八章 第2話 憂鬱の船
「うっ……」
「神よ」
口元を押さえて体をくの字に曲げるエレナ。その背中をさすりながら俺はもう何度目になるかもわからない聖魔法を唱えた。紫色の光がじんわりと、汗だくの体に吸い込まれていく。
「うぅ……ありがと」
「ん、今のうちに水飲んで」
「うん、ごめん」
俺たちは今、レグムント侯爵領ネヴァラを目指す船の上にいた。夏休みの前半を過ごすトライラント伯爵領の湖まで行く、貸し切りの船だ。乗っているのはアベル、レイル、マリアの3人組にアロッサス姉弟。それから護衛の冒険者たち。騎士じゃないのは俺への配慮だろう。特にフォートリン家やアロッサス家の騎士たちからオルクスの名は嫌われているはずだ。
「朝にはスプリートにつくから、なにか甘いものでも買ってきてもらおう」
「うん」
すっかり元気を失った声で答えた彼女の背をそっとさする。王都を出発してから既に5日が経過しようとしていた。買いこんだ酔い止めは馬車に効けども船には効かずでただの荷物と化している。
「うぅ……あれがいいな、アポルトで買った果物の」
「あの馬鹿硬いバナナみたいなやつ?」
「そっちじゃなくて、手みたいな形のオレンジの砂糖漬け」
「ああ、ブッシュカン」
レグムント領の港町アポルトに寄港した際、アベルが手配してくれた物資の中には果物が多く含まれていた。吐き気にやられて食が細っているエレナを気遣ってくれたのだ。その中にいくつか変わったモノが入っていて、俺たちが口に出したのはどちらもその1つだった。
名前を誰も知らなかった方はバナナの房が全て融合したような、扇形の黄色い果物。奥歯で噛まないとまず飲み込める大きさにならないという硬さの代物だった。その代わり香り豊かで味もしっかり甘かったが。
エレナが言っているのはブッシュカンという柑橘類だ。上半分は小さめのオレンジのようで、下半分が長く枝分かれして伸びている。まるで無数の指のようとも言われるそれは見ようによってはかなり気持ち悪い。ただ俺には指と言うより唐辛子に見えるのでそこまででもないし、なにより香りがいいので砂糖漬けとしては美味しい方だった。
「産地はもっと南だからあると思うよ、スプリートにも」
ティート子爵領の港町スプリートは2つの湖からの流れが合わさってフラメル川を構成する結節点にある。南東の流れを遡ればトライラント伯爵領の領都ガウルフへ到着し、南西の流れを辿ればティート子爵領を抜けていくつかの領地を巡りもう一つの源流へたどり着くのだ。もちろん目指すはガウルフ。
「ふぅ、大分落ち着いてきたみたい」
「よかった」
船は流れに逆らって進んでいるので、日によっては揺れが酷い。ところが今日は驚くほど波が静か。これならエレナも寝られそうだ。
「もう一回かけるから、ゆっくり寝なさい」
「ありがと」
首元までブランケットを被った彼女に聖魔法を重ね掛けする。最近ようやく実用的なレベルまでたどり着いた聖属性の魔法糸で綿密に編んだ魔法だ。これで少なくとも明け方までは持続するだろう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
汗ばんだ額を一撫でしてから俺は部屋を出る。付きっきりで様子を見ていたせいか、体よりも気が疲れた。甲板に上がって風を浴びたい気分だった。
船の大きさはかつてレグムント侯爵に乗せてもらった軍艦ジャスパー号と、民間の商船兼旅客船のちょうど間くらい。旅行の前半工程を全て取り仕切るアベルによって手配された中級旅客船だ。身分的には高級旅客船の方が合っているわけだけど、あえて中級にしたのは貸し切る人数の問題から。いくらなんでもジャスパー号一歩手前の船体を誇る高級船をこの人数で貸切るのは、貴族とはいえ子供には過ぎた出費だ。
「おや、アクセラじゃないか」
甲板への階段を上って顔を出すと、先客が目ざとく俺を見つけて声を掛けてきた。月が煌々と輝く夜に暗紫の髪を揺らす少年。ここしばらく予定が合わずにすれ違っていたアロッサス姉弟の弟、ティゼルだった。
「こんばんは、ティゼル」
「エレナは大丈夫かい?」
「酔い止めが効いて寝てる」
髪と同じ艶めかしい色の瞳に心配を浮かべる彼。物静かでいつも苦笑か半笑いを浮かべつつ俺たちのやりとりを見ているような少年だが、根は沸騰しやすい姉と同じく善良で優しい子だ。いつも先走りすぎるアティネやレイルの手綱をやんわり引いてくれる、数少ないアベルの味方だ。
学院ではそこそこ遊んでいるみたいだし、真面目一辺倒というわけじゃないんだろうな。
「そっか……しかし乗り物に弱いとはアティネから聞いてたけど、ここまでとはね」
「これだけはどうしようもない」
「まあね。それで、アクセラは大丈夫なの?」
「ん。酔わないし、エレナの相手で疲れてるとかもない」
気疲れこそしてきたが、まだまだ余力はある。最盛期には及ばないまでも、俺は数日寝ずに戦える体力と気力を養っているのだから。
「やっぱり鍛えてると違うね」
「それはティゼルもでしょ?」
「君やレイルには及ばないよ」
自嘲気味な言葉に首を傾げる。アロッサス家は当主が教導騎士団に勤める優秀な騎士、夫人が領軍を束ねる魔法使いだったはず。たしか小さい頃は姉弟揃って訓練がしんどいと零していた気がする。
「たしかに訓練は大変だし、そのぶん身に付いたこともあると思うさ」
言葉の割にその声はどこか覇気のないもの。「だけどね」という続きが聞こえるようだ。
ああ、そういうことか。
アティネとティゼルはよく似て見えるが、多くの双子がそうであるように一卵性ではない。そして骨格的な特徴はそれぞれの異性親から引き継いでいるようだ。つまり小柄なアティネが父親のしっかりした骨格を持っていて、ティゼルは母親に似た筋肉の付きにくい土台を持っている。
だから妙に軽戦士的な肉の付き方になってきてたんだな。
「君みたいな魔法剣士でも目指した方がいいのかもね」
「人には向き不向きがある。もし向いているなら、試してみてもいいと思う」
「……」
本人は冗談のつもりだったのかもしれない言葉を、俺が真っ向から受けとめて回答してしまったことで彼は沈黙した。白々しい月明かりが褐色の肌を漂泊して冷たく見せている。横顔に秘められた感情は一つではなく、わずかな煩わしさと同時に切実な好奇心が含まれていた。
師範として多くの剣士を育ててきたから彼の悩みも分かる。父のように教導騎士団入りを目指したいなら魔法剣士や軽戦士を選ぶことはできない。だが自分の素質を活かして真に立派な戦士へと至りたいなら正統派の騎士スタイルではいけない。たどり着きたい場所と自分の足が自然に向かう場所が違うことへの戸惑いと葛藤。
「道はティゼルが選ぶべき。でも選ぶために知りたいことがあれば、周りに聞いてみるのも悪くない」
気まずさと居心地の悪さを含んだ無言を無視して言葉を継ぐ。変に配慮して踏み込まないようにすると後々まで残るのだ、こういう空気は。
「そう、かもしれないね」
「私ならいつでも応じる」
「はは、ありがとう。やっぱりアクセラは妙にしっかりしているよ」
小さく笑った彼は白い光の下、わずかに緊張の解れたような顔で言った。楽しい旅行であると同時に、それが終われば領地で両親と顔を合わせるのだ。心のどこかで身構え続けている自分が、ティゼルだけでなく全員にあるのかもしれない。
「それにしたって、俺よりアベルの方が君から学ぶこと多いんじゃないかい」
「私は剣士だから、アベルに何かを教えるのは無理」
「そうかな?まあ、そういうことにしておこう」
一瞬垣間見えた少年らしい揺らぎは、いつもの微笑みと大人びた言葉に隠れてもう見えない。
「じゃあそろそろ俺は寝るよ。おやすみ」
はたしてそのまま大人しく眠りにつくのか、それとも誰か冒険者の女性でも誘いに行くのか。なんにせよストレスを自分で処理できるのならまだ問題はないだろう。
「ん、おやすみ」
ティゼルが階段を下りてしまうと甲板には俺だけが残される。マストの上には見張りもいるだろうが、ジャスパー号の水兵と違って見晴らしのいいそこへ招待してくれる気はなさそうだ。
「ん、暑い」
シャツのボタンを2つ外して船縁から川を見る。真っ黒の水面には月が映り込んでいた。それが小波の形に崩れては戻り崩れては戻り、湿気を含んだ風がべっとりと吹いて暑苦しい。
学院の生徒が皆、この船の連中みたいにいい子だったらなぁ。
先走りがちだけど仲間思いで素直なレイル。
感受性豊かで控えめだけど芯の通ったマリア。
苦労性でなんとか周りを纏めようと奔走するアベル。
口にする言葉の通り真っ直ぐで正義感に溢れたアティネ。
穏やかで一歩引いたところから優しく見守るティゼル。
彼ら、彼女らのように学院の生徒が誰しも正しい心と善良な常識を身に付けた子供だったなら。出発前日にネンスの下へとやってきた少女の言葉をふと思い出してしまう。事件以来、悲しみと怒りの感情が関係者を離すまいとしがみついているような、そんな不吉な思いにさせる話を。
~★~
「そ、その、王子殿下に置かれましては……」
「その言い方は止めてくれ、シムズ。私は君たちに対等な、ただのクラスメイトとして扱ってほしい」
堅苦しい挨拶をしようとしたシムズ男爵令嬢リンナを、ネンスが手で制してそう言って見せる。夏の熱気を完全に遮断した涼しい談話室。ブルーバード寮の一室で行われるやり取りを俺は壁にもたれて見ていた。
「ネンスでいい」
ネンスの整った顔のせいか、身分の差のせいか、あるいは単純に彼女が箱入りすぎるせいか、少女は頬を真っ赤に染めてからこくこくと頷く。肩越しに俺が覗いているとも知らず。
まるで青春の一ページを覗き見ているようで気が咎めるが、どうもそんな微笑ましい話題じゃないということは彼女の顔を見ていれば分かった。すぐに赤味が引いて当初の青ざめた色に戻ったからだ。
ちなみに彼女、名前を聞いたときは知らない生徒だと思ったのだが大間違いだった。同じクラスの女子でよくアレニカを中心に集まっているグループの一員だ。良くも悪くも貴族令嬢らしい集まりの中で、ややその煌びやかで毒気を含んだ気配に馴染めていない雰囲気を纏っていた。
「あの、で、ではネンス様と」
「ああ、それで頼む。さて、急かしてすまないが用件を聞こう。ここしばらく、用事が多くてな」
わかるだろう?言外にそう言われたリンナは再びこくこくと頷く。例の事件以来、彼が忙しくしていることは無知なお嬢様でも想像がつくことだ。
「お手を煩わせてしまって申し訳ありません。その、ご相談申し上げたいことがありまして……内密にしていただきたいんですけれど」
「私の立場上、内容によってはどうしても陛下や宰相に伝えねばならないこともある。それだけは理解してもらえるか?」
歯切れの悪い出だしにネンスが確認をとる。
「も、もちろんです!」
彼女は首を傷めそうな勢いで縦に振った。艶やかな黒髪が揃って頷くが如く踊る。地方の男爵家から来たらしいリンナ、王子を前に機嫌を損ねないかとびくびくしているようだ。
「ありがとう。それで?」
「あ、あまりこういった事を男の方にお伝えするのは、良くないことだと分かっているのです。でも……」
言葉少なに促されて始まった相談は、俺たちが思っていたより身近で厄介な内容だった。
「今、1年生と3年生で一つの噂が広まっているんです」
「噂?」
「えっと、その……とある女子生徒が男子生徒と夜に、み、密会をしていた……というものでして」
いくら貴族がほとんどといえど、皆揃って10代の少年少女だ。密会の噂くらい山とある。俺も密会中の男女を見かけたことが何度かあった。そしてそのほとんどが学外に学内の事情を持ちださないという不文律によって、しばらく多感な青少年の心を賑わせたあと消えて行く。
「噂の人物が問題、ということだろうか?」
「も、問題といいますか!……いえ、問題、です」
どんどん歯切れが悪くなっていくリンナ。
「誰と誰が?」
その問いかけに少女は肩を狭めて黙り込む。その態度からおおよその事情が把握できた。彼女は噂の根本の人物や事情を知っているか、それに近い情報を持っている。彼女を苛んでいるのは密告者の恐怖心と警戒心。リンナの立場が危うくなるようなところにその情報は繋がっているのだろう。
しかし意外だったのは
「あ、あの」
気の小さそうな少女が促されるわけでもなく、自分からもう一度口を開いたことだった。ただその後に続いた言葉の方が衝撃的で、彼女の涙ぐましい努力は俺たちの印象に残らなかった。
「う、噂になっているのは、アレニカさんとマレシス様です」
「なんだと!?」
咄嗟に声を荒げたネンスを咎める気に俺はなれない。けれどその反応は不味かった。小さな悲鳴を上げてリンナは縮こまり、恐れに染まった視線で半立ちの彼を見上げる。どんなに怒りを感じても情報源を怯えさせるようなことをしてはいけない。必要な情報が手に入らなくなってしまう。
たしかにこれは王が試練を課すのも分かる。
レイルのような立場と役割の男なら好ましい真っ直ぐさも、ネンスのそれらを思えば褒めてばかりいられない要素だ。もちろん陰険で疑り深く信頼のおけない王より忠義に報いる真っ直ぐな心根の王であってほしいとは思うのだけど。
「ネンス」
言葉は聞こえなくとも感触は伝わる。肩をそっと叩いてやると彼は己の失態に気づいて席についた。とはいえリンナの警戒度は上がってしまっていて、そこから情報を聞きだすのは一苦労だった。その苦労の結果をかいつまんで纏めるとこうなる。
事件の公式発表がなされた2日後、すでにその噂は1年生の間に広がり始めていた。夜の散歩をしていたアレニカが悪魔に襲われ、通りがかったマレシスが撃退に成功するも重傷を負ってその後死亡。その筋書きに下衆の勘繰りを持ちこんで、端から2人が共にいたのだと主張する形で。それが翌日には3年生でも広まり始め、事情通な女子生徒の間でアレニカに対する白眼視が始まった。
マレシスに婚約者がいるという話はある程度以上に有名なもので、それがアレニカでないことも明白。またルロワ侯爵家に優秀な長男がいること、彼が家督を継ぐ以上アレニカは嫁に出されること、現在ルロワ家と同格以上の家では独身男性がおらず嫁ぎ先は格下になることなども情報に聡い貴族の子女なら知っている事実だ。
これらの関係からアレニカが古参の子爵家跡取りで近衛騎士の身分を持つマレシスに、横から手を出そうとしていたのではと思われたのだとか。婚約者持ちにアプローチをかけること自体よく思われないのに、今回の噂は夜の逢引。2人揃って貴族としては大変な不名誉を背負うことになる。
「と、とくに、その、私たちの集まりではアレニカさんへの風当たりが強くて」
「彼女は?」
「お休みが始まった日にご実家の方へ戻られました……」
小さくなってほんの数日の登下校をしのいでいたアレニカの姿を思い出す。期間が短かったことと、こちらもこちらで忙しかったせいでまったくフォローできていなかった。エレナが気にはしていたけど会いに行けてはいなかったのだ。
まるで失意のうちに学院を去ったシーアのようで嫌な感触がする。2人ともちゃんと戻ってきてくれるのか、心配が俺の胸の中で持ちあがる。
「なるほど。状況は分かった。私としてもクラスの友人が謂れのない中傷で悲しむのは辛い。なにより亡き腹心の名誉を傷つけられるのは我慢ならない」
「そ、それじゃあ!」
重苦しい声でネンスが言うと今度はリンナが腰を浮かせる。彼女は彼女なりに心からアレニカを心配している。そう信じても良さそうだ。少なくとも俺の目には演技だと思えない。
これで何かしらの思惑があっての演技とかだったら、自分の目が信じられなくなりそうだな。
「ああ、できることをしてみよう」
彼は力強い笑みで応じる。イエロートパーズのような瞳で真っ直ぐに少女を見据え、続けてこう訴えかけた。
「だがそのためには君の協力が必要だ」
「わ、私ですか……」
再び硬さが戻るリンナ。
「でも、私はアレニカさんを、お部屋で泣いているアレニカさんを見ても何も言えなかった弱虫です……これからも、皆さんの前で何かを言うのは、無理です」
つっかえつっかえ絞り出した言葉には密告者の恐怖と同じくらい、自分への悔しさが滲んでいた。普段の俺ならつい変わるための一歩を後押ししようと頼まれもしない口をだしてしまうような声だった。ただ彼女の場合、本当にそれがいい結果へ繋がってくれると思えない。
「こうして、ここに来てくれたではないか」
「これが精一杯だったんです……これ以上は私には怖くて、む、無理です!」
学内の事は学内に留めるという不文律も人の感情にまでは作用しない。俺が学院にいてもオルクスの裏切者として嫌われるように、アレニカの汚名がこのままでは卒業後にも汚点となるように、リンナも密告がバレれば貴族女性の世界で生きて行けなくなる。
「……わかった。だがその代わり、知っていることは今全て教えてほしい。どんな些細な事でも。君の勘や疑念でも構わない」
「は、はい。でもあんまりお役に立てるようなことは」
そう言っておずおずと思いつく限りの情報を上げるリンナだが、残念ながら彼女の言う通りまともな情報はほとんど出てこない。そもそもが短期間で急に広まった噂なので。そこまで付随する情報自体が多くないのもあるだろう。ただ一つ気になるものはあった。
悪魔は疚しいことのある人間のところへやってくる。だからアレニカには疚しいことがなにかあるのだ。
そんなフレーズがこの噂にはついて回っていて、まるで根拠のように引用されることも少なくないんだとか。
「なんだそれは。私は聞いたことがないぞ」
「わ、私もなかったです」
揃って首を傾げるネンスとリンナ。それは当然だ、と俺は一人で頷く。疚しいことがあると悪魔が来ると言うのは民間の俗説なのだ。平民の親が子供を叱ったり脅しつけたりする際によく使うフレーズ。教養を重んじ悪魔を現実的な脅威として政治に加味する貴族の間ではまず飛び出さない、口にする階層が根本的に違う文言だった。
つまり噂の出所は平民……?
学院には少ないながら平民の生徒がいる。しかし彼ら彼女らにアレニカを貶める理由がない。どうしても違和感は拭えなかった。
「他には?」
「…………い、いえ」
「……そうか」
明らかにまだ何かを隠している。そうでなければあれほど密告者の恐怖に苛まれるはずはない。もっと核心に迫る何かを知っているのだ、彼女は。それでも最後までネンスはリンナからソレを引き出すことができなかった。
「し、失礼します」
リンナが談話室を去ったのを確認して俺は隠蔽を解除する。何もないはずの空間から色がにじむようにして現れた俺に、彼は苦り切った笑みを頬へ浮かべた。
「私もまだまだだな」
「がんばって」
「咎めないのだな」
「どこで間違えたか分かっている人に延々指摘をするのは無粋」
彼は自分がどこを間違えて、どうすれば次はスムーズに話を聞けるかを考えている。だから言う必要はない。
「で、どうするの?」
話を本題に戻す。ネンスは俺の視線をうけて深く眉間にしわを寄せ、拳をぎゅっと握った。
「どうもこうもない。徹底的に叩き潰すぞ」
「それはもちろん。でもまずは?」
「そうだな、まずは噂の実態を探るべきだろうが……貴族令嬢の噂話ほど集めにくい情報もないからな」
「アベルに頼めば?」
「……そうだな、学友として頼める範囲で頼ってみてくれ」
あ、俺がするのね。いいけど。
前々からどこか憎めない性格で気に入っているアレニカだが、事件のせいで俺にとってかなり注目度の高い人間となっている。なにせ学院で初めてエレナからつくった友達だ。守れるなら守ってあげたい。
加えてこの心無い噂が夏明けに戻ってきたシーアの耳へ入れば……もうあの娘が苦しむ必要はないだろう。彼女の友人としても、マレシスの最後を看取った者としてもそれは譲れない。
「もう夏季休暇には間に合わないが、明けたらすぐに噂を駆逐できるようにしたい」
「ん」
「1年で広まると言うのは分かる。だが何故3年でもすぐに広まったのか、2年には広まっていないのか。私はそのあたりから探りを入れて見る。アクセラは知り合いから情報を集められるだけ集めてくれ」
「わかった」
何時の時代も、本当に面倒なのは武力や教育で変えられない捻じれた感情だ。
~予告~
アレニカに降りかかる想定外の災難。
まず必要なものは……。
次回、友情と情報




