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八章 第1話 夏休み前日

 革の旅行鞄が2つ、最低限の着替えと道具だけを詰め込まれてベッドに口を開けていた。まるで貴族らしからぬ荷物の少なさだが、普通の冒険者にはこれでも大荷物。規模で言うならまずまず儲かっている行商人くらいの量か。それが俺たちの旅支度のほぼ全てだった。


「アクセラちゃん、こっちは入れ終わったよ」


「ん。でも忘れ物があったら困る、閉じるのは明日にしよ」


「うん、そうだね」


 何気ない会話には少しだけ虚勢が混じっていた。

 いや、虚勢はちょっと違うかな。

 ノリきれていない夏休みの陽気に無理をして合わせているような、元気が足りない感じだ。明日から始まる旅行までには回復していそうな程度に。そのことが後ろめたいと零す友達もいるが、それは仕方ない事だ。いつまでも人間は嘆いていられないように、ミアたちは創ってくれている。前に進むしかないように。それを無理に止めようとすれば壊れてしまう。


「酔い止めは持った?」


「むぅ、それ聞くの4回目だよ!」


 蜂蜜のような金髪を揺らして振り返ったエレナの頬は、むくれたように膨らんでいる。4回も確認されればそうもなろう。でも彼女だっていつも冒険に使っている肩掛けからポーション類を出しては入れ直し、最善の配置を探し続けているんだ。どこかで出したまま忘れないとも限らない。しかも酔い止めは彼女にとって船旅の必需品であり、俺にとっても聖魔法を使わずに済む大事なアイテムなのだ。確認もしたくなる。


 チリリン……チリリン……


 口を開けたままの鞄を寝室の隅に置いた頃、新調したばっかりのドアベルが涼し気な音をたてた。


「マリアちゃんが帰ってきたのかな?開けてくるね」


「ん」


 扉はエレナに任せ、俺は鎧の点検を行う。明日から始まる帰省を兼ねた旅行にも武具は必要だからな。


「お、おまたせ」


 しばらくしてエレナが戻ってくると、その後ろには案の定マリアが付いて来ていた。非力な彼女では運び出しもままならなかったのか荷物は持っていない。


「船に直接積んでもらう?」


「う、うん。えっと、2人は……そ、それだけ?」


 彼女は俺たちの荷物を見て涼し気なアイスブルーの目を丸くする。独特の感性を持つマリアでさえ驚くほど、貴族の娘としては荷物が少ないからだ。それでも彼女の荷物だって他の令嬢に比べると少ない……はず。


「荷物が多いと困る」


「着替えも2、3着あればその間に洗えるしね!」


「ん、そういうこと」


 生活魔法を積極的に多用できる俺とエレナの魔力量があればこその手段だ。ただし苦笑を浮かべて黙ったあたり、マリアとしてはナシな手段の様子。魔法で家事を代行しようとすると何かしらの粗が出るので仕方がないのかもしれない。『生活魔法』で髪を乾かすと傷みやすい、みたいな。


「マリアはもう出発できるの?」


「あ、う、うん。あ、明日の朝に、旅装のド、ドレスに着替えたら」


 旅装のドレス。そういうものも王都の貴族にはあるのか。

 マリアの実家であるロンセル子爵は我がオルクス領より北に土地を持つ領地持ちの貴族だが、どちらかというと王都での暮らしが長いタイプらしい。それはレイルのフォートリン伯爵家やアベルのトライラント伯爵家も同じで、基本的に家族は便利な王都で暮らしながら領主と実務担当者だけが行ったり来たりを繰り返している。王都の物価などを考慮すると、こういう暮らしができる家は裕福だ。

 ウチは二重権力状態だしな……まあ、少なくとも俺の側は貧乏だ。

 改善しつつあるとはいえ、オルクス領は実入りの少ない家のまま。王都に暮らす伯爵一党はビジネスで儲けている分裕福なんだろうが、ビクター率いる領地は経営と必要最低限の見栄を除いただけでカツカツの財政状況が続いている。儲けた分だけ次の投資に回さなければいけない、という理由もあるが。

 ちなみに領地ベースの生活をする領主の貧富は半々といった具合で、旅装も簡素に済ますことが多かったりする。なので旅用ドレスは少数派。


「マリアはドレスがよく似合うから楽しみ」


「そ、そんなことないよ!わ、私よりアクセラちゃんの方が、ず、ずっとかわいいし……あ、あの!邪魔にならないように、その、お部屋で本読んでる、から!」


 色素の薄い頬を真っ赤に染め上げて彼女はぱたぱたと部屋を出て行く。誰もが認める美少女であり実は友達の中で一番芯が通っているマリア。その最大の弱点は褒められることだ。

 微笑ましい。


「むぅ」


「ぐぇ」


 鎧に視線を戻したとたん、背中から何かが圧し掛かってきた。腹から胸にかけての暖かさと柔らかさ、下着のフレームの硬質な感触。考えるまでもなくエレナだ。頭頂部に乗せられた顎がちょっと痛い。


「むぅー」


「痛い痛い。あと暑い」


 顎をぐりぐりしないでほしい。あと夏の薄着越しで体温が……その、移る。

 夏も盛りに向かって加速しだしたこの時期、単純に暑苦しいというのもある。


「な、なに?」


 突然甘えてきた少女に尋ねてみる。答えは期待していない。


「なんでも」


「?」


 拗ねたような、何か言いたそうな、そんな雰囲気だけをたっぷり含んだ言葉。この妹はここ数日、難しい年頃らしい謎の行動を繰り返すようになっていた。朝起きると俺の顔をじっと見ていたり、構ってほしい猫の如く額を擦りつけて来たり、二次性徴の初期に好奇心でそうしていたように体を触って来たり。俺がどうしたのか尋ねると決まって先の台詞がやってくる。

 まあ、危ない作業でもないしいいか。可愛らしいことに違いはないしな。

 こんなことを思っているからいつまで経ってもベッドや風呂を分けるという目標が進まないのだが。それは別の問題として置いておきたい。どっちみち今はベッドを分けることができない状況でもあるし。


「マリア、大丈夫かな」


「むぅ、それはちょっと思ったけど……たぶん大丈夫じゃないかな」


「そう?」


「うん、マリアちゃんはね」


 そもそもマリアがなぜ俺たちの部屋にいるかというと、彼女が普段使っていないエレナのベッドルームに泊まっているからだ。ルームメートが居なくなって寂しいから泊めてほしいと頼まれて。


「問題はシーア、だね」


 マレシスの死が公的に発表されてすぐ、彼の婚約者でもあったシーアは学院を去った。愛する人を失った悲しみと、それを占術で察知しつつも防げなかった自責の念に苛まれて。このブルーアイリス寮で寮長を務めるニッカ先輩がこっそり教えてくれたが、シーア自身が実家に迎えを頼んで出て行ったらしい。


「……」


 マレシスを殺したのは俺だ。助ける方法がなかったとはいえ、異変を察知した上で決闘までしてそれでも事態に気づけなかった。後手に周った結果、悪魔の中で彼が死ぬことを許してしまった。


「アクセラちゃん」


 ディムプレートを磨く手が止まったのを目ざとく見つけて、エレナがそっと腕を回してくれる。


「マレシスくんは悪魔に取り込まれて、それでも気高く抗って息絶えた。そうでしょ?」


 公式発表では省かれた凄絶な最後。それは誰にでもできることじゃない、本当の誇りを持った騎士だった証拠だ。そうネンスに伝えたのは他ならぬ俺だ。

 でも、そう簡単に人は割り切れない。俺も、同じだ。

 悪魔に与えたダメージの一体何割が彼の命を縮めたのだろうかと、そう考える瞬間がこの短い期間で何度もあった。宿主へのフィードバックをできるだけ抑えて戦ったつもりでも、実際にどうなっているかは分からない。数字で体力や傷が表示されてくれるわけじゃないのだから当然だ。

 もう少し上手くやれれば彼を死なせずに済んだのではないか。それが無理でも、最後にネンスと言葉を交わさせてやれたのではないか。シーアに想いの籠った言葉を残させてやれたのではないか。

 未練だな。割り切れなくとも、割り切るしかないだろうに。

 一度は割り切ったつもりの思いはどうやら直後の忙しさに紛れていただけだったらしい。俺にしろエレナにしろネンスにしろ、事の顛末が発表されて授業が再開されてからそれを思い知った。大柄な少年が消えた教室はどこか季節に似合わない寒々しさを帯びて、戦闘学のかわりに開催される各種の授業は虚ろで、目元の化粧が少し厚くなったヴィア先生と背を丸めて登下校を繰り返すアレニカが痛ましかった。


「ん、大丈夫」


 彼女の手に自分の手を重ねて俺は答えた。

 既に交わした王家との約束、来たるレグムント侯爵との会談、伯爵家内部で起こす反乱、そしてエレナの覚悟。状況は大きく動きだす可能性を強めている。俺が師について刀を振るっていた頃のように思い悩んでいては駄目なのだ。


 ~★~


 居候と化したマリアと3人で昼食を食べたあと、俺は男子寮ブルーバードへと向かった。普段なら物珍しさと嫌悪と欲望の視線が3対6対1くらいで向けられるエントランスも夏休み直前とあってほぼ無人。


「殿下に取次を」


 受け付けで短く用件を告げると、びっくりするほど早く執事風の老人が俺を迎えに降りてきた。今まではマレシスが来るか、たまに本人が迎えに来ていたのだけど。つまりこの執事風はネンスの新しい部下ということか。


「アクセラ様ですな」


「ん」


「こちらへどうぞ。殿下がお待ちです」


 皺の多く刻まれた顔に完全な無表情を浮かべて老人は言った。俺と比べても下手をすると勝るくらいの無表情だ。それから彼は何度か通ったことのある道を先導してくれる。

 ちなみに女子禁制の男子寮で俺はちょくちょくネンスの私室へ立ち入っている。これは彼の第一王子という立場上、政務などに関わる範囲で私室が最善と判断したら異性でも連れて入っていいという特例があるためだ。学院が認める数少ない身分を考慮した権力の付与と言ってもいい。もっともお茶に呼ばれて入っていることがほとんどなので、思いっきり職権乱用にあたる。


「失礼いたします、アクセラ様をお連れいたしました」


 ネンスの部屋に入ってすぐ、応接室の扉に向かって執事風は報告する。茶色の木扉が内側へ開いて見慣れた少年が顔を出した。公式発表について話してくれたときよりわずかに顔色がいい。少しずつ体も心も持ち直している証拠だ。


「よく来たな、アクセラ」


「ん」


「アポリーは下がれ。予定表のダブルチェックを頼む」


「承知しました」


 老人を下がらせて俺を応接室に通すネンス。新しい部下は前任者、と言っていいのか微妙なところだが、マレシスとは比較にならないくらい素直に引き下がる。今亡き騎士がなぜああも過激に反応していたかを思えば、これはこれでいいのかと聞きたくなる。主に忠誠心的な意味で。


「レモネードだ。構わないか?」


「ん」


 テーブルには薄っすらと白味がかった飲み物2つと、氷で満たされたアイスバスケットが1つ。ここで紅茶が見れるのは相当先になりそうだ。


「今のはアポリー・アディス。一昨日から私の事務補佐をしている……まあ、本来はマレシスの負担軽減を目的に父上へ上奏していた文官だ」


 一昨日とはまた極端に日が浅い副官だ。


「派閥としてはあまり大きくない、王家を軽んじる一派に繋がっている」


「……」


 いや、それ、敵。

 マレシスと比べるべくもなかった。


「そんな顔をするな」


 俺の表情を読んでネンスが肩をすくめる。それからグラスに2つずつ氷を入れた。


「取り込むか、害がない限り放置するか、あるいは何か理由を見つけて処断するか。これは父上からの試験でもあるのだろうよ」


 ネンスはこともなげにそう言う。卒業すればいつ王を継いでもいいように生きて行かなければいけない男の苦労が、何でもないといった様子からうかがえた。王族は大変だ、貴族に輪を掛けて。


「さて……そんな話は置いておいて、本題に入ろう。防音を頼めるか」


「ん」


 言われた通り『完全隠蔽』を部屋の内側に対して発動する。これで視覚的な情報以外は外に漏れなくなった。


「した」


「そうか。それでだな、まあ、言いたいことは山のようにあるが一旦置いておこう」


 国王との会談をセッティングしてもらった日、俺はまともな説明を彼にしなかった。友達としては信用しているが、王子として父王に情報は伝えるはずだと踏んだからだ。なにより友情を守りたかった俺なりの配慮とも言える。責務との板挟みにはしたくなかったから。ただこれは一方的なもので、ネンスは文句の3つ4つを飲み込んだのだろう。


「使徒の件は正直なところあまり驚いていない」


「そうなの?」


「純粋な人間種の少女がこれだけの戦闘力を有しているのだぞ。強大な加護でもなければ、その方がおかしい」


 それもそうか。つまり軽い加護であの戦闘力を有するエレナこそホンモノだと。


「というのは建前で、第一使徒と言われてもスケール感が狂いすぎてよく分からないと言うのが本音だ」


 あっさり本心を吐露したネンスに俺は苦笑いを返す。たしかにその通りだと。

 一連の事件だけでも悪魔、悪神と来て神の使徒だ。しかも神が最初に任命する第一使徒。スケール感が狂ってよく分からなくなったという彼の言葉は、それ以外に表しようのない感情だった。


「私には使徒の位階による違いは今一つわからないしな。というわけで使徒云々はまたおいおい考える。幸いなことにこれから夏休みが始まるしな」


 麻痺した感覚を戻しながら勉強すると。勤勉で真面目なネンスらしい考えだ。結論を急がない点も評価できる。


「父上との約束事だが、これはむしろ願ってもない幸運だと私は捉えている」


「というと?」


「マレシスが……いなくなってから、私を学院で守れる人員がいなくなってしまった」


 学院は外界の身分を持ちこめない。公務のために文官を派遣してもらうのが王子殿下にしても限界で、護衛の騎士を常駐させるのは不可能。なぜ王族相手でもそこまで徹底するのかは知らない。


「学院に生徒として来れる近衛騎士はマレシス1人だった。だが今回の騒動で必ずしも学院の中が安全とは限らないという話になってな……私の処遇を巡って騎士団と学院側が険悪になるのではとの見方も会議では出ていたのだ」


「よく私の正体をばらさずに騎士団を黙らせられた」


「裏方を担当する薄暮騎士団という特殊な部隊があってな。騎士団の上層部には彼らが動員されたとトライラント伯から情報を流してもらっている」


 アベルの実家、トライラント伯爵家は高貴なる情報屋とも呼ばれる貴族界随一の事情通だ。そこに掛け合って欺瞞情報を流したと。その本当の理由、使徒云々については伯爵にも伏せているそうで、相当な貸し借りの行き来があったことを匂わせる。


「薄暮騎士団の存在にトライラント家とのやり取り……私に言っていいの?」


「父上の了承は取ってある。コトはお前が大きく関係するのだから、情報共有は当然だ」


 まだしばらくは俺が冒険者として護衛依頼を受けている事実を伏せておく。いずれバレるとして、その段階になればオルクス家で小娘で冒険者の俺をデコイに方々を刺激する陛下の策略だという情報がトライラント発で出回る算段だそうだ。


「裏で薄暮騎士団が動員されたという情報、そのカバーストーリーとして私が護衛の冒険者になったという情報、それも嘘で実は私が本命の護衛だという情報。三重に張った欺瞞情報で罠を張る。えぐい」


 俺を軽んじて攻撃を加えて来る浅はかで耳が早い馬鹿は一網打尽にすればいい。なにか下心をもって接触を図って来る奴も馬鹿なカモだ。薄暮騎士団がいると想定して動いている場合は情報源を騎士団上層部と特定でき、俺を本気で危険視して動いているなら身内か学院にモグラがいると分かる。

 そうした動きを本物の薄暮騎士団が調査して、情報の流れと勢力図を確かめて行くのだ。つまり第一王子をまるごと餌にした大がかりな調査という話。


「アクセラが護衛なのだ、問題はあるまい」


「私でも守り切れない状況はある」


「それなら誰も守りきれない状況だったのだと私は思うことにしよう」


 間髪入れずに彼は言い切った。さすがに俺も圧倒されてしまう。


「どうしてそこまで?」


 確かに俺とネンスは友人だ。彼にとって裏表なく付き合える相手は稀少かもしれない。マレシスに纏わる紆余曲折を経て、最後には同じ悲しみと無力感を共有した。戦い方の指導を行ってもいるし、秘密を共有してもいる。

 だけどここまで言えるか、普通。


「不満か?」


「素直に嬉しい」


 微笑みを浮かべて応える。でも、とそのあとに繋げても目の前の少年の頬は薄っすら赤く染まったままだ。


「理由が知りたい」


「……」


 二度目の質問に彼はたっぷり10秒ほど黙って、それから曖昧な笑みを浮かべた。


「今はまだ秘密だ」


 納得のいかない説明。俺は更なる言葉を求めてじっと見つめ、彼はそれを拒否して押し黙る。不自然な沈黙の中、からりと氷が崩れて音がした。


「い、いいだろう」


 結局ネンスが先に根を上げた。しかし続いたのはいい訳じみた言葉と露骨な話題の転換。


「この件でお前にデメリットのある隠し事は一切ない。それで勘弁してくれ。それとこんな事を言っておいて早々だが、夏の休暇中は予定通り護衛の必要がないからそのつもりでいてくれ」


 なんだかなあ。

 夏の間は王家が纏まって移動するので近衛騎士による護衛で事足りるのだとか。そのことは事前に聞いていた。夏の予定を潰して王家に同道せず済むのはありがたいけど。


「さて、用件は以上だ。そちらの夏の予定でも教えてくれないか」


「……はあ。どうせやることは同じだし、いいけど」


 肩を竦めてレモネードを一口飲む。それを見たネンスも口を付ける。

 あ、そうか。毒味もしないといけないんだ、一応。

 思い返せば何度かネンスが食べる前にマレシスが同じモノを口にしてみせる時があった。食堂なんかだと普通に食べているのは、貴族の子女をあずかる学院側がきちんとしているから。つまり学院側以外から入ってきた食べ物は毒味の必要があるということで。


「護衛向きじゃないよ、私」


「安心しろ、これはあくまで形だけだ」


 毒味はブラフで実は解毒の魔道具を肌身離さず着けているとのこと。

 まったく王族は欺瞞情報が多いことだ。


「それで?」


「川を上ってトライラント領に行く」


「なるほど。避暑地の定番だが、またタイミングが難しいな」


「ん」


 トライラント伯爵の領地は国内最大の湖の畔を含む。レグムント領や王都を通って北部へと延びるフラメル川の源流の一つでもある。南部の温暖な気候と相まって貴族の避暑地、静養地と人気を博すわけだ。しかしこの情報工作の真っただ中に俺が行くのは面倒ごとの気配がしてならない。


「しかもトライラント、アベルの実家だろう」


「ん。泊まる場所、たぶん伯爵家」


「……まあ、なんとかなるか。伯は無駄な争いを好まない性質だ。王家とも親しくしている」


 だといいんだけど。

 俺とエレナはそのあと、レイルとマリアを伴って南側からオルクス領に入る。アベルやティゼル姉弟とはトライラント領でお別れだ。ケイサルでしばらく2人を持て成した俺たちはそのまま留まり、レイルとマリアはさらに北上してそれぞれの領地へ戻ることになっている。


「そういうネンスは?」


「夏の前半を王都で過ごし、後半をトライラント領に隣接する王領で過ごす予定だ。おそらく行き違いだな」


「ちょっと残念」


「確かにな」


 家族と過ごす時間は学院生にとって希少だ。だが友人と純粋に楽しい時間を過ごせるのは人生全体で見るともっと希少な今だけのこと。


「ん、でも夏休みが明ければ遠征もあるし」


 夏の遠征こと学年ごとの研修旅行は実質ただの観光らしいし、その間はネンスと行動を共にすることも増えるだろう。寮は色ごとにペアが設定されていて、班分けはそれに基づいて行われる。なのでブルーアイリスの俺とブルーバードの彼はなんにせよ行動を共にすることになるのだ。


「遠征か。楽しみではあるが、やはり気鬱な面はあるな」


 膝に肘を置き、掌に顎を載せてネンスはぼやく。遠征は遠征で王子としての役割を持つ彼だ。素直に喜んでばかりもない。

 トワリ侯爵の件、何かできることがあれば手伝ってもいいんだけどな。

 そう思って俺が口を開こうとしたとき。扉を控えめにノックする音が聞こえてきた。続いて俺をここまで案内してくれたアポリーの声。


「殿下」


「入れ」


 許可を得て入室した老人は相変わらずの無表情で用件を言う。


「御歓談中失礼します。お目通り願いたいと言う生徒が1人、エントランスまで来ているとのことでございます」


「誰だ?」


「シムズ男爵家令嬢、リンナ様と仰いました」


 知らない名前だな。誰だろう。

 俺とネンスの会話はほとんど終わってほぼ雑談だ。解散しても構わないと視線で訴える。すると何故か彼はニッコリと笑ってからアポリーにこう伝えた。


「ではシムズ嬢を寮の談話室に通せ。私はアクセラを見送ってから向かう」


「承知いたしました」


 アポリーが退出するのを見届け、ネンスはもう一口レモネードを飲んでから立ち上がった。


「姿を隠して付いて来てくれ。以前私を壁に叩きつけた時のようにな」


「それはごめんてば」


 ちくちく刺してくる友人に何度目かの謝罪をしながら詠唱する。なんとなくそんなことを言いそうだと思っていた分反応は速かった。


「おお、分かっていても全く見えないな」


 心底感心しながら半ば無意識に差し出した手をぺちりと叩いてやる。距離が分からなくなった状態で、仮にも異性に手を伸ばすんじゃない。

 いや、ほぼ同性だからいいのか?


「す、すまん。さて!初仕事だ、よろしく頼むぞ」


「ん」


 一瞬混乱した自己認識を届かない返事で吹き飛ばす。それから数歩の距離をあけて、俺はネンスの背後に付き従って部屋を出た。


外伝を挟んで本編がついに再開です!

いやー、一か月のお休み短かったです(笑)

頑張って次の章を書いていたんですが、難航しておりまだ10話を達成できてません。

これは章ごとにお休みを頂かなくてはいけないやも……いえ、頑張ります。


前回が結構重かったので今回は楽しい方向に振っております。

どんな想いを抱えていても日は上り、雨はあがり、腹は減って毎日は続いていく。

そんな中で少年少女(一名実質ジジイ)はどう過ごしていくのでしょうか。

それでは各々の傷と事情を抱えた中で始まる夏休み、お楽しみください。


~予告~

全てが終わってなお消えぬ悪意。

休暇へひた進む船の上、思惑は巡る。

次回、憂鬱の船

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― 新着の感想 ―
[良い点]  百合……いいなぁ、ただイチャイチャするだけでこの二人は尊い……エレナ可愛いよエレナ() [気になる点]  おや? ネンスにもとうとう春が……っていうわけでもなさそうですな。彼の意図はどこ…
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