九章 第10話 擦れ違い、勘違い
学院を出立した俺たちは今、4隻の船に分乗してフラメル川を下流の方へと運ばれている。てっきり王都に入って港へ使うのかと思っていたけど、乗船は学院が所有する壁外の港を使うことになった。学院生3学年、学年ごとに分けるとはいえ王都に一度入れていたら時間がかかりすぎるかららしい。そのために普段は誰も使ってない港があるんだから、それはそれでどうなのと思わされる。
「凄かったね、あの港」
「……うん」
「王都より北、行くの初めて。寒いかな」
「……さあ」
「沼地の魔物は覚えた?私の魔法、あんまり効かないと思うから頑張って」
「……うん」
「ん……」
割り当てられた部屋は狭いながら2人部屋。俺は二段ベッドの下から色々話しかけているのだが、上にいるエレナから返ってくるのは気のない生返事だけ。俺が覚えているのは朝の鍛錬から帰って玄関で意識を失ったところまで。そのあとに何かあったことだけは分かるが、それが何かまではなんとも。目を覚ました時にはエレナの手で風呂に入れられ、着替えまで済んだ状態でソファに寝かされていたのだ。
「この部屋、ちょっと暑い」
「……うん」
声のくぐもり方からしてブランケットを被って丸まっているんだと思う。
「晩御飯なんだろうね」
「……さあ」
「そろそろネンスが呼びに来る」
「……うん」
「……」
実は目の前の板の向こう側、二段目のベッドには俺の声に反応して「うん」と「さあ」を返す魔道具でも置いてあるんじゃなかろうか。本物のエレナはいつの間にか抜け出して船倉の隅っこにでも隠れているとか。
逃避、だな。
そんな馬鹿な考えを浮かべてから自分で打ち消す。そろそろちゃんと向き合わないといけない。俺には思い当たる節があるのだから。そう、意識を失う直前まで溢れだす寸前だった蹈鞴舞の弊害という爆弾が。
「エレナ、もし……」
ベッドから這い出て声をかけたときだった。扉を控えめにノックする音が聞こえた。一瞬無視するか考えて、用件が察せられるだけに仕方なく諦める。服の皺を伸ばしてから扉を開けると予想通りヴィア先生が立っていた。
「先生」
「あ、お休み中でした?ごめんなさい」
「大丈夫です。ネンスが呼んでる?」
俺が首を倒すとヴィア先生は苦笑というには少し苦すぎる笑みを浮かべた。
「ネンスくんを女子の船室に向かわせるわけに行きませんからね」
~★~
「というわけだ。黙っていてすまなかった」
国内だと最大規模の客船の船尾付近にあつらえられた小さな談話室。プレイルームよりプライベートなそこに集まった俺たちに向かって、遠征の裏で進行していた作戦について語りネンスはもう一度頭を下げる。同じく状況を語った俺とレイルは黙って彼の両隣に座っている状態だ。この場で本当に初めて知らされたのはエレナ、アレニカ、そしてレントンの3人だけとなる。
「そ、そんな……でも、僕は何も、戦えないのに……」
唖然として言葉にならない言葉を漏らすのはレントン。この班の中で一番縁の浅い生徒だ。意外なことにその横へ座ったアレニカは多少戸惑った顔をするだけで取り乱してはいない。ヴィア先生は知っていた組の中で唯一苦い表情で黙していた。
「背景や具体的な作戦は今伝えたことが全てだが、レントンには別途頼みたいことがある。だからこの班に入れた」
「ぼ、僕に役割、ですか?」
「そうだ。お前の乗馬の腕前は私も聞いている。早駆に限って言えば既にお父上を凌駕する腕前だと」
名伯楽の一族ウッドバウト子爵家の嫡男。そのことを俺が知ったのはこの話し合いが始まる直前に、一応の自己紹介をしたおかげだ。同時にそのとき、なぜ顔合わせ段階で俺が呆れられたのかも分かった。馬で爵位を貰った家の者に乗馬が得意かと聞いたのだから、知っている人間からしたら呆れる他ない。
「その腕前を見込んで、非常に情けない頼みをしたい。もし不測の事態が起きた時には私を乗せて脱出してほしいのだ」
「でん……ネンスくんを、乗せて?」
「そうだ。そうならないように方々手を尽くしたが、己の策を信じて最後の一手を用意せぬ者に明日はない。万が一にも私が討たれるわけにはいかないのでな」
そんなことなら最初から自分を餌に釣りなんてしなければいいのに。きっとこの部屋に半分くらいはそう思ったことだろう。けれどそうも行かないのが王族の大変なところ。戦は政治の一部なのだから、早め早めに小さいうちから潰す。そのためなら多少のリスクは飲まざるを得ない。
「……わかりました。でも、ちょっと考えさせてください。その、整理がつかなくて」
それだけ言って足早に談話室を出たレントン。ネンスと目配せを交わしてレイルが後を追った。扉がきっちり閉じるのを見届けてから王子殿下はクラスメイトの顔に戻ってアレニカを見る。
「アレニカ嬢、君には全くもって災難だと思うが、万全の準備は行っている。すまないがこの数日を私に預けてくれないか」
申し訳なさに満ちたその言葉。ネンスに惚れているアレニカが拒否するはずもなく、顔を真っ赤に染めてコクコクと頷いて見せた。もし彼女の気持ちを分かっていてしているならとんでもない女誑しだ。たぶん違うんだろうけど。
「先生はどうするの?」
「私は別のグループの引率になってるんです。その、大変なアクセラさんたちについていられなくて、ごめんなさい」
肩を落とすヴィア先生は言葉ほどナイーブに見えない。むしろ自分で選んで、そのことで他方を選ばなかったことに責任を感じている風だ。
「全ての教師が事情を知っているわけではない。ヴィア先生には数少ない一人として我々とは別行動のグループを守ってもらわなければいけない」
先生の責任感を少しでも減らそうとしてかネンスくんはそう言う。でも先生は首を横に振って顔を上げた。眼鏡の奥には意思が煌めいて見えた。
「もちろん分かっていますよ。でもこれは王宮からの命令だからでも、ネンスくんが王子として話しているからでもありません」
春ごろのおどおどした彼女からは想像もつかないほどキッパリと言い切るヴィア先生はもはや別人のようだ。
「ネンスくんの方は少し離れて騎士や冒険者が大勢待機しているでしょうし、何かあれば真っ先に援軍が駆けつけられますよね?だから先生は別のグループに付くんです。先生は先生の生徒を守るため一番いい方法を選んだつもりです」
たしかに先生の言うことは正しい。彼女ほどの上級魔法使いが一人いれば戦況は大きく変わる。しかも水魔法は戦闘以外でも活躍の幅が広い。応援を待つための籠城にも最適だ。それを冷静に見極めて選べるようになったことはまさしく彼女の成長の証だ。
「もちろん承知しています」
彼女は彼女なりの覚悟をしてこの話を受け入れているのだ。そう思っただけで少し誇らしい気持ちになる。別に彼女は俺の弟子というわけでもないのに。また、ここに来ても口数が少ないエレナだったが、彼女は彼女で俺の新技の負担が減るように魔法の組み合わせを考えて支援すると言ってくれた。
「あとは無事を祈るのみ」
「そうだな」
俺はネンスと頷きあって席を立つ。続いて立ち上がった2人のうち、ネンスがアレニカだけ残るよう呼び止めるのを見て内心で少女にエールを送る。色々あったが、それでも彼女がネンスを好いているのは変わらない事実だ。これまでは経験してこなかっただろう一対一での話がいいものになるといいな。
話は、こっちもだよなぁ。
「……」
廊下に出てからも黙ったまま後ろを歩くエレナを思いながら頭を悩ませる。部屋はすぐにネンスの所へ駆けつけられるように女子の割り当てとしては一番共有スペースに近いのですぐ到着だ。悩める時間もない。
「やっぱり少し狭いね」
「……うん」
さっきまでと同じ調子で生返事を返すエレナはそそくさと自分のベッドに上がってしまった。俺は下のベッドの枕に背を預けて膝を抱える。俺は乗船するまで言葉を交わすことがなかったのと、目覚めた時の状況で勝手に安堵していた。でもエレナの態度を見て、目を逸らしたかった可能性からもう逸らせないことを悟った。
「今朝のこと」
「!」
頭の上で板が軋んだ。エレナが体を硬くしたことがすぐに分かった。
「やっぱり私、なにかした?」
蹈鞴舞には二段階の副作用がある。両方とも精神安定魔法トランクイリティを切った段階で発生するもので、前者は精神を安定化させる効果が終わってなお残る異常な強化系魔法による興奮状態の発露がメインだ。これはトランクイリティや制御系の魔法に比べて強化系の方が持続時間に秀でており後を引きやすいことに起因する。激痛を抑え込むため大量に分泌された脳内麻薬から思考力が戻るのも、やはりトランクイリティの持続より遅い。このため全ての魔法が終了する間際ほど破壊衝動、性欲、食欲、倦怠感が高まる。
「その、全く記憶がなくて」
今朝は連日の多用と急いで終了させた負荷で脳内麻薬濃度が高くなっていたのか、第二の副作用が出るまでに意識を失ってしまった。だがもし、俺が完全に意識を失うまでの時間でナニカをしていたら。
「痛い事、した?」
「ううん」
第一の副作用による暴力的な衝動は平時の俺なら嫌悪する人種、奴隷を虐待する貴族のそれに匹敵する。あるいは俺の中で一番おぞましい暴力がそれだからこそ、同じレベルにまで落ちるのかもしれないが。もし俺がこの筋力のままそんなふうにエレナに振る舞えば……想像しただけで胃が裏返るような吐き気と恐怖が溢れる。
「本当に……?エレナ、首怪我してる」
「寝違えただけ」
「それは、嘘」
本当に寝違えたんだとしたら俺に回復魔法を強請ってくるのがエレナだ。それができない事情があったとしても自分の魔法で手当てをするか、最低限薬草を使ってちゃんとした処置をするはずだ。市販の汎用軟膏を塗った布とテープでお仕舞なんてことはあり得ない。
「エレナがずっと落ち込んでるの、私のせいでしょ?」
「……違う。ちょっと、生理なだけ」
「エレナ、そういうので不安定にならないでしょ」
「……じゃあ船酔い」
「じゃあって……酔い止めも飲んだでしょ」
とにかくこれ以上の会話がしたくない。そういう拒絶の気配を感じ取って一旦言葉を区切る。このあしらい方はたぶん、本当に俺が殴ったとかではないんだろう。それが分かって気分は軽くなるどころか、重い鉄鉱石をたらふく腹に落とし込んだように重くなった。
俺、エレナに……。
第一の副作用で生まれる攻撃的な衝動は破壊ともう一つ。危険信号に埋め尽くされた体の奥底から湧き出す強い繁殖欲。自分の子孫を残すという生物の存在理由が脅かされたとき、バカにならないほどの力が発揮されるとともに手が付けられないくらい欲しくなる。英雄色を好むと言われる理由だ。
ああ、ああ……。
途方に暮れたまま目の前が薄闇に侵食されるような感触は、一歩先に踏み出すことすらできない絶望。しかしもしそうだったなら、俺が絶望を感じるというコト自体許されざる感傷だ。今すぐ爪を喉に突き立ててかきむしりたいような怒りに駆られる。
「……言いにくいようなこと、したんだ。私」
息を吸うも吐くもできないほどに締め付けられた喉からかすれた声が漏れる。それが上の段に届いた瞬間、爆発したかと思う程の大きな声をエレナが上げた。
「違う!」
「!」
「違う!違う!違う!」
何度も叫ぶエレナ。さしもの俺も身勝手な感傷に膝を折ることを止め、驚愕と困惑を浮かべて上段を見上げるしかない。
「ちがうの……そうじゃ、ないの……!」
珍しく、本当に珍しく、エレナは泣いていた。
「本当に、アクセラちゃんは、何もしてない」
嗚咽を噛み殺した残骸のような否定。振ってくるそれを浴びながら、俺はそれ以上を聞けなかった。姉妹として聞くべきだったのかもしれない。あるいは師としても。でも俺の中の何かがそれ以上踏み込むことを許さなかった。エレナの声に含まれる響きを感じ取った何かが。俺はそれ以上踏み込むことを恐れたのかもしれない。
「わたしが、わたしが、バカなこと、しただけなの。だから、だから……」
そこで途切れた言葉。上の段からだらりと振って来た左手が力なく動く。何かを求めるように。拒絶する一方で今の彼女には俺以外慰めを見出す相手もいない。それは酷く苦しいことだ。
~★~
あれから何時間経ったろうか。エレナは俺に手を握られたまましばらく啜り泣き、泣き疲れて眠り、今ようやく目が覚めた。その間中、俺はずっと彼女の手を下のベッドから握っていた。ひとしきり泣き腫らして目覚めた彼女は少し落ち着いて、それでもまだ俺の手を握っている。
「アクセラちゃんは、恋ってしたことある?」
藪から棒にそんな質問が降って来た。今日は色んな感情が降ってくる。まるで大雨だ。
「どうして?」
「答えて」
泣きまくったからか、寝起きだからか、どこか幼い調子で彼女は先を促す。
「……アクセラとして?」
「どっちも」
アクセラ=ラナ=オルクスとして生まれてもう14年半が過ぎた。しかし未だに恋をした覚えはない。そもそもかなり女性的な思考回路にも馴染んだが、元が100を数えようかという爺だ。年齢の方は幼い脳に引きずられていても、男に抱かれたいとは全く思わない。だから答えはノーだ。
「ん。この人生では、ないよ」
「いいなって思う人は?」
「今はいない」
家族愛の感情ならこれ以上ないほどに沢山抱いてきた。それでも異性に、俺にとって異なる性がどっちなのかはおいておいて、強い執着を覚えたことは今生ではない。強いて言いうならファティエナ先輩の執事ガレンとメルケ先生が近い感情を掻き立てられたが、あれは闘争心であって性欲でも恋慕でもない。
「アクセラちゃんて結局、どっちが好きなの?」
「さあ。恋してみないと分からない」
これも本心だ。いつかそんな感情を抱くとき、俺の心がどちらの性別に寄っているかは分からない。
「じゃあ、昔は?」
ちくり。痛みが心臓を襲う。
適当にはぐらかそうかな……いや、極力エレナにはそういうことをしたくない。
今回、本当にエレナの言う通り俺が何もしていなかったとしても、きっと原因自体は俺にある。それを彼女が明かさないというなら無理に聞き出す方がよくないんだろうけど、それだけ俺の中では負い目が大きくなるのだ。そこまで考えてまた一つ結びつく。
エレナに負い目を感じて、ああ、俺は重ねているのか。
「……そうだね。昔はいたよ」
「どんな人だったの?」
「……強い人だった。私よりも、もしかしたら私の師匠よりも。天才だった」
本当に強かった。こうしてエレナに語りかけているのは、技術神になるのは本当ならば彼女だったろうにと思うほど。こんな状況になった発端の蹈鞴舞、そのベースとなった呼吸法は彼女の技だったのだ。相手の火魔法を奪い取る同門殺しの奪火もそうだ。彼女が生み出して仰紫流に組み込まれた技の中には俺が終生使えなかったものもある。
「歳は近かった?」
「結構離れてたね。私の方がおじさんで、彼女はまだ若い女性だった」
「どうして好きになったの?」
「さあ、どうしてだったかな。もう昔過ぎて覚えてないや」
今さら彼女を思い出そうとしても焦げた砂漠の匂いと涙しか思い出せない。どんな顔で彼女が死んだのかすら覚えていない。この体になってから何度か夢に見たというのに。きっと泣いていたのだろうとは思う。あるいは落胆していたろうか。
「忘れるものなの?」
攻めているわけじゃない。単なる疑問。信じられない、信じたくない。そういう感情は籠っているが、あくまで恐ろしい話を確認するようなニュアンスだった。
「エレナ、マレシスを失った悲しみだって段々と癒えてきたでしょ?」
あれはほんの二か月ほど前のことだ。それなのにもう1年以上経ったような気がする。それだけ忙しい日々をおくって来たということでもあり、入学式だって随分前のように感じるのだから不思議なことではないのだろう。しかし彼の死だけを思えば、何故あのときの痛みが和らいでしまったのかと思う気持ちも確かにある。
「どんなに大切な人のことでも、人はいつか忘れるんだよ」
それは悲しいことだが救いでもある。立ち止まらないために、生きて行くために必要な。
「全部、消えちゃうの?」
エレナの声は震えていた。ただ安易に自分の言葉を翻すことは、俺にはできない。
「大好きだった思い出の断片と、ふとしたときに蘇る印象。不完全な亡霊だけを残してね」
それをヴィア先生のように優しく捉えられる人もいれば、俺のようにドライに受け止める人もいる。長く生き過ぎたのかもしれない。そんな風に思いたくないとすら思わなくなって久しい。
「もう、忘れちゃった?」
忘れたいと思ったことがない訳じゃない。だけど忘れられたことはない。
「いいや。亡霊がずっと残ってる。今でもずっと。エクセルの亡霊と一緒に、砂漠の中で待ってる」
「待ってる?」
「真実を抱きしめて、誰かに見つけてもらうのを。あるいは、私が……」
俺が隠した真実を取りに戻るのを。
「アクセラちゃん、ちょっと痛いよ」
「ごめんね」
我知らず指先に力が籠っていたらしい。解くとエレナの指の腹が少し白くなっていた。
「そうだ、アレニカとの約束の時間までにご飯食べないと。食堂で貰ってくる。待ってて」
この話題は終わりだと言外に告げる。ベッドから抜け出して軽く身なりを整え、二つ揃いの鍵から片方を抜き取ってポケットに落とし込んだ。刀はもたず腿に括りつけたナイフだけ携えて。
「ねえ、アクセラちゃん」
扉に手を掛けたところで名前を呼ばれて振り返る。二段ベッドの上の段。うつ伏せになって枕へ顔を埋めたエレナが片方の目で、艶やかなハニーブロンドの隙間からこちらを見ていた。
「わたしは、いるよ」
それがどの質問に対する答えなのかはすぐに分かった。なぜか今日一番、罪の意識に苛まれたときよりもなお、心臓が深い所に沈むような感覚がした。その感覚の名前はすっと昔に忘れてしまったもので、咄嗟には浮かんでこなかった。
~予告~
老いた兎が痩せた月に舞い踊る。
見よ燕と。守れよ燕と。
次回、つばくらめの銃




