人間モドキのRain Snow
小さなスタンドライトに照らされた室内は、いたる所に影を作っている。
点点と浮かぶ影の中で、白いコートと、桜色のロングマフラーに染みついた紅が暗く光っていた。
凛五の欠けた頭の傷口も、暗がりになっていて……だけど、ライトの位置を少しでも変えれば、それはすぐに見えてしまう。
ただ、傷口が見えようと、影になろうと……その場所が欠けていることは、覆りようのない事実だった。
息も止まりそうな僕へ、りょうくん、と凛五がもう一度呼び掛けた。
「……ねえ。聞いてる?」
凛五の声はしっかりと耳の中まで届いている。それでも、彼女に返事を返せる程、僕の脳神経にゆとりはなかった。
右のまゆ毛の外側。二センチくらい上。その場所が欠けて、削られている。それなのに。
「どうして生きてるんだよ……」
それ以上は何も喋れなかった。むしろこの一言さえ無意識のうちに発してしまったもので、普段なら、生きた人間に対して、こんな言葉を掛けることは決してなかったはずだ。だけど、僕の口からは、訂正の言葉も出てこなかった。
ばばっ。ばばばっ。
雨の雪が、心臓の様に次々と窓を打つ。氷の混じった雫が、血液の様にジワリと窓を伝って流れ、地へ落ちた。
「お願い……もう、ウチのこと……壊してよ」
壊して。と、また言った。
紅に染まった顔を僕に向けた。
右目に流れ込む血液。裂けた皮膚。砕けた肉。そして、その裏の金属光沢。
「自分じゃ、できないんだ」
「………………」
凛五は僕のことならなんでも知っている。
僕も凛五のことならなんでも知っている。
そう言えるだけの時間を共に過ごしてきた。
だから僕は、知っている。例えば、先日の事故の日の様に、ふとした瞬間に、凛五がわざと無防備になることを。
だから凛五も知っている。僕の運は、別に悪くなんてないことを。
知っている。ずっとこの町で一緒に過ごしてきたんだ。
「凛五言ったよな、自分はこの病院で生まれたって」
「…………」
外科医師の麻木先生が建てたこの病院で生まれたと、凛五は僕に言った。
「でもここ。産婦人科ないよな」
町で一番大きな病院。それなのに僕が生まれたのはこの場所ではなく、高校の向かいの通りにある病院だった。それは単純に、この病院に産婦人科が無いからだった。
「……うん」
小さく返事が返ってくる。
桜色のマフラーに少しずつシミが広がっていた。
「お前、ロボットなのか」
馬鹿なことを訊いている気分だった。それでも、凛五の皮膚の下に見える金属は、僕にその可能性を示唆した。
「違うよ」
だけど、そこにはしっかりと、否定を返してくれた。
「じゃあ」
なのに僕は、
「人間か」
と、尋ねずにはいられなかった。
座り込んで僕を見上げている凛五は、とてもじゃないが、まともに会話のできるほど軽傷には見えない。
ばばっ。ばばばっ。
「……わからない……わからないよ……」
そう言いながら、その瞳は、人間と同じ様に雫を落とす。
ロボットではなく。人間かは分からない――「脳の電気信号を解析して、機械化した身体を」――脳裏によぎったのは、さっき第一実験室で盗み聴いた会話だった。
もしそんなことが実現できるなら、ヒトは、今よりもずっと死ななくなる……。脳細胞が生きている限り、例えば腕の神経が不随になろうとも、代替品のマシーンアームを身体に繋げることで、普通の人間の様に腕を動かすことができる。
「ウチは、もうずっと昔に死んでるの」
「っ……」
一瞬、息が詰まった。
「……うん」
短い思考の中で、その可能性は、ほんの僅かに見えていた。見ない様に、見えていない振りをしていた。けど、本人の口から聞いてしまった。
死んだ人間が、ここに生きている。
並みの技術力ではそんなことできるはずがない。しかし、麻木先生は尋常ではない。
「身体が動かなくなって死んだの」
「……うん」
全てを機械にするならまだしも、彼女の頭からは、赤い血が流れている。
「なのにこうやって、生きてるみたいに喋ってるの」
「……うん」
ヒトの身体に、電極を埋め込んで、機械を繋ぎ入れて肉と皮膚を縫合して。そうやって少しずつ身体のパーツを取り替えて、その身体を生き永らえさせたのか……いや、だけどそれだと、おかしい。僕は子どもの時から凛五を知っている。死んだ人間に機械を埋め込んだだけじゃ、僕と一緒に成長していたことの辻褄が合わない。
だとすると。凛五の身体は。
「ねえ、りょうくん。ウチの身体……脳以外全部」
ばばっ。ばばばっ。
塞ぎたいはずの耳は、世界の音を鮮明に拾う。
「作り物なの」
成長に合わせて、少しずつパーツを組み直しながら、脳だけで人間を続けて来たのか。自分が生きているという罪の様なものに苦しみながら。何かが自分をあるべき死へと迎えてくれるのを期待しながら。生き続けてきたのか。
誰にも救われずに……。
「……うん。分かった」
頭の傷から溢れる赤い水が、瞳に溜まり、透明な水と混ざって零れる。
凛五の流したそれは、涙にもなり切れず、血液とも言えない、自身の存在の様に中途半端で、雨と雪が入り交じった霙の様だった。
「僕がお前を殺してやるよ」
僕は彼女を殺すと言った。