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六章 第19話 殺すというコト

 後に「ハリスクの骨塚」と名付けられ正式にダンジョンと定められたその地下墳墓。意外と脱出は簡単だった。無軌道な拡張やデッドスペースがひどいとはいえ、元々はきちんと設計された墓場だったのだから。

 一番メインの道はそう分かりづらくなかった。加えて統率者であるネクロリッチが死んだことでスケルトンたちの能力は著しく低下中。『完全隠蔽』と『暗視眼』を使えば戦闘すらせずに脱出できた。問題はどちらかというと学院に戻ったときだった。


「一体何時だと思っているのですか!!」


 時刻は夕飯時すら超えて日付変更直後。仮にも貴族が主要な学院生が帰宅する時間としては論外に遅い。そのことを寮長に咎められてたっぷり怒られた。3年生のニッカ先輩は赤毛にそばかすの愛らしい少女なのだが、こと寮長の仕事になると極めて厳しい。ギルドへの報告も翌日にするよう厳命されてしまった。

 ちなみに次の朝に報告へ向かうと出張所のカレムは丁寧に聞き取りを行って報告書を書いてくれた。あの場所であったこと全てを包み隠さずに。ただしネクロリッチという高位アンデッドの存在やハリスク辺境伯なる人物に関する事はまた後日下ギルドで聴取されるかもしれないとのこと。一応そこから国に連絡を入れる段階では俺たちの個人情報を隠してくれると、口約束に過ぎないが言質はとった。


 ~★~


 寮へ戻ってきた俺たちはまず風呂に入った。エレナは学院に到着したあたりで目を覚ましていたが、そこから一言もしゃべろうとしなかった。視線を足元に落として小さく震える姿は、まるで初めて殺されそうになった普通の少女のようだった。あまりに痛々しい姿にまた胸が痛んだが、必要なことだと自分に言い聞かせて淡々と風呂の準備をした。いつもは楽しく入るお湯も今日ばかりはまるで俺が介護しているような気分だった。

 それからきっちり髪の毛を拭いて、俺とエレナはリビングのソファーに向かい合って座る。ローテーブルには今淹れたばかりの紅茶と作り置きのクッキー。体を温めてなお震えが取れない彼女のためにジンジャーティーを用意したのだが、一向に手を付ける気配はない。

 当然、か。

 俺は努めて普通に振る舞う。クッキーを1つ口に入れ、しばらくして紅茶で流し込む。ほどよく甘い2つに少しだけ気分が和らいだ。俺の気分が和らいでも大して意味はないのだが。

 いつまでもこうしていたって、意味ないよな……。


「エレナ」


「!」


 真面目な話をするときに俺が使うトーン。それを敏感に察した彼女は肩を跳ねさせた。


「何で勝てなかったか、分かる?」


「……」


 膝の上においた固い拳に視線を落としたまま沈黙するエレナ。その様子が理解できていることを物語っていた。それでも俺は言葉を重ねる。理解しているかどうかが大切なのではないから。


「躊躇ったでしょ?」


「……」


 図星を指されてまた肩が震えた。敵の前で躊躇うことがどれほど愚かなことかなど彼女に今さら説明するまでもない。


「躊躇った。ネクロリッチと戦っているとき。たぶん攻撃のチャンス……ううん、反撃されそうになったとき」


 感じていた魔力の応酬からおおよその予想を立てて指摘すると、彼女ははっと顔を上げて俺と目を合わせた。そしてすぐに視線を逸らす。


「み、見てないくせに」


「エレナ」


「……っ」


 ささやか反抗すら封殺する。俺の素の感覚と感知系スキルがあればそれくらい分かると、生まれてこの方ずっと轡を並べてきた少女は知っている。


「エレナ」


「そ、そうだよ、躊躇ったよ!」


 再び視線を上げた彼女は目の縁に涙を溜めていた。胸の内側で渦巻く思いはやはり重く、そこからは堰を切ったように言葉が飛び出す。


「アンデッドだもん、絶対に倒さなきゃいけないのは分かってるよ!アンデッドは周りを歪ませる、だからギルドでも教会でも重点討伐に指定されてる。そんなことはわかってる!」


 身に宿す呪いがそうさせるのか、アンデッドは周囲にアンデッドが生まれやすい環境を作ってしまう。不幸の連鎖を発生させないためには見つけ次第倒すことが求められるのだ。


「でも、あのネクロリッチさんはちゃんと会話ができたんだよ?ちょっと面白くって、色々なことを知ってて……!」


「だから壊そうとした?」


 俺の一言にエレナの体が一層強張った。

 質問の最後、エレナは不自然なまでに時間を認識させようとした。高位アンデッドが意識を保つためには強い思いを拠り所にする必要がある。その思いが、目的が達成できないと理解してしまえば支えを失って暴走するのは目に見えているのに。


「そう、そうだよ……暴走してくれたら、魔物として倒せると思ったから」


 それは歪な発想だ。子供らしいといえばらしいが。


「どうだった?」


「聞かないでよ!いくらなんでも悪趣味だよ、それは!」


 嫌悪を含ませた目で睨み付けるエレナ。そんな対応をされたのは初めてだったが、我ながら今のは仕方ないと思う。それでも止めるわけにはいかない。真っ直ぐに視線を返せば、逆にエレナの方が怯みを見せた。


「そんなの、倒せるわけ……殺せるわけ、ないじゃない!」


「倒す」ではなく「殺す」。その違いは14の少女が一人で抱えるには重い。


「いままでの魔物は、もっと敵だった!もっと動物で、もっと攻撃的で、もっと、もっと……」


 いつしか頬を伝って顎から落ちるまでになった涙とともに、溢れだす感情を必死に言葉にするエレナ。


「あのネクロリッチさんはたしかに魔物だけど、でもヒトだったよ!酷い目に合った人たちのために立ち上がった……アクセラちゃんと、エクセルさまと何が違うの!?」


 貴族に虐げられた女性たちのために立ち上がったネクロリッチと、同じく貴族に虐げられていた奴隷たちを救いたいと思った俺。たしかに似ている。もちろん違う点は山のようにあるが、根本にある感情は似たようなものかもしれない。


「めぐり合わせ、不条理、時代や場所……色々ある。でも一番は彼が死者のため、悪神に頼ったこと。私は生者のため、人に頼った。きっとそれだけ」


「それだけって言うなら、なんで殺さないといけないの!?」


 悪神に下った者は全て徹底した罰を与えられる。それがこの世の社会的正義であり、秩序を守るために必要なプロセスだ。だがそれは人の心までも縛り付けるものではない。あるいは縛り付けていても、違う感じ方を全て抹殺できるものではないのだ。


「エレナの感じ方は間違ってない」


 たとえ相手が悪神の眷属であってもそうだ。


「普通は殺せない」


「なら……」


「でも、冒険者でいたいなら殺せないといけない」


「なんで!」


 理由なんて分かっていても言わざるを得ない。そんな響きがエレナの慟哭には込められていた。それなら俺も真っ直ぐに、なんの誤魔化しもなく応えよう。


「殺さなければ殺されるから」


「……」


「私はエレナに死んでほしくない」


 ズルい言い方かもしれない。でも本心だ。


「言いかえるなら、私はエレナに生きる覚悟を持ってほしい」


「生きる、覚悟……?」


 それまでの印象とは大きく違う言葉にエレナは首を傾げる。相手を殺すことを自分の生きることにただすり替えているわけではない。紫伝一刀流が脈々と受け継ぐ生死観の一部なのだ。


「生きる覚悟は死ぬ覚悟と殺す覚悟の2つでできてる。死に直面して慌てず道を探す、死ぬ覚悟。生きるために立ちふさがる相手を倒す、殺す覚悟」


 死ぬ覚悟が定まっている、つまり己の死を織り込んで生きている者は死に直面しても竦まない。怖くないわけじゃないし、まして死ぬのが嫌でないなんて微塵も思っていない。ただ竦みあがって何もできなくなることは回避できる。そうして得られたわずかな時間でどう生きるかを冷静に考えるのだ。死に捕らわれないための覚悟と言ってもいいかもしれない。

 殺す覚悟が定まっている者も同じだ。相手を殺さなければいけない場面にあって、殺すことに動揺しない心があるかどうか。相手を殺すという選択肢から目を逸らそうと躍起にならないことで、あるいは見落としている別の選択肢に気づけるかもしれない。またどうしても避けられないときに迷いを捨てられるかどうかは、自分や仲間の命に直結してしまうのだ。こちらもやはり、殺すことに捕らわれないための覚悟と言える。


「でも……」


 生きる覚悟について一通り聞いてからも、エレナの心中は定まっていないようだ。それはしかたないことだ。俺自身やナズナ、カリヤ、他の弟子たち……いずれも悠長に覚悟を決めている余裕のない人間だった。覚悟の有無に関わらず、直面したそのときに何らかの方法でそれを乗り越えてきた。乗り越えた者しかいないように見えるのは、ただ乗り越えられなかった者が死んでいったからにすぎない。対してエレナは余裕のある人間だ。本質的に良家のお嬢様なのだから当然だが。だからこそ、意識的にこの壁を超えなくてはいけない。勢いで超えてしまえるような差し迫った感覚がないのだから。

 もう一押しするか。


「今まであえて言わなかったけど、エレナももうすぐ15歳」


「……うん」


「大人になるなら知っておかないといけない。あのネクロリッチと私は似てる……そう、とても似てるということ」


「え?」


 エレナが自分で言ったことだが、そうも同意されるとは思っていなかったのか。なんにせよいい指摘だったことは確かだ。頼った存在が違うとさっきは言ったが、お互いに逆の存在が先に手を差し伸べていたらどうしていただろう。きっと立場は逆だったに違いない。どちらも追いつめられていて、差し伸べられた手を選ぶ余裕などなかったのだから。


「ま、まって」


 不穏な空気を俺の言葉の端々に感じ取ってエレナが静止の声を上げる。だが無視する。


「私は人を殺したことがある」


 噛んで含めるように、ゆっくりとそう口にした。


「何度も、ね」


 エレナの体が緊張に凍り付くのも気に留めず、続きを言葉に変えていく。


「死にたくないから、死なせたくないから」


「まってよ」


 平坦な俺の声と震えるエレナの声が対照的だ。その対照的な絵面をより印象深く、飾らずに言うならば悪化させようと俺は彼女の両頬に手を添えた。しっかり顔を向けさせて、お互いの目の奥底まで覗き込めるように。早苗色の丸い瞳に白髪の影が映り込んだ。まるで死を司る妖精のように。


「戦争で敵兵を殺した」


「や、やめて……」


「立ち合いで相手を殺した」


「やめてってば……」


「襲われたから殺した」


「わかったから……!」


「許せないから殺した」


「わかったって、やめてよ!」


「大切に思っていたのに、殺したこともある」


「もうやめてっ!!」


 俺の手を振り払ってエレナがソファを立つ。勢い余ってバランスを崩しながら後ずさった彼女の目には、明確な怯えが浮かんでいた。止まっていた涙がぼろぼろと頬を伝って落ちる。


「あ……」


 自分で自分の感情に気がついたらしい。俺に怯えたということが。彼女はばっと袖で顔を覆って、逃げるようにベッドルームの扉に走った。


「エレナ。6年前のあの時だってそう。誘拐犯を私は殺すつもりだった。変異種の邪魔がなければ、私が全員を殺して脱出するはずだった」


 追い打ちをかけるように、彼女にも身近な例を挙げる。あの時変異種が乱入していなければ、俺が全員を殺して何事もなく脱出できたのだ。乱入されたせいで殺す相手が魔物と魔獣に変わっただけのこと。そして予定通りにいけば、エレナは大怪我を負わずに済んだ。結果として生き残ったとはいえ、殺せなかった未来は死のリスクを高めたのだ。


「全て、私が私の意思と覚悟の下に殺したんだ」


「……っ」


 隠れるように扉の向こうへ消えるエレナの背中へ最後の言葉を投げかける。直後に大きな音を立てて閉じたその扉は、普段使わない方のベッドルームに通じていた。


 ~★~


 刃を白く滑らかな脂肪に当ててすっと引く。よくできたナイフはそれだけで肩ロースの塊から分厚い一切れを切り出してくれる。それをまな板の上に横たえて、塊の方はさっさと冷蔵庫にお帰り頂く。脂肪と肉の間に何度か刃を入れて筋を切り、戸棚の奥にあった瓶の中身と塩コショウを振れば下準備終了だ。


「ん、バターがもうない」


 最後の一欠けを熱したフライパンに投じてから、冷蔵庫の横にある雑紙に「バター」と記入。他にパッと見で足りなくなっている物も書き加えてから調理に戻る。溶けてねっとりと芳醇な香りをさせるバターに豚肉をそっと入れれば、激しい音を立てて脂が小さく跳ねまわった。

 刀を振るう次に料理をするのが落ち着くな。

 肉が焦げ付かないように時々動かしながら立ち上る匂いを楽しむ。下ごしらえにかけた林檎酒が揮発してバターと相性のいい甘い香りをさせるのだ。


「ちょっとやりすぎたかな」


 焼き加減はまだまだ。我知らず呟いたのはもちろんエレナのこと。それでもすぐに自分の弱さを心から消し去る。厳しいことを言ったとは思うが、それでもあれが本当なのだ。冒険者でいる以外に選択肢がない人間なら必死に超えるハードルでも、根本的に殺すという発想に馴染まないエレナは立ち止まってしまう。それが原因で死なれたら、それこそ狂ってしまいそうだ。

 今回の件、人道的に彼女がとった選択を責めているわけじゃない。覚悟がなくて暴走を安易に選んだことが問題なのだ。あれはもっと情報を引きだしながら、優位な状況を作りに動くべきだった。エレナの実力で完勝できる確証はどこにもなかったのだから。実際、彼女は勝負そのものには負けた。

 それでもすぐに「やっぱりやりすぎたかも」という思いが首をもたげる。特に最後の台詞は、少し脅かしすぎたかもしれない。もちろんそれだけの覚悟を持ってもらわないと困るのだ。だから言ったのだし。

 困る、は違うか。

 俺はエレナに死んでほしくないのと同じだけ、彼女に大切な人を失わせたくないのだ。生きることにも死ぬことにも、受け入れる覚悟を胸に刻みつけてほしい。これは老婆心であり、同時に俺の我儘だ。


「もうちょっと工夫できればよかったけど」


 肉をひっくり返して粗びき胡椒を足す。新しい上側は角がきつね色に焦げて実においしそうだ。もちろん独白は肉のことじゃないが。

 今回のことは予想外に過ぎた……というか、急ごしらえで無理をしすぎたかもしれない。

 そう思う。なにせ本当は俺が何かしら事前に話をして、それから盗賊討伐でも受けてエレナに選択を突きつけようかと思っていたのだ。勢いで人を殺せるほど馬鹿(・・)じゃない彼女のためにお膳立てをする気満々だった。ところが蓋を開けてみれば本当に進退窮まった状況になって、こちらから何か言う前に殺しという壁にぶつかって、もがいた末に危うく死ぬかもしれないところまで行ってしまった。


「ん、危ない」


 考え事をしている間に焼きすぎるところだった。コンロの火を止め、あらかじめ用意しておいた皿に豚のステーキを乗せる。金色に輝くオイルも上からかけて、戸棚のパンをごっそり持ちだす。ダイニングテーブルにそれらを置いてから、ちょっと考えて台所へ戻った。


「たまにはいい、はず」


 料理用に買ってある林檎酒を一番雰囲気のあるグラスに注いで食卓に追加した。飲まなきゃやってられない、なんて言葉を転生したとはいえ14で言うとは……。

 いや、前世でも14前にお頭が酒くれたし、そんなこともないか。

 甘苦い酒精を舌で転がしながらふと考える。俺が最初に人を殺めたのはいつだったろうかと。ちょっと頭を回転させればすぐに思い出すことができた。そう、俺がエクセル=ジンと名乗った日だった。


 ~★~


「いやいや、今日は積み荷を全部くれてやるよ」


 愉悦の滲んだ嘲笑、嫌らしい顔、血走った眼。それが一番印象に残っている。目の前の幌馬車から飛び出してきた数名の騎士より、森の中から飛んできて仲間の1人を射殺した矢よりも、とにかくあの男が記憶に残っているのだ。


 ヤブサメのジンと名乗る青年率いる俺たち盗賊は、アピスハイム王国のとある山を拠点にしていた。通りかかる商人から金や食料を通行料と称して巻き上げるケチな山賊モドキだ。馴染の商人に盗品を買ってもらい、あとは自然豊かな山の幸を狩猟採取してなんとか糊口をしのぐ。

 討伐隊なんて送られたらひとたまりもないので、旅人や貴族関係の商人には手を出さない。女も攫わないし近くの村も襲わない。世界中どこにだっている小規模な集団だった。


「いいか、俺たち盗賊は商人の習いで生かしてもらってんだ!惨い真似やら外道働きはすんじゃねえぞ!?」


 それがお頭の口癖で、俺たちが縋っていたちっぽけなプライド。食い詰めた農民なんかが中心のこういう盗賊は締め付けすぎなければ凶賊にならない。だから商人たちも少し余分に積み荷を持って山に入り、それを通行料にして何事もなく通り抜ける。そういう暗黙の了解があったのだ。

 今思えば、全部ただ巡り合わせが悪かったんだ。


 どうしてこんなところに騎士が?俺たちは習い以上のことはしてこなかったのになんで?そもそも御用商でもない商人がなんで騎士なんか連れてこれるんだ?様々な疑問が沸き起こった。

 後知恵だが、どうも俺たちがしばらく前に通行料を巻き上げたこの商人は市井に下った貴族の四男だったらしい。商売を舐めきって習いなど知らぬまま、自分に恥をかかせた盗賊を始末しようとした。金を積んだのか、親がよほどの高位貴族だったのか。とにかく近くの街の領主がその要請を受け入れた。そういうことだったらしい。


「逃げ……れはしねえか」


 所詮は食い詰めた農民や農奴、間違っても騎士となど渡り合えない。しかし、状況はすでに詰んでいた。自分たちが潜んでいた方向の僅か一角を除いて、森の中にも伏兵がいる状態。すでに包囲されていた。


「墨頭、お前逃げろや」


 お頭がそう言った。

 逃げられるわけがない。騎士はおそらく目の前の数名だけだろう。でも森の中には弓兵が隠れている。1人2人じゃない。それに弓兵といっても多少の近接戦はできるはずである。

 無理だ、お頭。

 俺が首を振ろうとしたとき、お頭と他の仲間たちはなにかアイコンタクトを交わした。そして彼等は走り出した。ある者は目の前の騎士に向かって、ある者は森の中の弓兵に向かって。逃げるのではなく、戦いに走ったのだ。


「俺らはもう年貢の納め時ってやつみたいだけどよ、お前すばしっこいからな。生き残れるかもしんねえだろ」


 一人残ったお頭がそう言った。狡賢くて人懐っこい不思議な青年はニッと笑った。


「男に生まれたからには最後の最後くらい、ってな」


「おかしら……」


「大丈夫さ、なんとかなる」


 いつもの口癖を言って、それ以上お頭は俺の言葉を聞かなかった。以前、行き倒れの冒険者から巻き上げた魔法の剣を抜き、騎士たちと多対一で組み合っている仲間の下へ駆け出す。


「オラァ!ここらの元締め、ヤブサメのジン様の首が欲しい奴からかかってこいやー!!」


 ここ一番でもその恥ずかしい自称を叫ぶお頭に俺は場違いながら笑いがこみ上げる。それから俺は走った。自分たちが直前まで潜伏していた、ただ一か所人がいないはずの方角へ。


 そこだった、俺が初めて人を殺したのは。


 盗賊を返り討ちにするも大けがをした、そんな風体の弓兵。弓の弦は切れていたし片目を潰されていたように思う。俺は無我夢中で狩りに使っていた鉈を構えて走り、ぶつかるように振り回した。人間は案外脆いと最初に思ったのもその時だった気がする。驚いたような、怒ったような顔が今でも鮮明に思い出せる。

 あとはもう必死に走るだけだった。後ろで騎士と思しきだれかの断末魔が聞こえ、仲間たちの怒号が聞こえ、鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音が聞こえ……やがてなにも聞こえなくなった。何処をどう走ったのかもわからず、気付いたら森を抜けて次の森に入っていた。


「俺……生きてる……?」


 辺りを見回してそう呟いても返事はない。俺はまた1人ぼっちになった。奴隷として脱走したときには気にならなかったのに、今度は寂しかった。空腹よりも寂しさと悲しさが一杯だった。そして気付いた。一度もお礼を言ったことなんてなかった。その小さな事実に涙があふれた。墨頭は元通りただのエクセルになったのだ。

 ふと、俺は思いついた。このアピスハイムでは自分の名前に姓のかわりに父親の名前をつけて名乗る。奴隷にはそれさえ与えられない場合が多いし、なにより俺の場合は自分の親を知らない。だから俺はずっとただのエクセルだった。


 1人だけ、どうしても忘れたくない名前が思い浮かんだのだ。


 勝手に名乗ると怒られるかな。

 そう思いもしたが、やはり失くしたくない名前だ。


「エクセル……エクセル=ジン」


 お頭の名前だった。盗賊仲間全員が親代わりだったかもしれない。だが名前を知っているのはお頭だけだった。さすがの俺も自分の名前にギョロメだの前歯だのとつける気にはなれなかったし、そもそもつけられるのは1つだけだ。1つだけなら、やっぱりお頭しかいない。


「エクセル=ジン」


 噛み締めるようにもう一度言う。その日、俺は名前を得たのだ。

エクセルの生い立ちを皆さんちゃんと覚えているでしょうか?

奴隷の子供に生まれ、脱走した先で盗賊に拾われ、その後は盗賊や物乞いを歴任(?)。

異界より迷い込んだ男に拾われて流浪の剣士となった経歴が彼にはあります。

詳しくはアタリをつけて既出のお話を読んでやってください。PV稼ぎじゃないですよ。


さて、これにて六章は終わりとなります。

ここからはエレナにとって少し辛い物語が続くかもしれません。

またアクセラとクラスメイトの物語も増えてくると思います。

切り口が変わった七章、皆さんのお気に召すといいのですが……。


~予告~

アクセラとメルケ先生。

並んで見る夕日に、2人は何を見出すのか。

次回、秘密の屋上


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