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九章 第25話 鏃蜥蜴レイド

「……」


 突風と爆炎が荒れ狂う戦場を全ての部隊が注視してる。揺らめく大気と赤く熾った地面の間、灰色の煙をかき分けてそれは現れた。大きな目玉は白く濁って、赤い鱗は焼けただれ、傷口からはいやに鮮やかな青の血が噴き出す魔獣。だけどまだ生きてる。見た目は派手だけど傷が浅い。


「効いてる!」


「とどめを刺せ!殺せ!」


 口々に生徒が叫ぶ中、指揮官も追撃の指示を出そうとした。少なくともブロンスさんは剣を掲げたし、レイルくんも防壁を解いて道を譲ろうとした。けど誰が動くよりも早く、トカゲの体がめらめらと燃え始めたのだ。


『下がれ!深追いをするな、敵は魔獣だぞ!』


 翻される指示を聞いて弾かれたように前衛が距離を取った。恐れを含んだ目で誰もが見守る中でめらめらと燃えるそれは不気味な緑の光を帯びる。まるで青い血がそのまま発火しているように、炎は傷から次から次へと吹き上がるのだ。


「あれは……」


『静寂の瞳』と『望遠眼』で拡大された視界では、禍々しい炎に舐められた傷がじゅわっと音を立てて泡立ち、黒く焦げ、そして炭化する。自分を焼き殺そうとでもするようなその行為の意味が、次の瞬間に分かった。黒く焦げた鱗がぼろぼろと剥がれると、下からは傷一つない鮮やかな赤い鱗が現れたのだ。


「回復してる!しかも早い……魔獣角をピンポイントに狙う作戦に変更を!」


『分かった!』

 風魔法でネンスくんに提案すると鋭い声で了解が返ってくる。そこから伝令の魔法使いに同じことを各部隊へ通達してもらって、同時に魔法隊へも次の攻撃の準備を始めさせる。


『騎士隊、第二陣形へ移行だ!A隊はオレと一緒に前へ出るぞ!』


 ネンスくんを通じて命令を受けたレイルくんが叫ぶ。彼を中心に一番腕のいい騎士が8人、まだ立ち上がるには至らない魔獣の方へと走りだす。予備戦力が彼らの穴を埋め、ブロンスさんが剣を振り上げて吠える。


『戦士隊、続け!』


 巨大な蜥蜴にレイルくん率いる騎士隊の精鋭がピタリと張り付いて、その後ろに戦士隊の選り抜きが付き従う。より近い距離に張り付いて動きを阻害し、できるだけ攻撃の回転速度を上げる作戦だ。


『削れ!削れ!』


『足を動かせるな!』


『血に気をつけろ!』


 反撃のスキルとシールドバッシュを使い分けて足を狙う騎士にまだ動きの鈍い魔獣は必死で逃げ回る。その隙間を縫って剣や槍が鱗の薄い部分を斬り裂いてくのだから、青い血の溢れる量もどんどん増える。緑の炎を避けて攻撃を繰り出すと、やはり魔獣は大きく逃げずに大振りな尻尾と足による攻撃を繰り返してきた。それは一見して作戦通り、足回りをつぶしてダメージを増やす結果になっているかに見える。このままいけば魔獣角への攻撃路を切り開きやすい。


「単調すぎる……」


 あまりに順調なことに違和感が湧く。と、その時だった。途中から遅れて随分蜥蜴と距離のできてた二体目の魔獣が、突然異様な速度で動いたのだ。クリスタルの感知範囲2個分を一瞬で飛び越えて、一気にここへ……!


「上だ!レイルくん、上から来る!」


『上ぇ!?』


 わたしの叫びに高台の面々や指揮官が上を見ると、遠くのほうから何かが空を切って落ちてくるところだった。それは一見すると白い体毛の猿。

 どうやって……!?

 形状的にはあの距離をジャンプできるとは思えない。放物線を描いて飛来する白猿目がけて、予定の狂いを計算しながら迎撃の魔法を組んで撃ち出す。隣でニカちゃんも上げられるだけ射角を上げて狙う。


「ギャギャギャギャギャギャ!!」


 笑い声のような叫びを上げて白猿は体を捻る。たったそれだけでわたしの魔法は空を切り、ニカちゃんの弾丸も体毛の端を焦がすに終わった。身体能力が、機動力が常識の埒外にすぎる。


「アクセラちゃん!」


「ん!」


 高台から身を躍らせる白髪の少女にバフをありったけ飛ばす。特に蹈鞴舞のための氷魔法をしっかりと。それを受け止めながら彼女は門とその先に展開する部隊を飛び越えて行った。彼女が走る先では魔獣が肩から着地し、大量の炭と土砂をまき散らしながらごろりと回って勢いを殺して見せた。


「ゲギャギャ!ニンゲン、イッパイ!バイエン、喰ラウ!」


「しゃ、喋った!?」


 誰かが悲鳴を上げる。七級の魔獣で人語を解すのは珍しいようにも思うが、どこに能力が偏っているかは個体差があるのでなんとも言えない。ただ曲がりなりにも言葉を話すところを見ると、分かりやすい異常性に気おされてしまう。


『本当にあっちは任せていいんだよな!?』


『もちろんだ!』


 叫ぶブロンスさん。それにネンスくんが怒鳴るように応じる。そんなやりとりは知らぬまま、一路アクセラちゃんは魔獣へ走る。まるで放たれた矢の如く駆けて。


「バイエン、腹ペコ!ゲギャギャギャ!」


 白猿は上半身、特に長い腕が極めて発達した体形。全身を絡みあう長い体毛に包んで、例外的に露出した黒い五指と顔だけが頑丈そうな皮膚で覆われてる。その上で顔には面のような人がましい笑みが浮かんでいるのが実に不気味だ。魔獣角は側頭部から後ろへ向けて2本が付きだして見えた。


「ニンゲン、コドモ、小サイ!」


 自分に向けて走ってくるアクセラちゃんを見つけるとそう零してから無造作に腕を振り上げた。少女の体の倍もある腕は先に行くほど太く、長い指を握り込んだ拳には殺意が籠る。


「あ、危ない!」


 高台のどこかから悲鳴が上がる。しかし走るアクセラちゃんに振り下ろされた拳は、突如として地面を食い破り現れた鈍色の板を強かに殴りつけた。


「ギャ!」


 アクセラちゃんの魔術、地剣へ拳を叩き付けた白猿は反射的にその腕を退く。そこへ自分の生やした鈍色の剣を足場に駆け上がったアクセラちゃんが跳躍、抜刀して回転斬りを叩き込む。ギリギリで頭を逸らすことに成功した魔獣は怒り狂った目で小さな人間を探すけど、彼女はもう背を向けて森の西側へ走り去っていくところ。


「ギャゥゥ!バイエン、怒ッタ!バイエン、オ前ヲ、喰ラウ!」


 言葉を操るからといって知性が高いわけではないようで、白猿の魔獣はこちらへ目もくれずアクセラちゃんを追いかけて行った。嵐のような闖入者が去ったあとには、しかし弛緩した空気など欠片もない。なにせ2体いれば絶望的な相手だ。1体でも十分危険な綱渡り。それをこなし切って初めて、最後の大一番への道がようやく開ける。


「集中を乱さない!魔法隊、第二段の攻撃を準備するよ!」


 前線ではレイルくんたちがひたすら機動力を削ぐために打撃を繰り返してる。どうも骨折や打撲みたいな怪我は炎による急速回復ができないらしく、必然的に攻撃部隊は密着してそうした傷を負わせることになる。戦士隊も剣士より棍使いなどに比率を置いて配置換えをして対応してる。


「キュルルル……」


 低く唸るような声。追い込まれた状況に困惑してか、尻尾の魔獣角も不安定に点滅して……いや、この程度で勝てるほど七級が弱いはずがない。


「ネンスくん、やっぱり何かおかしい」


『ああ、ブロンスからも同じような報告が来ていたな』


 やばい、その会話は聞き逃した。集中しすぎた。


『作戦を変更する余地はあるか?』


 後悔は先送りにして考える。ただでさえこの規模の集団は遅いのに練度どころか個々人の力量もそこまで高くはない。柔軟な動きの展開は無理だ。予め決めてある作戦から別の作戦へ移行するのはそうでもないけど、細かい指示を通すのは……。レイドパーティはそんなに機敏に動けない。加えて違和感の先に待つものが分からない以上、どう対処すればいいのかストラテジーが組めない。攻めてきているのが向こう側であるからには単純に兵を下げるというわけにはいかないのだ。


「余地は、まだない」


『ならばより慎重に、臆病なくらいで行くよう指示するしかないか』


「冒険者にはいいけど、騎士隊にはその言い方をしないで。カッとなって突っ込む人が出ると思う」


『わかった』


「次に大きな攻撃が入った段階で拘束魔法を展開するから、風部隊は魔法詠唱の準備をして!」


 白猿の魔獣は人語を解した。しかも己をバイエンと自分を呼んでみせた。固有名称があるということは種族名しかないペインよりそれだけで格上の存在ということ。下手をすれば六級なのかもしれない。そのバイエンと同等の魔力を持つ魔獣が、再生能力しか持たないわけがない。


「ブロンスさん、拘束したら足を斬り落としてください。さすがに一本丸ごとは再生しないか、時間がかかると思われます。可能なら尻尾も。でも魔獣角への攻撃は反撃が強くなる危険があるので、狙えればラッキーくらいに思ってください」


『あいよ!』


 もしそれで駄目ならわたしが前線に行って……いや、それをしたら三体目の対応ができなくなる。この蜥蜴だけはどうあってもレイド形式で倒さないと後がなくなってしまうのだ。もしその結果として、ここで死者が出ようとも。

 でもここを私が動いたら、魔法隊はほとんど機能しなくなる。

 群れを相手にするだけなら前衛を下げて面制圧するだけでいいけど、今は前衛に当てないように高火力の魔法を放つ必要がある。魔法糸と合成魔法なしにそれができない以上、ここにいる素人レベルの魔法使いは全部遊兵になってしまう。


「最初に来たのがあの猿なら合成魔法で焼けたのに」


「こればっかりはしかたありませんわよね……っと!」


 ニカちゃんの狙撃が精密に再生したての目玉を破壊する。やっぱり当初の見通し通り複雑な機構ほど、また体積が多いほど再生に時間がかかるようだ。そうなるとカトルブレイクを使ったのは間違いだったのがよく分かる。あれは熱と風の刃が主体で、どちらかというと表面への破壊が中心になる。燃え上がる血が実際に熱いのは前線の反応で察しがつくし、となると熱耐性もかなり高いはず。


『畳みかけるぞ!』


 ブロンスさんの怒号がわたしを現実に引き戻す。


「詠唱、3!」


 急いでカウントを始め、同時に手を差し伸べて魔法糸を展開。騎士隊が一斉に盾を地面に突き刺して蜥蜴の渾身の一撃を耐える。今度は反撃なしの完全な受け。それだけに蜥蜴の動きはそこで一拍の停止を強いられる。爆発する炎すらそのまま抑え込む騎士隊の脇を抜けて戦士隊が打撃武器を足に振り下せば、蜥蜴のそれはついに圧し折れる。ここからでも音が聞こえそうな一撃だった。


「「「風の理は我が手に依らん!」」」


「這いずる風よ、逆巻くものよ、抱き、捕らえ、縛りつけよ」


 放たれた風魔法を集約して、合成魔法というには雑な魔法を魔物にぶつける。無数の風が門を吹き抜け、魔獣をまるで枯葉のように絡め取っていく。全ての足と尻尾に纏わりついて、台風の中にいるように動けなくする。


「よっしゃあ!」


 戦士隊の誰かが叫ぶ声が風に乗って聞こえた。骨折一か所に加えて全ての足と尾が自由にならなくなったことで蜥蜴は慌てたように暴れ出す。しかし動きが鈍くなった魔獣は誰の目にも驚異足りえない。三方向へ展開した各前衛部隊から攻撃が降り注ぐ。剣が太い指を骨まで切り裂き、槍が赤い鱗を穿って腸へ食い込み、棍が関節ごと足を砕くべく叩き込まれる。全身のあちこちから青い血液が噴き出し、緑の炎が燃え上がり、手足が黒く焦げては再生する。そしてまた壊される。


「キュルロララッ」


 悲鳴を上げて少しずつ削られて行く蜥蜴。大勢は決したようなその絵図にわたしの中の違和感は際限なく膨れ上がった。どうして反撃してこない。この程度の魔法に翻弄されるほど弱くはないだろうに。


「おかしい」


 口にしてから違和感の正体が分かった。燃え上がる蜥蜴を包むのは全てが緑の炎なのだ。攻撃に使用していた、魔獣角が操る赤い炎がまったく展開されてない。

 何で……!?

 人は熱に弱い生き物だ。だから爆発させることもできる赤い炎を避けて戦ってるわけで、そのことを魔獣角に宿った能力として炎を振るう魔獣が気づいていないわけがない。アクセラちゃんいわく若く拙い魔獣だった灰狼君ですら巧みに炎を扱ってた。なにせあれらは人類を抹殺するために生み出された殺戮生物、悪意と殺意の結晶なのだから。

 こんな有利な状況になるわけがない。何?何をする気なの?


「魔法を、魔獣角を使わない意味……何!?」


 有利すぎる状況が不安をかき立てる。爆発と炎がないからこそ選抜部隊の全員が近接攻撃に参加できてるわけで。しかしここで兵をすぐに下げる選択肢はあり得ない。いつまでたっても勝てないし、前衛の士気と足並みがガタガタになる。それなら当初の予定通り足を壊して機動力を削いでから一旦下げてを繰り返した方が確実か。


「ブロンスさん、尻尾は忘れてください。確実に足を壊して!」


『尻尾はそもそも届かない!高いし風が邪魔だ!』


 苛立った冒険者の怒号。オレンジの魔獣角は今、剣の間合いを避けるように尻尾ごと高く掲げられてる。自由に動かせないなりに暴風の拘束を逆手にとって長物でも届かない間合いへ上げた。確かにブロンスさんの言う通り、そういう印象を受ける。けれどそれは前衛にとっての話で、そのまま後衛から狙いやすいという意味でもあり……まずい!


「まずい、全員防御を……」


「もらいましたわ」


「ニカちゃんダメッ!!」


 揃わないパズルの中で抜けたピースの形状、その可能性に気づく。しかしもう遅かった。四度目の発砲音と赤い光を引いて射出された弾丸は、彼女の天性の腕前で邪魔な風すら抜いて魔獣角を貫通する。


 パァン!!


 風船が破裂するような音を立てて魔獣角が砕け散った。その音は前線に一拍の間隙を生じさせ、魔獣は体を一度痙攣させた。焦げる最中の傷も生焼けのままに、全身を包んでいた緑の炎が急速に勢いを失う。生成途中の右の目玉は中途半端に焦げた外皮の傷からどろりと溢れた。そのまま全ての足が挫け、尻尾が地を打ち、魔獣は事切れたように倒れ伏す。


「……」


「…………」


「………………」


 おかしい。あっけなさすぎる。こんな簡単なはずがない。脳内のあらゆるものが警鐘を鳴らすのに、視線の先には魔獣角が砕けたまま再生する気配のない魔獣が横たわる。

 予想が間違ってた?でもそんな馬鹿な。森の中の群れの動きが変わった?いつの間にか最後の一体が観測できなくなってる!?いや、今はそっちじゃなくて……っ。


「……勝った?」


「っ」


 誰かが呟いた。呟いてしまった。一気に流れ込む情報量を捌き間違えた、ほんの数秒のラグの間に。


「ま、待って!」


「「「「うぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」」」」


 止めるも間もなくその呟きは近くにいた人に伝播し、すぐに砦全体が鳴動するほどの歓声に飲み込まれる。まだ勝ったかどうかわからないのに。

 まずいまずいまずい!

 急いで半透明なスキル欄を直接呼び出して確認する。やっぱりない。


「エ、エレナ、私、倒しましたの!?」


「ニカちゃん、スキル!スキルは増えてる!?」


「えっ」


 茫然としながらも気の緩んだ顔をする友人にわたしは詰め寄る。あまりの剣幕に彼女は慌てながら視線を彷徨わせた。ステータス欄を呼び出して自分のスキルを見てるときの仕草だ。


「と、特には……」


 その答えを聞くが早いか、わたしは起動したままの魔法に依る指揮官用通話へ叫んだ。


「まだ倒してない!討伐のスキルがラストショットを取ったニカちゃんにすら出てない!ソレはまだ生きてる!!」


『エレナ、すまないが周囲の歓声で聞こえない!復唱してくれ』


 確かに帰って来たネンスくんの声はほとんど聞き取れないほど喜びの叫びで潰されてる。

 ああっ、伝令の風魔法使いじゃなくて本人の耳に届くように設定すればよかった!


「まだ倒せてない!」


 叫ぶわたしを見て事態の重さを察したニカちゃんが慌ててスコープを覗き込む。そして息を飲んだ。戦士隊の冒険者が数人、さっそく解体しようと倒れた魔獣へナイフを振り上げる所だった。


「駄目!あ、糸がっ!?ちが、これじゃない……!」


 杖を振って魔法糸を飛ばすけれど、遠すぎる。とっさに周囲へ待機させてある魔力糸を動かそうとして数本を引っ掛け損ねる。それはイメージの混乱。度重なる魔法の並列起動でどの糸が何の役割だったか、認識できなくなっているわたしはその一瞬でギリギリ握ってた主導権を失う。魔道具を使っても選別と再管理が追い付かない。一人で管理する弊害が最悪のタイミングで表出した。


「ギュア」


 小さな鳥のような声。灰色の鱗が一斉に動いて周囲の全ての人間に矛先を向ける。


「え」


 硬直した冒険者の声が聞こえて来そうだった。レイルくんが、ブロンスさんが、異変に気づいて仲間へ手を伸ばす。濁ったオレンジの光が鱗の奥で溢れた。


「だめぇえええええ!!」


 次の瞬間、灰色の鱗が全方位へ射出された。それはまるで、魔獣の体が破裂したかのような攻撃だった。


 ~★~


 森の中を走る。地面を蹴り、大樹の根を蹴り、幹や枝を蹴って走る。後ろをわずかに俺より早い速度で追いすがる魔獣は、猿らしく木から木へ跳び移っていた。


「ゲギャギャギャ!バイエン、早イ!ニンゲン、遅イ!」


 たしかにいくら『獣歩』を駆使しても魔獣バイエンは少しずつ距離を詰めてくる。ただそれは別にいい。俺は逃げているのではなく釣っているのだから。今開いている距離がゼロになるまでに砦から引き離せられればいいのだ。


「ニンゲン、悪アガキ!バイエン、餌、ナレ!」


「うるさいエテ公……」


 人間の言葉を扱ってはいるが会話はできない。インパクトはあれどさほど頭がいいわけではないのか。学生ならまだしも俺にはそういった子供だましは通用しない。


「そろそろかな」


 辿り着いたのは放棄された遠征企画のためのキャンプ。エレナが作戦会議のときに描き込んでいたマップを頼りに開けた場所まで来たのだ。


「っと」


『獣歩』を一旦解除して着地。踏み消された焚火の横を通って数歩前へ出る。すると背後に白猿の魔獣が弾丸のように着地する振動が響き、巨体がゆえの風の揺らぎが右に生まれる。トンと軽く飛び上がれば足元を白い剛腕が通りすぎた。続いて左上から圧が迫る。それも大きく二歩左へずれることで避けた。殴られた地面が爆発したように跳びちって泥が服にかかったが、それだけだ。


「チョコマカ!スルナ!」


 そのまま二度三度と振り下ろされる拳を全て背中で感じて避け続ける。何発目かの殴り下しが大地へ突き刺さったところで紅兎を抜刀。右隣に柱の如く立つ腕へと片腕で斬り付ける。


 ガン!


「……?」


 意外にも紅兎の刃が一切通らないという結果。それどころか白い体毛一本斬ることはできなかった。


「ゲギャ、ゲギャゲギャ!バイエン、固イ!バイエン、最強!ニンゲン、バイエン、勝テナイ!ゲギャギャギャ!」


 耳障りな哄笑をまき散らす猿。その存在を無視して俺は走りだす。


「ニンゲン、弱イ!逃ゲル!ゲギャギャ、弱イ、弱イ!」


 実に楽しそうに後ろから追いかけてくる馬鹿猿だが、俺は真っ直ぐに大木へ駆け寄り跳躍。勢いのまま幹を蹴って宙返り。その回転を乗せてバイエンの頭に刀を振り下ろした。綺麗に額へ入ったはずのそれは、しかし小さな火花を散らすに終わる。


「……」


 バイエンの遥か後方に着地してから刀を見る。今散った火花は紅兎のちょうど中頃の刃が欠けたことによるものだ。

 また欠けた。

 魔力を帯びて赤く色付いた相棒を見下ろしてなんとも言えない気分になる。道具なのだから摩耗するのは当たり前なのだが。どうにも感傷的な気分になる。それというのも、さっきから魔物の群れを相手にしていたときと違って高揚感が生まれないからだ。むしろ来る途中までのようにそわそわする。

 さすがに魔獣相手だと心配が勝つのか……。

 つまり置いてきた砦の面々が気になるのだ。いくら過保護になるべきではないと、そして彼らもまた十分に戦えるようになったのだと思えても、相手が魔獣では安心しきれない。それはもうどうしようもない。


「はぁ……さっさと始末して帰ろ」


「シマツ?ニンゲン、バイエン、殺ス?ギェーギャッギャッギャ!ニンゲン、オ前、愚カ!餌、愚カ!ゲギャギャギャギャ!」


 ああ、うるさい。

 俺だってある程度のオツムと名前がある魔獣を簡単に倒せるとは思ってない。ただやろうと思って動くのとやれないと思って動くのでは、同じ勝利でももぎ取り方が変わってくる。そもそも倒すだけなら難しくないのだ。急ぐから難度が上がるだけで。


「できるだけ早く終わらせる。ん、なんとかなる」


 息を吐く。決めたことへの気負いを一旦捨てるための、深い深い息だ。

 息を吸う。精神を入れ替えるためにもう一度深々と。本気で、全力で、倒す。

 息を吐く。魔力も酸素も一切出さず、ただいらない物だけを外へ出すイメージで。

 息を吸う。肉体という魂の器に、燃え盛る炉心に、いる物だけを送り込むイメージで。


 体の芯が熱くなっていくような感覚。頭の中が高揚感に溶けて行くような感覚。違法な薬物を打ったような酩酊感。いい女を押し倒すような飢餓感。敵の首に手を駆けるような衝動。全てを壊す決定的な衝動。


 聖魔法中級・トランクイリティ


 呼吸を繰り返すたびに溢れてきた激情が一瞬にして消え去る。いつも通り、水面のように澄んだ平面の世界。いや、いつも生まれる細かい波すらない、完全な凪の精神。紫伝一刀流の唱える武極の境地に限りなく近く、しかし致命的に違う、魔法で生み出された平面世界。その世界を体に秘めて一歩踏み出す。


「ゲギャ?」


 雰囲気が変わったことを魔獣も察したようだ。しかしどうでもいい。そんなことは些末な問題だ。二歩目で全身に張り巡らされた魔術回路がバイパスとして活性化、三歩目で魔力と魔法が全身へ行き渡り、四歩目で過剰な強化が神経や筋肉を破壊し始め、五歩目で生命魔術・治癒が体を直し始め、六歩目で崩壊と再生の帳尻が不安定ながら合う。


 仰紫流刀技術・魔ノ型ムラクモ「蹈鞴(たたら)舞」


「ゲギャ……バイエン、オ前、嫌イ!」


 本能的な焦りを覚えてか、ドスドスと白猿がこちらへ走り始める。一度は紅兎を防いだ頑丈な白毛黒皮の拳。バックステップでその落下地点から退きつつ紅兎を掬い上げる。


「ゲギャァァアアアアアア!!」


 白猿の悲鳴が迸る。一度は紅兎を弾いた皮膚が、今度は容易く指と指の間で斬り開かれていた。噴き出す赤い血に白い毛を濡らして跳び下がる化け猿。それまでの甚振るような余裕はもうない。殺意だけがそこには込められている。


「魔獣バイエン」


 喋ると口から靄のような赤い息が、熱くて熱くて口の中が渇いて行く魔法の呼吸が薄っすら棚引いた。


「精々抵抗してみろ」


 あまりの魔力に深紅の輝きを見せる紅兎。その切っ先を不細工な猿顔に向けて俺は嗤った。


あと2話でこの章も終わりですね!

最終話には久々の狐林さんから超かっこいいイラスト頂いておりますのでお楽しみに~!!

一響なんて私用のも会社のもそのイラストでPC壁紙飾ってます(笑)


さて、そんなわけで毎度恒例、章末のお休みと連載開始、特別編についての日程です。


3月27日(土)九章 第27話

~お休み~

5月1日(土)間章1

5月2日(日)間章2

5月3日(月)間章3

5月4日(火)間章4

~通常連載開始~

5月8日(土)十章 第一話


~予告~

響き渡るエレナの悲鳴。

魔獣はまだ、死んでいない。

次回、大陽の剣

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― 新着の感想 ―
[一言] なるほど。確かに違和感が明らかですが、どう来るかは予想し難いみたいです。 しかし、折角中々善戦なパフォーマンスを出来ているですから、もしエレナさん達はまた負け組に回されたらかなり惜しいでしょ…
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