九章 第12話 はじめての『力』
ドン!
最初の一発を撃ったとき、私はてっきり自分が竦み上がると思っていた。だって今まで武器なんて持ったことがなかったから。護身用、というか事実上の自決用ナイフくらいしか触ったことがない私にとって魔導銃は最初、まったく新しい物体だった。
「……」
光沢のある藍黒に月の光を宿して艶めくスワローズハント。下手をすると私の身長に迫る大きな魔道具は開いた二脚でどっしりと甲板を踏みしめて、抱きつくように射撃姿勢をとった私を逆に支えてくれるようだった。冷たい木と金属のストックに頬をつけて、私の手に合わせて細めの線が切ってあるグリップを握り込む。そしてしっかりとした感触のトリガーに指をかけて引き絞る。モードは一定の魔力を吸い込んで撃ち出すショット。
ドン!
とても簡単な動作に続くのは機関部のわずかな震えと大きな破裂音。銃の先のマズルでカッと赤い花が咲いて、夜空を真横に火の弾丸が引き裂く。1秒も立たないうちにフラメル川の岸に鎮座していた岩に当たって二度目の花が咲いた。
ドン!
もう一発撃ってみる。頬と掌から何かが引き抜かれる感触があった。たぶんそれは魔力なのだと思う。減った分に合わせて私の中でその何かがゆっくりうねる感触もする。でもまったく減った気がしない。それはそうだ、だって私の中に溜まっている魔力はたぶんこの国の誰よりも多い。真っ赤な瞳が示す通りの魔力過多症。それにしたってあまりにも多すぎる魔力はルロワ家の主君であるザムロ公爵すら凌ぐという。とても強力な魔法使いであるエレナさんも私に魔力量では敵わないと言っていた。
ドン!
四発目ともなると腕の中の大きな銃が随分暖かくなってくる。それはロッドに熱が溜まっているからでもあるけど、なにより装甲へ私の体温が馴染んできているからだった。人肌に温もった銃は私の魔力を吸って弾丸を吐きだす。魔法の弾丸を。それはまるで対話しているような感覚だった。あるいは道具であるはずのそれと深く繋がっていくような。
ドン!
五発目。今度の一発は少し角度が変わってしまって水面に落ちた。けれど水の中で数瞬は燃える弾丸。それこそまさに魔法である証拠だ。この無骨さを流線的な装甲で覆った燕色の銃はいとも簡単に魔法を使わせてくれる。私が15年間苦しめられてきた呪いへ力強く、荒々しく、そして鮮烈に否を叩き付けてくれる。
ドン!
六発目を撃つ頃にはいつの間にか涙が溢れていた。誰よりも大きな魔力を秘めていながら、属性へ変換する才能も魔法制御のスキルも持たない無能の私。毛先が赤いストロベリーブロンドと膨大な魔力を持つ、素晴らしい子供を産む可能性のある血の保有者。ルロワ家からどの家にも最高の値をつけて嫁がせられる、政治的に重要な道具。父に、母に、兄に向けられてきた冷たい言葉の数々が、引き金を絞るたびに撃ち抜かれて行く気分だった。
ドン!
この魔道具はきっと普通に手に入れることができないような魔道具なのだ。それは分かる。そもそもエレナさんが大部分を設計したとも聞いたし、それだけで彼女の常識外れな思考が練り込まれていると察しがつく。
でも、道具、モノよ?お金があれば手に入る物品でしかないわ。
引き金を引いて魔法が放たれた瞬間、私の魔力と私の意思で魔法が生み出された瞬間、私は感動と歓喜と絶望と落胆の全てを一気に味わった気がした。おかげで一周回って生まれて初めての冷静さに陥っているくらいだ。だって、一丁の銃があれば私は自分の価値をこんなに直接的に示せる。それなのに父は私を婚姻の道具とみなし、母は何もできない出来損ないと評し、兄は自分の足を引っ張る家の恥さらしだと切り捨てた。そして私自身がそんな家族を必死に繋ぎ止めようとお人形を演じていた。
ドン!
ああ、馬鹿馬鹿しい。なんて馬鹿馬鹿しくて、惨めったらしくて、無駄な人生だったのかしら。
重低音が腹の奥底に響くたび、どんどん今までの私が崩れて行く。悪魔に掻き乱されて、噂に壊されて、歪な継ぎ接ぎのお人形。自分でそれを繕うことすらも途中で諦めて、生きた屍と化したところからエレナさんが無理やり引き上げてくれた。そんな私が纏っていた心の鎧はもう砕けた欠片を糊で止めただけのような襤褸だった。今、その全てが粉々になって消えて行く。ようやく消えて行く。
ドン!
もう魔力の流れは感じ取れる。ストックとグリップから銃の中心を貫く金属のシャフトに流れ込んで、その太い一本がロッドの後ろに突き当たるところで無数に枝分かれしているのだ。そしてロッドの納められたチャンバーの各所へ繋がって複雑な魔力注入をしてくれる。力を流し込まれたロッドはキラキラと輝いて刻まれた回路の通り魔法を生み出す。輝きが限界手前になったところで引き金を引くとロッド前方の機構が作動して発動直前の魔法を解き放つ。マズルから四方に余剰魔力と溢れた魔法が花弁を広げ、数センチ先で火弾が魔法化。スコープで狙ったとおりの軌道を描き、流れ星のように星空を駆け抜けて目標に飛び込んでいく。
ドン!
かっきり十発を撃ってから親指でトリガー横の抓みを弾き上げ、ショットから魔力量を任意で調整できるチャージモードへ制御を変更。ストックに頬を当ててグリップを強く握り込む。魔力がどっと溢れだしてシャフトを駆け上りロッドへ流れ込んだ。
「私は……」
スワローズハントから熱気が溢れて涙の痕を乾かす。それでも魔力を注ぐのは止めず、まだまだ余っている体の中のそれを押し込む。
キィィィ……
ロッドがから澄んだ高音が聞こえ出した。これは臨界点が近い印だと最初に教わっている。今も背後でエレナさんとアクセラさんが身動ぎしたのが分かった。これ以上すれば危険で、2人が止めに入るのだろう。だから、今日はここまでだ。
「私はッ!」
引き金を絞った。
ドッ!!
強烈な音と衝撃。これまでで一番大きな花が開いて、太陽のように輝く大振りの弾丸が低い軌道で吐きだされる。早々に水面を削って蒸気の尾を引き連れたそれは岸の大岩に直撃。まるで熱した鉄のように灰色の岩がドロリと溶けて弾けた。
「ニカちゃん、ロッド!」
やや咎めるようなエレナさんの声に機関部側面のボルトハンドルを掌でかち上げる。ガシャンと音がしてロックが外れるのでハンドルを掴みもう一度下げた。そうすることで二重になっていたチャンバーの扉は開く。真っ赤な光が夜闇を照らす中でボルトハンドルを強く握りロッドを引き抜く。装甲に触れる度に甲高い音を奏でる熱いクリスタルを私は自分が寝そべる布の端にそっと置いた。長い棒の端だけを掴んで動かすのは重くて大変だが、失敗すると大火傷だ。
「もう、10発も撃ったあとにチャージモードなんてしたら危ないでしょ!」
「う……ごめんなさい」
作った人間にそう言われると少し申し訳ない気持ちになる。だけどあれは私にとって必要なことだった。体の中に渦巻く魔力のほとんどをまだ残してはいるが、随分と心が軽くなった気がする。混乱と興奮のせいで変に平坦だった頭の中も少しずつ動きを取り戻し始めた。
「……変わったね?」
「そうかしら」
問い返しながら自分でも思う。こんなに頭がクリアなのはいつぶりだろう。いつだって他人にどう思われるか、母ならどう振る舞うか、何をすれば正しい令嬢に見えるかばかり考えてきた。そのフィルターが自分と世界の間にあって、夜の散歩以外にありのままの自分でいられる時間はどこにもなかったのだ。
「そうね、そう言われればそうだわ。まるで春の夜を歩いているみたい」
空を見上げる。無数の光の点が散らばって胸が詰まるほど綺麗だった。天の川も有名な星座もどこにあるのか見つけられないくらい満点の星。マイナーで複雑な星座なんてもう、どこを結べばいいのか分からない。いっそ勝手に書いてしまおうか、なんて思ってしまう程だ。
大好きな星のことも、ずっと見ていなかった気がするわ。
「うん。なんか、ニカちゃんとは思えないくらいすごい落ち着いた」
「ちょっと、それ失礼じゃありませんかしら!」
むっとして視線を空から隣に座った友人に移す。眼鏡の暗視機能越しでうっすら暗い緑の世界に浮かぶ彼女は優しい笑顔を浮かべていた。心から安堵したような、何かを祝福するような笑顔だ。
「ふふ、口調戻って来たね。なんか人が変わったみたいでちょっと怖かったよ?」
そうかしら?
「集中しすぎて冷たくなる。エレナそっくり」
アクセラさんが苦笑……?を浮かべて私とエレナさんの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「ちょ、ちょっと!」
「あ、たしかにぽいかも」
やめさせようと手を掴むもお構いなしに撫でられる私。エレナさんは最初から抵抗せずに髪を滅茶苦茶にされている。しばらくして私も抵抗を諦めた。ざっとしか弄っていないし、そもそも両サイドで括っているので多少のことなら乱れないから。それにあまり嫌ではなかった。
「はぁ……それでエレナさんと同じというのは、喜べばいいんですの?困ればいいんですの?」
「喜べばいいに決まってるでしょ!?」
「困った方がいいかもね」
すかさずエレナさんが応えるもアクセラさんが混ぜ返す。
「ちょっと、アクセラちゃん!」
まるで子供のように頬を膨らませたエレナさんがお腹めがけて頭突きをし、それをアクセラさんが片手で受け止める。彼女はまったくよろめく様子も見せずそのままエレナさんを犬のように撫で始めた。
「よしよし」
「よくないし!」
気炎を上げるエレナさんがその実、特別な感情を白髪のお姫様に向けていると知っている私はその光景をなんとも言えない表情で見守る。なんというか、じれったいような胸やけがするような感覚だ。
でもこれは恋人扱いというか、そういうロマンチックな雰囲気じゃないわね。
そう思うとエレナさんが少し可哀想な気もする。いや、思いが通じていなくても最愛の人に髪を撫でてもらうのは嬉しいのだろうか。例えば殿下が私の髪をあんなふうにぐしゃぐしゃと……。
はぅ、それは、ちょっと嬉しいわ!でも余計に切なくもなるでしょうし!
優しいトパーズの目を思い出す。大昔、テラスから落ちそうになった私を支えてくれた優しく真っ直ぐな黄色い瞳。顔が火でも灯ったように熱くなるのを自覚した。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。こんな思いを四六時中しながら生きているんだと思うと、それだけで私の15年よりよっぽどエレナさんの毎日の方が凄まじい気すらしてくるから不思議だ。
でも、それを避けては通れないんでしょうね……っていつまでこの人たちじゃれ合ってるのかしら。
「も、もう、貴女たちずっとそこで暴れているつもりですの!?次のロッドに変えられないじゃないのよ!」
まるで私などいないように2人で楽しそうにしているからつい邪魔をしたとかそういうことではない。断じてない。ただ本当に氷のロッドを装填したかっただけだ。まだ使ってないロッドが山ほどあるからでしかないのだ。
「あ、もう今日はお仕舞だよ」
「……へ?」
それまであの手この手でアクセラさんの守りを突破しようとしていたエレナさん。突然困ったような顔でこっちを見てそう言った。たしかにそこそこの時間ではあるけれど、まだまだ深夜というほどじゃないはず。しかも私は夏休み前からずっと生活リズムが崩れて昼と夜が少し後ろにずれこんでいる。2人だって全然疲れた様子はない。それなのにどうして?
「アレニカ、私のスキルは音や魔力を消す」
「え、ええ。そうですわね。助かっていますわ」
かなり高位の『隠蔽』系スキルをアクセラさんは持っていて、気配だろうが魔力だろうが設定した範囲の外からは絶対に観測できないらしい。これのおかげで夜の甲板を使った練習にクレームを入れられずに済むのだ。ちなみに光は見えるとのことでマストの上の見張りと夜警にはお金を握らせてあるそうだ。冒険者を中心にそういう依頼は多いとかで彼らは快く受け入れてくれた、とアクセラさんは少なくとも言っていた。
「衝撃は消せない」
「……?」
私が首を傾げるのと船内から扉を吹き飛ばして大勢の人が飛び出してくるのは同時だった。
「見張り、先ほどの振動は何事だ!」
「水棲魔物か、夜警は何をしていた!」
「他の船はどうだ、攻撃されているのか!?」
「ひっ」
筋骨隆々の船乗りと冒険者の一団。完全武装で殺気を滾らせ、今にも斬りかかってきそうな気迫を振りまいている。彼らの纏う荒々しい空気と怒気に私の体は硬直した。頭に冷たい水を流し込まれたような感覚だった。
「あ、あ……」
しかも理由は11発目の私の射撃による振動だ。もちろん冷静に考えたらそんなことはないと分かっているけれど、バレれば足首を掴んで船縁から投げ捨てられるのではないかと思った。それくらい攻撃的な気配を四方八方に振りまいていた。私をそれまで包んでいた万能感が足から抜けていく。
「まあ、こうなる」
「あ、ご、ごめ、ごめんなさい……!」
あっけらかんと言うアクセラさんの横で私は腰を抜かすしかない。一人で私3人分はありそうな巨体の男達がこっちを見たから。想像上の弾丸で撃ち抜いた両親や兄の冷たい目が蘇る。全身を満たしていた魔力が体の中心へきゅっと集まる。残暑の熱気が突然真冬の北風に変わったような心地だった。
「あ、ひ、かひゅっ」
心臓と肺が勝手に暴れ出して頭が痛くなる。息を吸った後には吐くのか、吸うのか、それが分からない。変な音が喉から漏れた。
「ニカちゃん、大丈夫だよ!」
エレナさんがすぐさま私を抱きしめてくれた。触れ合った部分から熱が伝わって、点になるほど凝縮していた魔力も少しほぐれた。それでも寒いし頭は麻痺したまま。息がおかしい。船員がこっちに一歩踏み出すたびに体がガクガクと意思に反して震えた。
「お、おい、大丈夫か!」
「はぁっひゅっかひゅっ」
「ニカちゃん、私の方を見て。さあ、目を見て。魔法を使うから、ゆっくり呼吸してね。アクセラちゃんはフォロー!」
強引に顔が横へ向けられる。眼鏡がはぎとられて暗い代わりに透き通った視界が戻り、綺麗な黄緑の目に覗き込まれる。それだけで不規則に暴れていた心臓が少し大人しくなった。
「ん、簡単に傷は消えないか」
アクセラさんが何かを言った声が聞こえたけれど意識に入ってこない。赤と青の結晶でできた室内杖をエレナさんが抜いた。
「はい、ニカちゃん。吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー」
エレナさんの手が胸に当てられて吐くタイミングで軽く押してくる。吸う空気が急に薄くなったような気がして、それだけで少し吐き気と頭痛が収まってくる。
「すぅっはぁっすぅっはぁっ」
エレナさんの手が息のリズムを教えてくれ、導かれるままに繰り返すと不思議なくらい息が楽になって来た。
「はい、落ち着いてきたね。大丈夫だよ、ゆっくりでいいからね。目を見たままでね」
伏せそうになる顔。そっと顎に指を当てられて上げさせられる。もう一度覗き込んだ彼女の目はあやすような声と違ってひどく真剣だった。
あら……?
ふと、私の中の魔力が引っ張られるのを感じ取る。まるで魔導銃の引き金に指をかけているときのような感覚だ。それはエレナさんの目に吸い寄せられているような気がした。
ぐるん。
「え!?」
「あ……」
次の瞬間、私たちはそろって困惑の声を上げた。私の場合、過呼吸による過剰な酸素供給で赤くなった頬と涙の痕がくっきり残る色白の顔を見降ろしていたからだ。特徴的な髪色からしてそれが私であることはすぐに分かった。次いで過呼吸?サンソ?という疑問が脳内に浮かぶ。過呼吸とは自分で制御できない呼吸のし過ぎで、血中の酸素濃度が上がる状態のことを言う。
いや、だから、サンソって何?
「「痛っ」」
頭の奥に痛みが走って私とエレナさんは同時に目をぎゅっとつぶった。それから目を瞬かせるともう全ては元通りになっている。
「今の……ニカちゃん、今、何が見えてた?」
頭痛を抑えるように側頭部を押さえるエレナさん。その質問にやはり彼女も同じ状態だったと気づく。あの時のように。
「私自身、ですわね」
いつの間にか口が聞けるほどに息は安定していた。
「わたしも、わたしが見えてた……」
やっぱりあの時と同じに……。
私をエレナさんが連れ出してくれたあの日。心の深いところに落ちて行く私を彼女が抱き止めてくれたとき。今と全く同じように視界が入れ替わったことがある。あの時はエレナさんが本気で私を繋ぎ止めようとしてくれていると、必死になって助けようとしてくれていると理解させられた。まるで自分の思考のようにはっきりと。あの時と同じように動揺もかなり収まっていた。
「……酸素は、空気の成分の一つだよ」
「!」
エレナさんの口からその言葉が飛び出した瞬間、疑念は確信に変わった。それはあちらも同じだったようで更に驚いたような顔になった。今回は知識とその瞬間に考えていたことが分かったのだと。
「あれは、エレナさんのスキル……ではなさそうですわね」
「わたしもよく分かってないけど、ニカちゃんのスキルでもないのかな?」
「私、そんな変なスキル持ってませんわよ」
「わたしだって、あーいや、変なスキルは一杯持ってるけど」
こんな事を呑気に話している場合じゃない。だって明らかに今のは普通のスキルではない。でもそんなに悪い事じゃない気がするのも本当で、私たちはつい意味もなく言葉を重ねた。もしかしたら平静を保つために必要だったのかもしれない。
「その、ニカちゃん、もしかして前の時に……」
エレナさんが何かを聞こうとしたときだった。アクセラさんの声が割って入って来た。
「二人共、説明終わった」
言われてそちらを見ると船乗りと冒険者たちが困ったような怒ったような顔をして腕組みをしている。どうやら事情を聞かされてお怒りの様子だ。でも、何故かさっきのような怖さは感じなかった。
~★~
「……はぁ」
溜めていた息をようやくの思いで吐きだす。船のベッドは狭くて硬くて、正直今まで寝た寝具の中でも最悪中の最悪だった。どんなに冷遇されていても衣食住は最高級の物に囲まれて生きてきたのだから当然だ。しかもその狭い場所で魔導銃を抱えて横になっているのだから寝心地のいいはずもない。だけどその割に意外と気分は悪くなかった。
「ふふ」
ふと思い出して笑う。船乗りたちからはこれでもかと叱られた。あまりの衝撃に水棲魔獣が襲ってきたのかと思った、船は構造上横に揺れると弱いので気を付けてほしい。要約するとその2点について。
叱られたのなんていつぶりかしら?
思えば私が船乗りと冒険者に恐怖を感じたのは武装した男性だからではなく、怒りをぶつけられると思ったからではないだろうか。父がどうしようもないことについて怒ることはあった。母が私を見ないままなじることも、兄が憂さ晴らしのように否定の言葉を重ねるのも。でも叱られるのは本当に久しぶりだった。私を思って叱ってくれるのは、今は亡き乳母のフラウだけだったから。
「エレナさんは、叱ってくれるかしら」
フラウ以外だとたった一人、私の愛称を読んでくれる人。私にとって本当の意味で友達と言えるのは、今となっては彼女だけかもしれない。
「何か、恩返しをしないと……」
ゴツゴツとした魔導銃を抱きしめていると眠気が思考を侵食していく。無機質なくせに私の体温で優しく温め返してくれるその魔道具。藍黒の滑らかな装甲を指でなぞる。私がようやく手に入れた「力」。私を救ってくれる光。エレナさんからの贈り物。きっとまだまだ私には過ぎた道具だ。
もっと、強くなりたい。魔導銃も、心も、もっと。
「ふぁ……ふぅ」
我慢できずに欠伸を漏らす。最後に思い浮かべるのは日中、お話の時間を取ってくれたシネンシス殿下のこと。噂のことと遠征のことで改めて謝っておきたかったと言う殿下に、私は自分もお役に立ちたいと答えた。そのためにも私は変わらなくてはいけない。この期に及んで変わらないまま、家の望むお嬢様のままでいられるほど私はイイ子じゃない。
それに、遠征の間に、殿下の愛称を呼べるように……なりたいもの。
たったそれだけのことで半分眠りかけている頭でさえ胸がドキドキしてくる。小さな目標だ。でも少し前までは殿下への恋心でさえ隠さなければいけないからと一枚の曇った硝子越しに見ていた。それが今はキラキラしている。他の令嬢方の視線や悪魔の囁きは鈍く、あるいは鋭く私に痛みを覚えさせるけれど……良くも悪くも私は自由になったんだろう。もう硝子は感じなかった。
じゆうに、なったんだわ。
もう一度強く胸のキラキラとスワローズハントを抱きしめて、腕に食い込む角の感触を楽しみながら私は眠りについた。
~予告~
少女に根付く力への渇望。
その欲は人間すべてのもので……。
次回、船上のブートキャンプ




