて帰れれば、己を見直すことにしよう。今は、今だけは、冷徹な指揮官として振る舞わなくては。できるだけ大勢を生きて返すために。
~予告~
アレニカはスコープを覗く。
もう無力な令嬢ではないと示すために。
次回、紅衣の狙撃手




