九章 第2話 交錯する目線
レッドローズ寮の廊下をわたしはずんずんと進む。只ならぬ気配に同級生も上級生も慌てて道をあけてくれる。その後ろからマリアちゃんが申し訳なさそうについてくるけど、今だけはそんなことが何も頭に入ってこない。なぜならわたしは今、とても怒ってるから。
ドンドンドン!
目的の部屋の前までやって来たわたしはためらいなくドアを叩いた。寝室の奥で毛布をかぶっていても分かるくらいに激しく。
「エ、エレナちゃん……」
控えめに止めてくるマリアちゃんを無視してもう一度叩く。
ドンドンドンドンドン!
何事かと両隣の部屋から人が顔を出す。あまりの騒音に集まりだした彼女たちは、振り上げた拳を振り下ろすわたしを見て顔をしかめる。でも関係ない。部屋の主が、ニカちゃんが返事をしてくれないのだから。
ドンドンドンドンドン!
もう一度叩いてみるけれどやっぱり反応はない。
「ね、ねえ、エレナちゃん?出直、そう?」
いくら叩いても返事がなくて、マリアちゃんがわたしの手を握りった。強く叩きすぎたからか少し赤くなってる。
でも、でも、でも。
何ができるかをずっと考えてた。アクセラちゃんたちからニカちゃんのことを聞いてからずっと。考えて考えて、考え抜いてもわたしにはどうしたらいいか分からなかった。魔導銃を渡す以外になにも思いつかなかったんだ。
なのに……。
事の発端は単純な納品遅れ。悪魔騒動のせいで鍛冶職人は武器防具の注文が殺到して大忙しだ。だからわたしの魔導銃の部品は遅れた。ギリギリ学校が始まったらニカちゃんに渡せるかなと思ってただけに、わたしの中では痛恨の予定ミスに感じられた。彼女の心に訴えかける手段が何も思いつかない。
「……ニカちゃん」
悩み続けて心に溜まった澱とイライラが怒りになったのは今朝。クラスに入ってしばらくしてからだった。
どうして、あんなに身勝手でいられるの?
教室は異様な雰囲気だった。マレシスくんがいなくなったからだけじゃない。ニカちゃんや他にも何人かいなかった。でもクラスメイトの、特に女子生徒が何かに怯えるようにしてたのはそれが理由じゃない。マレシスくんのお父さんが噂を聞いて怒り、決闘を申し込みに行った家の娘達だからだ。
あんな噂をコソコソ流したのは自分たちのくせに。ツケが回ってきたら怯えるなんて都合が良すぎる。
ニカちゃんは何も悪くないのに酷い噂を流された。どうして彼女たちは反省したり謝ったりするよりもまず怯えることができるのか。わたしには分からない。入学の段階でAクラスに入れるくらいに頭のいい、家柄もいい女の子たちのくせに。
「エレナちゃん」
もう一度名前を呼ばれて、わたしは自分の無力さを噛み締める。強くなったつもりでも全然、何一つ思い通りにできない。わたしはあとどれだけこんな思いをすれば満足に誰かを助けられるんだろうか。
「ま、また明日、来よう?」
「……うん」
マリアちゃんの言う通り、めげずに通うしかないのかもしれない。そう思って扉から一歩離れた時だった。
「なにごとですの?」
高圧的な声は後ろからかけられた。見ると野次馬の中から一人の女子生徒が出てくるところだ。かなりキツい印象を与える、尖った目の人。
「よろしくて?ここは最も格式高い女子寮、レッドローズですのよ。それを一体なにごとかしら」
きれいな人だけど、いやな目だな。
蛇と狐を足して可愛らしさを全部抜いたみたいな人だ。
「そこは……ああ、ルロワさんのお友達かしら?」
何かを言う前に扉の番号プレートを見て彼女は嗤った。気品を感じさせる微笑みでも、社交的な笑顔でもない。その表情と「ああ」に込められたイントネーションで、彼女がどういう人物なのか大体察しがつく。全て透けて見えてしまうような陰惨な笑みだったから。
「あなたは?」
「アナタ?口の利き方がなっていない一年生だこと。マクサランド子爵家の当主令嬢、ゲルダ。3年生で、レッドローズ寮の寮長ですのよ」
ブルーアイリス寮の寮長ニッカ先輩と同じ最高学年。でも面倒見の良さは感じ取れない。
「騒いですみませんでした、失礼します」
「お待ちになって」
呼び止められて舌打ちしそうになるのをぐっとこらえる。
「わたくし何度も同じことを言わされるのは好きじゃないのだけど、もう一度言って差し上げるわね?何ごとかしら、と聞いたのよ。お答えなさい」
回りくどい人だ。視線もどこかぶしつけな感じで、じろじろとわたしやマリアちゃんを観察してくる。
「と言われましても」
手にした扇を開け閉めして忙しない。それが催促なのは分かるので返事したほうがいいんだろう。でも何事とも言いようがない。わたしが怒って突撃してきただけだ。
「ハッキリお答えなさい。それとも言えないことがあるのかしら」
そいうわけでは……。
そう曖昧に返そうとしたとき、ゲルダさんの唇がニィっと吊り上がる。
「ルロワさんみたいに」
「!」
収まりかけの怒りが一気に燃え上がる。全身からごく少量漏れた魔力が一気に冷気へ変換され、周囲の温度がぐっと下がる。我知らず握り込んだ拳の中で薄い氷の膜が生じては割れ、ペキペキと音を立てる。感情の昂ぶりによって引き起こされる魔力の魔法化現象だ。
「エ、エレナちゃん!」
いち早くそのことに気が付いたマリアちゃんがわたしの肩を掴む。でもゲルダさんは、目の前の女はそこまで察しが良くなかった。わたしが表情を消したことで煽れたとでも思ったようで愉し気に続ける。
「なんで……」
「ルロワさん、よほどバレたことがショックだったのかしら。学院に戻ってらしてからも部屋に籠りっきりですの。お可哀想にね?それか嵐が過ぎるのを待っているのかしら」
それはそうだろう。察しがいいわけがない。だって本当に察しがいい、優秀な人間ならそもそもニカちゃんの噂話を持ちだしたりしない。シーメンス子爵の決闘騒ぎやネンスくんが動いてることは耳聡い生徒なら学年違いでももう知ってる。芝居がかった動作で蒸し返しに来るなんてよっぽど耳が遠いとしか思えない。
「まあ、わたくしなら恥ずかしくて世を儚んでしまいますけれど。引き籠ってやり過ごそうだなんて」
「なんでさぁ」
魔力がどんどん冷気に変わってくけど、空調の聞いた寮内だからかほとんど誰も気づかない。代わりにわたしの頭がどんどん冷たくなる。集中がピークに達したときと同じような冷静な激情が音もなく脳内で巡る。まるで振れ幅の大きくなった感情に合わせて意識が引きの視点になったみたいだ。
「あら、何か仰いました?」
なんであっちもこっちも、必死になってくだらない噂を消そうとしてるのに。これだけややこしい話になってるのに。わたしやアクセラちゃんが、ネンスくんが、アベルくんにレイルくんにマリアちゃんが、大勢が泣きそうな思いをして修復してるのに。
「なんでそういうことができるかなぁ……」
「ブツブツと何を言っているのか聞こえなくってよ。何か言いたいことがあるなら」
「ないよ」
冗長な言葉を切る。アクセラちゃんみたいに、必要なことだけ研ぎ澄ませて喋ってくれないかな、この人。
「帰ろうかなって思ったけど、やっぱり止めた。会っていく」
「何の話を」
目の前の女がそれ以上口を開く前にわたしは腰から杖を抜いた。二色のクリスタルに彩られた室内杖を見て悲鳴が上がる。ゲルダもたじろぐように数歩下がる。
「断ち斬れ」
「ひっ!?」
杖を扉に向けて小さく回すと延長線上に風が細く吹く。極薄の風魔法の刃はドアノブ周りを音高らかに切り抜き、金属と木が床を叩いた。
「こんな腐った所に置いておけないから、連れて帰りますね」
「な、な……!?」
ゲルダは突然の魔法と騒音に怯えた目を向けてくる。きっとすぐに威勢を取り戻して口やかましく言い始めるのが分かってるから、わたしはそれを置き去り、ノブを失った扉を潜る。マリアちゃんは困ったような顔で残ってくれた。きっと彼女が時間をかせいでくれるはずだ。
ありがと、マリアちゃん。
廊下の扉を二度開けて閉める。リンナさんがニカちゃんのために付けておいたのか、灯りの魔道具は光を放ってる。でも誰かがいる様子はなくて、やっぱり寝室だろうか。
「こっちだね」
リビングを超えて2つの私室を前に、わたしはためらいなく片方を選んだ。もう一方には控えめながら可愛らしいリボンの装飾が施してあるのに対して、こちらの扉は枝葉を編んで花をあしらった品のいいリースが飾ってあった。少女趣味なのがリンナさんで大人っぽいシンプルな方がニカちゃん。
花、枯れてる……。
天文学の授業で何度もお話をするうちに分かった彼女の性格は、意外なほど几帳面で丁寧。それに真面目すぎるくらい真面目。家族から酷く冷たい扱いを受けても一縷の望みをかけて、向いてないのに模範的なお嬢様を何年も演じ続けてきたくらいには馬鹿真面目だ。そんなニカちゃんが枯れるまで花を放っておくなんて、よっぽどのことがない限りありえない。
「……ばか」
わたしを頼ってくれなかったこともそうだけど、一人で抱え込む性質にしても程度ってものがあると思う。でもそういう不器用さが彼女らしくてじれったくなる。
「はぁ、ふぅ」
怒りを抑える。つい扉を破ってしまったけど、この勢いのまま突っ込むのはまずい。冷静にならないと。二度三度と呼吸を整えてから最後の扉を開ける。部屋の中は真っ暗でわたしの後ろから差し込む光以外に光源がない。おかげで目が慣れる前に『暗視眼』が発動して薄緑の視界に切り替わった。
「ニカちゃ……」
天蓋付きのベッドの真ん中、肌蹴たネグリジェ姿の小柄な女の子が一人。その手にはきらりと光る何かが握られてる。薄いレースの幕ごしに見えたそれは。
ナイフ!?
脳裏をゲルダの言葉がよぎる。自分なら自殺してると大げさに嘆いて見せた言葉が。
「ちょ、ダメだよ!」
最悪の想像が浮かんでわたしは走った。
止めなきゃ!
「ふぇ?」
どこか間延びした反応でこっちを向くニカちゃん。おかしい。そう思ったけどもう止まれない。レースを引き裂いてわたしはニカちゃんに跳びかかる。右手のナイフを左手で抑え込んで、抵抗できないようにもう片方の手首を掴む。勢い余ってそのままベッドに押し倒した。レースに引っ張られて天蓋のカーテンレールが脱落し、わたしの後ろで大きな音を立てる。
「な、何!?」
「ニカちゃん、早まらないで!」
「エレナ!?え、ちょ、早まって!?ていうか何!?どういうこと!?」
ニカちゃんは真っ赤な瞳を見開いて叫ぶ。口調からして大分パニックになっているんだと思う。でも、部屋に突入したらナイフを見つめてぼんやりしてるところだった時のわたしの方が……?
「あれ、ナイフじゃない?」
抑え込んだ右手の中にあるのは金属製の刃物じゃない。繊細な硝子細工の室内杖だ。
「だから何の話だって聞いてるでしょうが!!」
怒鳴り声に続いて鈍痛と衝撃がわたしを襲う。それが唯一動かせる首を使ってのヘッドバットだったと気づいたとき、もう彼女はわたしの下から抜け出したあとだった。体をよじって脱出したせいでネグリジェは脱げかけてる。
「い、いきなり何なのよ!勝手に入ってきたかと思えば突然跳びかかってきて!?」
「あれ、その、ごめんね。ナイフ持ってるんだと思って、その……」
言いよどんだわたしにニカちゃんの表情がすっと冷たくなる。パニックで切り替わってた頭に、一気に現実が追い付いてきたような雰囲気だ。
「……私が自殺しようとしてると思ったのね」
「うん、えっと、違ったみたいで、ごめんなさい」
「……」
冷え切った表情のままニカちゃんは目を伏せる。
「え、あの、違ったんだよ、ね?」
「……ちょっとだけ、思いはしたわよ」
ニカちゃんの唇がその言葉を紡いだとき、わたしは心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に陥って、この瞬間に自分が息を吸おうとしてたのか吐こうとしてたのかも分からなくなった。
「え、えーっと、いくら硝子でも杖で一突きっていうのはちょっと、痛そうというか、死ににくそうだし止めた方が……」
「なんでそう発想が物騒なのよ!杖で刺し殺すわけないでしょ、それくらいなら果物ナイフかなにか持ってくるわよ!?」
混乱した頭から苦し紛れに飛び出した的外れの言葉は彼女にいつもの騒がしい雰囲気を少しだけ戻してくれた。でもまるで沼へと引き込まれる動物が、時折もがいて少しだけ浮上するような、そんな反応は長持ちしない。続く言葉にわたしの心臓はぎゅうぎゅうと締めあげられていく。
「……知ってる?貴族の娘が自害するとき、毒の次に一般的なのが魔法なのよ」
それは何かの本で読んだ。理由は……
「ほとんどの魔法には、苦しまずに死ねる手段があるわ」
そういうことだ。理由は分からないけれど、自害するための魔法はどの属性にも複数存在してる。眠るように息を引き取るものもあれば、派手に敵を巻き込む自爆系もある。
「でも私は魔法が使えないから、そういうことはできない」
毒という選択肢が入っていないのは、入手の伝手もなければこっそり学院内に持ち込む手段もないから。もとから持ち込もうと決心していれば別かもしれないけど、ふと壁の内側でそんなことを思いついても手には入るまい。
「もし魔法が使えたら眠るように楽になれるのかなって、ちょっと思って杖を見ていただけよ」
わたしとニカちゃん、2人の視線が硝子の杖に落ちる。一見すると魔法杖だけど、よく見るとそれは取っ手が赤い色硝子になってるだけで単一の硝子から削り出されたものだ。
「笑っちゃうわよね、この杖。私とそっくり」
「えっと……」
まずい、さっきからニカちゃんの話題が上手く繋がってる気がしない。
「魔法杖じゃないのよ。クリスタルがないもの。ただの硝子。」
たしかに魔眼で見ても一切魔力は見えない。
「あはは、本当に笑えるくらい一緒。私と一緒のお飾りよ」
そんなことはない。だってニカちゃんは普通にしてるだけでとんでもない魔力が感じられる。温度差のせいで空気が揺らぐように、ときどき無属性の魔力が体から溢れてるのが見えるくらいに。
「ニカちゃんはお飾りなんかじゃないよ。だって」
「ふふ、止めてよ。慰めなんていらないって、言ったじゃない」
遮る彼女の言葉は明らかに攫われたあの時のことを意識したもの。そう気づくとわたしの口元は勝手に少しだけ綻んだ。
「でもあの時、信じてくれたよね」
ニカちゃんは一瞬詰まった。それでも冷たい印象は溶けてくれない。
「死にたくなかったのよ。あの時は、死にたくなかった」
心臓が、痛い。
「噂は聞いたかしら。私の噂。サロンで人気の、私の噂」
もちろん知ってる。下手をするとニカちゃんが知ってる以上のことも。首謀者がカーラさんという同じクラスの生徒だとか、リンナさんが耐えきれずにネンスくんへ密告したこととか。カーラさんがグループを掌握した手腕は素直に凄いと思うのだけど、やっぱりあの状況でそういうことができてしまう感覚は理解できない。したいとも思えない。ゲルダといい、どうしてそう愚かになれるんだろうか。
「私のサロンだったのにね。失うときはあっという間だったわ。はは、本当にあっさり掌返しされちゃって」
わたしから見てあのサロンは、正直あんまり意味が理解できない代物だった。
「お堅いマレシス様が夜の逢引に来るなんて、どんな蜂蜜を用意したのかしら?」
大人になって、学院を出たあとの予行演習。
「あの騎士様を誑し込んだのだもの。他に何人の殿方がお誘いを受けたの?」
それに今の内から関係を作っておく、コネクション作りの先取り。
「殿下にも気の在るような素振りを見せているのでしょう?」
そのくらいにしか思っていなかったし、実態はそうなのだと今でも思う。
「あるいはあの教師、メルケの部屋も訪れていたのかも」
アクセラちゃんに至ってはごっこ遊びと言い切る始末。
「だから、だから、あの日……悪魔がっ」
ぽたりと雫がこぼれ落ちた。ニカちゃんの真っ赤な目から涙が溢れて落ちて行く。ネグリジェの胸元や白くなるほど杖を握りしめた手の甲へと。喉が彼女の意思に逆らって震える。声が上ずって途切れ途切れになる。
「わ、私、そんなこと、してない……してないわ!」
ニカちゃんには自力で勝ち取った、居場所だったんだよね。
「なのに、誰も信じてくれない!みんな、みんな……私、してないのにっ」
誰からも認めてもらえない幼少期を経て、同年代の女の子たちだけでできた自分のサロンを手に入れた。それは家の名前や格を背景にしたものだったかもしれないけど、予行演習でゴッコ遊びの延長線上で大人になったら何の力も持たない砂上の楼閣かもしれないけど、成立させて維持してきたのは紛れもなくニカちゃん本人だった。それがある日奪い取られてしまった。誰も自分のことを守ってくれず、容易く乗り換えてしまったのだ。
「してないのに」
叫んだのが嘘のように静かになった声でニカちゃんは呟く。
「うん」
わたしは頷いた。
「あの夜、私、頑張ったのよ?」
「うん」
「貴女が攫われそうになっていて、助けようとした……いい事をしようとしたはずなのに」
「ありがとう、ニカちゃん」
ありがとうを聞いた途端、ニカちゃんはそれまでよりはほんの少しだけ感情を乗せた声で言った。
「お礼なんて言われても、何にもならないわ」
それまでわたしを見ているようで見ていなかった視線がきっちり焦点を結んだ気がした。反射的に口にする強がりは痛々しさに溢れてる。だって、彼女の骨身に染みついたその精神はきっと折れずに生きて行くために必要だったものだから。
ただ、その反駁が残された最後の意地だったんだろう。
「私、お父様に見捨てられたの」
数度しゃくり上げてから告白したニカちゃんはまた涙を溢れさせて、けれど焦点を結べなくなりつつある。感情をどこかで見失ったような儚げな顔だ。
「魔力ばっかり強くて、魔法も使えないダメな娘。政略結婚のカードにしかならない使い勝手の悪い子供。そんな私があの噂で、花嫁としての価値まで落とした」
以前彼女はまるで家畜の話でもするように自分の血の価値を語ったという。その実、自分の境遇に内心で酷い葛藤とフラストレーションを抱えてたことをわたしは知ってる。強い怒りを。それが今感じられないことが怖くてしかたない。家畜どころか又聞きの噂話をしてるようだ。
「卒業したら若いうちに有力な豪商のお年寄りへ押し付けるんだって、お兄様が言ってたわ。ふふ、損切ですって。」
損切。ぎゅっと握り込まれた心臓がそのまま発火したような感覚がした。
「損切は大事ですもの。貴族の名を汚すなら、手早く捨ててしまわないと」
「……」
「お母様も、一度サロンで噂される側に落ちたらもう駄目よって。這い上がっては来られないんだって」
自分の娘や、妹……家族でしょう!?どうして、そんなことが、どうしてっ!
今すぐ彼女を抱きしめて、この胸の炎でその凍った表情を溶かしてあげられたらどんなにいいだろうか。
「はは、おかしいわ。何度思い返しても涙がでてくるのに、段々どうでもよくなってきちゃったの」
駄目だ。ニカちゃんはもうもたない。こうして話している間にもどんどん不安定になって行ってる。あと一押し、簡単な衝撃で崩れてしまう。
なんでもいいから、ニカちゃんの心を違う方向に逃がさないと!逃げ道を、どこかに逃げ込めるナニカを!
「あは、ははは。なんで泣いてるのかも、分からなくなってきて、私おかしくなってる。本当に壊れちゃったかしら?」
冷静に涙しながら笑う姿はどこか美しく、とてつもなく恐ろしい。それでもわたしは未だかつてないほど頭を回転させて、本当に成功するかも分からない青写真を薄氷に描いていく。大切なお友達を失わないため。強気なくせに放っておけない、小さな少女を守るため。絞り出した言葉をそっと解き放つ。
「大丈夫だよ、ニカちゃん」
何も言わず抱きしめたい衝動を押し殺して彼女の両肩へ手を置く。真っ直ぐ見据えた瞳はどこまでも深く美しい血の色だ。
「……?」
「それはね、壊れたんじゃないよ」
ことりと首を傾げる彼女に言って聞かせる。
「ニカちゃんの愛想が尽きちゃったんだよ」
「愛想?私の?」
「そうだよ。ニカちゃんの愛想が尽きて、もういいやって思っちゃったんだよ。何にも感じないのはそのせいだよ」
嘘だ。人はそんなに簡単に何かを諦められない。特に幼いうちから長年執着してきたことは。もしそれを諦められるとしたら彼女の言う通り、執着を感じる心が壊れてしまったからに他ならない。
関係ないよ。結論が少し都合のいい嘘でも、込める想いは本物だもの。
「わたしはニカちゃんが正しい事のために頑張ってくれたって知ってる」
彼女の肩が大きく跳ねた。今一番欲しい言葉が何かを考えて、甘い毒のように囁く。
「でも、でも……」
「わたしはニカちゃんを裏切らない」
この甘い毒は、今だけ薬だ。
「肯定してほしいならわたしがニカちゃんを肯定する」
「そんなの」
「家族が欲しいならわたしがなってあげる」
「っ」
「愛情が欲しいなら、わたしがあげる」
「あ、あぁ……」
「わたしを信じて。もう一度、わたしの事を」
どんなに狡い手でも、彼女を守るために使ってやる。
赤い瞳の奥深く、魂の底まで届くように目を見る。
ザザ……ザ……ッ
見えたのは赤ではなく緑。蜂蜜を混ぜたようなブロンドと早苗色の瞳。毎朝鏡で見る見慣れた顔。焦燥を無理に微笑みで押し隠した浅はかな少女の顔。
!?
驚きが生じるより早く不安、疲労、信頼と猜疑、それに悲しみと怒りと小さじ一杯の喜びを煮詰めたような感情が雪崩れ込んでくる。まるで二つの湖を隔てていた堤が壊れたように混じり合おうと押し寄せる。
「あぐっ」
強烈なインパクトを残して視界が戻る。頭の奥深く、脳のこれまで使っていなかった部分を無理やり限界まで駆使したような痛みが走った。
「ニ、ニカちゃん……?」
慌てて彼女を見ると、特に痛みは感じていなさそうだ。けれど何か様子がおかしい。顔を真っ赤にして戸惑いと喜びの混じった表情を持ち前の気力で強張らせてる。茫然とこちらを見てて、それまでの危うげな気配がない。
「ニカちゃん?」
再び声をかけると彼女は首をカクンと縦に振った。ちょっと心配になる動きだ。
「うん」
「うん?」
「信用、する」
「え!?」
戸惑うわたしを無視して彼女はとさっと倒れ込んできた。慌てて抱き止めると弱々しくしがみついて来る。えらく素直に、えらく可愛らしく。
え、えぇ……?
とつぜん発生した不可思議な現象とともに、この瞬間の労力はなんだったのかと言いたくなるほど簡単にニカちゃんは転んだのである。
「えぇ……?」
~★~
理解が追い付かないとでも言いたげなエレナの声が頭の上から振ってくる。柔らかな彼女の胸に顔を埋めながら、私も訳が分からないまま体に宿った熱を感じていた。
さっきのは、なに?
一瞬、ほんの一瞬のこと。何かが私の中に入ってきた。気づけば私は私を見ていた。
あの時は心の奥底が冷たくなって、泣いている理由も悲しい理由も全部段々と薄れて行って、胸の痛みを理由にして色々なものを手放そうとしていたところだった。記憶はぶつ切りで時間の感覚も曖昧。手足の先が冷たくて、それ以上に自分が淵から崩れて行くような感覚が広がっていた。そこにかけられた言葉が、甘くて優しくてもっと欲しくなるエレナの言葉が……。
なんで、そこまでしてくれるんだろう。
私には理解できない。何回か授業で話しただけだと思う。たしかに私も一度だけ彼女を助けようとした。でもそれは常識的な範囲、人として当然のことの一つでしかなかったと思う。そしてその結果が今のコレだ。
なんでだろう。
お礼や見当違いの贖罪にしては必死過ぎるような、意味の分からない優しさ。そんなものを向けられて私が抱き続けたのは純粋な疑問と拭えない疑心だった。
なんだったんだろう。
ぼんやりとして来た意識の中でエレナの真意を知った今、もとの問いに戻ってくる。
そう、知っている。今は。
エレナの視点から私を見ているようだったあのとき、感情が流れてきた。考える力をなくしていた私には細かいことが分からなかったけれど、甘い言葉が半分近く無理やりな方便であると理解できた。
でも暖かった。愛情があった。乳母のフラウと幼い頃のお兄様だけが私に向けてくれた愛情が。
『ニカお嬢ちゃまはいつまでも泣き虫ですねぇ。フラウにはそれだけが心配でございますよ』
『ふん、お前は僕について来ればいいのさ。妹を守るのは兄の仕事なんだからな!』
崩れ始めていた私の淵を遠い記憶が留めてくれた。フラウはもう死んでしまって、お兄様は変わり果ててしまった。でも私にとっての二人は、きっと私が死ぬまであの日のままでいるのだろう。
『わたしを信じて。もう一度、わたしの事を』
死人のように冷たくなった胸の中を流れ込んできた熱量が生き返らせてくれた。足場が無くなったようにぐらぐらとしていた何かが少しだけマシになった気がする。まるでエレナが足りない部分を分けてくれて、背負いきれない部分を一緒に背負ってくれたような感覚だった。
「信じる……しん、じる」
ますます混乱するエレナに抱きしめられたまま、私は一気に襲ってきた疲労感に意識を手放した。
~予告~
エレナとアレニカを襲う謎の現象。
その後遺症は意外な形で現れ……。
次回、アレニカの宿




