八章 第10話 密約と信頼
「アクセラさん、寒くはないですか?」
「ん、大丈夫」
三日目の夜、ガウルフの市街観光から戻った俺たちは夕飯のあと談話室に集まって遊んでいた。といっても熱い中を歩き回り腹も満たされた面々の焦点は今一つ合っていない。もとから体力のないマリアなんかは眠気にやられてレイルの腕を枕に眠っている。二日目の湖の疲労もあるんだろう。
そんな中で俺はアベル1人をテラスへ誘った。明日の昼頃に俺たちはこの街を去るので、その前に大切な話をしておこうと思って。
「楽しかったよ、アベル」
「そうですか、それは良かったです」
このところ考え事に頭を占拠され疲れた顔をしていたアベル。俺の感想に小さな、しかし心からの笑みを浮かべてくれる。
「王都暮らしの方が長い僕ですけど、でもやっぱり故郷はこの領都ですから」
「ん」
アベルがトライラント伯爵領を愛しているのはよく分かっている。だからこそ、今からする提案を受けてくれるかは五分五分だ。学院にいる間は家よりも友情を取りたいと言ってくれたことと、俺自身が信用されているという前提に頼り切った申し出とも言える。
「それで、どうしたんですか?」
「単刀直入なのは嫌いじゃない。でもそんなことでいいの?」
「相手の好みに合わせて会話の手法を切り替えるのもトーク術、ということにしておいてください」
苦笑交じりに応える彼の表情はトラインラント伯爵子息のそれだ。次期当主と言うにはまだ足りない物が多く、失って惜しい物が残っている。
「じゃあお言葉に甘えて。一つ、密約を提案したい」
「密約ですか?また大仰な話ですね……」
「まずアベルに頼みたい事を言う。一つは私の母、セシリア=ナタリ=オルクスの捜索」
「このあいだ教えてくれた件ですね?」
拙速に本題へ入った俺に、彼は直前の自分の言葉通り合わせてついて来てくれる。ただ、まだなんの動きもない現時点でそれを再度言われると思っていなかったのか、アベルは怪訝な顔を浮かべていた。俺としてもここまで早急に状況を進めるつもりはなかったのだけど、こればかりは考えた結果なので仕方ない。
「母の事を知ったのは君たちと会う少し前。それまでずっと気にしてこなかったし、つい最近までほとんど探そうとも思わなかった」
「その、こういう言い方は良くないかもしれませんが……お母様なのにですか?」
非難とは違う、本当に意味が分からないとでも言いたそうな声音だ。
「ん」
「アクセラさんは家族愛の強い人だと僕は思ってます。それなのに気にしたことがない、知ってからも探そうと思わなかったというのは」
「異常」
「そこまでハッキリ言うつもりはないですけど」
困惑からバツの悪そうな雰囲気に変わる彼。だが俺はあえてその言葉を使いたかった。
「私はそうハッキリ思った」
というのも、色々と考えて見た結果、この件から俺の意識はどうにも逸らされているのではないかと思えるのだ。シラフで何の前後もしらない人間に言えば、頭の調子をしんぱいされること間違いなしな内容だろう。たしかに証拠というほど強固なモノはない。あるいは中身が中身だけにボケたかと思わなくもない。それでもトレイスまで、純粋に幼子だった弟でさえまったく母に対して執着心がないことを思えば一定の信憑性があるとのではなかろうか。
しかし精神操作などには絶対的な防御を誇る使徒の俺が何故、という思いも強い。どことなくマレシスの件でお目に掛かった紫の短剣を思わせる現象だとも。
この疑問は初日の夕食でトライラント夫妻から母について情報を得たにもかかわらず、昨日の夜にはそれを忘れかけていたという異常性でもって緊急度が跳ね上がったのだ。断じて旅行が楽しくて忘れていたとかじゃない。
「アベルにも独自に動かせる手駒はある。でしょう?」
「それは、まあ」
どの家も次期当主には自前の人員を当てているものだ。それがトライラントともなれば、家よりも個人に付いているという人材がいてもおかしくはない。曖昧に頷いたアベルの反応から俺の予想よりもしっかりとそうした手札があることが窺える。
「だからトライラント家には内密に、領の中だけでもいいから調べてほしい」
「それは構いませんよ。たしかにこの前の「気に掛ける」よりは大きい話ですけど」
アベルは首を傾げて続ける。
「でも密約というほどでは……ああ、2つ目以降がややこしいんですね?」
「さすが。勘が良くて助かる」
そう、この問題は確かに俺の中で急速に膨らんでいるモノである。そして真相究明に真剣だということも事実だ。とはいえ態々アベルを呼び出して話をしているのは、母の件をアップデートしたいだけではない。むしろそっちは、残りに比べればもののついでくらいかもしれない。
「第二のお願いはもっと危ない橋。オルクス家の裏の顔、奴隷商会との繋がりは言うまでもないと思う」
「!!」
ひくっと頬が釣り気味に動いたのを、俺は見ないことにしてしゃべり続ける。ちょうどそれまで吹いていた風が止んで、夏らしいねっとりとした空気が辺りに残った。
「そのあたりを探ってほしい」
「そんな!僕は、その……いえ、なんでもないです。でもトライラント家はすでにそのあたりを調べていますよ。そして何も新しい情報はないと、ガウルフに着いてからの報告でも言われました」
咄嗟に口をついて出そうになった葛藤交じりの言葉を飲み干し、彼は手摺に両手をついてそう言った。それから彼は現状を軽く教えてくれる。曰く、違法な奴隷の売買は国にとって小さくない問題になっている。それでもまったく情報が掴めずにいる。現王家は高い優先度でないものの、捜査と対策を検討している段階なのだと。
あの狸王、エクセルが何の守護神か分かっていて黙っていたんだろうか。
あるいは王家が違法奴隷にメスを入れたい理由が人命でなく発生する利益とおこぼれに与る非合法組織の方だからかもしれない。奴隷関係でかなり過激な経歴を持つエクセル神の注意を引かないように黙っていたか。普通に知らなくて触れなかったという線がありうるあたり、狸の狸たるゆえんを垣間見た気がする。
「それはたぶん欺瞞情報。オルクスの尻尾は大分掴めてるはず。でも放置してる」
ビクターと俺が把握しているオルクス系列のグレーテル奴隷商会はかなり手広く仕事をしている。関わる人間が多いだけに情報は外へ出やすい。トライラントが聞き漏らしているなど考えられるはずもなかった。
「分かっていて、止めることができるのにトライラントが見逃していると?」
アベルの声に険が混じる。名誉を重んじる貴族らしい気配、ともやや違う。どちらかというと現実を否定したい、そんな逃避的なカンジだ。
「ん、でも目の前の正義を成すことが掲げる正義のためになるとは限らない」
「より大きな目的の為、ですか」
年相応の、潔癖で真っ直ぐすぎる感性が今度は顔を見せる。腹の奥にムカ付きを抱えている人間の言葉だった。俺は声音を落ち着かせてそれを受け止めた。
「勘違いしてはだめ。大きさじゃなく、誰の正義かということ。トライラント家が家の掲げる正義を成すため、不利益になる正義を支持しないというのは悪い事じゃない。この場合、オルクス是正という正義はトライラントの正義じゃなかっただけ」
「誰の正義か……?」
「今目の前にある正義は私の、エクセル神に纏わる者としてのアクセラとオルクス家の長女としてのアクセラの正義。トライラントにそれを執行してもらおうとは思ってない。だから私が欲しい情報も、今そっちが把握して伏せているモノとはちょっと別」
きっと納得したわけでも理解しきったわけでもない。ただ彼の中の苛立ちは一旦頭を下げた。その上で続けた言葉に彼の意識は反応する。
「別と言うと?」
「奴隷狩りを行っている場所や組織の情報。特に自由村落での事件に関係のある、国が関知しない場所について」
根本的にトライラントや国が追っている情報とは違う。彼らが責任を負うのは国の民であって自由村落は管轄外。極端な話をすれば自由村落が全て無くなっても国は困らないし、責任感を感じることもない。それは善悪ではなく領分の話だ。
「供給源から絶つということですか」
「まあ、そう」
「それはどこまでできるか、本当に何の約束もできませんよ」
国の管轄してない場所、人、情報となるとそれだけで公的な立場のある人間には探りづらくなる。蛇の道を知る蛇を介して集める必要がある。俺が頼みたいのはその仲介と精査とでもいうべき部分。
「いい。努力目標だけで」
だからこそ明確なハードルは設けない。と思っていたのだが、それを聞いたとたんアベルは変な顔をした。
「どんな密約ですか、それ」
俺は元々交渉が苦手なんだ、言ってくれるな。こっちの目的が達成できるならそれ以外は特に考えないし、自分の中での優先順位以外は基本的に尺度がない。
「はぁ……それで、他にもあるんですか?」
「酔い止めの販売」
「ああ、はい」
エレナの乗り物酔いは本当に深刻な問題なのだから、そう呆れてくれるな。
「代わりに何を提示されるのか、ここまでくると聞かざるを得ませんけど聞くのが怖いですね」
彼が肩を竦めて言及するのはこちらから提供するもの。密約と言う以上は双方向に利益がなくてはいけない。俺は頷いてから指を1本立てた。
「一つが戦力。私と言う規格外の個人を無料、無条件で3度まで雇える権利」
堂々たる俺の返事にアベルの顔はまた変になる。
「そこまで堂々と自分の実力を商品にできる自信は素直に尊敬しますよ……まあ、それを納得させられる実力があることは疑いませんけど」
「よかった。次に情報」
第二の指が伸びる。
「それは願ったりかなったりですけど、これでも情報屋の家ですからそこの目利きはうるさくなりますよ?」
「それでいい。アベルがいらない、安い情報だと思ったならそれはどこかから漏れている証拠にもなる」
「……ほんとに僕よりアクセラさんの方がよっぽど諜報に向いている気がしてきます」
「安心して、それはない。私はすぐ手が出る」
「ああ、なんか妙に納得感のある答えですね」
「でしょ?」
諜報と防諜は別ものだが表裏一体だ。そのくらいは俺でもわかる。ただ直接突撃した方が早い状況が多いのと、集めた情報を頭でこね回すのが得意でないだけで。
「で、情報。私の正義について進捗状況をリークする。もちろんどうしても出せない情報は伏せるけど、今後の大きな動きをいち早く知れるメリットはある。違う?」
「違いませんが……まあ、それだけ信用してもらえているということですね」
ぼかした言い方を汲み取ってくれたアベルだが、諦めたように肩を竦めるその姿は少し癪に障った。
「馬鹿なことを言わない。アベルを信じてないわけがない」
真っ直ぐにその黒い瞳を覗き込んで言う。すると面白いくらいその頬は染まっていき、眼鏡の奥で視線がうろうろと逃げ始めた。
「あ、ありがとうございます……あ、その、それで全部ですか?だとすればトントンか、成果を確約していない分こちらの方が貰いすぎというか」
早口で話題を戻す彼に俺は小さく頷く。
「個人的な密約。このくらいがちょうどいい」
「まあ、そうかもしれませんけど」
あえて条件を明確にすることでお互いをある程度利用することに罪悪感を覚えにくくした。ただそれだけのイニシエーション、というわけではもちろんない。続く交渉の前菜に過ぎないのだ。
「もう一つある」
これは俺の頭が考え付く最大級の政治的駆け引きだ。つまりエメンタールチーズのごとく穴だらけ。だがどれだけ不安定な糸での綱渡りでもしないといけない。
それにアベル相手だし。落ちてもクッションがある綱渡りなんて怖くない。
「オルクス家とトライラント家で同盟を結びたい」
「は、はい!?」
インパクト自体はあったようで『完全隠蔽』がなければ誰かがすっ飛んで来そうな大声がテラスに響いた。
「同盟。軍事的なモノではなく通商やノウハウの共有について、内容はおいおい詰めていきたい。だから厳密には同盟を組むことが密約の内容じゃなく、同盟について検討すること」
「いえ、ちょっと待ってください。これは、その、いくらなんでも僕とアクセラさんが決められることじゃないですよ!」
その声はもはや悲鳴に近かった。あまりに大きな責任と金額が絡む重大な案件が、お土産の饅頭でも渡すような気安さで押し付けられたのだ。パニックに陥るのも無理ないことだ。押し付けた俺が言うことでもないかもしれないが。
「メリットとデメリットをよく考えて」
そう言って俺はトライラント側のメリットを2つ上げる。
まず農業が主な産業であるオルクスと通商同盟を結べば食料の安定供給が見込める。トライラント領は観光と、ブドウやサトウキビといった商品作物が主な収入なのでこれは小さくない意味を持つ。
「え、ええ。それは確かに」
次にトレイスが領主となったあかつきにはオルクス領では確実に技術神信仰が力を持つ。というか俺が持たせる。すると技術教育を経て新しい、あるいは既存であっても細いルートを辿って大陸西側からもたらされるしかない品物が手に入る。宗教流入を気にしないのなら技自体が手に入る可能性も大だ。
「技術の凄さはアクセラさんや最近のレイルを見ていれば分かります。確かに欲しいモノではありますし……」
言葉には出さないが、もう一つメリットがある。それはいち早く使徒を擁立する家と懇意にできること。使徒を政治利用してはいけないという原則は絶対だが、それでもどこまでが政治利用なのかという線引きは曖昧だ。俺が無理難題を吹っかけて応じざるを得なかった、という言い訳が手札に入るだけで貴族家には大きな利だ。特にトライラントのような社会の表と裏を行き来する家にとっては。
言えないからなんのカードにもならないけど。
「逆にデメリットも2つ」
一つ目が他派閥の、それも裏切りのオルクスと同盟を結んでいると知られれば貴族界では大きなダメージになること。信用商売を行うトライラントにとっては証拠がなくともイメージの傷は過小評価できない問題になる。
「……」
二つ目はオルクスの謀反が失敗した場合、トライラントが裏で糸を引いていたと言われる可能性があること。それは一つ目のように関係がバレることによるリスクだけでなく、俺たちオルクスが何らかの意図でもって道連れにしようとする可能性も含めてだ。
「それはないと信じてますけどね」
「ありがと。で、その上で考えてほしい。私の密約を受けるかどうか。ちなみに今決めてくれるとお得」
「い、今!?ここで!?」
「そう」
「……」
「……」
沈黙が流れる。アベルはその肩にのしかかった判断の重圧に顔を青ざめさせ、しかし俺より何倍も回転速度の速い頭をフル回転させて真剣に悩んでいた。
「……ちなみに今の条件は、全てまとめてでないと駄目なんですか?」
「別に。そっちが飲めるモノだけ飲んでくれて構わない」
「……本当に何を考えているんです、アクセラさんは。それはもはや交渉ではない気がするんですが」
疑惑すら含んだ視線で訪ねる少年は交渉のセオリーに縛られすぎている、とはとても言えない。なにせ俺がいい加減すぎるのだ、この交渉に限らず。頭が回る部分でだけ中途半端に考えて、残りはなるようになるさと投げている。ビクターが聞けば頭を抱えてブリッジで悶えそうな酷い会話をしている自信がある。
「実は対価については割とどうでもいいと思ってる」
「今聞こえた台詞は幻聴だと思うことにします」
どちらかと言わなくともビクター寄りのアベルが目元をそっと手で覆って即答した。
「ご自由に。でも今ならこの緩い条件で始められる。後からだとウチの家宰が対応する。ビクターは、エレナの父は優秀だよ」
「お噂はかねがね」
ため息を呼気がわりに返ってきた返事はトライラントの方でもビクターという人物を把握している証拠だった。それだけ腕がいいからなのか、あるいはウチを調べる過程で出てきた情報なのか。
「私を介して、今ここで結んでくれるならビクターは事後承諾してくれる」
ごめんね、ビクター。
心の中で謝罪と合掌。ブリッジのまま悶えた後、頭で3回転しそうなくらい面倒な後始末を押し付けることになりそうだ。
「こう言ってはなんですが、そこまでの権力をアクセラさんが握っているというのは少し信憑性に欠けます。特に以前からあなたは弟さんが家を継ぐと仰っていますよね?」
「ん、トレイスが当主になる。私は別の仕事があるから」
「それが何かをここで詮索する気はありません。でもそれならなおの事、信用にたる材料を提供していただきたいです」
友人として妥協できるラインを大きく超えた提案に彼の声は硬質な響きを纏っている。可能な限りの担保を集めたいといった雰囲気だ。
すまないな、アベル。担保はないんだよ。
「できない。今すぐ見せられる証拠は一つあるけど、それは無暗に切れる札じゃないから」
「この局面でもですか?」
「ついこの間使ったばかりだから。あんまり使うと価値が無くなる」
それにアベルに対して使徒の威光を担保にしたくはない。これだけ無茶を言っておいてなにをと思うかもしれないが、現世でアクセラとして生きるための線引きでもあるのだ。
もう一つ理由をあげるなら、王家ほど神殿の圧力を受けない伯爵家にこの情報を出したくないのもある。レグムント侯爵に明かすなら王家派、レグムント派の2派閥にバラすことになるので、拡散されすぎる可能性が高い。
「あぁ、もう!とりあえず整理しますけど、いいですか」
「ん」
有無を言わさない口調に了と伝える。
「僕が個人的にアクセラさんのお母様のことを調べるのはまったく問題ありません。場合によっては費用を出していただくかもしれませんが」
「ん、それは私の個人的な財布から出す」
どうせそこまで出費にはならないと踏んでいる。出てくる情報にもよるだろうが。
「酔い止めの件はもう置いておきましょう、些末な問題です」
エレナには悪いけどね。
「第一の問題点はオルクス家の奴隷狩りについて情報を集めること。努力目標程度でいいと言われても、受ける以上はきちんとします。そうなると相応のリスクとコストがかかります」
「リスクについては飲んでもらうしかない。コストは残りの条件次第。こちらの出す対価を受け取るならそっちで負担してほしい」
それまで提案以外は投げやりとも取れる応対をしていた俺からまともなストップが入ったことでアベルの眉はまたも寄った。
ただでさえレイルのせいで眉根が寄り気味の彼なのだ、あまり老け顔にしてやりたくはないんだが。
「そこだけちゃんと交渉じみた返事になるんですね」
「オルクスは貧乏。どんな緩い交渉をするにしても、ない袖は振れない」
母の件と違ってこれは家の仕事だ。
「通商での同盟もそれが理由の一端ですか」
「オルクスブランドの農作物は買ってくれない家も多いから」
商人は大体買ってくれる。貴族への需要が低い食材はそれだけ値段が高騰しないので市井向けに売りやすい商材になるからだ。あるいは産地を明言しない、最悪偽ってしまうなどの手でも売れる。なんにせよ仕入れ値が低いのは魅力だ。
こっちからしたら堪ったもんじゃないけど。
とはいえ気にせず貿易を行う貴族も結構いる。レグムント侯爵家が相変わらず貿易をしてくれているのが大きい。おかげで派閥単位での売り先がなくなるという悪夢は回避できている。そうでなければ国の4分の1が、地理的に近い位置にある市場を中心にごっそり消えてしまってオルクスの経済は壊滅していたはず。
関税を下げる同盟を組んでも外貨を領地に取り込みたいのが今のオルクス家の状況だ。
「こちらとしても安定して食料が入るなら嬉しい限りですが……」
「品質はいいよ」
太鼓判を押しておく。オルクス伯爵家の作物はどれもおいしい。食べて育ってきた俺が保証してあげよう。
「僕個人との密約はさっきも言いましたが、一も二もなく応じたいです。戦力としてアクセラさんを3回も見込めるのは正直大きいですから。腕の立つ人間で心から信頼できる人、実はあんまりいないんですよね」
そうだろう、そうだろう。
「ただ情報はグレーです。トライラントがアクセラさんの正義に大きく絡んでいると思われるリスクは軽々に負えるものではありません。細心の注意をアクセラさんも払ってください」
「ん」
それもまあ、そうだろう。
「そして……ハッキリ言いましょう、同盟についてはこれを決定できる権限は僕にないです」
そうなるよな。でもそこまでは俺の悪い頭でも分かっていることだ。
「じゃあこうしよう。農産物は通してもらう。それ以外はお互い、交渉のテーブルに来てから詳細を詰める」
「そうしていただいた方が楽です」
仕方がない。オルクス家のマイナスブランドは学院のあのクラスにいると忘れてしまいそうになるだけで、貴族界では根深いのだ。それに関わることが当主でもない人間にとっては重すぎる荷物なことは分かっている。
「とりあえずアベルは好条件での交渉切符だけを携えて家に報告すればいい。テーブルに着くも着かないも当主が決める。君との個人的な約束を家規模にするかとか、いろいろ決めるだろうし」
「そのかわり交渉担当はエレナさんのお父様、ですか」
よほどビクターと交渉したくないのか、苦々し気にアベルの口元が歪む。
一体全体何をやったんだ、ビクター。
実は具体的な仕事の場面を俺もエレナも見たことない。何事も全て、執務室の中でいつのまにか処理してしまっている。いつかはトレイスに伝えるつもりだろうが、俺とエレナには微塵も明かす気はないようなのだ。
どっちにしてもアベルが交渉するわけじゃないでしょ?
「それはそう。でもアベルは個人的な取り決めと家内での手柄だけを持って帰れる」
「裏表なく手柄だと捉えるほど父も母も、それに祖父も生易しくはないですよ?」
「だろうね。でもそこはアベルの問題。私がどうこうしてあげられる領域じゃない」
「まあ、そうなんですけど」
お互いに肩を竦めて苦笑を交わす。結局のところ、暗躍してみたところでまだ子供に過ぎないのが俺たちの実情だ。こちらに多少の裁量権とワイルドカードが数枚あって、アベルの家が特殊だというだけで。これがレイルの家なら彼と彼の父が正面切って大喧嘩する以外に道がないところ。それだってまだ可能性が大いにある部類なのだ、貴族の家としては。もっと普通の家ならニベもなく断られてお仕舞。
「どう?この条件で乗ってくれる?」
「ここまで譲歩されれば乗るしかないでしょう。本来なら警戒して下りるところですが、アクセラさんが裏切るとは思えません」
そっと、やや傾けて差し出される掌。女性に対してと取引相手に対しての差し出し方の中間くらいの角度だ。俺はそれをやや上から握り返す。文官だとか、戦士ではないとか思っていた彼の手は俺のそれより随分と大きかった。
硬さは俺の方が硬いかな。
ぼんやりと思いながら、この会談を始めて以来ずっと抱いてきた思いをぶつけて見る。
「そこまで信頼してくれるのは、なぜ?」
自分はためらいなく信頼していると言っておいて人に尋ねるのは無茶苦茶かもしれない。ただなんとなく気になってしまったのだ。レイルとアティネは分かる。でもアベルやティゼルのような慎重派がこういった話題になっても素直に信じてくれる理由がピンとこない。
「初めて会ったとき、アクセラさんは僕たちと関わらなくても問題はなかったはずです。あるいは正体を明かさず終えてもよかった。将来を見据えていたとしても、あえて僕たちと友人になる必然性はどこにもなかった」
優しい目で彼は言う。
「でもアクセラさんは僕たちに正体を明かした。考える時間を与えて、話し合う場を設けて、かなり面倒でリスクのあることをしてまで友人になろうとした」
それは……なんでだったかな。
理由はもう忘れてしまった。5年以上昔の事だ。今はもう一つの正体を明かしていないことが後ろめたいような、握手からするりと逃げたくなるような気持ちしか湧いてこない。
「そういうことをするあなたがこんな所で騙しにかかるとは思えません」
「……ん、ありがと」
代わりにぎゅっと握り返してはにかむ。
誰も裏切らず、信頼に応えて、信仰と信念を貫き、故郷を救い、そして人を育てる。改めて見るとこれから俺が歩むのは前世の俺が歩んできた道そのものだ。それがいかに困難で、偶然と周囲の助力をアテにした旅だったかを思い知らされる。
満足して死んでいる場合じゃなかったのかもしれないな。
それでも、なんとかなる。
なんとかするのだ。
コンコン
「失礼します」
軽やかなノックと共に入室した侍女のメルトに、俺たちはさっと手を解いてテラスから中へ戻る。お互い旅路の話だけをしていたとでも言うような顔で。
「どうしました?」
「お疲れのところ申し訳ありません、アベル様。しかし当主様が皆様にお伝えしなくてはいけないことがあると仰せでして……」
「父上が?」
首を傾げるアベル。ここで考え込んでも仕方ないのは分かり切っているので、訝しむ彼の背を押して俺たちは談話室を出た。眠気に目を擦るマリアとエレナを伴って。
このとき、俺たちの旅を最も劇的に変化させる要因がその先に待つとは、誰も思っていなかったのである。
~予告~
素晴らしき白い浜辺を立つ一行。
目指すは一路オルクス領か……?
次回、スプリートの港市




