八章 第22話 虎と兎の会談 ★
「オルクス伯爵家ご令嬢、アクセラ様です」
感情を窺わせない声で名前を呼ばれ、俺はその部屋に入る。広い部屋だ。この領主の館において最高位の会議室と位置付けられているらしい。国賓級の相手と会談をするときや、年に一度の派閥内での大会議でしか使われることはない。そういう場所だ。
「よく来たな」
誰が発した声でもくっきり明瞭に拡大して部屋中へ届けるという特殊な構造の室内だからだろうか、嫌にクリアな声で部屋の主はそう言った。黒々とした巨大な一枚物のテーブルの上座に座って腕を組む初老の偉丈夫。王都へ至る水運と国境周りの軍事を掌握するこの国でトップ5に入る重鎮中の重鎮。ヴォイザーク=リリアン=レグムント、レグムント侯爵その人だ。
「この度は急なお願いにも関わらず」
「いい、そういうまだるっこしいのは嫌いだ。5年前になるか、あの時と同じように喋りやすいように話せ。感覚が戻るまで雑談に興じてやっても構わんぞ、時間はある」
記憶にあるよりわずかばかり皺の増えた顔でニィっと笑うレグムント侯爵。
何が時間はあるだ、人を急に呼びつけておいて。
オルクス伯爵領での休暇を数日早く切り上げてまでネヴァラへやって来たのは、ピクニックの翌日にこの男から届いた一通の手紙のせいだ。会談の予定を早めるので取り急ぎ来られたし。そんな端的な内容に俺とエレナはそのまま大慌てで出発する羽目になった。こちらから頼んで取り持ってもらった話し合いでなければキレているところだ。
「ん、お久しぶり」
「おお、その調子だ」
侯爵はどこまでも楽しそうに、髪と同じ乳白色の顎髭に指を当てて笑う。
「今日ここへ来た理由は大体想像がついている。かつて俺とお前が交わした約束、互いを見極めようというあの取り決めのためだろう?」
相変わらず単刀直入が好きなようで、一切の社交辞令を抜きに放たれたのは本題への導入。
「ん」
俺が頷いてみせると彼は一度鼻を鳴らして「お前の方から来るとは思っていなかった」と言った。心底意外だったのか侯爵は小さくお手上げのポーズをして見せる。
「なにせ立場上、情報の多寡はどうしても偏ってしまう。ならばこそ、お前が卒業する頃から数年が勝負だと踏んでいた」
「確かに私は侯爵を見極め切れていない」
「ならどうしてここへ来た?まさか軍門へ下りになどと言わんでくれよ。興ざめだ」
素直に答えれば挑発のような言葉が返ってくる。しかし込められたニュアンスはどこか寂し気で、もし俺が頷けばどれだけがっかりすることかと想像してしまう。彼ほどの高位貴族になれば張り合いのあると思っていた相手が没落してしまったり、恭順せざるを得なくなって自分と同じ立場から下へ降りてしまうこともあるのだろう。
「もちろん違う」
明確な否定に猛獣のような紳士の唇が小さく持ちあがる。
「ただ私はいつだって私という切り札しか持たない」
「今がその一枚を切るタイミングだと?」
「そう」
「それは若さゆえの思い違い、生き急ぐが故の勘違いだと言ってやりたいところだが……どうしても今切りたいと言うなら切ってみせろ。俺に届くかどうか試してみるのも悪くはないかもしれんぞ」
言葉の割にはどこか失望感を含んだ声で侯爵は言う。
「前は私が切った切り札で負けた。忘れた?」
「ふ、減らず口を」
エレナの学費を侯爵が持ってくれることになったポーカー勝負のことに触れると、彼はその時の事を思い出したのか落胆の色を減らした。
「まずいくつか確認したい」
「この場で情報を集めると?いくらなんでも会談の順序を知らなさすぎではないか」
会談に臨む前に相手の情報は可能な限り揃える。そうでなくても基本的な行動指針などはガチガチにリサーチをして固め、準備の入念さで相手を威圧するのだ。それが貴族流の第一歩。
「化かし合いが貴族の花なら、私を貴族と思ってくれなくていい。私は言葉遊びをしにきたわけじゃない。オルクスの命運とレグムントの目的を繋ぐため、そのための話し合いをしにきた」
「……いいだろう、5年越しにこうやって約束を果たしに来たのだ。それを多少の誤解や事前にすり合わせれば済む程度の齟齬でドブに捨てたとあってはもったいないにもほどがある」
どうにもこの侯爵は俺とのやり取りを楽しんでいる節が目立つ。本来は格下の家の、それも裏切って他派閥へ鞍替えした家の娘相手に何を思っているんだか。あるいは本能的に俺の正体を感じ取ってなにか近しい物を感じているのかもしれない。俺とメルケ先生が明確にそうであったように。
「ありがとう。まず一つ目、技術にはいくつかの形式があることは知っている?」
「流派のことか?」
「もっと根本的な違い。私はエクセララ式とアディナ式と呼んでいる」
エクセララ式の技術とは理論だった技術体系をもとに鍛錬と研鑽を繰り返し、スキルに頼らない知恵と手技による力を得る方法。
アディナ式の技術は固定化した鍛錬を繰り返すことで新しいスキルを得、そこへ順序正しく研鑽をつみ上げることでより上位のスキルへ昇り詰める方法。
2つの違いはどこにあるかといえば、スキルに根差しているか否かだ。
「ほう、そんな違いがあったのか。しかしアディナ式というのは聞いたことがないな」
極端に省略した説明を聞いて彼は何度か頷いた。口に入れた飴玉を転がして味わうように何度かアディナ式の名前を唱えてみせる。その様子からも彼が当初から見据えていたのがエクセララ式であることが分かるが、話を聞いた上でどちらを選ぶかが問題だ。
「エクセルの戦友の娘が発案者。今はジントハイム公国で盛んに取り入れられている」
「ジントハイムか……あの国とは鎖国状態だが、多少の小競り合いがあるというのは知っているか?」
「ん、知らなかった」
ジントハイムといえば長年鎖国を保ち続け、南側から魔の森を迂回するルートを塞ぎ続けているユーレントハイムにとっての迷惑そのもの。おかげで大陸の中西部とはガイラテインを経由するルートしか残されていない。
「あるのだ、小競り合い程度は長年な。しかしなるほど、ここ20年ほどでやたらと血の気が多くなってきたなと思っていたら、それが理由だったか」
「それだけとは限らないけど」
それでも一定以上、アディナ式でのスキル開発が進展したからこそ力に突き動かされている面はあるかもしれない。
「それで、何を知りたい?」
「閣下が望むのはどちらの技術?これらの融合は極めて難しい、どちらかしか選べないと思った方がいい」
俺の忠告に顎髭を撫でる手を止め、侯爵はふむふむと頷く。
「無理か。そうだろうな、基盤の違う文化は殺し合うしかない。となれば悩むまでもないこと。エクセララ式だ」
良く知っているといった風に彼は言い切った。
「それはなぜ?」
「まず一つには教えられる者の不在だ。エクセララからの協力を得るにはお互いを知らず、また距離もありすぎる。しかしいずれは教育者を迎え入れたいと思っているし、そのための根回しは行ってきた」
ほほう。
あとで聞けば技術というスキル主義に反するモノを導入するにあたって反発する貴族を丸め込むなど、ユーレントハイム国内での地ならしをかなり入念にやっているのだとか。これは布教が本来の目的である俺としては大いに助かる情報だ。しかも最後の一押しをこちらでできれば、言い方は悪いが成果を丸ごと刈り取れる。政治的、軍事的理由で動く侯爵と宗教的、倫理的理由で動く俺では成果の概念も違うので、反目する事すらなく収穫が行える。
最高じゃないか。最大の障害と目されるザムロ公爵、オルクス家の今の派閥主が懸案だけど。
「対してジントハイムはほぼ完全な鎖国状態にあり、国境問題ではユーレントハイムと敵対関係にすらある。道を知る者を迎え入れるにはハードルが高すぎる」
特にジントハイムでは技術によって育てられた新しいスキルがなかば信仰の的になっていると聞く。それはそれで俺にとってはヤヤコシイ問題の種のようで嫌なのだが、今は置いておくとしよう。
「次に時間の問題だ。狙ったスキルを得ると言うのは、それが既存のスキルであっても難しいこと。ゴールが見えない中で何年もかけて行えというのはギャンブル性が高く、ついていける者も少ないだろう。これまで孤児院で行ってきた教育ともかみ合わせが悪い」
地ならしの仕方が合わないと。たしかにアディナ式はスキル主義のベースがあってこそ受け入れられやすいとも言える。より強いスキルを、という面で。
「最後に、アディナ式とやらの技術は所詮スキルだ。スキルの多様性をこれ以上確保したところでなんの意味があろうか。根本的な問題、すなわちこの俺の持つ『スキル無効』に対抗できないという弱点が変わらない」
四大貴族が絶大な戦果を初代王の時代に打ち立てた理由の一つ。それは彼らが持つ特殊なスキルだ。世の中に特殊なスキルを受け継ぐ家系というのは意外なほど多いが、そのなかでも彼らの持つスキルは規格外な面が強い。スキルそのものを否定する最強のジョーカー、『スキル無効』こそが代表だ。
「この特異なスキルは今のところレグムントの血筋にしか発現しない。だが今後もそうだとは限らない。この国の敵に発現しないともな」
国を守るための力を多様化させたい。それが一番大きな目標である以上、彼が手に入れたいのはエクセララ式による多様な武力の形なのだ。特にアディナ式は模索の時期を過ぎ、今や確立されたスキルを獲得するのが主流となっているはず。意識を変えることでスキルの組み合わせなどを試行錯誤する、初歩的な技術による革新を狙うならやはりエクセララ式の方が適している。
「次の質問。閣下はどうして奴隷の地位向上を掲げている?」
レグムント派は人権保護にも熱心なことで有名だ。
「本当に俺の派閥の骨子をこの場で学ぼうと思っていやがるな?図々しいと言ったらないが、まあいい」
さすがに頬をひくひくとさせる侯爵だが、俺の神経の太さは5年前のあの日にしっかりと理解してくれている。そのため大きく息をついてから自分の背後を指さした。そこには大まかな国の位置だけが記された地図が壁に埋め込まれている。
「個人的に奴隷が嫌いだ、という思いはある。だが最大の理由はそこではない。これは表だって言っていないが……」
ユーレントハイム王国以外に大きな国はいくつかあるが、そのほぼ全てが魔の森を挟んで西側に位置していた。
「今や大陸の中央以西は緩やかな戦国時代だ。言っている意味が分かるか?」
武術都市エクセララの出現によりこの100年近くであの地域の情勢は変化した。大敗を期してからひたすら軍備拡張と国力拡充に時間と金と人を注ぎ込んできたロンドハイム帝国。革命と粛清を経て市民が強い力を手にし、技術や産業の発展著しいアピスハイム王国。砂漠の資源をエクセララに売ることで一気に富を得た大砂漠国家群。ロンドハイムが衰弱している間に強大な経済圏と軍事力を獲得したアル・ラ・バード連邦。
「今や魔の森の西側は2つの軸をどこに置くかで争っている。1つが技術という新しい仕組み。もう1つが奴隷や獣人、ブランクの扱い、つまり人権だ」
ロンドハイムは独自の技術を開発し始めている。これに対して他の国はほとんどがエクセララ式の技術を取り入れて馴染ませている最中だ。おそらく今後、それぞれの文化や風土に適合した技術の在り方が生まれてくるだろう。ただ現状ではエクセララ式、アディナ式、ロンドハイム式という3種類が大きな候補となる。どれが技術という理念の基軸になるかは大きな注目事だ。
人権についてはさらに複雑になる。ロンドハイムは奴隷を物品と規定し、獣人に権利や人格を認めていない。エクセララは脱走奴隷が主となって生まれた来歴上、奴隷を認めずどんな人種だろうが受け入れる。アル・ラ・バード連邦は逆に奴隷を認めているが獣人の権利に関してはエクセララより過激な部分がある。それ以外の国々はいずれかの主義に偏った中道という様子。こちらで覇権をとる主義が現れれば、それは国の骨格をも変えてしまう変革の引き金になる。
「今後西側との交流を増やしていく必要があると俺は思っている。率先してな。でなければ懸念事項が多すぎるのだ」
侯爵が手を組み替える。
「太古の昔に突然現れたという魔の森が今日寝て明日目を覚ましたときに忽然と消えていないと、一体誰が保証できるのだ。あるいはジントハイムが鎖国を辞めて攻め込んでこないと、ガイラテインが商路の拡大を試みないと……ありえないと切って捨てるには、特に後半2つは、現実味があるのだと国境を守っている貴族たちは知っている」
魔の森の例えから入ったせいで若干誇大妄想的な言葉廻しになっているが、侯爵の眼差しは真剣そのものだった。これから国と国がより大きく動きだすのは、どうやら大陸東側のこのあたりでも同じらしい。
「いつかその時がきて、我らの祖国が西側諸国に倫理観でも武力でも産業でも遅れた田舎の後進国になってしまっていたら……分かるだろう、何が起きるかは」
この国が大陸の覇権を握ることはないだろう。立地も性質も向いていないことこの上ない。そうなれば……。戦争の二文字が俺たちの脳裏に浮かんで消えた。
「ユーレントハイムを絶やすわけにいかないのだ。そのために四大貴族を始め、古き血を守ってきた我々はいるのだ」
普段の豪放磊落ながらどこか自分の趣味で動いているような笑みは鳴りを潜め、彼はどこまで己の血と宿命について深く理解した顔で語る。
「これはな、やり方は違えどザムロの家も同じことなのさ。アイツのところは俺の所ほど厳しくない。懐が広いからな。そのせいで訳の分からんバカが増えて胡乱な目を向けられるが、中核の意思は変わらず国のためを思っている」
その訳の分からないバカにはうちのお父上も入っているのだろうか。
そんな疑問をなんとなく浮かべていると、侯爵はやや前のめりになった姿勢を背もたれに戻してゆっくり息を吐いた。
「柄にもなく熱くなり過ぎた。さて、こちらのオリエンテーションはこれくらいでいいだろう」
「ん、ありがと」
「次は俺が不自然に思っている部分だが、先ほども言った通りなぜお前がこのタイミングを選んで来たかだ」
さらりと攻守を変えて、組んだ手の上に顎を載せる侯爵。
「お前が天才的な戦いの腕を持っていることはギルドから買った情報で重々知っている。つい先日、第一王子から護衛の依頼を受けたことも把握している。が、まさかそれだけで天狗になって俺の所へ勇みやって来るようなバカではなかろう」
ネンスは王子だ。それも立太子が内定している第一王子。国の象徴である宝剣とも既に契約を交わしている様子だった。しかし、それでも四大貴族のレグムント侯爵本人と権力の上で争うなどと冗談にもならない。それくらいに侯爵の権力は大きく、王からの信頼も厚い。
「現王陛下はよく鍛えておられる。病気もなく年齢もまだまだ若い。気力も漲っておいでで、王子が権力を握るのは随分と先になるはずだ。それを頼みにここへ来たわけではないと分かってはいるが、忘れるなとだけ忠告しておきたい」
「ん、もちろん。そもそもネンスは友人、極力利用はしたくない」
「ふ、ふっはっは……可愛らしい所があるじゃないか。まあいいさ、本題に戻ろう。何を提案したくて来たのかだ、問題は」
俺の本心はどうやら海千山千の侯爵には青く感じられたようで、好感と憐憫を含んだ笑いを向けられた。だがそんなことを一々気にはしない。彼と友人の選び方、遇し方で議論する意味はないのだから。
「レグムントとオルクスの同盟」
「……なに?」
端的な回答に初めて侯爵が表情を大きく動かした。知らない言語で話しかけられたような顔だ。それからちょっとの間考えてから口を開く。
「それは何かの比喩か?それとも冗談か?あるいは本気で……付け上がっているのか?」
「そのどれでもない」
「謎かけでもしているつもりなら止せ、俺も大貴族を名乗る以上あまり無茶な言い分を押し付けられては、それなりの態度を見せなくてはいけなくなる。特にオルクスの家柄を思えば特段にな」
声にかつてない、それこそ5年前に俺を脅しつけた時以上の険を込めて警告する侯爵。裏切りの名を持つ小娘がかつての主家に同盟を申し出るなど、虚仮にしていると責められて当然のことだ。
「ネンスの警護の依頼、実は王家からの依頼で動いている」
「……ほう」
その一言で上がっていた侯爵のボルテージが一気に下がった。油断のならない目で俺の一挙手一投足、あらゆる言葉と態度を見つめている。
「王家といくつか密約を交わした。内容は明かせないけど」
「それを信じる根拠はどこにある?」
「それは後で。でも王家とそこそこ対等な約定を交わしている。そのことを頭の隅に置いて聞いてほしい」
これは聞き流されないための重しだ。俺の立場はあくまで目を掛けている子供。いい加減に流されないために、あるいは腹を立てて中座されないために。
「同盟の内容。細かくはこの書状に書いてあるから目を通してほしい」
俺が携えていた羊皮紙のスクロールを見せる。無言で控えていた秘書らしき女性が受け取り、侯爵の手元へ捧げてまた定位置へ戻る。あまりに動かないもので、彫像かと思っていた。
「ふむ……大したことは書いていないな」
そう、そこにあるのは農作物の適正価格での買取強化など、普通の政策レベルのこと。なにもこんな大上段に振りかぶって話を持ってくる必要などないものだ。
「そこに書いてない部分はこの会談のあと改定して提案したい」
最初からそんなグレーゾーンを文書に書くわけない。
「具体的には?」
「今後10年、オルクス家に否定的なレグムント派の動きを抑えたい」
「俺は圧制者ではない。そんなことができるものか」
即答の否定。
「ならビクターと彼らの間を取り持って、話し合いの場所を設けてほしい」
「それこそ無茶苦茶だ。帰り道にあの男が刺されても責任は取らんぞ」
好機があれば始末してしまおうなんて、そんな短絡的なことを考える人間はいないと思う。ただそれだけオルクスが中核的なレグムント派に嫌われているのは確かなことだ。
「責任を持って警護して」
「……」
きっぱりと言い返した俺に侯爵は口をつぐんだ。それが条件ならああだこうだ言ってもしかたない。ただ受け入れられないだけのことだと。
「特殊な項目はこれだけ」
「これだけ、か。気軽に言ってくれる」
気軽に言っているつもりはないが、まあそう聞こえるか。
「もちろん、それ相応のメリットがなければ動けないわけだが……何をお前は差し出せる?」
「エクセララから技術者を誘致する協力」
「はっ、大きく出たな。どうやってする?」
「ツテがある」
話運びの問題で極端にあやふやな、いっそ胡散臭いと言うべき言い方に落ち着く。それを許す侯爵ではない。鋭い声音で言葉が投げかけられる。
「お前が先ほどから口にしているのは何の重みもないブラフばかりだ」
続く言葉はそれ以上の問答を許さない、揺るぎない壁のごとき命令。
「そうでないならいい加減それを証明しろ」
そうしよう。
「ん、分かった。私は使徒だから」
「…………なに?」
たっぷりとした沈黙。レグムント侯爵の思考回路は完全に今の瞬間、それまでの会話と接続を失ってしまっていた。
「使徒。神の使いの、使徒」
「お前がか」
噛んで含めるように俺が言えば、彼は端的に問い返してくる。
「お前が使徒だと言うのか」
「そう。技術神エクセルの第一使徒」
「…………」
「信用できない?」
これ以上なく恐ろしい鷹のような目でこちらをねめつける男は、歴戦の猛者としての勘と政治家としての経験をフル稼働させている。皮肉にもここまで鷹揚に座っていた彼は、ようやくこの会談の趣旨である「相手を見極める」という作業を本気でしているのだ。
「……話が大きすぎる。神に見初められ生まれる者、使徒。たしかに現在、2人だか3人だかの使徒が現世にいると聞くが、まさかその一人が5年も前から知っている小娘などと信じられるものか」
「私は教会に把握されてない。だからカウントには入ってない」
「なおのこと信用が……いや、エベレア管区長か。となるとドウェイラも、魔獣の一件からか」
何やら一人で状況を理解してしまったらしい。それでも彼は真っ直ぐに俺を見つめ、今度は猜疑というより確認のために同じことを言う。
「証拠を見せろ」
「ん、分かった」
「使徒の証明といえば紋章か?加護持ちの紋章とは違うと聞くが、それは見て分かるものなのか」
使徒の紋章について見る機会はほとんどないし、記述もあまり残されていない。流石の侯爵も詳しくは知らないようだ。ただそもそも紋章を見せる気はない。
「紋章は背中だから」
「ああ、うむ」
俺とエレナがあの日負った傷の事も知っているだろう彼は口をつぐんだ。どれほど苛烈な政治家、戦士、あるいは思想家として振る舞って見せても、どこかで情に厚い男の顔が見え隠れする。それが国内でも屈指の派閥を纏める侯爵の、最も大きな魅力かもしれない。
「では代わりに何を?」
「神眼」
一度ゆっくり閉じた目を開きなおす。煙ったような紫の瞳はいまや淡い金の輝きを宿していることだろう。魔力の流れが魔眼のようにくっきり浮かび上がった世界でレグムント侯爵はごくりと喉を鳴らした。
「これでいい?」
「……まったく、たまげたものだ。本当に真鍮色に輝いてやがる」
「信じてくれる?」
「ああ」
本当に神の権勢は凄まじい。俺のような無策な馬鹿が瞬き一つで信用を勝ち取れるのだから。もちろんこれ以上多用すると隠してきた意味がなくなり、秘密であることを前提に築いてきた約束事が瓦解する。
簡単に不可能を可能にできるかわり、簡単に不可能に戻ってしまいかねない……注意しよう。
しばらく固まっていた侯爵だが、やがて手を口に当てて考え始めた。1分、2分、3分と時間が経っていく。これほど自分の内に籠って彼が考え込んでいる姿を俺は始めて見た。即決即断の男だとばかり思っていたのだ。
「ああ、結論が出た」
「……」
ようやく言葉を発した頃にはこっちのカップは空だった。
「やはり同盟は受けられない」
神眼を閉じた紫の目の俺が見つめる先で重々しく彼は言う。
「お前が使徒であることを広く明かさないのであれば他の貴族を納得させられる材料がない。発覚した際に面倒なことになるから、密約の類は結ばない主義だしな。逆に明かせばそれはそれで使徒の政治利用と言われるだろう。どちらにせよ無理だ」
「……そう」
「だが」
さすがにこの札を切ってまで譲歩の余地もなくノーと言われるとは思っていなかった。そのことで肩を落としそうになったところへ待ったがかかる。
「俺個人と使徒による盟約の締結なら可能だ」
ヴォイザークという男とアクセラという使徒の個人同士が結ぶ盟約。その意味するところが分からず首を傾げるしかない。
「条件は極めて緩く、細部をあやふやにした一種の同盟を俺とお前で結ぶ。お互いの家は関係なくだ」
「細部の決まってない同盟なんて同盟じゃない……てアベルが言ってたけど?」
「トライラントの倅か。たしかにな。ただこう捉えればどうだ?俺とお前が結ぶのは今後なにかあればお互いに便宜を図るという、基本合意だけだと」
「基本合意?」
「そうだ。お互いが必要な時に助けを求め、それに応じた対価を差し出す。よほどの事がない限り断らないものとしてだ。対価をすぐに払えずとも基本合意に基づいてツケとする」
ツケ。なんともこの型破りな男らしい約束の仕方と言えば仕方だ。俺はその方が馴染みやすいが、それすら貴族らしさの欠如を証明する材料にしかならない。
「私がビクターと人権派の会合をセットしてもらえば、その分の借りを作ることになる?」
確認すると彼は頷く。
「そうだな。もちろん貸し借りの概念が曖昧なだけに逐一認識のすり合わせは必要だが」
俺はそこら辺の勘定が丼ぶりだから、かなり侯爵に有利な約束とも捉えられる。
「今回はビクターの件と技術者の誘致で同量?」
「あの腹黒が望むだけの貴族と取り持ってやるかわりにこちらが作成するリストの技術者を派遣してくれ」
「可能な限りでよければ」
「ああ、それでいいとも」
急にスムーズに運び始めた実務的内容。それはまるで彼が全て分かっていた上で一芝居打ったようにも見える流れの整い方だ。しかし先ほどの驚きは本物。となれば、これでこの脳筋男は意外と政治家だったということか。
「これだけだとお前の切った札の大きさに申し訳ない。農作物の拡販も検討には入れてやろう」
さらりと恩着せがましくそんなことを言う辺り、本当に意外なことに彼はきちんと貴族だった。もとから自分で大したことでないと言ったくせにとか、周辺領地との交易路整備でもとから拡販の波は商人たちへ届くはずだったろうにとか、色々言いたいことはあるが……。
「しかし使徒か、これは予想外だったな。俺はてっきり、また新しい魔獣でも倒してAランクへ昇格するのかと思っていたぞ」
Aランクともなれば貴族に比肩する発言力、影響力を持つ者が出てくる。それなら信用の担保としてある程度は使えるだろう。
「そんなに魔獣ばっかり出てきてもらったら困る。そもそも私、Bランクにもなってない」
Bランクも社会的には認められているが、彼のような大貴族と正面切って交渉できるほどじゃない。Cなど地域で名の売れた一般人程度。
「ん?ああ、そうか。そうだな。まあ、今はいいさ」
なぜか突然曖昧に話をぼかすレグムント侯爵。話はもう終わりだとばかりに椅子から立ち上がって肩をゴキゴキと鳴らす。
「さあて、使徒殿よ。折角だから俺と一手試合をしようじゃないか」
突然そう言った。悪ガキが友人にちょっと遊びにいこうぜとでも言うように。貴族らしい顔は消えて無邪気な闘志で燃える眼を見せる。
「……まあ、いいけど」
この笑顔、この気迫、この雰囲気。やっぱり俺と同類、ただのバカじゃないかと思えてくる。
「よく分からない人」
「お前にだけは言われたくないな、絶対に」




