七章 第21話 歪みえぬ誇り
「癒しの御手にて心鎮め癒したまへ」
大部屋に飛び込んで真っ先に聖魔法中級・トランクイリティを発動させる。薄紫の光が柱に括りつけられたアレニカに吸い込まれる。幼少期に散々世話になった精神安定魔法は彼女の魂を保護するだろう。極度の緊張と不安定なメンタル状態から解放された少女は気を失ったようだが、これからの展開を鑑みるにそれはラッキーなことだ。
『何者、ダ、気配、皆無、聖魔法、危険、キサマ、危険!』
「その風体、魔力量、今までの行動、慌てると単語会話に戻る性質……下級第二位から第三位くらい?」
異形の存在を睨み付けながら紅兎の柄を握る。悪魔としては雑魚だ。ただし人にとっては十分危険な化け物だが。それに融合の進行度合いが想像以上に深刻だ。
依代から『使徒』で剥離できるか?いや、おそらく負荷が強すぎる。
『危険、キサマ、エサ、不適、同胞、メ、騙シタ、カァ』
野太い首の先に被せられた灰色の面のような顔に縦2対の黄色い目。それが怒りを表しているのかぎょろぎょろと個別に動いた。四つの黄色い月とはコレのことか。
「同胞は誰?」
成人男性より頭3つは大きい悪魔。それをはるか下から睨み付けて問う。
『キサマ、回答、スル、不要、ダ』
「エレナは、もう1人の娘はどこ」
『再度、言ウ、回答、不要、ダ』
こちらと喋る気は一切なしか。それならそれでいい。この部屋には俺が入ってきた通路以外に2つの道がある。片方は扉に閂が差し込まれているから違う。そうなると黒幕は奥の通路の先にいると考えていいはず。
『キサマ、殺害、スル!オレサマ、エサ、ヲ、捕食!同胞、反逆、シタ、懲罰!』
左右の剛腕と頭は純粋に悪魔。マレシスの肉体が芯にあるのは下側でだらりとしている腕と下半身、あとはデカい上半身に埋まっている部分か。
「そう」
アレニカを盾に取られる前に、俺は最初の一歩を踏み出した。魔力強化とスキルによる身体強化、それに極限まで薄めた聖巫装を施して。
「マレシスは返してもらう」
『返却、不可、ダ』
紅兎の鯉口を切る。薄紅と銀に輝く刃が鞘から吐き出される。デカブツへの初撃は懐へ入っての斬り上げ。切っ先が流線を描いて駆け上る。悪魔は左の剛腕を振り下ろしてこれを迎え撃つ。
『グギ』
「ん!」
激突の瞬間、両者を真逆の方向へと押しやる力が働く。それを踏みつぶして押し込めば、気味の悪い光沢の体が煙を立てはじめた。
『忌々シイ、聖魔法!神、力、ガァ』
唸ったかと思うと、視界の端で右剛腕がぶちぶちと嫌な音を立てて変形する。マサカリのようになったそれが風をも切り裂いて俺の腹へと叩き込まれる。踏ん張っていた足から力を抜いて後ろに跳び下がる。
『抹殺!』
左腕も棍棒のような姿に変形した悪魔が追い来る。マサカリの刃と紅兎の刃を合わせて受け流し、鈍器による突き込みを外側にずれて回避。腕から伸びる紫の突起を斬り飛ばす。
『ギィ』
「甘い」
反転して跳躍すると、それまで立っていた岩床を棍棒が叩き割った。まるでその腕を軸にするかのように、悪魔の上半身が大きく回転して右腕が振るわれる。いつのまにかマサカリは長く伸びた鋭い五指へと変じていた。しかも全ての指が鉈のように刃を持ち、マナエッジと思しき魔力を纏っている。
「やっぱりお前か」
さらに3歩下がって斬撃を躱した俺は吐き捨てるように言う。
マレシスが決闘で使ったマナエッジはこいつの能力を応用したもの。だからこそ教えてもいないのにあれほど上手く使いこなしたのだ。それだけあの時点で悪魔がマレシスに影響力を持っていたということでもある。
ならマナアーマーもか。
憚る相手のいない俺は目を神眼にする。魔眼より多くを見通す神々の目には、強固な魔法に覆われる醜悪な邪気が映った。
『キサマ、使徒、カァ』
「なんにせよお前を殺す者だよ」
『使徒!使徒!使徒、許可、不可!使徒、殺害!使徒、殺害!使徒、殺害!』
一気に悪魔の魔力が膨れ上がる。棍棒がほどけて左と同じ鉈状の指に変化する。
『使徒ォ、殺害ィ!!』
黄色い目が一層グロテスクに光ったかと思うと、左右の剛爪による怒涛の連撃が襲いかかる。俺が寸刻いた床をバターのようにあっさりと引き裂いて。一段速度の上がったそれを俺は危なげなく回避する。しかし部屋が広いといっても場所は限られている。視界の両縁に映る光景が退路の少なさを示していた。
『殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害、殺害』
「うる……」
水氷魔術・水盾で左の爪を受け止める。
「さい!」
聖巫装の出力を引き上げた紅兎を左腕だけで振る。がっぷりと切り結んだ右の剛爪が煙を吹きだしてはじけ飛んだ。
『オオ!オオ!キサマ!キサマ!殺害!オオ!』
思わず右腕を引く悪魔。水盾を解除して両手持ちに戻した俺は、抵抗を失って突っ込んでくる左の爪も向かい討つ。今度はギリギリで強化されたマナアーマーが聖巫装の魔力を受け止め切って美しい紫の火花を散らした。
『使徒、殺害!』
巨体から来る圧倒的な力とあらゆる強化でもって拮抗する俺。そのとき、悪魔の肩から何かが顔めがけて飛び出してきた。
「っ」
首を動かして紙一重で避ける。それは背中側から伸びた、昆虫じみた節を持つ腕だった。先端は槍の穂先の如く尖っている。
「は!」
半回転で伸し掛かる腕を往なし、脇を潜って背へ回る。振り向きざまに銀閃を斜め上へ走らせる。
『ギィ』
危なく俺の目を奪う所だった背腕が一つ、根元から斬り飛ばされて部屋の隅に落ちた。回転の力を利用してそのまま廻し蹴りを叩き込み、反動を使って距離を取る。後ろにかかる力をブーツの底で受け止め制動しきる。
「しめた」
図らずも、俺の着地地点は例の柱の目の前だった。
「ふっ」
身を低く保って水平に構えた刀を大きく振り抜く。柱が縛られた少女の足のすぐ下で切断される。倒れ始めた石柱を受け止めた俺は、アレニカに悪いと思いながらも少女だけ外して部屋の隅に投げた。
『余所見、厳禁!殺害、ヲ、達成!』
その声はすぐ目の前から。視線を戻したとき、神眼に映ったのは魔力強化を使って想像以上の急接近をする悪魔の姿。マレシスの技能にまでアクセスしているようだ。元の姿に戻った剛腕が俺の頭を果実のように砕くため振り下ろされる。空気ごと圧殺するかのようなその速度は回避不能。
「くっ」
『仰紫流刀技術』で頑強さを底上げした紅兎で受け止める。瞬間、まるで隕石が頭上に落ちてきたような衝撃と轟音が俺を襲う。腕に、足に、凶悪な負荷がかかって筋肉が弾ける。
「ぐぅ!!」
青い幾何学模様が肌に浮かんで破損した繊維を修復する。マナアーマーと巫装が散らす光の雨の中、押し潰されかけた体が跳ね返そうとする。だがその前に何かが俺の顔を強かに殴りつけた。
「が!?」
それが引き金となって重圧から横に抜ける。咄嗟に刀を真っ直ぐ構えて繰り出しそうになり、慌てて踏みとどまる。低い姿勢から背のない俺が突けばマレシスの体に当たる。俺の逡巡を突いてもう一度剛腕が落ちてくる。今度は前の空間へと飛び込んで回避に成功。そのまま2度転がって体勢を立て直す。
ちっ、あの腕動くのかよ!
巨大拳骨と競り合っているところを、それまでだらりとしていたマレシスのものと思しき黒腕に殴られたのだ。なかなかの腕力だった。おかげで口の中が鉄臭い。
『オレサマ、決着、早ク!エサ、エサ、エサ!』
「知るか」
血を吐きだして口元を拭う。この程度の怪我に回復魔術は反応しない。
『剣、ヲ、渇望』
不気味な呟きとも宣言とも取れる言葉のあと、悪魔は自らの左剛腕を右剛腕で掴む。それを躊躇いもなく引き抜いた。トカゲの自切に近い行動だからか、痛む様子もなく腕は肩から抜けた。
『宿主、剣、得意、ヒヒ、オレサマ、ソレ、ヲ、利用、スル、ギヒ』
引き抜いた腕が粘度の高い液体のように弾け、全く違う形に変化していく。それは刃渡りだけでも俺の身長以上ある巨大な剣だ。ただ全体にデザインはみたことがある。悪魔が自ら言った通り、ガードや装飾には依代マレシスの剣に似た雰囲気がある。参考にしたのだろう。もしくは取り込んだ彼の装備をそのまま核にしているのか。反省房にはそれらがなかったのであり得る。
『騎士剣!ヒヒ、使用、戦闘、ガ、優位!』
騎士剣などと、コレの口から言われるとどうしようもないくらい腹が立つ。
『殺害、スル!』
ぬるりと這うように悪魔が迫る。繰り出される薙ぎは巨剣に見合わぬ速度。当たれば腹から千切れるような一撃だ。奴の頭の高さまで跳躍すると、ブーツの下を黒い刃が駆け抜けた。そのまま俺は紅兎を跳ね上げる。狙うは忌々しい黄色い月だ。
「ひとつ」
『ギャ』
左下の眼球へ切っ先が入り、そのまま横へと抜ける。まるで卵の黄身を突いたように勢いよくソレは潰れて黄色と黒の中身をこぼした。だがその硬直をついて残った背腕が俺の足首を掴む。
「うぁ!?」
横への加速に全身の血液が末端へと流れるような感覚。俺はすぐそばの壁めがけて投げつけられる。目まぐるしく天上や床を映す視界の中、足元から離れようとした背腕を見つけた俺は簡易な手のついたそれを絶った。
『討伐:灰狼君』内包スキル『獣歩』
三半規管と足腰を強化し、迫る壁になんとか足を向けて着地。限界まで壁に屈んでから足のバネを解放。地面から巨剣の腹、剛腕の二頭筋を蹴って化け物の体を駆け上る。そのまま首筋を斬り裂き、背腕を根元から絶つ。さらに体を捻って後頭部へ蹴りを入れた。
やはり頸動脈などないか。
『無意味!無意味!無意味!キサマ、殺害!絶対、殺害!』
振り向いた悪魔は怒りだけを感じさせる声で巨剣を振り回す。一撃、二撃、三撃と繰り返される斬撃。異常な魔力が刃にチャージされていると気が付いたのは十を数えた頃だった。
「は!」
危機を察知して分厚い胸板の中心を浅く斬って後退する。傷からは目玉と同じ汚濁した粘液が驚くほどドバドバと流れ出す。悪魔はそのことに痛痒すら感じないのか、魔力を纏わせた一撃を振り下ろした。床へ深々と切り込んだ刃を中心に砂岩が赤熱。突沸したように床が爆発するのと俺が水盾を展開するのは同時だった。円盤状に展開した水の表面でジュッと蒸気が上がる。
「…………ちっ」
水盾を消して睨みつける。悪魔の胸板、俺が浅く斬った場所は内側が正しく目玉のようになっていたらしい。ちょうど真ん中で一文字に斬られた横開きの瞼。その下半分は重力に引かれてだらりと垂れ下がり、内側の光景を見せつける。汚水を失って伽藍洞になったそこには、顔があった。
「マレシス」
そこは成人男性の姿をした下半身から推測するに頭の高さだ。当然と言えば当然か、依代となった少年の頭が見えた。ただ名前を呼ばれても返事はしない。半開きの口と茫洋とした目は、彼に意識がないことを示している。
生きてはいる……のか?
『キサマ、驚愕、シタ、カ?ヒヒ、グヒヒ、オレサマ、歓喜!宿主、ガ、キサマ、歓待、スル、ゾ!グヒ、ギヒヒ』
「黙れ」
『安心、シロ、宿主、生存!マダ、ナ?』
「マレシス!」
『憐憫!宿主、キサマ、ヲ、嫉妬、シタ!オレサマ、嫉妬、好物!憑依、ハ、容易!』
嫉妬を糧にするのか、この悪魔は。
その言葉でシーアの見た占いの結果に納得が言った。蛇も緑も嫉妬を象徴する。そう考えると土を掘る音は同じく嫉妬を意味するモグラと分かる。目の前の化け物、その剛腕も見ようによればモグラの腕に見えなくない。
「マレシス、目を覚まして!」
『無駄!無駄!無駄!』
「マレシス!!」
『無駄、不知、カ?』
嘲笑うように悪魔は再度接近を試みる。地を這うようにぬらりと動くその動作は異様に速い。悪魔が得意とする影移動を応用しているのか。
「騎士の心、簡単に負けていいの!?」
『愚昧!キサマ、理解、不可、ダ!』
今度は最初から過剰魔力による融解攻撃を上乗せしたマナエッジの連撃。神眼で紙一重の回避を続ける。足元はどんどん溶け崩れ、俺が移動した後の場所へと溶岩を吹きかける。砂岩が溶けて固まることで床は段々と歪なガラス質に覆われた惨状と化し始めた。
『殺害!』
「マレシス!」
剛腕のない左側へ回り込んで高らかに跳び、火焔魔術・火弾を側頭部へ打ちこむ。腕の赤い幾何学模様からは3発の弾丸が飛び、左に残ったもう一つの目玉を焼いた。
『オァ、グォ!?目、ガ!オレサマ、ノ、目、ガ!!』
振り払おうと繰り出される巨剣を火弾で逸らし、また下を潜って正面へ回り込む。細い腕が掴みかかってくる。左腕の関節を破壊し、右腕はもう一度屈んで回避。マレシスの腕を壊すのは申し訳ないが、あとでなんとかしよう。
「やあ!」
立ち上がりざまにもう一度分厚い悪魔の胸板を、今度は深々と斬る。そこにナカミがないのはもう分かっている。聖巫装をさらに一歩進めてホーリーエッジとし、胸に追撃を刻み付ける。
強すぎる聖属性は、使徒の力はマレシスの余命を大きく縮めかねない……が、このままでは埒が明かない。時間経過もまた同様に少年の体を蝕んでいくのだから。
『ギギ、ギギ、忌々シイ!激痛!激痛!聖力、激痛!』
巨体が邪魔で至近距離戦は弱い。そのことに気が付いた悪魔の右腕痕から触手がずるりと生えた。吐き気を催す臭気が漂う。同時に不気味な音を立てて巨剣が小さくなった。
まずいな。
ホーリーエッジでつけた傷に火弾を叩き込みながら下がる。俺を追いかけて振るわれた触手が鞭のようにしなってガラス質の床を打った。剣は本当にマレシスの騎士剣を二回りほど大きくしたような、以前より精巧で魔力量の多い代物に変化している。
『使用、容易、重要、キサマ、ノ、訓練、参照、シタ』
「……そう」
マレシスの記憶から俺の教えたことを読み取って、より自分の技に適した形態へと剣を変形させたわけだ。嫌なところばかり頭が回る。本当に悪魔は嫌いだ。
そこからはワンランク上の速度を手に入れた敵がやや盛り返し始めた。巨体ゆえの小回りの利かなさを鞭で補い、取り回しを強化した剣で融解攻撃を繰り出す。隙を作って誘っては鞭を切断するが、それもすぐに再生してしまう。結局、マレシスが中にいる以上大技で攻めれないこちらが不利だ。
「マレシス、そろそろ起きて!」
ダメもとで叫ぶ。タイムリミットが差し迫っているという直観がゆえに。
『起キル、ナイ!永遠、ニ、ナイ!』
「騎士の誇りを思い出して!殿下やシーアが、君を待ってる!」
叫びながら数合黒い剣と打ち合う。やはり見た目は縮小しているが、それは圧縮によるものらしく重さは変わらない。横から乱入する鞭を斬り飛ばして逃れ、さらに数合を打つ。
ミシッ……。
悪魔の剣が小さな軋みをあげた。やはりマレシスの剣を芯材にしているのか。本物の、騎士の剣を。誇りを。
「マレシス!誇り高き騎士、目覚めなさい!」
『誇リ、無駄!騎士、ハ、目覚メ、ナイ!無意味!無価値!愚カ!グハ、グハ、ハハ!』
口調一つとっても相当馴染んだらしい悪魔。その動きは段々と効率的になってきている。マレシスに遠慮した攻撃では与えられるダメージが減っていき、より力や魔力を込めなければいけなくなっていく。全力を出せれば、殺すだけなら、たった一撃で葬れる程度の相手に。
『死、ネ!』
鞭が数本ずつより合わさって左肩からは3本の細い腕が生えた。
腕が増えるのは、触手より厄介だな。
「マレシスは誇り高い男。ときに視野が狭いけど、真っ直ぐで根のいい騎士だ」
『無意味!愚カ!マダ、分カラ、ナイ、カ!?』
「無意味じゃない。絶対に、無意味なんかじゃない」
再度踏み込んで横薙ぎの一撃を繰り出す。
『ギヒ、ヒヒ、愚カ!愚カ!愚カ!』
重量に任せて紅兎を弾いた悪魔は、そのまま軽量化した邪剣で縦横に連撃を放つ。それはマレシスが得意としていた剣術系スキルの動きだ。首筋を掠めて壁を穿った切っ先がまたガラスの素を俺の頬に散らす。バンデージがなければ火傷だ。
クソ、熱いだろうがっ。
邪剣の柄尻を裏拳で殴りつけ切っ先を壁に埋めて時間を稼ぎ、背中へ回り込みつつ火弾を連射。爆炎を突っ切って跳び込んでくる悪魔の追撃を往なして立ち回り、段々上達する剛剣と掴みかかる腕を捌く。技量は圧倒的に俺が上だが、文字通り手数の差で少しずつ押されている。
拙い、時間がない。時間が。マレシスに、俺に、策を考えるにも、実行するにも、時間が。
下げた足が柔らかいものを踏みつける。
「!」
それは立ち回りの最中、俺が回避するたびに赤熱し溶かされていった床の一部。まだ完全に固まりきっていないソレは柔らかく、俺の体重を支えられない。まるで大雨の後のぬかるみのように足下で崩れる感触。
しま……っ!?
戦闘中に考えすぎた。そう思った時にはもう遅い。足場の変化に対応しようと体が半ば自動的に力む。腕を引き、体を前に押し出そうと動いてしまう。意思の力で反射をねじ伏せようとしても一瞬のラグが生まれる。そのラグは致命的だ。
『グハ、ハァ!』
これでもかと勝ち誇った愉悦の声。振り上げられた黒い剣が一直線に落ちてくる。後ろに流れた腕を無理やり引き戻し、迫る刃と体の間に刀を滑り込ませる。不完全な守りの型。紅兎と体が耐えられるかは1秒後に……。
「な!?」
『何、ダ!』
両者が驚きの声を上げる。俺を斬るはずの切っ先が異様な方向へ逸れたのだ。紅兎の横腹を滑って床の傷痕に追撃を喰らわせる。
バキン!
金属が折れる耳障りな音。床の傷に填まって力が逃げ場を失い、黒の剣は根元から圧し折れた。決闘で剣に入った亀裂が原因だ。
「でん、か……おう、に、……な、り、ま、せ……」
すっかり聞きなれた声が耳に届いた。マレシスの声だった。囁きにも満たない小さい声。それなのになぜかハッキリと聞こえた。あらゆる感情が込められた声だったからだ。命とはなんぞやという問いに答える、明確な力と光が込められた声だったからだ。
「……っ」
もう手加減は、必要ない。必要なくなった。
胸の奥で爆発が起きる。感情の爆発が。奥歯を噛み締める。崩れた足元を踏みしめて予想外の事態に硬直する悪魔へと躍りかかる。込められるだけの聖属性を込めて水平に構えた紅兎は眩い紅と若紫に彩られていた。
「はぁああああああ!!」
空中で体を捻る。回転の力が腕を、刀を勢いづける。研ぎ澄まされた兎の牙は悪魔の太い首へと喰らい付き、肉も骨もないそれを両断する。聖なる余波を受けて上半身は一気に灰化。斬線の形に紫の輝きと混じって弧を描く。
『!!!』
天井まで飛んだ首は爆散。床へと降りた俺の目の前で、白けた灰に変わりゆく悪魔の肉体はぐらりと揺らいだ。折れた剣を持つ剛腕の下、長い柄の端を細い腕が掴んでいた。剣の軌道が変わったのはその腕に、マレシスの腕に引っ張られたせいだ。
「……」
紅兎を納刀する。澄んだ金属の音が鳴った。まるでそれが最後の一太刀だったように悪魔の体は破裂し、中からは制服のズボンだけを纏ったマレシスの体が吐きだされる。俺は走り寄って抱き止めた。白い肌には青黒い透かしのような痕跡が痛々しく刻まれている。その上から悪魔だった灰を被っていて、しかし俺が折った腕は治っていた。
「アクセラ、か」
「……」
「ありがとう、待って、いた、ぞ」
途切れ途切れに俺の耳元で囁くマレシス。それを聞いて俺は後悔に押しつぶされそうになる。なぜ、俺はいつも後手に回るのだ。
「最後に、折れる、とは……あの、剣も、頼りに、ならない、な」
愛剣を鼻で嗤った彼が、続く言葉を口にすることはなかった。
「ごぼぁ……!?」
代わりに大量の血が唇を割って溢れだす。熱い液体が俺の背中を濡らした。
「アク、ゼラァ、何、を……」
尋ねる男の背中を突き破って、血にまみれた小さな手刀が生えていた。皮を、肉を、骨を、そして脈打たぬ心臓を穿つ感触だけを我が手に残して、マレシスの体は急速に死へと向かう。
「他の誰かなら騙せたかもしれない」
「グォ、ガ、アァ」
「でも私は、死に際の声を聞き間違えない」
「ソン、ナ、馬鹿、ナァ」
震える体で俺の肩から顔を上げたマレシスの目は、漆黒の中に濁った月を浮かべたようだった。かつて愛する娘の腕の中で、自らが発した死の間際の息。俺がその息に気づかないわけがなかった。
「マレシスはもういない」
「馬鹿、ナ、ァ」
人ならざる目で俺を睨んだ悪魔は再度そう呟いて、今度こそ終わりを迎えた。マレシスの遺体から邪気が消え、瞳の色も美しいモスグリーンに戻る。それを見届けた俺が心臓を貫いた手を引き抜けばそこには虚しい穴だけが残る。泣きそうなくらい少ない血が滴った。そっと目を閉じてやると、ぽっかりと空いた胸の傷とは裏腹にどこか満足げな表情になる。
「アクセラ!」
ガラスの床に彼を横たえた直後、額に珠の汗を浮かべたネンスが入口から駆け込んできた。反対側の道も相当に伸びていたのか、それともこちら側に辿り着くまでにダミーの道に迷い込んだのか。いずれにせよ彼は白陽剣の精巧なレプリカを構えて、全てが終わった広間にやってきたのだ。心臓を失った腹心の部下と、その返り血に染まった俺を見つけに。
~★~
迷路のように入り組んだ地下通路を往復で踏破して、私がアクセラに追いついたのは別行動を始めてからかなり経った後だった。
走っている間は相手を見つけたら合流などと言っていられないような複雑な道に、王家を象徴する剣を持った腕が震えていた。悪魔に対抗できる聖属性を彼女は使えると言ったが、白陽剣ほど強力な聖属性であるとは限らない。早く助太刀に入らないと。そう思っていたのだ。間に合ってくれ、と。
間に合ったか合わなかったかで言えば、おそらく私は間に合わなかった。その部屋に踏み込んだときには戦いなど終わっていた。鈍い輝きを宿した鎧も簡素なドレスシャツも赤黒い血に染め上げたアクセラを見たとき、私の心臓は止まるかと思った。だが見た目に反して彼女は無事のようだった。代わりにその足元には幼少から私を守ってくれた男が横たわっている。さらけ出した上半身に青黒い紋様を纏ったマレシスが。
「マレシス……?」
足から力が抜ける。そこでへたり込むわけにもいかず、剣を杖代わりに彼らの傍まで歩いた。
「!」
近くで見ると彼の胸には大きな穴が空いて、ガラス状に変質した床を見せている。
「な、何が……どうして、こんなことに……」
茫然と口からは意味のない言葉が出る。
「救えなかった。ごめん」
「……」
アクセラの声がどこか遠い、そう感じた直後に嫌と言う程ハッキリと聞こえる言葉が投げかけられる。
「殿下、王になりませ」
「……なに?」
「彼の最後の言葉」
その言葉に、まるで大仕事をやり終えたような顔で眠るマレシスを見る。
「最後の……マレシスは、死んだのか」
そんな分かり切ったこと言う程、私はショックを受けているらしい。胸に大穴が空いたら人間は死ぬ。どんな馬鹿でも知っていることだ。それでもすぐには受け入れられない。
「……・・ネンス、私はエレナを追う。アレニカがあそこで眠っている。彼もこんなところに置いて行けない」
私の混乱が収まるのを待つ余裕はない。そう示すようにアクセラは自分の装備を点検し始める。ここにマレシスがいるということは悪魔を倒したということだろうに。しかしマクミレッツがいないならそうではないのか。頭がうまく回らない。
「後をお願い」
それだけ言うと彼女は部屋の奥に向かって歩き出した。
「待ってくれ」
どうしてこんなことに。そればかりが頭の中でぐるぐるとしている。視界の端ではそれまでぐったりとしていたルロワ嬢が身を起こすが、今はそちらに気を向けられない。
「待ってくれ!」
去ろうとするアクセラの手を掴んで振り向かせる。喉まで言葉がせり上がっていた。
どうしてあれほど大きな傷が、誰が見ても致命傷になる傷が刻まれているのか。
なにがあってお前は彼の血に染まっているのか。
お前が殺したのか。
お前ほどの力があって、なぜ。
私は押さえきれない疑問と激情に任せてアクセラを問い詰めそうになっていた。
「っ」
振り向いた彼女を見て、私の言葉は喉に閊えた。早くも乾き始めた血を溶かして、涙が彼女の頬を伝っていたからだ。
そうか。
ようやく理解する。
マレシスは死んだのだ。
アクセラが殺したのだ。
紆余曲折を経て友になった者を、救うこともできずに殺すしかなかったのだ。
私に彼女の何かを疑うような権利など……。
「ごめん」
アクセラは私の無力な手を振りほどいて走り去る。今度こそ奥の通路へと。
「王になれ、か」
伝えられた遺言を呟いてから遺体のそばに膝を折る。側近の顔を今一度見ると、私の目からも涙が溢れだした。
「当然だ、馬鹿者」
王になることが約束されたこの私に、王になれとは。
「その時には、私の玉座はお前に守ってもらう予定だったのだぞ」
視界がどんどん歪む。
「お前にはまだ、まだ守るモノがあるだろう」
王になる私が、私の国と民が、慕い合う婚約者が。
お前は私のために命を捧げると、騎士の誓いを行っただろう。
「どうしてこんなところで……っ」
やりきれない気持ちから怒鳴りそうになった瞬間、軽い何かがぶつかってきた。後ろから一人の少女が抱きついてきたのだ。同じクラスのルロワ。どういう訳かマクミレッツと同様に攫われていた彼女が、最初は心細さに負けてそうしたのかと思った。涙をこらえるような呻きに、非力な全力が込められた腕に、温もりを分け与えるがごとく押当てられた頬に、違うのだと悟る。
私を慰めようとしているのか……?自分も散々な恐怖に見舞われたろうに。
そして思い出す。マレシスは猪突猛進で視野が狭く融通の利かない堅物騎士だった。だがそれは全て守ると約束した私のためを思えばこそだった。今のルロワのように、誰かのためだった。ならば言うべきことはこんな答えのない問ではないだろう。
「近衛騎士マレシス。忠義の人生、大儀であった」
自然とその言葉は形になった。
ああ、だけどな、マレシス。もう一度でいい。もう一度でいいから、私はお前の淹れた紅茶が飲みたかった。最後の一度だけ、隣に座って、ただの友人として……。
マレシスの最後をどうするか。作者の中ではずっと前から決まっていました。
しかし何度も何度も別ルートを考えるくらい悩みました。次の章に掛かっている今ですらIfを想ってしまいます。
カマセのはずがいつの間にか大好きなキャラの一人になっていた彼の最後が無駄なものではないことを、少年少女にとって傷以外の何かになることを……。
~予告~
悲しくとも、刀を交えれば狂喜が疼く。
戦士の病。戦士の慟哭。
次回、強者たちの悦楽




