赤い雪の花
闇の中でさえ黒く光る殺人機。
勿論、使ったことなんてないし、実物を見るのも初めてだ。
拳銃。
片手の指一本で、僕は凛五の脳を撃ち抜ける。
そうすれば、脳だけは生身のままの凛五は死ぬはずだ。さっき当った流れ弾は、頭部の金属機器ではじかれて、脳を貫くまでには至らなかったのだろう。
だが、ど真ん中。額を狙えば。
殺せるはずだ。
「なあ。もう一回聞いていいかい」
「何かな」
「お前、いったい何歳なんだ」
ほんの三十分前にした会話だ。
「何言ってるの。ウチはりょうくんと同い年じゃん」
ばばっ。ばばばっ。
零度になれなかった雨粒が空から落ちて来るたびに、この部屋からは温度がなくなってゆく。
「……先生は、お前のこと『凛』って呼ぶよな」
「そうだね。昔からそうだよ」
自分の子どもを略称で呼ぶのなんてよくあることだろう。しかし僕は聞いた。侵入者の言った『五号機』という言葉を。
「それが、お前の最初の名前なのか」
「……うん。わかっちゃったか……でもね」
ばばっ。ばばばっ。
血を流しながら。
泣きながら。
血も涙もちゃんとある、中途半端な人間は、霙みたいな人間は。
「りょうくんと過ごしたのは、凛五だけだよ」
人間みたいに笑ってみせる。
体温が無くなりそうだった。
凛五は僕のことならなんでも知っている。
僕も凛五のことならなんでも知っている。
そう言えるだけの時間を共に過ごしてきた。
だから僕は、知っている。例えば、先日の事故の日の様に、ふとした瞬間に、凛五がわざと無防備になることを。
理由は分からずともずっと知っていた。凛五が死にたがりだったことを。
だから凛五も知っている。僕の運は、別に悪くなんてないことを。
知らない振りして、僕が凛五を死から助け続けた。何があっても自分の運が悪かった。周りにそう言い聞かせて。自分にそう言い聞かせて。
知っている。
ずっと。
ずっとこの町で。
一緒に過ごしてきたんだ。
「無理だ」
「りょう……くん……」
冷たい音を立てて、手から殺人機が床に落ちる。
膝も落ち。視線が凛五と合う。
「無理だ。無理に決まってるだろ。どうして僕が凛五を殺せるんだよ」
血液色に染まったコートの襟を右手で掴む。掴み掛かる。
「そんな、笑いながら泣いてる奴……」
凛五の存在は、きっと正しくない。麻木先生のしていることは、きっと正しくない。それを一番分かっているのは、凛五だ。自分は正しくない。自分の存在は間違っている。そんな自分、僕なら許せないかもしれない。だけど、それでも。
「なにも、死ぬことなんて」
僕の言葉を遮って。
花弁が風に浮くように。凛五が僕の胸に倒れ込んで、体重を預けた。ちゃんと心臓の音が伝わってくる。桜色のマフラーが僕の首筋に触れ、耳の後ろで凛五が言葉を紡ぐ。
「りょうくん。ロボットと人間の違いってなんなのかな」
ばばっ。ばばばっ。
「今よりずっと技術が発達したら、もう見た目じゃ、人間とロボットなんて見分けがつかなくなるよね」
ばばっ。ばばばっ。
「人間と同じ見た目で、人間と同じ仕草で、本当に何かを考えているように見えて、本当に何かを感じているように見えて」
ばばっ。ばばばっ。
「本当にそんなものができたら、そのロボットはもう簡単に壊したり……殺したりしちゃいけないし。ヒトと同じ様に、友達って呼べるようになったらいいなって、ウチは思うんだ」
ばばっ。ばばばっ。
「な、なんだよ。だったら凛五だって生きて……」
「ウチは違うの」
頭の後ろから声が聞こえる。今僕たちは、どんな顔をしているのだろう。霙は滴り続ける。
「ロボットじゃないもん」
さっきも聞いた言葉。凛五はロボットじゃない。
「死んだ人間だもん」
死んだ。
ずっと昔に死んだ。
人間。
「身体のある幽霊みたいなもの……」
言葉が尻すぼみになり。
「生きてるのが怖いの」
いっそロボットならよかったのに……消え入りそうに言った。
僕は、何も言えなかった。
ただ、空からは、変わらず白い雪が溶けて、英を広げながら落ちていた。
黙っていると、首に何かが巻かれた。温かい。温度が残っている。
「形見のつもりかよ……」
「ううん。もともとこうするつもりだったの」
前に、二人で作った桜色のマフラー。
「プレゼントしようと思ったんだけどね。誕生日、間に合わなかったんだ」
不器用な凛五に、僕が教えながら一緒に作った。それが僕の首に巻かれてい行く。そんな理由で作っていたことは、知らなかった。
「ほら、兜割だよっ。頭をばーんと」
「凛五」
「きっと綺麗に割れるよっ。りょうくん器用だからね」
「無理だよ」
「お願い」
びしょびしょの顔で。ぐちゃぐちゃに笑って。いつもの僕みたいに不謹慎にふざけて。僕の目を見て。
「なんでもしてくれるって、約束でしょ」
確かに、ついさっき、その約束はした。
「お願い」
凛五はそう、言葉を重ねた。
強い意志が宿った目だ。どうして、そんなに強い意志が持てるのにどうして……。それとも、生きてほしいと思うのは、ただの我儘なのだろうか。正しいのは凛五なのだろうか。正しさを失くして生き延びてしまった人間を殺すことが、正しい行動なのだろうか。
だけど。
……そう、なのか。
今僕が殺さなければ……。もしかしたら、凛五は独りで生き続けることになるのかもしれない。
先生が死んだ後も。僕が死んだ後も。ずっと独りで。
今までだってそうだ。いったいどんな気持ちで、作り物の身体を動かして生きて来たのだろう。
そんなの、僕に耐えられるだろうか。……ヒトに耐えられるものなのだろうか。無理だ。そんなの、きっと無理だ。
本当は、もっと前から、ずっと僕に、壊して――殺してくれと、言いたかったのかもしれない。でもそんなことはできなかった。凛五を僕が殺せば、釈明のしようもなく、僕は「親友殺し」の殺人鬼になってしまうから。だから凛五は、ずっと、何かが自分を殺してくれることに期待をして、生活していた。
それを助け続けてしまったのは、僕だ。
だけど今は違う。ここには、一丁の拳銃がある。侵入者の持ち物だ。誰が撃ったのかなんて分からないだろう……。だから凛五は僕に頼めた。「壊して」と。ずっと辛くって。今だって苦しんでいるのだろう。消えたはずの命が、苦しみ続けて生きている……。
こんなのは間違っている。
どんな状況だろうと、間違いは正すべきだ。
僕が………………正しくする。
膝元に落とした黒い金属の塊をゆっくり拾う。凛五の顔が滲んで見えた。
「今日がお前の命日だ」
「ありがとう。りょうくん」
僕は泣いていた。
「凛五。人生は楽しかったか」
「ずっと怖かったよ……だけど」
凛五も泣いていた。
僕が、
「りょうくんと生きた凛五は、ずっと楽しかったよ」
殺さなきゃいけない。
「よかったな。ずっと僕と楽しく過ごせて」
「うん。ありがとう」
泣いていた。
涙を流して。
「僕も、ずっと楽しかったよ」
「ウチの方が絶対に楽しかった!」
子どもよりも、空よりも、滝の様に涙を流して。もう顔も見えなくて。
「僕の方が楽しかったよ」
「ウチだって!」
中途半端に泣いて、中途半端に笑う。
「凛五は人間だ」
「うん」
「だから、僕が殺す」
僕が救う。
凛五が人間として生きていられる今。まだ誰も真実を知らない今。
「これが本当の兜割だ」
凛五の額に拳銃を当てた。
「ありがとう」
「ああ、僕の方こそ。ありがとうな、凛五」
目の下を拭って、
「ウチの方がありがとうだし」
「いや。これは譲れない」
拭いきれなくて諦めた。
「譲ってよ! もう、ありがとうありがとうありがとう」
「ありがとう掛ける四」
止まらない。
「ずるいぞちゃんと言え。ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうっ」
「何回繰り返すんだよ」
止めたくない。
「本当にありがとうなんだよっ」
「きりがないから僕の勝ちな」
「なんだその理由!」
本当は、ずっと続けていたかった。
「ふっ」
「あはははははっ!」
こんな下らないことで笑える生活を。
けれど、今凛五を救えるのは僕だけだ。
そして、それこそ、この役目だけは誰にも譲りたくはない。凛五のヒーローは、最後まで僕が務める。つまらない、自殺紛いの死に方なんてさせてたまるか。
心に言い聞かせても、手が、震えた。僕が握っているのは、人間の命だ。
「ずっと一緒に生きてくれて、ありがとう。りょうくん……」
凛五は、銃口の先で、命乞いではなく、特大の感謝を僕に向けた。
どうやら、凛五とのお礼合戦は僕の負けのようだ。
「あぁ」
さようなら。ずっと忘れない。今までありがとう。
言いたいことはたくさんあった。
声に出して泣きわめきたかった。
必死に堪えた。
涙だけが顔を流れ。
最後に僕を素直にさせてくれた。
「ごめんね」
最後の言葉に小さく凛五が繋げた。
「おいおい、なんで謝るんだよ」
と言いつつ、訊くまでもないことだった。僕に罪を負わせることに、罪悪感があるのだろう。まったく。
「前にも言っただろ。凛五は悪くない。誰も悪くない。僕の運が……良かっただけだよ」
勿論、こんなことは初めて言う。
「凛五に会えて、僕は幸運だった」
「うん……ウチもっ!」
と、凛五は笑っていた。
じゃあな。
うん、ばいばい。
赤い英が、霙の夜に静かに広がった。