七章 第14話 もう一つの技術
紅色の残光を引き連れた刀と漆黒の残像を纏う蹴りが激突する。金属同士を激しくぶつけ合ったがごとき強烈な音を轟かせて、俺とガレンは弾かれたように最初の位置まで跳んで別れた。彼の表情は苦みを帯びた微笑みだが、俺は満面の笑みだ。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそよい鍛錬をさせていただきました」
しばらく見合ったあと、俺たちはお互いに礼をして構えを解いた。場所はいつものブルーバード寮にほど近い茂みの中。連日続いた雨が止んだ直後、すっかり服は木の葉から滴る水を含んでしまっている。
「ガレンさんとの鍛錬、やっぱり楽しい」
「私もですよ」
そっと差し出されるハンカチを断って『生活魔法』で服を乾かす。ついでに彼の衣服も乾かそうか尋ねたが、今度はこちらがやんわりと断られてしまった。
「しかし、まさかあのような技までお持ちとは……」
「奥の手」
にやりと笑って見せる。今日彼に見せたのは実際に俺が奥の手として隠し持っている、今生にて手に入れた新しい技だ。筋力はスキルのおかげもあってかなり前世に近づいた俺だが、やはり体格によるリーチと体重の不足はいかんともしがたい。それを補うために編み出した技。知らなければ初見殺しが可能で、知っていても根本的な対処が難しい技。俺が本来得意とする小手先の強さを最大限に活かすための強さだ。
「ところでガレンさん」
「はい」
「よければ教えてほしいことがある」
ファティエナ先輩の魔斧の修繕費を肩代わりした日から週1で相手をしてもらっているわけだが、いつもは時間一杯まで楽しい鍛錬にうつつを抜かしてしまっている。ところが今日はちょっとだけ早く勝負が決した。ちなみに今回は俺の勝ちだ。あのままいけば蹴り足を斬り飛ばせていたはずだから。
「前にガスパール流拳闘術の剛士って名乗った」
「え、ええ。よく覚えておいでですね」
一瞬だがたじろいだのを俺は見逃さない。見逃さないが、あえて指摘することでもないと無視する。ガレンとしては素性に繋がる情報を出したくなかったのだろう。それを決闘では俺に乗せられて名乗ってしまった。
「ガスパール流……シュトラウス流と関係ある?」
「……」
ほんの小さい反応だった。見るからに上級貴族出身らしきファティエナ先輩を主と仰ぎ、見た目の通り老練な技を持つ熟達の執事。図星を突かれて肩を跳ねさせたり目を瞠ったりといった分かりやすい反応をするわけがない。しかし彼は優秀な戦士。普段の動きから立ち方、存在にいたるまで全てに無駄のない拳闘士だ。驚きはその在り方に極めて微細な乱れを生じさせる。それこそ同レベル以上の使い手がじっくり見ていなければ分からない程度の乱れを。そして俺がそれを察知したことを、彼自身もすぐに理解した。
「どうしてそう思われましたか……というのは失礼な問いかけになりますね」
お互いにほぼ実力は理解できている。となれば俺が彼の技からシュトラウス流の気配を嗅ぎ取ったのだと説明しなくとも分かる。その実、ガレンの技の端々から懐かしい技の片鱗が覗いていた。エクセララ建立のメンバーにして我がライバル、アーディオン=シュトラウスを始祖とする拳闘術の術理の片鱗だ。
そう、ガレンという男の操る武術もまた「技術」なのだ。
「私の剣は紫伝一刀流と仰紫流。シュトラウス流拳闘術と同じエクセララの技」
「やはりエクセララの技術でしたか。スキルを用いない攻撃と柔軟な動き、そうではないかと邪推しておりました」
諦めたかのように白状するガレン。
「少しだけならシュトラウス流も使える」
「でしょうな。以前の決闘で一度だけ見せていただきました」
スーパーパンチという酷い名前のアレだな。
「でもガスパール流は知らない」
俺が死んだ時点で既にエクセララには多くの流派が存在していた。師が異界よりもたらした紫伝流に触発され、建立以前から俺の仰紫流やアーディオンのシュトラウス流のような武術が発達し、それ以降も弟子たちによって新しい流派が打ち立てられたり細分化した流派が発生したりしていた。ただ、その中にガスパールという名はない。
「……ここで零代様の技を知る方に見えたのも何かの縁、ということかもしれませんね」
零代?
「御令嬢に申し上げることではないかもしれませんが、アクセラ様を一角の武人と見込んでお話しましょう。他言無用に願います」
彼の逡巡に何が込められていたのかは分からないが、落ち着いた声音でそう言う男の瞳には曖昧な態度など許されない光があった。
「ん。この刀、この技、この血とこの意思に誓って不用意な他言はしない」
「ありがとうございます」
俺の誓いを受け取った彼は剣呑な気配を引っ込めて微笑んだ。そしてガスパール流について語ってくれたのだ。
ガスパール流は俺の読み通りシュトラウス流の亜流にあたる。それも極めて本流に近く、同時に決定的に違う流派だ。というのもガスパール流の開祖アディナ=フォン=ガスパールは古くアディナ=シュトラウスと名乗っていた女性……すなわちアーディオン=シュトラウスの娘だからだ。
あのアディナが独自の流派を起こしていたのか……。
アディナは我が戦友譲りの負けん気と才能を有した少女で、あるとき父と喧嘩をしてエクセララを出て行ってしまったのだ。妹のように彼女を可愛がっていたカリヤとナズナは大いに悲しみ捜索隊を出そうとするわ、一部の弟子が彼女について出奔するわ、意固地な実父アーディオンと叔父のような立場で接していた俺が殴り合いの喧嘩に発展するわ、それはそれは大事だった。
と、今は思い出に浸るべき時じゃないな。
某国の貴族と結婚しアディナ=フォン=ガスパールと名を改めた彼女は持ち前の負けん気と腕っぷしの強さで将軍まで上り詰めた。そして国内に己の考えに基づいた技術を広めたのだ。すなわち、スキルの間隙を埋めてより高次のスキルを作りだすための材料としての技術を。
「アディナ様は若くして病でこの世を去られましたが、私の母国では今なおその勇名と思想が息づいているのです」
ガレンの言葉に予想の範疇でありながら小さな落胆を感じる。シュトラウスは人間族だがアディナは獣人の血を引く。まだ生きている可能性は少なくないと期待したのだが、聞けば俺より先にこの世を去ってしまったらしい。
帰ってこなかった時から、二度と会えないことは分かっていたのにな。
それこそ旅の道すがらオムツを変えてやったこともある子供が、自分よりずっと先に見知らぬ場所で命を落としていた。死んでなお地上をうろついている身としては余計に切ないことだ。
「初代の最後は幸せだった?」
「当時のガスパール侯爵閣下、愛する伴侶に看取られて笑いながら亡くなったと聞いています」
「……そう」
そうか。俺のように大切に想い合う家族の腕の中で死ねたのか。ならば、よかった。
逸れた話を戻すと、そもそもシュトラウス親子の喧嘩の原因は技術へのスタンスにあった。俺やアーディオンはスキルを含むあらゆる選択肢と道具を十全に使う考え方として技術を捉えていた。武器、魔法、自分自身、環境などなど、多くの要素を臨機応変にとっかえひっかえして戦う、技術が主体となる戦い方だ。エクセララではこの考えが主流となり、技術を発展させるための研究などが広く行われている。スキルをあくまで一要素とし、技術が独り歩きしている形だ。
これに対してアディナの主張ではスキルとスキル、あるいはスキルとそれ以外の力を繋ぐ柔軟な接続パーツとして技術を扱うべきと論じていた。主体をあくまでスキル側に置き、技術はそれを補完あるいは昇華させるためにあるべきだと。これは俺が取得している『紫伝一刀流』のように新しいモノでもスキルシステムが新規スキルとして認定するという事実をベースに据えている。つまりスキルを技術でもって昇華し新たなスキルを生み出すといったことを何度も繰り返し、強大なアシストと柔軟性を持つ究極のスキルへ成長させるというコンセプトだ。
ある意味一般的な武人として個人の武を究めたかったアーディオンと、個人は人類の牙の礎となり大儀を成すべきだと考えたアディナ。2人が衝突するのは当然のことだった。
「納得した」
ガレンさんは有機的で臨機応変な戦い方をするくせに徹頭徹尾スキルを使用していた。それがアディナの提唱した理論により進化したスキルだったというなら、納得のいく部分も多い。
「ちなみに剛士って?」
「階級です。ちょうど上からも下からも3番目になります」
ガスパール流スキルの系譜においてどのランクのものを習得したかで階級は決まるらしい。
まあ、そうだろうな。
感心と失望が半々に混ざった感想を抱く。感心は俺の知らないどこかの国に技術が根付いていたことと、アディナの理論によって進化したスキルが階級決めを行えるほど多段階に及んでいるという事実に対して。落胆は根本的な問題を解決できていないということに対して。
アーディオンはともかくとして、俺がアディナの理論を擁護しなかったこととエクセララで定着しなかったことには共通する理由がある。
問題の一つ目。スキルの恩恵を受けられない者、いわゆるブランクを大勢抱えていたのが当時の俺たちだ。俺自身もブランクだったし、技術を持ちこんだ師も異界の人なのでもちろんブランクだった。そんな俺たちにとってスキルを主体とした技術体系というものはそもそも習得不可能。スキルがなくとも自衛や生産ができるというメリットを殺しきってしまう。またスキル適性によって戦力が決ってしまうのも惜しいところだ。
問題の二つ目。そもそも新しいスキルを生み出すという行為は一般的ではない。むしろスキル『紫伝一刀流』が生まれたから発見できただけの、いわば副産物だ。もちろんこれまでも新スキルは生まれていたのだろうが、カルナールの書物ですら全てのスキルを網羅していないのだからそうとは認識されてこなかったのだろう。そんな新スキルを意図的に開発するには情報が足りな過ぎた。どこまでスキルを技術で改変すれば新しいスキルとして世界に刻まれるのかがわからない。そんなことを模索するよりは師から俺を通じて伝わった、異界で既に確立された教育メソッドを持つエクセララ式の技術を採用する方が早い。
当時我々は冒険者ギルドを含むあらゆる法に守られない立場の人間を多く抱えていたのだ。そこへ攻めてくるのは脱走奴隷の主人が差し向けた追手、一攫千金を狙う奴隷狩り、理不尽な戦争を推し進めるロンドハイム帝国、野生の魔物に過酷な環境そのもの。時間という資源を、1から始まって100まであるのか1000まであるのか分からない道のりの解明には使えない。
問題の三つ目。これは二つ目と同じく、差し迫った状況がボトルネックになっていた。アディナの理論で新しいスキルを生み出し戦力とするには、まず一定以上の達人が知識と勘を総動員して新スキルの設計を行わなければいけない。思い出してほしいのだが、俺は今まで一度たりとも『紫伝一刀流』を使ったことがない。それは刃筋や力加減において繊細なコントロールを要求される刀の技と、誰が放っても同じ軌道同じ威力になるというスキルの長所がうまく噛み合わないためだ。このため技術をスキルにするためには、スキル発動でも十分に効力を持つ技を中心に一から設計する必要がでてくる。設計が終わるまでは下手に弟子も修業はできない。なにせ違うスキルに繋がる技を覚えてしまえばリセットなどできないのだから、永遠に新スキルを得られなくなってしまう。設計に時間がかかり、完成からさらに育成のための時間がかかるわけだ。エクセララ方式なら強者が守りながら弟子を育成し、逐次見合った脅威への対処を任すことができる。
「剛士のスキル、生まれたのはいつ頃?」
「たしか初代様がガスパール流を開いてから20年ほどたった頃だったかと」
そうだろうな……いや、これでも意外と早かった方か。
当時の実情と即戦力の不足、専門的で複雑な設計難易度、そもそも抱えている不確実性といった様々な問題点をクリアするのにかかった時間が20年。差し迫った状況に関しては解決せずに投げたようなものだが、それでも20年かかったのだ。その時間でエクセララは世界のどこよりも発展した都市という、現在の姿の確固たる礎を築いて見せた。我々の選択は家族との離別を招いたが、間違ってはいなかったのだ。
聞いた限りだと新しい問題も起きているしな。
20年かかって生み出したモノはあちらとて大きな基礎に違いない。だからこそガレンのような強者が生まれているのだ。そのことは素直に喜ばしいし、そういった研究も可能になった今のエクセララになら持ち込んでみたいと思う。ただ生まれてしまった四つ目の問題、新しい形でのスキル至上主義が出来上がっていそうなことだけは気がかりだ。
ガスパール流が仮に初心者でも獲得できる『1』というスキルからガレンの『4』を経て最新版の『7』まであったとして、エクセララ的な技術を用いて『7』を『1』が倒せてもガスパール流では『1』の扱いは下から変わらないのではないか。もしその某国とやらで、ガスパール流においての上位スキルを手にすることが社会的地位と結びついてしまっているなら……確実にブランクや適性の少ない人間への不当な差別につながる。
これはパリエルに調査を頼んだ方がいいかも。
「教えてくれてありがと」
内心で久々に神としての仕事を決めながら、俺は素性に直結しうる情報を明かしてくれた老紳士にお礼を言う。長い付き合いじゃないが、彼がそうしたスキルを価値観の主眼におくような人物でないことは分かっている。そういうタイプだったなら、あの決闘姫の御守りなどできまい。
「いえいえ、折角零代様をご存知のアクセラ様にお会いできたのですから。もしよろしければまた零代様のことをお教えください」
「・・ん」
さっきから度々出てくる呼び名の意味がようやく分かった。初代であるアディナの前だからアーディオンは零代か。面白い表現だ。
「また機会があれば」
俺はガレンに小さく頷いて、そのままいつものように短い挨拶をして寮への帰路につく。彼が本当にアーディオンの話したさで打ち明けたとは思えないが、こっちの意にそぐわない事でないならいくらでも乗ってあげよう。そんなことを考えながら。間接的とはいえ共通の知人がいる相手を見つけて嬉しいのは、むしろ俺の方なのだから。
~★~
「寒い!」
耳元で小さな悲鳴を上げるエレナ。ガレンとの鍛錬を終えて風呂に入った俺と彼女はベッドに潜り込んでいた。明日も朝から授業があるのでもう寝る時間だ。
「寒いね」
今晩は連日の雨と太陽光を遮り続けた暗雲のせいで夏とは思えないほど冷え込んでいる。先週は同じベッドで寝るのも辛いくらい暑かったのが、今日はブランケットを二重にして肩を寄せ合う始末だ。
「やっぱり太陽って偉大だね」
「ミアを見てるとそう思えないけどね」
太陽神でもあるウッカリ駄目神のことを思い出す。天界では眩しいという理不尽な理由で表示をオフにされている哀れな太陽と、オフにした太陽神本人。それを知っていると素直に偉大だとは言いづらい。
ミアといえばこのところ会えていないが、それも来年になれば解消できる見通しだ。順調に俺の体は神や使徒の力に馴染んできている。この冬の成人をもってようやく不活化していた『技術神』も解放できそうなのだ。
「掛け布団足す?」
「うーん、どうしよ」
普段はベッドの端と端でそれぞれ被っているブランケットを重ねたおかげで多少は暖かい。それでも一月以上前に仕舞った掛布団には負ける。
「アクセラちゃん今日に限って冷たいしなあ……」
「変な言い方しない」
もちろん態度の話じゃない。風呂上りに少々湯冷めして手足がそんなに暖かくないだけだ。むしろ冷たく突き放さずくっ付いていることがエレナの体温を奪っているんじゃないかとすら思うくらい、俺たちはぴったりくっ付いて寝ている。爪先に沿うように絡められた彼女の足先が暖かく感じることからも、その説は結構有力だ。
普段は俺の方が高いんだけどな……。
「エレナ、やっぱり少し離れない?」
触れ合う太ももの熱に、この5年で育った双丘の感触に、段々と女になっていく部分を否応なく垣間見る。
「怒った?」
「違うけど、たぶん私の方が体温低いから」
「そんなことなら気にしなくていいよ。むしろわたしが温めて上げる!」
嬉しそうに宣言するとエレナは俺の頭に抱きついた。俺よりも幾分厚みのあるふくらみが薄い布越しに頬へと押し当てられ、高い体温とわずかに速い鼓動が伝わる。
「むぎゅぅ」
していることは可愛らしくて微笑ましいんだけど、とにかく苦しい……!
日中なら下着で作られた谷間があるのに、寝間着の下にはそれもない。弾力と柔軟さを合わせたその塊は俺の口や鼻の輪郭に合わせて形を変え、わりとシャレにならない密閉空間を生み出す。甘い石鹸や優しい体臭すら入る余地のないそれは当然呼吸も許さないわけで。
「んー、んー!」
「あ、ごめん」
腕を叩いてギブアップを示すとようやく解放された。白く薄い生地からようやく香ってきた嗅ぎ慣れたエレナの匂いを意識から追いだしながら、見下ろす彼女の頭を手で退ける。
「布団持ってくる」
「えー」
「普通に寒い」
ブランケットを抜けだすと一層寒さが際立つ。体が暑いのに慣れていたせいだと分かっていても、まるで春前に戻ったような体感温度に身震いする。そうしていてもしかたないのでスリッパに足を突っ込んでクローゼットまで足早に向かった。背後では邪険にされたエレナが不満げな声を上げている。
うー、なんで今日に限って寒いかな。
春物の薄い布団を上の段から出しつつ天気に恨み言をぶつける。俺は歯ごたえのある戦闘となると血が滾って一気に好戦的で積極的な性格になるタイプなのだ。前世からそうだったし、今生になってからは普段とのギャップで余計にその傾向が強まった。滾る戦いが少ないからか、それともアクセラとしての体とズレが生じるからか、とにかく成長するごとにオンオフが激しくなってきている。集中のオンオフがマイルドになってきたエレナとは真逆だ。
「そっち持って」
「はーい」
出してきた布団にカバーをかけるためベッドに座った状態のエレナにも手伝わせる。ブランケットから這い出てきた彼女はボタンを首まで閉じて、パジャマと体の間にできるだけ空気が入らないよう余った生地を脇などにたくし込んでいた。どうしてもくっきりしてしまう双丘に目をやらないよう注意して手早くカバーと布団を紐で繋いだ。
「ブランケット整えて」
横になってブランケットを被りなおした彼女の上から布団をかける。
「寒い!」
「それくらい我慢する」
一瞬大きく空気を孕んだ布団から送られる風に悲鳴をあげるエレナ。その横に潜りなおせば、それまでより随分と暖かかった。
「おやすみ」
「もうちょっとくっ付こうよ」
「これ以上は暑い」
「えー、まだ寒いよ」
肩が触れるより少し遠いくらいに離れたい俺、腕にしがみつく勢いで追いすがるエレナ。布団の中での小さな追いかけっこがどちらの負けになるかは、戦場の不利を考えれば明白だった。
「……しかたない」
「勝った!」
「何の勝負……」
エレナは諦めた俺の左腕にがっちりと抱きついて、以降は大人しくなった。嗅覚と触覚の伝えてくる彼女の女性らしさを脳からシャットアウトして目を閉じる。
はあ、眠り浅くなりそう。明日レモンパイ教えないとだめなのに。
全てはしばらくぶりに楽しめているガレンとの鍛錬。そのちょっとした弊害が故だ。くどくどと述べ立てた俺の体質と鍛錬の相性が予想外の噛み合いを見せてくれやがった。つまりガレンとスイッチが入るレベルの戦闘をすると体が火照ってしばらく戻らなくなるのだ。もちろん体温の話じゃない。一種の戦闘状態から抜けられず、感覚が鋭く研ぎ澄まされたまま攻撃的な衝動を抱えてしまう。そういうときにスキンシップをとられると、その、平たく言うとムラっとくる。相手が妹のように思っているエレナでもだ。
仕方ない、仕方ない。
エレナは内面も外見もロリというほどじゃなくなってきているし、この体も思春期に入って性欲がないわけじゃなくなってきている。俺の性的な対象は男ではないので、戦闘モードになっているときに抱きつかれてそういう目で見てしまうのは仕方ないことだ。
そう、仕方ない。ただの生理現象。しばらくしたら収まるから問題ない。
俺には念仏のようにそう唱えながら寝る以外できない。それが今夜を切り抜けるためだけの、その場しのぎだと分かっていても。
そろそろお互いの為に考えないとな……風呂とか、ベッドのこととか。
目を閉じてじっとしているとエレナの寝息が聞こえ始める。その規則正しい細やかな音色が睡魔を呼び込むのは、夜がさらに一刻ほど更けてからだった。
~予告~
憔悴するマレシス。
その目に宿るは狂気の光か。
次回、歪められる意思




