忍
白いコートを羽織り、もはやトレードマークと化した桜色の長いマフラーを首に回した凛五と部屋を出た。
「ねぇ凛五」
「なんだいりょうくん」
「本当に別行動するのかい?」
「ホントに別行動するよ、その方が効率的でしょ」
「僕としては、苦労して手に入れた戦力を手放すのは惜しいのだけど」
苦労して外壁を二階から三階へとよじ登って。苦労して状況を説明して。苦労して話を納得させて得たパーティーメンバーを次のマップに移動した途端に手放すのは大変惜しいのだけど。
「どうせ闘うわけじゃないんだから関係ないでしょ」
「凛五。お前はそんな理由で出会って以来ずっと一緒に過ごしてきた僕を見放すのか」
「重いよっ! 確かに生まれたときから一緒にいるけど、それは重いよっ! しかもすぐにまた会うよっ!」
「生まれたときからは一緒じゃないけどな、僕が生まれたのは高校の向いの通りにあった病院だし」
「あっ確かにそうだね。ウチはここで生まれたからね……って、そんなの今どうでも良くないっ!?」
「どんな状況だろうと間違いは正すべきだよ」
「性格っ!!」
性格をツッコまれた。
「もう、男の子だろっ、ちゃんとしろよっ」
「いやほら僕は男の子だからこそ女の子である凛五と一緒に行動して守るべきなんじゃないかな」
我ながら嘘臭い文言だった。
「そのセリフはもっと男らしく言ってよ……それに、ヒーローは遅れて登場したっていいんだよ」
それじゃそっちは任せたからね、とだけ言い残し、凛五は走り去ってしまった。戦力が……。だが脚は僕の方が速い。ピンチになったら駆け付けろということだろうか。
僕も麻木先生を探しに行かなくては。この三階の廊下を凛五と二人で半周ずつして、先生を探し、病棟の反対側で落ち合って脱出する手筈になっている。取り合えず、凛五とは反対へ歩きひとつ目の角を曲がった。すると、一番近くの『第一実験室』というプレートの張り出た部屋のドアが少しだけ開いて、光を漏らしていた。
「……。いきなり発見か? 凛五のやつ、だから僕と一緒に来ればよかったの……」
に、と言おうとしたところで、異変に気付いた。
中から声が聞こえる。
先生の独り言ではない。テレビやラジオの音とも違う。誰か知らない人間が話す声。心当たりは――あった。さっき会った。目が合った。二階の廊下で。あの男たちが、もう来ている。
いや、考えてみれば当然のことだった。なにせ、僕が雨どいを片手で登ってきたのに対して、あいつらは階段を登るだけでいいのだから、僕より三階に辿り着くのが遅くなる理由なんてない。凛五と喋り潰した時間を抜きにしても、絶対的に僕の方が遅いはずだ。
「――――てくれ……も、少し……のむ……」
ここからだと会話がよく聞こえない。しかし、今のはおそらく麻木先生の声だった。この部屋に居るのは間違いないだろう。
扉に近付いて、少しだけ開いた隙間へと耳を立てる。
「いんやぁ、麻木先生よ。それは約束が違うぜ。というか、約束は過ぎてるから、俺たちがわざわざこんな糞田舎まで出向いてんじゃあ、ねぇのかい?」
「だ、だからもう少しだけ待ってくれ。そしたらちゃんと約束のモノを完成させてそちらに引き渡――」
「せ! ん、せぇえ……わかってんだぜ? もう、五号機で研究は充分な成果が出てんだろ。そいつを大人しく渡せばいいじゃあ、ねぇかよ」
五号機……? 兵器か何かか? 麻木先生は何を作っているんだ?
「そっ、それだけは勘弁してくれ! 私が何のために君らに金を借りてまで研究をしていたと思っているんだ」
「何のためぇ? さぁて、何だったかな? お前ら聞いてるか?……だよなぁ。知らねぇよなぁ。なぁ先生。俺たちは、あんたが! どんな! 目的で、俺たちから金を借りたかぁなんてしらねぇし、知ったことでもないんだよ」
金……例え田舎町と言えど、三階建ての病院に外科手術の設備や個人の研究設備を国のバックアップもなしに用意するとなれば、どれだけの金が必要になるのか……? 確かに、麻木先生には今までの功績なんかを鑑みても、それなりの貯蓄や稼ぎがあったのだとは思う。しかし、最新の実験機器というのは、ひとつで数百万、さらには数千万から数億という値が付くものもある。それを個人の力で用意することが、果たして可能なのか。広い世界を見れば、そんなことをできる人物も居るのであろうが、この狭い町でそんなことをできる人間は、おそらく一人もいない。麻木先生も例外とは言えないだろう。どこかからの、投資が必要になる……。
「頼む、あと少し、もう半年でいい! それだけ待ってく――」
「聞き分けがないぜ、先生よ。失望させねぇでくれよ。あんたには期待してんだぜ? だからこそ、こっちは二十三億以上も投資してるし、成果が出るまで五十六年も待ってやったんだぜ? お陰でうちの頭が三代も交代しちまってるけどなぁ」
…………………………………………は?
なんだ? どう言うことだ? 何が起きてる? 何を言ってる? 二十三億? 五十六年? なんだそれは、なんだその規模は。こんなちっぽけな町で、何が起きてるんだ? 先生は……何をしているんだ。
「あんたのやってる、脳の電気信号を解析して、機械化した身体を外部装置を経由せずに動かす研究には、それだけの価値があるとこっちは判断してんだよ」
「だったらもう少しくらい……」
「まぁああ、こっちも、半世紀以上も待ってんだし、あと半年くらい待ってもよかったんだけどなぁ。残念ながら状況が変わったんだわ。どういうわけか、こっちの取引相手があんたの研究成果を急いでる」
「そ、そんなことを言われても。まだ用意できていないんだ。仕方がないだろう」
「だから、五号機を解体して完成品の演算装置を取り出せばいいだろうよ」
「そ、そんなこと……」
彼らがいったいどこから来た何者なのか、そんなことはもうどうでもいい気がしてきた。聞く限り、先生はなにか、とんでもないモノを作って売ろうとしている……ということになるのだろうか。だとしたら、僕はここから先、関わるべきではないだろうし、凛五を関わらせるわけにもいかない。話を噛み砕いて説明してくれる人間もいないし、事情が呑み込めない以上、迂闊に先生を助けるのも危険なだけかもしれない。先生には、現在進行形的に世話になっている身ではあるが、最優先事項は彼ではない。侵入者の仲間が、この部屋に居るので全員とも限らないし、やはり、早く凛五と合流して、気温一桁代の雨に打たれてでも外に出た方がいい。
第一実験室の扉の隙間からそっと後退る。月の沈んだ空からは光が降らない。廊下の窓から覗く町には、独りぼっちの街灯がまばらに下を向いて立っている。三階のこの廊下を照らす光はなにもなく、ただ雲から垂れる水の粒だけが、何かの光を時々跳ね返して僕の目に写って見せた。
ばばっ。ばばばっ。
強い風が吹くと、雨の塊が窓に張り付く。
…………雨の?
少しだけ違和感があった。
窓に張り付いたモノは、わずかに固体の様でもあった。さっき凛五はこれを見て雪が降っていると勘違いしたのかもしれない。確かに、窓の様子だけを見れば、間違えても仕方がない。
雪ではない。
雨でもない。
だけど、これは。
雪で。
雨で。
中途半端な存在。
少しだけ雪で、少しだけ雨の、少しずつ混ざった。
雪予報の日の雨。
霙。
昼間ならよく見えただろうけど。この時間では。この町では。この場所では。暗すぎて窓にぶつかった粒がやっと見える程度だ。霙なんかが降るのは、いったいいつ振りだろうか。もしかしたら初めて見るのかもしれない。空には何も見えていないはずなのに、目が離せなくなった。
気象現象的に分類すると、霙は雨ではなく雪として捉えられるらしいから、どちらかと言うと、雪が降っていると言った凛五より、雨が降っていると言った僕の方が、正解には遠かったのかもしれない。
雹や霰のように氷の塊になっているわけではなく、だからといって雪のような結晶でもなく、それでも雨よりは纏まっていて。窓にぶつかっては音を立てて散ってゆく。
いや、違った。こんな黒い空に霙の姿を探ってい場合ではなかった。窓から外を展望し、夜中でもヒト通りの多そうな場所を探しなおす。
高校へ続くバス通りなら、まだ明るい。あそこまでなら、走ればそんなに時間はかからない。もし見つかって追っ手がかかっても、とりあえず凌げそうな距離だ。あとは凛五と合流すればいい。
そう結論付け、音を立てないよう、気配を悟られないよう、慎重に、ゆっくりと、冷静に第一実験室の方へ意識を配りながら、窓に向けて背を向けようとした時。
「あっ。りょうくーんっ!」
真っ暗な廊下の先から、ずっと先から。
「おとーさんいたーっ?」
そんな声とともに、普段みたいな大声とともに、一人の少女が駆けて来た。
まだ遠くて、暗い廊下では、その姿がよく見えてはいないが。
待て。……待て、待て。早すぎる。もう病棟を一周してきたのか? 僕はまだひとつ目の角を曲がったところだったんだぞ……いや、違うのか。先生たちの話を盗んでいる間に、思いの外時間が経過してしまっていたのか……。
これはどんなホラー映画よりもゾッとする展開だ。
現実でホラーなんか展開しても全然ゾッとしないぞ。
本当に僕は運が悪い。
まったく。
「あ? 誰か外に居るみたいだな。ちょっと見てこい」
ほら、ばれたじゃないか。
「………………空気って読めるらしいぜ、凛五」
ばばっ。ばばばっ。
そんな僕の呟きは、霙と共に砕けて、お空の雲が散らずとも、霧消するだけだった。
小学校で字の読み方は習っただろう。