十章 第1話 虜囚のお姫様
※※※お詫び※※※
当初予定していました特別編は執筆の遅れにより延期となりました。
代わりに掲載予定だった5月1日~5月5日までをGWスタートダッシュ投稿とし、
本編を毎日更新いたします。
次の章末休みでは必ず書きますので許してくださいなんでもry
背中に走る疼痛と煮え立つような暑さに、深い所へ落ちていた意識が浮上していく。まず真っ先に分かったのは、自分が寝ているここが森の土の上ではなく柔らかなベッドだということ。さらさらとした肌触り。やや暑い掛布団。それらの寝具にはほのかに香が焚き染められているようだ。
香木か……?木、そう、森の中のような、森、森の土……そうだ、俺、森の中で……。
まだぼんやりと言うもおこがましいほど漠然とした意識の中で、それまで森の中で遠征企画に参加していたのだということを思い出す。しかしなんとも気持ちの悪い感覚が襲ってきて、それ以上の思考を強制的に中止させられる。まるで限界まで空腹になったような、あるいは荒天の中を無理やり船で突き進んだような、種類の違う吐き気をごちゃ混ぜにしたような。
「うっ」
込み上げる嫌な感覚に耐えようとすると誰かが俺に触れた。巨大な手の感触、だろうか。それは不思議な気配の存在だった。今すぐにでも刀を抜きたくなる本能的な警鐘がどこかで鳴り響きつつ、しかし優しさと労わりが感じられて心を許してしまう温かさも確かにある。
『無理をしてはいけないのである。吐きそうなときは吐きなさい』
助け起こされた俺は薄っすらと目を開ける。狭い視界に容器が差し出されたのを見て嘔吐感はぐっと強くなった。そして大きな手が背中を少し強めに撫でると、込み上げる吐き気に俺は胃の中身を全て吐きだす。胃液と水くらいしか出てこないが。それから数度えづいて、確かにかなり楽になった。すかさず横から差し出された銀製の楽呑みから水を含み、すすぎ、数度繰り返してから倒れ込むようにベッドに横たわる。
『それでいいのである。さあ、もう少し眠るのである』
金属質な響きのある声に囁かれて、俺はもう一度眠りに落ちた。
~★~
「ん、ぅん……」
次に目を覚ましたとき、俺はぼんやりとした頭で自分が拘束されているのだと思った。背中の痛みと吐き気はずいぶんマシになったが、頭は重く体も動かしにくい。まるで鉛の鎖をあちこちに巻きつけられたようで、視界に移る豪奢なベッドの天蓋を眺めたまま茫然としてしまう。
「えっと、あー……あれ?」
俺は確か遠征企画に参加して、ネンスやレイルの面倒を見つつ森で活動をしたあと……そうだ、魔物の群れに襲われて、砦に籠って、魔獣が来て。
「ま、じゅう」
呟くだけで声がかすれる。というよりそれ以上大きな声が出せない。喉が酷く乾いているのかじわじわとした痛みがある。
いや、そんなことはどうでもいい。
ここまでくるとようやく記憶は一本の道に整備され、思考も随分とクリアになってくる。猿の魔獣バイエンを下し、狐の魔獣ヴェルナーキを撃退することに成功した俺。一気に全身全霊の魔力を放出したことと一太刀に限界を越える力を捻じ込んだことで、意識を失ってしまったのだ。直後に見た光景が確かならそのまま角の魔物に捕まってどこかへ連れ去られたのだろう。
「ちく、しょう……」
エレナたちに伝えなくてはいけないことがある。ヴェルナーキの口から語られた魔獣の数は4。俺たちの把握しているより1体多く、しかもそいつが薄暮騎士団を先に狩ってしまったという事実を。このままでは増援は期待したほど早く到着しないし、それ以上に直接的脅威として最後の一体が襲い掛かることになる。
「はぁ、はぁ、おき、ないと」
体を起こそうとしてようやく気づく。あまりに重いせいで拘束されているのだと思っていたが、俺が纏っているのは仕立てのいいフェミニンなネグリジェだけだった。鋼の枷も鉛の鎖もない。
「あ、ぐぅ!?」
支えにするべくついた腕に激痛が走る。痛みのあとには脱力感が襲ってくるこの感覚は慣れ親しんだ筋肉痛のそれで、肘が挫けてベッドへ叩き戻された体は似たような痛みをそこら中で訴えだす。しかも脇腹と背中の痛みは打撲ではなかったようで、その衝撃を鋭い刺激に変換してくれた。
「痛っ」
のたうち回ろうにもそれさえ満足にできないほど体中が痛い。あげくそれだけのことで強烈な疲労感が襲ってきた。なんというか、蹈鞴舞を使い過ぎたときでさえこんなことにはならなかったのに。
「か、回復魔法を……ん?」
そこでまた気づく。魔力が枯渇したままなのだ。ずっと吐き気があるのもこれのせいか。気づいて更に意識を体内へ向け愕然とする。体内と体外の魔力がまったくといっていいほど交流していない。人体は呼吸や食事以外にも、ただ存在するだけで周囲から魔力を吸い上げる。それに肉体が産出する分が合わさって体内魔力を回復させるのだが、前者がまったく起きていないせいで、俺の肉体は今手元にある体力を削って最低限の魔力を作っているのだ。
「ちっ」
思わず舌打ちをするのも仕方のない事だろう。なにせ魔力がなければ治癒魔術も働かないし魔法も使えない。それどころか俺の場合、魔術回路が少しずつ魔力を吸い上げて行くのであまりに少量ずつしか回復しないと収支は0になりかねなかった。
開幕早々ジリ貧ね……最高だよ。
魔術回路が消費する分さえなければちょっとずつ溜まるだろうが、あいにくと回路は触媒フィルムを体内に埋め込むタイプなので外しようがない。特に一番魔力を食う生命魔術・治癒は骨記述式、つまり骨の上にフィルムを貼ってある。
「くっ、それでも、動かないと……」
一通り考えてから現状を打破する手札がないと結論付ける。それから根性だけでもう一度体を起こして、ベッドの端を目指しにじり寄る。痛いと分かっていればある程度耐えられるのだ。それも全身を包む規模とはいえ筋肉痛は筋肉痛。馬鹿にはできないが裂傷や熱傷に比べれば我慢はしやすい。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……そ、それにしても、コレはちょっと、消耗しすぎ」
キングサイズのふかふかベッドを縁まで踏破したところで突っ伏す。たっぷりと空気を含んだ布団はぐしゃりと潰れた。顔のほとんどを寝具に埋めたまま少し息を吐く。天蓋から伸びる薄水色のカーテンを指で梳きながら、気力だけで這い出したあとをどうするか考える。
この体で戦うのはいくらなんでも無理だな。
かつてないほど肉体が弱り、魔力が謎の枯渇から回復せず、刀もなければ鎧もない。剛の技はもとより柔の技も含めあらゆる攻撃の手段がない今や、俺はただの小娘だ。ステータスの高さは変わらないだろうが、筋力任せに殴りつければ反動を抑えきれずに関節が弾けそうだった。
いや、刀があれば、なんとか動けるかもしれない。
馬鹿馬鹿しい話だが、刃さえ与えられれば多少は動けるという謎の確信があった。それは末期の瞬間まで刀を振るった老境の経験からくるものかもしれない。とはいえ薄青の絹を透かして見る部屋は広く、しかし刀らしきものはなかった
「!」
ふと声が聞こえた。それはかなり聞き取りづらい声だったが、扉のすぐ外から聞こえてくるようだった。そして同時に強烈な気配が現れる。俺の感知範囲が体の調子に引きずられて狭くなっているとしても、なぜ今まで分からなかったのか不思議なくらい大きな気配だった。大きくて凶悪な。
『バロン、お水が重いのです、重いのですぅ』
『それくらいは村でもしていたであろう。頑張るのだイーハ』
『村ではもっと、とっとっと!かるい桶だったのです』
『ただでさえ筋力が低いのである。鍛えなくては……嗚呼、だが絨毯に零しては怒られてしまうかもしれないのである。少しだけであるぞ』
いよいよ扉の前に来たのか会話の内容まで聞こえだす。小さい子供、それもたぶん女の子の声。あとは前に目覚めたときに聞いた不思議な声。おぞましいのに優しく感じる声だ。
ガチャリ
鍵はかかっていなかったようで美麗な装飾がほどこされた扉は開いて、気配の主はひょっこりと姿を現した。それは本当に年端もいかない少女で、おそらく俺より5つ以上は年下だろう。黒の中にうっすら焦げ茶が透けるような毛色と頭の上でピンと立った耳が特徴的な、獣人の少女。少し癖があるのか毛先が跳ねていて、それが余計に長毛種の犬を思わせる。
「……」
今さら寝たふりにいそいそと移行できるような体力も気力もない。諦めて指先でカーテンを引っ掛け、捲ったそこからじっと様子を窺う。そんな俺に犬耳の少女もすぐ気づいたようで、目があった瞬間に氷の如く硬直してしまった。
「……」
「……」
「……ん、と」
「え、わ、ひゃぁ!?お、おひめさま、起きてるのです!バロン、もう起きてるのです!」
『こらこら、イーハ。そんな声を上げてははしたないのである』
俺を見るなり驚いて手に持った大きな桶をひっくり返しそうになった少女。その後ろから苦笑するように例の声が聞こえた。姿こそ見えないがまるで小さな子供を見守る大人のよう。しかし目の前に来てハッキリわかる。これは悪魔の気配だ。
それにこの子の目……。
まん丸に見開かれている大きな目は瞳が黄色に染まっている。浅黒い肌に映えるそれはまるで雷を具現化したような鮮やかさだ。さらに薄っすらと輝いてすらいる。ユーレントハイム王家の持つイエロートパーズの瞳もたしかに黄色だが、それとは根本的に違う輝きを持っている。
いや、でも悪魔の目はもっと澱んで有機的な黄色のはずだ……この娘のは金属質な黄色。
「君は、ゲホ、ゲホゲホッ」
誰何するまえに喉からは咳が零れる。まるで気道がひっついたような生々しい感触にそのまま数度咳込む。5回を超えたあたりで喉に痛みが走り、じわりとひっつく粘膜が湿った。戦闘で威叫を使い過ぎたのを思い出し、突然の湿り気が自分の血であると気づく。すると突然口の中が鉄臭く感じ始めた。
「あ、あ、ど、どうすればいいのです、バロン!お、おひめさま、苦しそうなのです!」
『ああ、ベッドサイドの水を飲まなかったのであるな。まったくうちのイーハも大概であるが、とんだお転婆姫様なのである』
慌てる少女と呆れを深める悪魔。ざわりと嫌な気配が膨れ上がり、少女の背中から黒い靄が立ち上る。
「!」
身構える俺に対してソレは構うことすらなく、掌だけで少女の頭ほどもある巨大な腕を形成して見せた。そして器用に爪をカーテンへ引っ掛けて天蓋の支柱まで寄せ、うまいこと止め紐を結んでくれた。
「けほっ」
喉の筋肉を無理に締めて咳を抑え、視線をサイドテーブルに向ける。螺鈿細工が見事な木製のそれには大きなピッチャーとグラス、小さな呼び鈴、それに一枚の紙切れが置いてあった。これ以上咳込まないように口を抑えて呼吸を止め、さっと紙切れに視線を走らせる。
起きたらまず水を2杯飲みなさい。それから隣のベルを鳴らすように、か。
『大方、知らない場所で目覚めて焦ったのであろうが、そうならせめて周囲を見回すくらいするべきであるな。というわけで、水を飲むのである、お転婆姫様』
姿も見えない悪魔の声。それに従うこと自体が危険であると俺の知識と経験は訴えているが、この悪魔に害意はないと勘の方は告げている。さて、どちらを信じるべきか。
いや、今この悪魔に害意があったなら水に毒なんか入れなくても攻撃はしたい放題だろう。別の意図で何か盛りたいんだとしても同じだ。途中で目覚めたときに手ずから飲ませた液体へ混ぜておけばいい話だ。あるいは寝ている間に注射を打つんでもいい。
「……けほっ」
息を止め続けるのがしんどくなってきたのもあって俺は素直にグラスを取った。幸いにもバカ広いベッドの端まで大移動を敢行した後だったので、もう一仕事這いずらずには済んだ。
『ゆっくりである。ゆっくり』
くどい注意を受けながらグラスに口を付ける。室温のはずの水はそれでも冷たく感じた。それだけ喉が熱かったんだ。それに痛い。やはりどこかで切れているようだ。じわじわと染みる液体が、鉄臭さと熱を奪って胃の中に落ちて行く。
「ぷはぁ」
『イーハ、二杯目を継いで差し上げるのである。ゆっくりであるぞ、君も』
「は、はいなのです!」
黒い犬系獣人の少女がとてとてと走ってくる。手には大きな桶を持ったままだが特に重そうな様子はない。漏れ聞こえていた会話から推察するにバロンと呼ばれている悪魔がなにかしらの補助をしているのだろう。侍女服の裾を揺らしながら駆け寄って来た彼女は自分の背丈の半分ほどもあるサイドテーブルの脇に桶を置き、両手でしっかりピッチャーを持ち上げる。やはり重そうな気配はない。
「……ん」
それでも身長の問題で、ベッドに座る俺の持つグラスに水を注ぐのは一苦労。困ったように俺の手の中の硝子を見つめる彼女に、仕方がないのでできるだけ低く差し出してあげる。
「あ、ありがとうなのです!」
「……ん、こちらこそ」
注いでもらった二杯目を呷ると今度は随分冷たかった。横目で見ればサイドテーブルのピッチャーが置いてあった場所には薄い土台があって、そこには何か魔法陣が組み込まれているようだ。上に置いてある水の温度を保つ魔道具、だろうか。ずいぶんと高価なものが作り付けで組み込まれたテーブルだこと。
『換気もするべきであるな』
バロンはそう言ってまた黒い腕を伸ばし、ベッドの四方を囲むカーテン全てを柱へ結わえた。それから窓を、ここからでは角度的に外は見えないが、大きく開け放って風を取り入れた。温い風だった。
「……」
グラスの中身を言われた通りゆっくり飲みながらそれとなく部屋の中を確認する。人の有無と刀を薄布越しに探したくらいできちんとは見ていなかったから。
これは、いよいよ侯爵の城でもないと説明がつかないな。
白を基調に花柄の壁紙や上質な木製の調度が彩る大きな部屋は、どこからどうみても豪奢な客用ベッドルームだ。それもウチにあるような品こそいいものの地味なものではなく、床から天井まで全てにたっぷりと金がつぎ込まれていると分かる上質なものばかり。暖炉の代わりに設置された空調魔道具もケイサルの屋敷にあるそれより大きく、学院で使われている機種よりさらにいいもののようだ。多用途の魔道具はそれだけ複雑な回路や高価なクリスタルが必要になるので、価格高騰の仕方がえげつないことで有名なのに。
それにこのネグリジェは趣味こそ悪いがいい物だと思う。胃もたれがしそうなほどのレースとフリルに彩られた少女趣味なデザインで、エレナの好みのせいか少女っぽい中でもすっきりしたデザインの下着や寝間着が多い俺としては、転生から15年近くたってもやや受け入れがたい衣装だ。ただ実際の着心地はいいし見るからに縫製も綺麗だ。
単独で戻るのは、無理だな。
できるだけ早く魔獣のことをエレナに伝えたかったが、もはやそれは叶わないことだと悟る。本当にここが侯爵の城であるなら場所は領都ソルトガ。つまり森まで相当の距離があり、道中は依然として魔物が溢れていることだろう。今の俺にはどうしようもない。ただ一心に彼女の準備と実力を信じるほかないのだ。
「ふぅ」
色々な感情とともに二杯目を飲み下してグラスをサイドテーブルへ戻し、それから視線を下へおろす。少女はピッチャーの中身を空調魔道具に注ぎ入れ、桶の水で満たしなおして定位置へ戻し、それから当然のように床に膝をついてベッドの横へ跪いたのだ。ちょうど布団に顎が乗る位置になった彼女は布の起伏に顔を埋めて黄色の目でじっとこちらをみている。耳と頭越しに見える大きなふさふさ尻尾がせわしなく動いていた。
興味津々といったところか。
『イーハ、お行儀悪いのである』
「おひめさま、のど、大丈夫なのです?」
『イーハ、ちゃんと立ってからにするのである。はしたないのであるよ』
「痛いところ、ないのです?」
『いくら足が疲れたからといって、主の寝具に顎を載せる従者はいないのである。イーハ』
「……」
たしなめる声をガン無視して俺を見上げる少女。イーハ。
「喉は、ん、なんとか。水、ありがと」
「あ、どういたしまして!どういたしましてなのです!」
改めてお礼を言うとイーハの大きな耳はぴぴっと震え、尻尾がそれまで以上に激しく左右へ跳ねた。まるでナズナの幼い頃を見ているようで微笑ましい。場違いにもそんな風に思った。
「頭、触ってもいい?」
「!?」
元の形に戻らなくなるのではと思うほど目を丸くしたイーハは、ぐしゃっと音を立てて布団に顔を突っ込んでみせる。どうぞ、と言いたいらしい。
『はぁ、まったく、はしたないのである』
「そちらさんは、バロンだっけ?」
手入れを雑にしているのだろう、ちょっとゴワゴワした手触りの髪。それを手櫛で整えながら少女の背後に声をかける。いつのまにか気持ちよさげに細められた目からは黄色の光が消え、かわりにその位置へ黒い靄が表れていたのだ。
『おやおや、お転婆姫様。吾輩の名前を覚えていただけるなんて光栄の至りである』
何が面白いのか黒い靄は愉快そうに声を震わす。
「そう言うなら正式に名乗ってもらえる?」
『ふむ、それもそうであるな。普通ならまず己から、と言ってやるのだがレディの前では吾輩から名乗るのが筋なのである』
ぶわっと靄が大きくなる。無力な少女となった今、内心でひやりとしないではなかったが、そんなことは鉄面皮の名に懸けておくびにも出さない。そのまま冷静な視線を送ってやると靄はだんだんとはっきりした形を得ていった。相変わらず奥行きのない黒一色だが、シルエットから推測するに背高帽を被りスリムな燕尾服を纏った高身長の男性。そう、黒塗りの紳士とでも言えばいいだろうか。見えているのは腰から上だけでその下は全てイーハの体へ散るように吸い込まれているが。しかし随分と人間らしい姿をした悪魔だった。
なるほど、あの巨腕はマフラーを媒介にしていたのか。
イーハの首をぐるりと巻く大きな織物のマフラー。両端はちょうど悪魔の腕の太さと同じくらい広く、小さな魔石が縫い付けてあった。本体を晒して見せたバロンの腕が標準的な男性のそれであることを考えるに、憑依する先によって大きさや形状を変えて運用しているのだろう。
『吾輩はバロン=バロン=バロン、古より流離う無宿無冠の小粋な悪魔なのである』
悪魔は流々とした声で歌うように己の名を告げる。これまた人間のような三節の名前だ。人に近い姿をとれる悪魔は基本的に高位の存在のみ。名前のことも考えると、これはマレシスに憑りついていたようなザコとは次元の違う化け物ということになる。
はぁ、上位の魔獣に続いて高位悪魔とはね……。
もはや開き直って呆れる以外に選択肢のない俺を前に、シルエットの悪魔は指を一本立ててこう付け加えた。
『ああ、基本的には名前は君たちと同じ構造である。バロンが名前、バロンが先祖から頂いたミドルネームであるな。そしてバロンは、嗚呼、今や失われし我が領地の名である!』
「ごめん、全部同じに聞こえる。で、領地ということは」
『仕方あるまいな、人間の耳には同じ発音に聞こえてしまうらしいのである。それと領地についてはあまり言及してくれるな、なのである。全ては元、なのであるからして』
魔界には前世、何度か迷い込んだことがある。実を言うと俺は結構方向音痴で、自分が歩いたことのない場所や迷いやすいとされる場所では簡単に迷うのだ。そして非常に珍しい天然の次元の歪みなどからふらりとあちらへ行ってしまうことが……いや、あればかりはうっかりこの世界へ迷い込んだ師を笑えない。
混沌とした世界だけど、悪魔の領地って割と地上に似て普通なんだよな……。
『さあて、吾輩はいみじくも名乗りを上げさせていただいたのだ。そろそろお転婆姫様のお名前を我々にも聞かせていただけるのであるかな?』
記憶を掘り返して懐かしい光景を思い描いていた俺だが、バロンに水を向けられて意識を戻す。そしてどう名乗るか逡巡し、すぐに考えることを止めた。
「アクセラ=ラナ=オルクス。オルクス伯爵家の長女で、技術神の使徒」
必要最低限の情報だけを伝えると、案の定バロンは少し大げさに驚きの感情を現して見せた。具体的には体を逸らして手を広げシルエットでもはっきりわかるよう頭を左右へふったのだ。
『簡潔であるな。いやいや、吾輩もそういった飾り気のない御仁は好ましく思うところであるのだよ。しかし、だね』
「……」
『なぜ使徒であるとまで名乗ったのであるか。言わねば己が為なるであろうに』
たしかに使徒であることは俺の切り札の一つだ。権力や後ろ盾が必要な人間社会と悪神に組みする存在の前では特に。ただ隠し玉だと思って頼りにしていたモノが相手にバレていたとき、それは敵方の武器になってしまう。
「着替えさせたのは君でしょう?背中の紋章は見てるはず」
ネグリジェの下はしっかり下着も外されている。あんな締め付けるものを付けたまま療養させるわけもないので当たり前だが、そうなると誰がそれをしたか。容疑者一位は目の前のモヤモヤ紳士だ。
『ふむ、お転婆ではあるがきちんと周りは見えているのであるな。だが一点修正をさせていただくとすれば、もちろんレディの着替えを紳士であるこの吾輩が見るなどということはありえないのである。あくまで着替えさせたのはイーハであるから、そこだけは覚えておいてほしいのである』
「……ん」
『それはそうと……イーハ、そろそろシャキっとしてはどうなのであるか。君は仮にもこのお姫様の身の回りを預かる侍女であるのだよ?』
急に矛先が向いた少女はすっかり俺の足の上まで乗りだして布団に突っ伏し、撫でられるがままに気持ちよさそうな顔を晒している。これが俺を着替えさせたのだと思うと、随分な重労働だったのではと思わされた。筋肉の塊である俺は見た目に反してかなり重い。
「ふぁぁ……?」
言語を失ったような声を彷徨わせるイーハ。このままあと2、3分もすればすっかり寝落ちてしまうと誰が見ても分かる有様だ。
「蕩けてるけど」
『どうしてそんなに獣人の撫で方がうまいのである……はぁ、うむ、それはあとでいいのであるな。こら、イーハ!』
「んんー、バロンはせっかちなのです」
不服そうに答えながらイーハは俺の手に頭をこすりつける。もっと撫でろと催促するようなしぐさだった。犬耳の裏を指の腹で掻いてやれば体勢を調整して横向きになり、そのまま俺を見上げる。悪魔との融合度合いの問題なのか、雷色からおそらく生来のものと思われるヘーゼルに変わった目で。
「わふん、イーハはイーハ=ジンナなのです。10才くらいなのです。ふにゃぁ」
「くらい……」
なんともアバウトな答えに俺の視線は自然と彼女の首元に吸い寄せられる。マフラーに隠されてはいるが、魔物革と魔法金属でできた異様に頑丈そうな首輪。陽気な笑顔からも侍女服からも程遠い武骨で禍々しいそれは最高級の奴隷に使われる魔道具だ。
前世の俺を含め、幼いころから奴隷だと自分の年齢が正確に把握できなくなる。この子も……。
それがあるからこそ、俺の享年は100歳目前といわれるのだ。数え始めが何歳か分からないから。そしてそういうコトのない世界を望み、願い、刀を振るってきた。もちろんエクセルの一生を使って相当な改善がなせたという自負はあるが、やはりまだ足りないのだと思い知らされる。
「……ん」
のうのうと生きている第二の人生が後ろめたいような、今すぐにでも何かしなくてはいけないような。とかく言いようのない無念さが沸き上がって俺はイーハの頭を撫でるのを止めた。
「わふん?」
『オホン、感傷に浸っているところ申し訳ないのであるが』
「?」
『イーハが自分の年齢を覚えていないのは、単純に忘れっぽいだけなのである』
「……」
なんとも居た堪れない空気が俺と悪魔の間に流れる。
「えっと?」
『あー、うむ』
聞けば彼女たちのいた里は誕生日といっても特別なことをしなかったそうだ。精々が母親にいつもより一杯髪を触ってもらえる日程度の認識しかイーハはしていなかった。そこにきて奴隷生活は4年目、もう慣れてしまったこともありいよいよ誕生日なる存在は優先度の低いものに……。なおイーハの忘れっぽさは興味ないことに対して全般的に発揮されるんだそうな。
『何と言えばいいか、その、申し訳ないのである』
「ん、まあ、ん」
「おひめさま、耳もっとなのですぅ」
当の本人は耳の付け根が気に入ったのか靴より上を全てベッドに乗せて、もう俺に撫でられる以外何もする気のない体勢だ。言われてみれば生まれながらの奴隷にしては、愛情や人肌に対して積極的で陽気な反応をみせている。昔の俺のような純粋培養の奴隷にはない特徴だ。
『あー、うむ。とりあえず自己紹介が終わったであるが、もし聞きたいことがあれば聞いてくれて構わないのである。ちなみに今は早朝で、じきに目覚めたお姫様のための軽食が用意されるのであるよ』
「ん、それはどうも」
バロンは諦めたのか話を進め始めた。俺の方も情報は欲しいところ。渡りに船と頷いて見せる。軽食も軽食で重大ニュースだが。なにせ水が腹に収まったあたりから今度は飢餓感がひどいのだ。
まあ、食事は急かさなくても来るらしいし、今はいい。
「私の刀と鎧は?」
『真っ先にソレであるか。まったく猛々しいお姫様なのである。刀というのが剣であるなら宝物庫である。望むなら、そして君が無為な抵抗をしないでいてくれるのであれば、すぐにでもお返しするのであるよ』
意外な返事だ。てっきり捨ててきたとか、もう折ったとか言われると思った。よくて保管はしてあるが渡すわけにはいかないとくるかと。返すというのはそれだけ自信があるから……いや、今の俺相手なら無手のレイルでも勝てそうだな。
『鎧のほうであるが、あー、うむ、思い入れのある品であったなら大変に同情するのである。もはや原型をとどめていなかったのと、お姫様の治療をする際に邪魔であったのである。申し訳ないが解体させていただいたのであるよ』
「……そう」
あの鎧と長い付き合いかと言われれば、実はそんなこともない。学院に入ってから纏った装備だ。だが入学からの濃密な戦いを共に潜り抜けてきた鎧であり、素材から集めて顔馴染の鍛冶屋に打ってもらった品だった。ビノーケンたちケイサルの鍛冶師が俺とエレナのために心血を注いだ大切な鎧だった。
いや、まあ、わかってはいたけどね。ヴェルナーキに思いっきり噛まれて貫通されたし。
あれだけやられて俺のあばらが二本くらいしか折れていないのは、むしろ防具の面目躍如と言った方がいいくらいだ。さすがはAランクダンジョン「深き底への階」にてエリアボスを張る蝕鉄獣の生体金属。そう褒めたたえたい。
「……はぁ。何日経った?」
『お姫様が攫われてきてからということであれば今朝で3日目、おそらく移動を考えれば4日が経過しているのである』
む、4日!?
言われた言葉が一瞬理解できない。たしかに俺の体は失った体力を回復するには魔力がたりず、魔力枯渇から抜け出すべく体力を魔力に変換するという最悪の循環を起こしている。だが、4日もあったのだ。その間ずっと飯を食っていないからといって、さすがにおかしい。
いや、それはいい。よくないけど、今はそっちじゃない。4日も経ったなんて……!
『場所の方はおおよそ分かっているであるな。その通り、トワリ侯爵の領都ソルトガにある居城である。砦の方が正確であるかな』
「そんなことはいい!」
「ひゃん!?」
咄嗟に声を荒げてしまった。イーハが毛を逆立たせて布団に伏せる。眉を八の字にしてこちらを窺う姿に申し訳なさが込み上げるが、今はそれよりも優先すべきことがある。
「学院の、私の仲間や学友は!?」
こうして呑気に話しているのは偏に、もう一体の魔獣がいるという情報を伝えようがないからだ。どうにか頑張ってくれと祈る他ない。体力も魔力もなくて怪我も治らず、城から出て森を目指すどころかこの部屋を強引に出ることすら叶わない。だから、だから、エレナやネンスやレイルを信じて状況把握に努め、気を窺いながら回復を図る。そう思っていた。
もう4日なんて、そんな、どうやったって決着はついているじゃないか!
キャンプにはどうあがいても4日耐える食料はなかった。魔力や気力も絶対に持たない。王国が本気の対応をして魔物を駆逐したのか、最後の一体の魔獣を倒して自力でこの状況にケリをつけたのか、あるいは、あるいは最悪の場合……なんにせよ、4日前と同じということは絶対にありえない。
「どうなった!?」
『そう怒鳴らなくとも教えて差し上げるのである』
少しだけ声を硬くしたバロンだが、それでもきちんと出来事を上げて説明してくれた。
『まずは国の対応であるが、上手い事この領地のすぐ傍に兵を伏せていたのであるな?襲撃二日目の昼には港町を押さえていたのである。その後、最高の装備で固めた騎士と兵士が雪崩れ込んだであるな。まあ、侯爵の借りていた最後の魔獣が盛大に暴れて手こずらせたようであるが』
そうか、4体目の魔獣は国軍と当たったのか。とりあえず一つは懸念が減った。
『森の中で大型魔獣と戦うのは骨の折れる作業であるからな。かなりの時間を食ったようであった』
時間はネンスたちに味方しない。時間稼ぎを端から担当していたと思しき魔獣を倒すのに手間取れば、それだけ彼らの危険はいや増すのだ。
『お姫様のお仲間は、細かいことは分からないのであるが、国の軍と合流したようである』
「それは、いつ?」
『襲撃四日目の夜であるな。森にいた者はほとんど全員が国軍と共にウダカの港町まで下がっているのであろう。教会はまだ交戦中であるが、じきに軍が駆け付けて解放するのである。ああ、ここソルトガに来ていた生徒たちは早々に侯爵が教会組の方へ追い立てたのである』
「そう……そう、よかった」
いくつか聞きたいことがないではなかった。なぜトワリ侯爵は最後の一組を捕らえも襲いもせず追い返したのか。教会組の方では何が起きたのか。森林組は救出されてからの1日をどう過ごしているのか。軍や国から侯爵にアクションはなかったのか。
なにより、エレナやネンスに怪我はないのか、だな。
だがそれを聞く気は起きなかった。聞いたところでほとんどがバロンには分からないことだろうし、なにより脱出できたというその一言で残っていた俺の気力は尽きてしまった。ぐっと高まった疲労感に体から力が抜ける。ぼすんと枕に倒れ込んで、そのまま眠ってしまいたい欲求に駆られる。
「……どうか」
どうか、あれから誰も欠けることなくウダカにて合流していてくれ。そう願わずにはいられない。ネンス、エレナ、レイル、アレニカ、レントン、それにグループは違うがアベル、マリア、アティネ、ティゼル、ヴィア先生……。全員が無事なら、俺はなんとかして帰れる。帰ってみせる。
ああ、見守って、導いてやってくれ。
柄にもなく俺は祈った。戦幸神テナス、鉄火場の幸運と非戦闘員の庇護を司る美しい女神に。そして祈りながらまた意識を失った。慌てるイーハを呆れるバロンが宥める声を聴きながら。
ついに始まった十章、遠征企画の後編。
連れ去られたアクセラは脱出と真相の究明を試み、
残されたエレナは救出のため動きだし、
そして黒幕はニタリと笑みを浮かべる……。
アクセラ側は過去最大に弱った彼女と新たなキャラたちの物語になります。
エレナ側はエレナと友人たちの群像形式になる予定です。
これまで挑戦してこなかった書き方をしているので、賛否含め感想いただけたらうれしいです。
また物語の大枠がようやく大きな動きを見せるはずなので、そこも楽しみにしていただけたらと^^
~予告~
犠牲者を出しつつも魔獣を討ったネンス達。
しかし会議の場にエレナはおらず……。
次回、氷の砦の方針会議




