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七章 第18話 陽だまりの終わり

 (にえ)を。


 そんな文字が刻まれた腕を見て顔をしかめる。猶予は明日の朝日が昇るまで。顔をしかめたところで何ができるわけでもない。いや、正しくは何もする気がないのだ。


「……」


 心臓がざわつく。本当にこのまま刻限を待つのか、と。初めからそのつもりだったわけだが、本当にこのまま死ぬのを待つのが正しいのかは今もって分からない。したいことはまだあるし、するべきこともまだまだある。


 コンコン


 ノックの音が聞こえても机に向かって座った姿勢から動くことはない。誰が来たのかはもう分かっている。会いたくないかと問われれば、正直なところ会いたい。しかし会わない。会ってはいけない。


 コンコン


 もう一度聞こえるノックをもう一度無視する。そして机に広げた紙へとあまり綺麗とは言えない文字を綴る。遺言などというほど大仰な物ではない。いい訳じみた言葉がいくらか混じっただけの、ただの挨拶だ。


 コンコン


 しばらく待つと三度目のノックを最後に来訪者は去ったようだ。時同じくして最後の挨拶を書き終える。そうしている間に身の振り方も決まった。覚悟をしたのだ。生涯の欲望を満たすために大勢へと迷惑をかける覚悟を。恨まれるだろうし、下手をすれば未来ある若者にトラウマを植え付けることになる。それでも果たさずに死んでしまっては、この生涯がなんのためにあったのかすら分からなくなる。それだけは嫌だった。

 自己中心的な欲望を叶えるために。

 最低な選択をした自分を弔うために。

 最高の戦いに身を投じるために。


「始めよう」


 開いた窓から外を見れば、また雨でも降りそうな曇天だった。


 ~★~


 アクセラちゃんがマレシスくんの反省房へ忍び込みに行ったあと、わたしも寮を出て石畳の上にいた。目的地は学院の正門に近い小闘技場。あの決闘で起きた事件の痕跡はまだ残ってるはずだ。明日現場検証をすると事情聴取を担当してくれた女の人が言ってた。

 勝手に検証させてもらうのはちょっと気が引けるけど……。

 今からわたしは自分の持てる能力をフル活用して小闘技場の現場検証をするつもりだ。アクセラちゃんが感じてる嫌な気配の正体が何か、それを知るための手掛かりがまだ足りない。もう少し情報があればパズルのピースが揃いそうな予感があるのに。悪魔なのかそうでないのか、それを判断する材料さえ掴めれば彼女の行動は決定できる。


「……悪魔」


 悪魔に遭遇したことはわたしもない。アクセラちゃんはたぶんあるだろうけど。本で読んだことがあるだけだ。人を誑かして地上界に顕現する、魔獣と双璧を成す災厄の象徴。人間と同等の知能をもち、魔王と呼ばれる特殊な存在を頂点にした貴族階級で管理される。影を移動したり空を飛んだりと能力は広範にわたるが、基本的に物理的にも魔法的にも優れたスペックを持ってるらしい。

 もし本当に一連の問題が悪魔の仕業だったとして、何が目的なんだろう。

 色々な理由で彼らは地上へ現れ、そして不幸をまき散らす。ただ一つ分かってるのは、顕現したての悪魔はあまり活動的じゃないってこと。地上に馴染まないといけないのか、魔力を蓄えないといけないのか……理由は詳しく分かってないそうだけど、悪魔はしばらく時間をおいてから悲劇を起こすと言われてる。

 マレシスくんを宿主にしようとしてるなら、少なくとも暴れ始めるのは明日以降のはず。

 今日のうちにヒントをかき集めて、対策を固めて、あとはアクセラちゃんに丸投げするしかないのが今のわたしだ。教会に届け出るのか、使徒として彼女が対処するのか。悪魔祓いが使徒にできるかすら知らないのだから、どうにもできなくて当然だ。

 とにかく、ヒント確保はわたしにできる数少ない仕事なの!


「そう、これは好奇心じゃなくてアクセラちゃんのお手伝いだから!」


 別に悪魔に影響された人の血液を分析してみたいからじゃない。自分に言い聞かせるようにそう唱えて魔道具に照らされた道を行く。商店街とは逆方向なので人影はない。ただ近くに教員寮があるから、変な疑いがかからないように途中で茂みに入らないといけない。連日の雨が上がっていてくれたおかげで濡れずには済みそうだ。


「むぅ」


 それでもまた降ってきそうな空模様は嬉しからざる要素だ。服が濡れるのもだけど、現場が荒れることがまず大問題。溶けたり爆散したりした石畳は濡れても観察できるからいいとして、マレシスくんの血の跡はまずい。流れてしまってはサンプルが取れない。


「そろそろかな」


 小闘技場に続く茂みの近くにいたので、そっとその中へ入る。散々林や森を歩いた冒険者活動のおかげで、手入れの生き届いた学院の茂みなんて攻略は簡単だ。できるだけ音を立てないように近づいて、施錠された扉の隣まではあっさりと近寄る。


「氷よ」


 レリーフが荘厳な小闘技場の外壁に氷の足場を生やす。制服の代わりに着てきたのは真っ黒の上下。隠密行動の練習用に買っておいた服で、「夜明けの風」のトーザックさんから教わった斥候のポイントを全て踏まえた衣装だ。月明りの下でも目立つ髪色のわたし用にフードも完備。


「よし、行こう」


 小声で気合いを入れてフードを被る。そして氷の足場へ飛び乗り、次の足場を作る。これを繰り返して闘技場の壁を上り切ったわたしは観客席側へと飛び降りる。風魔法で上手く勢いを殺して着地し、ベンチの影に隠れて人気がないことを確認した。


「よし」


 警備の人はいないようなので、堂々と階段を駆け下りて闘技場の石畳まで降りた。誰もいないならコソコソするよりサッサとした方が建設的だ。


「暗いなぁ」


『暗視眼』をオンにしてみるとそこはかなり荒れた様子だった。現場的な意味ではなく、戦闘痕が酷い。過剰に込められた魔力で無理やり融解させられた石畳が、直後の剣圧を受けて大きく抉れてる。周囲にはそれが飛び散って固まった痕跡も。

 基礎属性で魔力の現象化をさせた……わけじゃないか。

 属性魔力を高密度にするとその属性の物理的現象が発生する。これを魔力の現象化と言って、わたしやネクロリッチの人みたいな魔力量があって初めてできることとされる。ただアレは氷や闇のような上位属性でのみ起きること。だから今回のこれは明確な魔法。過度に込めた魔力を一気に原始的な魔法にすることで疑似的な現象化を起こしたんだ。

 魔法禁止のルールに抵触してても咎められなかったのは、詠唱がなくて判断できなかったからかな。

 ほとんどの人は魔法に詠唱が必須だと思ってる。だから詠唱がない魔法現象はスキルによる効果か武器の仕掛けだと解釈する。フローネ先生もいい先生らしいけど、そこらへんの常識は普通の人と変わりがないみたいだ。


「血液は……これだね」


 ほとんど乾いた血の跡はマレシスくんのモノ。最後にアクセラちゃんへと切りかかったときに反撃を受けて流した血だ。それを少量の水で希釈して器に取る。スキルを使って分析すればちょっとした血液検査の出来上がりだ。

 わたしはあんまりマレシスくんのことをよく知らない。というのも彼が絡んでくるのはアクセラちゃんばっかりで、わたしには特に何もしないから。それ自体はいいことなんだけど、おかげでどうして2人が和解したのかもよく分かってない。戦闘学で戦って、戦士同士の共感みたいなものがあったんだろうか。そういう部分はほんとにアクセラちゃんもオトコノコだなって思う。冒険者としてはちょっと分かる気もして、でも根本的には分からない気もして。それが少し妬ましいような気持ちになる。


「よし、サンプルはこれくらいかな」


 見た限りは。一応念のために魔法もかけておく。


「根源たる力よ、探せ」


 短縮詠唱で系統外魔法中級ワイドサーチを行使する。魔力の波を薄く広く展開して特定のモノを探す探知魔法の一種だ。学院では使う機会に恵まれないものの、サーチやアナライズといった系統外魔法はわたしの得意分野。アクセラちゃんの数倍正確に読み取れる。


「うん、何もないね」


 思ってた以上に収穫がない。それでも最初からダメ元の現場検証だったので、見回りが来る前に諦めて撤収。来た道をそのまま戻って、外周から氷の階段伝いに地面まで戻る。そして氷の階段を溶かしてしまえば、中にこっそり侵入したことは誰にもばれない。


「あとは帰って分析だね」


 アクセラちゃんが戻ってくるまでにはまだ時間がある。でも先に戻っておかないと、何も言わずに出てきたので心配される。それにお風呂を入れておかないと。戦闘で汗をかいたまま寝るのは嫌だろうし、かといってあんまり遅くなってからお風呂を入れるのは下の階の人に迷惑だ。水が流れる音は意外とよく聞こえる。お湯を抜くだけなら朝にまわしてもいいし。


「石鹸新しいの出さないとなぁ」


 ちょうど昨日の晩で切れたので、今日は新しい石鹸を出してくる日だ。わたしはいつもこの日が楽しみでしかたない。色々用意した中から新しい色と香りのモノを選ぶのは、何回経験しても心が小さく踊りだす行為だ。おろしたての下着を着けるときや、新しい杖に魔力を通わせるときに似た感覚をよりお手軽に楽しめる。

 重大なナニカが起きてるときだからこそ、こういう小さなことでリフレッシュしないと。


 ガサッ


 アクセラちゃんに少しでも肩の力を抜いてほしい。そんな思いで寮への舗装道を歩いていると植え込みの方から音がした。人気のない場所で大きな音がすれば警戒するのは当然。


「だれ!」


 腰に帯びた室内杖に手を掛けつつ振り向く。視界一杯に鈍い光を映す板が広がっていた。目と鼻の先に鎧の表面があるのだと気づいたときにはもう遅い。

 うそ!?フルプレートで、どうやって音もなく!!

 あまりのことに慌てそうになる思考を制御して杖を抜きつつバックステップ。脳から出されたその命令が体に伝わって、体が後方に重心を移したところで腹部に鈍い痛みが走る。


「うっ」


 口をついて呻きが漏れるのと、わたしの意識がぼやけるのは同時だった。こんな簡単に当身を入れられたのはアクセラちゃんとの練習以来だ。そんなことを冷静に思い出す自分がいる一方で、残りの頭は完全にシャットダウンされていく。目の前の鉄板にもたれかかるように手足から力が抜け、時間がゆっくりすぎていく。それでも手は杖を引き抜いて……


「存外タフだな」


 襲撃の割に優しい手付きで杖が奪われた。わたしが理解できたのはそこまでだった。最後に見えたのは、ぼやけた中でも分かるどこか悲しい瞳だけだった。


 ~★~


 その夜、私は一人で散歩をしていた。ルロワ家の長女アレニカ=フラウ=ルロワともあろう者が、今日の放課後にグループのメンバーと口論になってしまった。そのことを反省しつつ、どうすれば後腐れのない関係修復ができるか考えるために体を動かしているのだ。日課の散歩だと同じことしか思いつかなそうだったので、コースは初めてのルートにしてみた。


「はぁ」


 口論になった相手はグループのスパイス提供者であるカーラさん。内容は同じく今日の放課後にマレシス様とアクセラさんが行うことになった決闘について。このところお加減が優れずにいたマレシス様をまずカーラさんが小声で批判したのが始まりだった。前に噂話を注意されたことが未だにひっかかっていたらしい彼女は、近衛の癖に体調の管理すらできないなんてと言った。人の噂を盗み聞きする暇があるなら本分を取り組めばいいのにとも。あまりに露骨な物言いにゴシップ好きな少女たちもたじろいで黙った。


「はぁ」


 二度目のため息が出る。そこで終わればすぐにうやむやになったことなのに、と。カーラさんは続いてまたもアクセラさんへ批判を展開した。まっとうな貴族なら誰でもオルクスを嫌うのは、確かに事実なのだけれど……ただそういった政治向きの話題はサロンに適さないのでグループでもあまり扱わない。それを彼女はやけに言い立てた。その時点でちょっとした困惑は明確な異物感へと変わっていた。


「はぁ」


 三度のため息に我ながら心が重くなる。カーラさんをあの時点でやんわり止めることができたなら、私のお株も大きく上がったのに。というのも、彼女は放課後にものすごい剣幕で決闘を挑んだマレシス様とそれを快諾したアクセラさんを指してこんなことを言ったのだ。「どっちも決闘で死んでしまえばいいのに」サロンの様式美としても貴族としても、なによりクラスの一員としても看過できないその発言に私は少し声を荒げてストップをかけた。するとカーラさんは自分よりあんな連中の味方をするのかと怒り出したのだ。もともと少々エキセントリックなところのある人なので、そのこと自体は驚きでもなんでもない。だから売り言葉に買い言葉とでもいうように口論がエスカレートしたのは、カーラさんがナンバー2とはいえサロンの主人である私へ攻撃的な態度を見せたせい。誰の味方をするとかしないとかで声を荒げていいのはより上位にいる人間だけ。それがサロンの習いだ。


「違いますわね……」


 自分で取り繕った理由に首を振る。包み込んで窘めつつも許すだけの度量が私にはない。いつかは身に付くのかもしれないけれど、今日はカチンときてしまった。そして少し言い返しすぎた。口論の末にお互い喧嘩別れのような帰寮の仕方をしてしまい、そのことが何時間か経ってなお残っているのである。

 なんであんな人の為に何時間も何時間も……おっと。


「ダメですわよ、アレニカ」


 心と言葉は一つのモノ。言葉を乱せば心も乱れ、心が荒めば言葉も荒む。尊敬するお母様の戒めを思い出して落ち着く。いくらカーラさんと本質的な部分で反りが合わないと言っても、敵対してはいけないのがサロンの掟だ。

 でも……。

 今度は別の想いが胸に沸き起こる。すなわちカーラさんの言葉があれほどまでに荒んでいるのは、彼女の心が荒んでいるからなのではないかという疑問だ。

 もしそうなら、なんとかして差し上げたいわ。

 我ながらもう本心か分からないが、そう思った。合わないだけで彼女が心底嫌いなわけでもないし、グループの主としてはメンバーの心まで気を配って当然。


「どうするべきかしら」


 いっそエレナさんに相談するのもアリかもしれない。彼女には一度重たいテーマで相談をされたことだし、こちらからしてもバチは当たらないだろう。それにエレナさんは貴族社会の常識にこそ疎いものの、頭の回転はとても速い。授業中だって当てられたら必ず一瞬で正解を答えている。噂では入試の順位は5位以内だったとか。たしかに勉強ができることと人付き合いがうまくできることは違う要素だ。けれど彼女はそちらの面でもソツなくこなしている印象がある。


「うっ」


「!」


 今、誰かのうめき声が聞こえた。たぶん女性のものだ。

 学院内で暴行?そんな馬鹿な……。

 そうは思っても確かめないわけにはいかない。ここで見てみぬふりをして逃げるのは高貴な血筋のするべきことではない。私自身に何ができなくとも、それなりに足は速い方だから人を呼べる。


「存外タフだな」


 男の人の声が続いて聞こえ、その内容からやはりよくないことが起きていると察する。その場に屈んで声のした方向、曲がり角の向こうへとゆっくり顔を出す。

 あれは……?

 魔道具の明かりに照らされて大柄な姿が見えた。青味のある金属の鎧、騎士様が着るようなフルプレートだ。腰には長大な剣、背には重厚な盾が背負われている。それなのに動いてもガシャガシャとは音が鳴らなかった。そんなことよりも私の気を引いたのは、その腕に抱えられた人影。黒い服を着ているせいで分かりづらいけれど、それは女子生徒のようだ。よく見ようと目を凝らしていると、その男の人が女子生徒を肩に担ぎ直した。


「っ」


 私は悲鳴を漏らしそうになるのを必死にこらえる。一瞬顔が見えたとき、驚きのあまり悲鳴を上げそうになったからだ。


「エレナさん……」


 小声でその少女の名前を口にする。ちょうど先程まで私が考えていた相手が、力なく鎧の肩に乗せられていた。意識はないようで、ぐったりとしている。

 誰かを呼ばないと……でも、相手がどこに行くかも分からないし。

 向かう方向だけでも確認しないと困る。できるなら誰が担いでいるのか、その人相も確認したい。震える足を叱咤して私は追いかける心の用意をする。自分の中にそんな気持ちが眠っていたのかと我ながら首をかしげたくなるほど、今のこの胸には正義感のような何かが滾っていた。なんとかしてエレナさんを助けるためのヒントを大人の下へ持ち帰らなければと。


『フ、フふ、フン、コ、小ス、小娘、メ、ハ、発ッ、発見、ケ、ケン』


「!?」


 立ち去ろうとする男の人を追いかけて角から出ようとした、その一歩目を踏み出す直前。つま先から頭のてっぺんまで氷水をかけられたような感触に襲われる。指が一本も動かせない。小刻みに全身が震える。気配だけで私の心を折るほどの、生理的で本能的な恐怖。初めての感覚に息がうまくできず、頭の中はパニックに陥る。


『ノゾ、ノ、覗き、見、ミミ、耳?覗キ見、は、フ、不可、ダ、ダ、』


「ひ、ひっ」


 耳のすぐ後ろから聞こえる音。どこかで聞いたことのある声を水に沈めたような歪んだ音。何度も音がブレて重複したような音。それは脳へ到達するだけで私の深い部分を傷つけるような、激痛を伴う音だ。

 これ、聞いちゃ、だめ……。

 本能が全力で警鐘を鳴らす。それでもナニカはわたしのすぐ後ろで喋り続ける。


『オ、おま、オマエ、お仕置ク?オシ、オキ、き、オ仕置キダ、一緒、ショ、しょ、シショッ、ド、同行、エサ、餌、え、エサ』


 言葉の意味は分かるはずなのに何も分からない。思考が麻痺してしまったようだった。ただ聞くだけでひどい頭痛がする。


『ヒ、ひ、ヒヒ、オマエ、オマ?オマエ?キ、きキ、キサ、マ?キサマ?キ、キサマ、ド、同行、ど、ど、同行』


 硬直した私の背中になにか熱い物が触れる。それは這いずり回るように私の体を伝ってくる。ねっとりとして、同時に硬く力強い。この世でこれ以上に悪寒を感じさせる感触があるだろうか。


「あ、あぁ……」


 あまりの恐怖に体がいうことを聞かない。足を暖かい液体が伝う感触。そこに羞恥はなく、ただただ心を染める絶望だけがあった。


『キョ、ふ、キョキょキョ、恐怖、良、好、こ、好、ド、ドダ、ダ、キサマ、きょ、恐怖、美味、み、ミ、ミミ』


「あ……」


 這いずる感触が前側まで回り込んできたところで、私は意識を手放した。それは発狂しそうな悍ましさと痛みに私ができる、たった一つの防衛だった。


 ~★~


 目的の少女を確保して撤収準備をしていた時だった。背後から吐き気を催す邪悪な気配が近づいてきたのは。咄嗟にマクミレッツを担いだまま振り向き、鋼の短剣を抜く。腰に帯びた長すぎる愛剣はすぐには抜けない。


「!!」


 そこに立っていたのは化け物だった。頭と四肢を持つ、一見人間のようなシルエット。しかし上半身だけが異常に大きく、まるで普通の人が上から大げさな被り物の上半身を着けているようだ。

 いや、実際そういうカタチなのか。

 全てが一回り常人より大きい頭、肩、腕、胸……人間でいう胸筋の下部分まである上半身が、通常体形の人間の肩から上に被さっているようだ。実際大振りな上半身の下には通常サイズの腕が伸びていた。全身ぬらぬらと気色の悪い光沢を持った漆黒の肌で、顔に当たる部分だけが灰色の面になっている。縦に2対の目が刻まれた不気味な面だ。上半身のあちこちからは紫と緑に明滅する大小の棘が生え、大きな爪も同じ様相であった。


『キ、キサマ、ド、同胞、ホウ、ダ、オレ、オ、オレサマ、きョ、共闘、て、テア、提案、ア、あン』


「な、なに……?」


 耳障りな声で言うそいつが何かは知っている。知識としてだが。それが共闘を提案してくる理由も心当たりがある。だがこちらは特にそんな話を聞いていない。となると提案は目の前の化け物の独断ということで、それには何かしらの対価が絡む可能性が出てくる。

 今変な対価を要求されるのは面倒だが……かといって最後の舞台を邪魔されるのも困る。


『コン、困惑、ク、クト、当ゼ、然、、ダ、フン、ン、オレ、サ、サマ、提案、キサマ、ばシ、場所、テ、提供、シ、死?ろ、シ、シロ』


「場所だと?」


『ソウ、ソ、ソウ、オレサ、マ、マ、カッ、覚醒、直ク、後、空腹、タ、マシ、魂、イ、捕食、必要、ダ、場所、ヒヒ、必要、ヨゥ、ダ』


 魂を食う場所が欲しいと。だが誰の魂を喰らう気だ。


『エサ、餌、え、コレ、レ、ダ』


 こちらの疑問を察したのか化け物は背中から昆虫じみた細い腕に掴んだモノを取り出して見せた。どうやら背中を含めて3対の腕があるらしい。そして化け物が見せてきたのは案の定人間だった。気を失った女子生徒だ。直接の面識はないが一年生だということは分かる。


「うちの学生を食うと?」


『ゼン、善人、ニン、ギ、偽装、不要、ゥ、オレサ、マ、キサマ、ド、同胞、ダ』


 善人の偽装、か。

 こんな化け物に同胞呼ばわりされるとさすがに虫唾が走る。だが、それを口にできないほど己が下衆に落ちていることは理解していた。だから口を噤む。その上で少し考える。


「……いいだろう。ついてこい。だが条件がある」


『条件、ケン、ケ、けン、検討、カ、可能、発言、スル、イ、イイ、ゾ』


 段々と会話が単語の羅列でなくなってきているのが、なんとも気持ちの悪いことだ。


「オレを追ってある生徒が来るはずだ。そいつとまずは戦え」


『シ、勝利、ホシ、捕食、ク、許カ、可、アル、カ?』


「勝てば食っていいかということか?そうだな、食っていいぞ。その娘より随分上質な食事になるだろう。だからその娘は後だ」


『許可、ダ、ホ、捕食、数、ヨリ、リ、質、ダ』


 慣用句まで使えるようになってきている。気持ちの悪いやつだ。


「ならばついて来い」


 ヒントはほとんどないが、あの娘なら必ず突き止めて追いかけてくるはず。そんな根拠のない信頼でこの胸は満たされていた。だから最低限の手掛かりをここに残した。

 さあ、お姫様を助けるために来てくれよ。

 身勝手で最低な望みをあの風変わりな少女に抱きつつ、マクミレッツを担ぎ直して目的地に向かおうとする。すると背後の化け物が皮肉のようにこう言った。


『感シ、感謝、スル、す、スル、先生』


「……なに?」


『感謝、ダ、ダダ、ダ』


「そこはどうでもいい。お前、今先生と言ったか?」


 確かに道は外れたが、こんな化け物に先生などと呼ばれる覚えはない。揶揄するようなその言葉は、仮初にしても全力を持って取り組んできたコトを冒涜されるようで気分が悪かった。


「二度とそう呼ぶな」


『ナ、何故、ダ、ダ、理解、かイ、フカ、不可、ダ、キサマ、コ、コレ、ノセ、先生、ダ、ダロ』


「……何を言っているんだ」


 最初にコイツを見た瞬間以上に冷たい何かが背筋を伝う。


「そうだ……お前たちが実体化するには依代がいると聞いたことがある」


 嫌な予感が加速度的に膨らんでいく。


「お前、どうやってここにいる?」


 我ながら声が震えているのが分かる。そこに一種の恐れを嗅ぎ取ったか、バケモノは面の下の口をにぃっと三日月にして見せた。そして無言で胸元を長い爪で指し示す。巨大な上半身の真ん中には縦に線が刻まれていた。ちょうど下半身の延長で考えるなら人の頭がある高さだ。


『グヒ、ひ、ヒヒ、コレ、ダ』


 まるで目のように縦筋が横へ開いた。そこに見えた光景に思わず短剣を抜く。


「貴様!!」


『ショ、焦燥、キ、キ、禁止、ダ』


 嗤うように喋る化け物。


『オレサマ、サマ、キサマ、戦闘、ハ、フモ、不毛、ダ』


「…………っ」


 たしかにそうだ。コレとここで戦っても双方にデメリットしかない。なにせ目の前の光景は、俺にはどうしようもない類だ。だからといって「じゃあしかたないな」と見過ごせるわけもない。中途半端な心の在処に、力を入れ過ぎた奥歯が今にも砕けそうだ。


『共闘、ヤ、約束、シタ、同胞』


 同胞。嫌悪を感じたその言葉が、思っていた以上に粘ついた意味と響きを伴って心に絡みつく。

 そうか、道を踏み出したということは、こういうことなのか。


「……化け物が」


 自分の欲望と無意味な抵抗を天秤にかけて、結局前者を選んだ。


『キヒ、キ、キヒヒ』


 嗤う化け物を従えて当初の目的地へと向かう。丸く収まる冴えたやり方などない、最後の舞台へ。


~予告~

囚われた少女たち。

彼女らが目にする真実とは……。

次回、友情の在処

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― 新着の感想 ―
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[一言] よくよく考えたら、探知まで要求するのは私がエレナさんに対して高過ぎる希望を無理していたかも知れません。そこは反省します。 でも何故時間と場所を精確に掴まれ、奇襲されるのはまだ不思議をしていま…
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