六章 第6話 魔法革命講座
「あ」
廊下を歩いているときだった。私は明日のための授業資料を纏め終わって図書館に向かう途中で、ちょうど向こうから彼女は歩いてきた。エレナ=ラナ=マクミレッツさん、私が今年から受け持つことになった1-Aの女子生徒。学院の入学試験で9割を叩きだした1年生の首席合格者だ。
「ヴィア先生!」
ハニーブロンドの少女も私を見つけたらしく、小走りで近寄ってくる。無邪気な笑顔を浮かべているのにどことなく迫力があるのは、肩からかけた鞄から大人の男性でも撲殺できそうな重量感を感じるからか。
「エレナさん、走っちゃだめですよ?」
「あ、ごめんなさい」
とびきり小柄な私が言うことでもないかもしれないが彼女は華奢で、顔立ちも可愛らしい美少女だ。美形が多い貴族の血筋の中でもトップクラスの。そんなエレナさんが肩にかけている鞄は学院が販売している布製の物ではない。冒険者や騎士が使うような革製、それもかなりの年季が入った物。制服の右肩にできた深い皺はその重さが尋常でないと教えてくれる。
なんて筋力……さすがはアクセラさんと冒険者をしているだけあるわ。
「図書館ですか?」
「はい。先生も?」
「そうですよ」
「もしかしてアクセラちゃん対策ですか?」
「!」
表情一つ変えずにニコニコとしたまま、彼女は的確に図星を突いてきた。エレナさんが今年最高の頭脳を持つ優等生だとすると、アクセラさんは今年最大の混乱を巻き起こす優等生だ。まだ夏休みも見えてこない時期なのに、既に色々と問題が起き始めている。別に問題児ではない。むしろ成績は優良だ。ただ少し優秀すぎるというか、突拍子もないというか、有体に言って教えるのがとても難しい生徒である。
「やっぱりですか。わたしもアクセラちゃんの問題に散々手こずらされたから分かります。大変ですよね」
黙っている間にもエレナさんは一人で納得して頷いている。
そういえば2人は乳兄弟でしたっけ?
「アクセラさんは昔からあんな感じですか?」
「ですです。何でも知ってて、すっごく難しい宿題を出してくるんです」
最初の授業以来、私はアクセラさんに目をつけられてしまった。こういう言い方をすると強請り集りにあっているようだが、もちろんそんなことはない。ただ知的好奇心に付け込まれて遊ばれているのではと思うことは多々ある。
「魔法の可能性について知りたくないですか?」
そんな言葉を妖しい微笑みで言われて無視できる魔法使いがいるだろうか?それがたとえ入学したての生徒の言葉だとしても、いいえとは言えない雰囲気を彼女は持っていたのだ。
「なんのお題を出されたんです?」
生徒に出された課題を別の生徒に話すのは教師として恥ずかしい。そんな思いも少しあったが、同じ道をたどっているらしいエレナさんのお話を少し聞いてみたくなった。そんな小さな出来心で私は口を開いてしまう。
「えっと、魔力を魔法にする以外の使い方について考えてほしいと言われまして」
「あぁ……」
納得が少女の顔に浮かんだとたん、私は顔が熱くなった。純粋になんの話か理解した様子のエレナさんは、とっくの昔にこのお題をパスしているのだ。魔法の知識で一年生の少女2人に完敗しているという事実は、魔法学の高等教員資格を密かな誇りにしていた私にとってとてつもない恥だった。
でもそうか……あれほどの凄まじい魔法を使えるんだから、当然と言えば当然なのよね。
以前立ち会った試合のことを思い出して一人納得する。ついでとある可能性に気がつき、戦慄した。アクセラさんがエレナさんに色々教えてきたのだとして、その結果があの試合なのだとしたら。それはつまりアクセラさんが今私に出している問題や考え方の先にはエレナさんがいることになる。彼女自身の才能はあるだろうが、学院の1年生が荒削りとはいえ大魔法使いに手をかけているのだ。
つまり、それだけの何かがアクセラさんの言うことにはある。
「ちょ、ちょっと来てください!」
「え、あ、はい」
私は気がつけば彼女の手を取って図書館に駆け込んでいた。彼女に聞けば今まで積みあがった疑問は全て氷解するという予感を抱いて。木製のドアを開けて受付へ向かい、研究用の個室を借り、そこに少女を連れ込む。いつにない剣幕だったせいか司書のドーニゲットが目を白黒させていたが、今はそれどころではない。
「教えて!」
「せ、先生?」
「ちょっとでいいの!ちょっとでいいから私に貴方たちの知識を教えて!」
「わ、わかりましたから!近いです!」
そう言われてふと我に返ると、私は今にも彼女を押し倒しそうなほど迫っていた。エレナさんの方が背が高いので、その豊かな胸に顔を突っ込みそうになっている。意識したとたんに白いブラウスから甘い石鹸の香りがして思わずドキリとする。
「ごごごごめんなさい!つい、その、ちょっと慌てて、本当にごめんなさい!」
慌てて飛びのいて後ずさる。そう広くない個室の中なのですぐ背中が壁についてしまった。苦笑いを浮かべているエレナさんと椅子を視線が勝手に行き来する。
「と、とりあえず座って、どうぞ」
「は、はい」
エレナさんが2脚ある椅子の片方に腰を下ろしたのを確認して、私もテーブルを挟んだ反対側に座る。本を持ち込んで研究するための部屋だけあってテーブルはとても広かった。
「その、用事とかあると思うけれど、少しだけ先生の質問に答えてくれませんか?」
「いいですよ」
「ですよね、やっぱり忙しいですよね……って、いいんですか!?」
「いいですけど、そろそろ声押さえないと怒られますよ……?」
あ、しまった。
ドーニゲットは学院の同期だし問題ない。しかし司書長のベサニア女史に見つかったりしたら大目玉だ。もうかなりの醜態を生徒にさらしているのに、かつての担任から数時間のお説教をもらう姿など見せられない。
「エレナさん、アクセラさんのお話で分からない部分がいくつかあるの。だから教えてくれませんか?」
声のボリュームを下げてお願いする。
ああ、教師としての威厳がどんどんなくなっていく。でもこのまま魔法学の教師として相応しくないままでは終われないの……!
「はい、よろこんで」
呆れた様子もなく彼女は頷く。そこには何を聞かれても困らないだけの自信が見えた。私がなかなか身に着けられない、自分の知識と技能に対する自負が。
ああ、これは悪魔との取引かもしれない。
~★~
その夜、私は教員寮大浴場の浴槽に浮かんで天井を見上げていた。結局エレナさんは夕飯時まで私の疑問に答え続けてくれた。そこからはもうどうやって寮まで戻ってきたのかわからない。気がついたら浴場の隅で体を洗っていた。そのまま誰もいないのをいいことにお湯の中を漂うというマナー違反をしている。なんだか頭の中がスポンジになったみたいだ。だんだんお湯が染み込んで思考力を奪っていく。
こういうときに笑えばいいと言ったのは誰だったっけ……。
「ふ、ふふ……あはは……」
結露する天井を見ながらとりあえず笑ってみる。確かに少しだけ脳内がはっきりした気がする。こんな状況でメルケ先生なら一体どうするのかと思いながら、もう少しスポンジを脳みそに戻したくて笑う。
「あはははは……はははは……はははははは」
「淡々と笑わないでよ、怖いから」
「あふぁ!?」
耳元で聞きなれた声がして、私は慌てて体を起こそうとする。ただうまく手足が動かず、軽く溺れかけた。声の主に助け起こしてもらわなければそのまま実際に溺れていたかもしれない。
「フローネ先輩、びっくりさせないでくださいよ!」
「いや、今回はヴィアちゃんの方がびっくり案件だったからね?」
半眼で私を見つめるのはフローネ=フォル=イリンダ先生。学院時代の先輩で現在は教師の先輩でもある、戦闘学教員で1-B2の担任。日焼けした肌はがっしりとした筋肉に押し上げられて、それでいて女性らしい曲線も失っていない。体形的には私の真逆で、実は性格もかなり真逆に近い。ただ妙に馬は合うのか、学院で知り合って以来ずっと仲良くさせてもらっている。
「で、どうしたの?」
「……言わなきゃダメですか?」
「一日の疲れを流し落としに来たら後輩が淡々と笑いながら風呂に浮いてたんだよ?」
「ご迷惑をおかけしました」
「しゃべり給え」
「はい」
昔からこんな調子で悩み事は何でも相談してきた仲だ。いつも思考を整理させてくれるし、今回も胸を借りよう。この、私の頭くらいありそうな大きな胸を。
「どこ見て言ってんのよ、スケベ」
「何食べたらそんなに大きくなるんですか。そして何がそんなに詰まってるんですか」
「男。あと夢と希望が詰まってるそうよ」
「そういうこと生徒の前で言わないでくださいよ」
「言わないわよ。で、成長期も終了しきって久しい体の発育を悩んであんな笑い声上げてたの?本格的にやばいと思うけど」
「違うに決まってるでしょ」
軽口の応酬をしている間に少し心が晴れてきた。さすがは先輩と思うが、言うとまた話が長くなるので言わない。私は体が小さいせいか湯中りしやすいのだ。そして既にだいぶ浸かっている。
「実は生徒に負けてしまって」
「ケンカ?」
「私をなんだと思ってるんですか?魔法の知識ですよ」
「ヴィアちゃんを魔法の知識で負かす子がいる方が信じがたいわよ」
自分でもそう思ってしまうあたりに自己嫌悪が湧く。生徒の前で堂々とできるほどの自信は持てないくせに、負けて悔しい程度の自尊心はある。そのことに嫌気がさした。
「あら、これは重篤モードね」
「何か言いました?」
「ぜーんぜん」
先輩のつぶやき癖はこの際どうでもいいとして、私はひとまず語るべきことを語った。
最初は生徒に興味を引かれる囁きを吹きこまれて、それに乗ってしまったこと。聞いてみればそれが突拍子もない理論で、同時にかの雷嵐の賢者が考案した物だと言われたこと。図書館の資料をひっくり返してみても確証は得られなかったものの、話しているうちに彼女の言う理論や考え方が間違いではないと感じ始めたこと。そして興味本位で別の生徒に聞いてみると、彼女はその理論を理解しているどころかその体現者であると気づかされたこと。
包み隠さず話す間、誰も風呂場には入ってこなかった。ただ相槌のように天井から浴槽へ雫が落ちるだけだ。
「え、もしかしてヴィアちゃんが負かされた相手ってあのアクセラちゃん?」
「と、エレナさんです」
アクセラさんの噂は教員の間でもすでに広まりつつある。理由は主に3つ。まずはやはり実家のネームバリュー。次に王子殿下、ネンスくんに身構えることなく接する豪胆さ。そしてメルケ先生が珍しく手放しで褒めちぎっている事実。
「いい子らしいわね」
「とってもいい子ですよ」
オルクス家の噂は王都から出たことのない下級貴族の娘である私も知っているくらい酷い。なんでも恩のある侯爵家から対抗派閥に鞍替えしたとか。それだけでも貴族の間では外聞が悪いのに、領地を蔑ろにしているだとか後ろ暗い商会を陰から操っているだとか……。最悪なものでは獣人嫌いの貴族の領地を狙って奴隷狩りを行っているという話もある。
「あの家の噂、本当なんでしょうか?」
「さあね」
私よりは貴族界で高い地位を持っている先輩なら知っているかと思ったが、すげなく肩をすくめられてしまう。本当に知らないのか、あるいは知っていて言うべきでないと思ったのか。
まあ、知らない方がいいかもしれないものね……。
なんにせよ、アクセラさんはそんな話から想像できないほどいい子だ。無表情で話し方も率直すぎるくらいに率直だが、それがむしろ生真面目に見えて私は好感が持てた。勉強も概ねできる方で今のところ規則違反もなし。積極的に友達を作ろうとはしていないものの、昔からの友人らしいレイルくんやマリアさんとは親しげに話しているのを見る。なにより乳兄弟であるエレナさんに向ける眼差しはまるで父親のようで、彼女が本質的には温和な人物なのだと感じさせる。
「母親じゃなくて父親なの?」
「なんでですかね……父親の方がしっくりくるんです」
「へぇ……。でもエレナちゃんの方はあんまり話聞かわないわね」
教員はお互いに受け持つ生徒の話をよくする。そのため他クラス他学年であろうと教員たちは意外と色々な生徒のことを知っているのだ。そんな中でアクセラさんはトップクラスに有名だが、エレナさんはそうでもない。
「今はまだ、ですよ」
実は最初に少しだけ彼女が有名になったことはある。入学試験の成績がネンスくんと数点違いとはいえ主席だったのだ。試験結果は公開しない方針なので表だって言うことはないが、最初の時点での注目度はかなりあった。それが下がっているのは、学院で注目されるのは良くも悪くも変なところのある生徒だから。勉強ができるのは素晴らしいことだが、将来を考えると学年1位も10位も大差はないのだ。それよりも極端に魔法や剣の腕がある子や、特定分野に特化した天才を教員は見る。前者ならそれこそファティエナさんやアクセラさん、後者なら数年前の卒業生であるリニアさんのような人を。
「絶対にあの子は化けます」
「ヴィアちゃんが断言するなんて珍しいじゃない」
なんとなく優柔不断と言われているようで引っかかりを覚える言葉だ。
「魔法学の実技が始まればエレナさんは一躍有名人ですよ。もしかするとここ数年で一番評価されるかもしれません」
「す、すごい持ち上げるわね」
しばらく前の決闘で見せた様々な魔法の数々だけでも凄まじいの一言だ。あれだけの属性を使える魔法使いは聞いたことすらない。なにより私を驚かせたのは全ての魔法が一点を目指して配置された戦い方そのもの。スキルを道具のように戦況を組み立てていくやり方や全体に散見される独特な発動形態。あれはまさしくアクセラさんが言っていた魔法の理論を前提とする運用だった。
「アクセラさんの言うやり方を取り入れれば、本当に私も今より強くなれるんでしょうか……」
「強くなりたいの?」
「強くなりたくない魔法使いなんていませんよ」
魔法使いだけではない。戦士だろうと誰だろうと、この世に生きる人々は誰しも力を欲している。魔物に奪われない力を、自由に生きる力を、誰かを守る力を。力への渇望こそ人類の最も強い欲望とは学院長の言葉だ。だからこそいまだに悪魔と契約を交わす人間がいるのだと。
「力に溺れてはいけない。学院長のありがたーいお言葉、忘れないようにね?」
「……はい」
少しだけ真面目な眼差しで先輩が釘をさす。
そう。力を求めるのは当たり前のことでも、それに溺れてはいけない。きっちり見極めないといけないのよ。
であれば、アクセラさんに教えを請うのはどうなのか?道義的、倫理的、そして実益的に考えて阻むものはない。私自身、教師としてのちっぽけな矜持を除けば教わりたいと強く思っている。
そのちっぽけな矜持はさっき打ち砕かれたじゃない、ヴィヴィアン=ケイラ=シャローネ。今さら拘ってどうするの!
「で、話逸れたけど、その2人がどうしたの?」
私が心を決めていると、隣でお湯につかる先輩が首を傾げてそう尋ねた。ついでニヤっと笑った上で芝居がかった手の動きとともにこう続ける。
「この先輩が悩めるヴィアちゃんを導いて上げようではないか」
「あ、もう大丈夫です」
「え……?」
「もう結論出たんで、大丈夫です」
「えぇ!?」
相談に乗ってくれるのは嬉しいが、この人はいちいち茶化したり大上段に振りかぶって見せたりする悪癖がある。おかげで相談するつもりがその前に解決してしまうこともしばしば。ちょうど今のように。
「腹も決まりましたし、そろそろ逆上せそうなんで出ますね」
「え、ちょ、酷くない!?」
「お疲れ様でーす」
思い立ったが吉日とばかりに浴槽の中で立ち上がる。慌てる先輩を置いて向かうのは脱衣所だ。着替えてから部屋に戻って、明日アクセラさんにどう切り出すかを考えないといけない。
あと眠る前に豊胸体操……あ、それより牛乳飲まないと。
~★~
「痛……!」
お湯から上がって体を拭いていると、エレナが背を向けたまま小さく呻いた。指でも打ったのかと思って目を向けると、彼女はどうやら左肩を押さえているようだった。
「大丈夫?」
「むぅ……たぶん」
「ちょっと見せて」
ほっそりとした肩に手をかけて振り向かせる。お湯の熱が残っているのか、薄く上気した体をさらすエレナ。赤みの差した頬と柔らかな線を描く胸に一瞬心臓が跳ねるが、とりあえず精神力でねじ伏せる。
俺はロリコンじゃない。俺はロリコンじゃない。
――『いっそ手とり足とり仕込んでしまえ』――
去れ、邪心。俺はロリコンじゃない。
心の中で「阿」という一字を思い浮かべて心頭滅却を図る。阿字観と呼ばれる、師の世界に伝わる精神統一方法だ。由来はちょっと覚えていない。
「ア、アクセラちゃん……その、心配してくれるのは嬉しいんだけど」
「ん?」
「そんなにじっと見られると、ちょっと恥ずかしい、かな」
顔を一層赤くしたエレナが胸と口元を腕で隠して呟くように言う。全体的に俺の目に見えないよう、腰を少し引いて前かがみにすらなっていた。そこでようやく彼女の体を見たまま阿字観を行っていたことに気づく。
「……ん、ごめん」
勘違いしてくれているのを幸いに、いつも以上の無表情を心がけて誤魔化す。それからちゃんと彼女の言う痛みの原因へ視線を向けた。左肩に刻まれた4本の痛々しい爪痕。忘れもしない、俺が未熟だったばかりにエレナが背負った一生残る傷だ。
「なんでかな、さっき少し痛かったんだけど」
「もう痛くない?」
「うん」
頷くエレナ。
「一応見せて」
「……むぅ」
腕をどけさせて傷を確認する。薄っすらと色のくすんだ痕に普段と変わった様子はない。風呂上りでしっとりと水を含んでいるくらいだ。
「調べてみる?」
「うーん……また痛みが出たらでいいかな」
魔法で体の状態を調べることは医療系のスキルを持っていなくても可能だ。色々な制限はつくが、野戦仕込みの知識と合わせればまあまあ分かる。もちろんネヴァラに住むジャンのような凄腕の医者には太刀打ちできない程度だが。
「ん」
神経が高ぶったり温度差が影響したり、様々な理由で痛みは起きる。いちいち調べていては過保護を通り越してしまう。
深刻なことになる前に魔法で治療できるしね。この安心感は油断になりそうで怖いけど。
確認を終えたのでそそくさとエレナから離れる。セクハラ疑惑をかけられそうになった直後にベタベタ接するほど能天気じゃないのだ、俺は。代わりに下着を手渡そうとして、思わず舌打ちをしそうになる。洗面台の横の棚、下段が洗濯物を入れる籠になっているそれの上には何も置かれていなかった。
「着替え持って来忘れた」
「あ、話に夢中で……」
放課後にヴィア先生から質問攻めにされたとエレナが言うので、計画通りとニヤニヤしていたのだ。着々と我らが担任は技術へ好奇心を抱き始めている。メルケ先生も興味を持っているようだったし、布教がぐっと進むのも時間の問題だろう。そんなことを話しながら風呂の仕度をしていたらうっかり忘れてしまった。
「仕方ない」
俺は肩をすくめて脱衣所を出る。目指すは寝室だ。どうせ誰もいない自室なので人目をはばかることもない。ためらいがちについて来るエレナはそう割り切れないようで、タオルを体の前に垂らして前かがみだが。
「むしろなんで裸なのにそんな堂々としてられるの……」
「さあ。でも気にならない」
俺は自分の外見に興味があまりない。顔立ちに少し不満があること以外、見場には頓着しないのだ。加えて見られてもあまり気にならないタチでもある。奴隷から山賊、根無し草と恥じらいを学ばない環境で育った前世のせいか、それとも俺の本来の気質なのか。
いや、でも進歩したと思ってほしい。
アクセラとしての15年弱で多少は改善されている。最低限、異性の視線に肌をさらすようなことはしていない。こんなに気にしないのもエレナの前くらいだ。
「パジャマも買い足した方がいいかな?」
「ん、2着ほど足してもいいかも」
寝室についた俺たちはクローゼットの中からパジャマを引っ張りだす。夏物のワンピースタイプ、いわゆるネグリジェ。俺がピンクに白のフリルでエレナが薄紫に白のフリルだ。最初はスカート以上に抵抗のあったワンピースも、夏の夜の暑苦しさを経験してからは悪くないと思えるようになった。
「今日はちょっと暑いし、窓開ける?」
「後でね!でもほんとに暑いよぉ……」
着替える前に窓を開けるほどじゃないぞ、俺も。
「……アクセラちゃんて冷たそうだよね」
「酷くない?」
確かに俺は色白で白髪で紫の目で無表情。これ以上ないくらい冷たい風貌をしている。そして外見を気にしない俺が唯一若干のコンプレックスを抱いている点でもある。
「そういう意味じゃなくて、触ったら……あ、全然そんなことないや」
触ると冷たいかもしれないと思ったらしく、そっと手を俺の背中に当ててぼやく。それから腕や手、肩、腹をぺたぺたと触ってくる。体の曲線にそうように、杖ダコで意外と硬い掌が撫でていく感触はくすぐったかった。
「エレナも熱い」
「うん、だと思った」
分かっているなら止めなさい……。
「ほら、着て。窓開けて寝るよ?」
「うぅ……氷魔法で冷やしちゃダメ?」
氷魔法で部屋の温度を下げれば涼しくはなる。あるいはタライを置いて氷柱でも作れば朝までひんやりだ。でもそれは体が弱る。夏の始まりに体が汗をかくことへ適応しないと、中盤から先がしんどくなっていくばかりだ。
「ダメ」
「はぁい」
肩を落としてネグリジェを被るエレナ。結局風の魔石を使った送風魔法だけは許可してしまう俺は、おそらく過保護じゃなくとも甘すぎる姉なのだな。
~予告~
特異な髪色と珊瑚のような赤の瞳を持つ少女アレニカ。
彼女の道がアクセラたちと交わるのは……。
次回、苺色の少女




