研究者の血
麻木先生は、医界では名の知れた名医だった。その最たる理由として挙げられるのが、専門分野の広さだ。通常、何年もかけて学ぶ医学でさえ、内科、外科などを始めとしたいくつもの専門分野に分かれ、さらに分かれて突き詰めていくものである。しかし、麻木先生の天才性は、そんな常識をモノともしなかった。医学内で専門外の知識をある程度有しているのは分かるとしても、材料力学、材料工学、構造力学、電子工学、生体工学、組織工学……。僕なんかが思い出せる範囲でもこれだけの分野に精通した人間だ。
先生が出した本も何冊か見たことがある、高度な細胞トレーニングによって著しく脳と身体の老化を防ぐなんていう研究もしていたようだが、余りにも理論が難解で一般へは広まらなかったらしい。また逆に、先生について記述された本も何度か目にしたことがある。医療の場では、専門分野で言えば、外科全般、ということになるらしい。それでも外科という広大な分野で、末尾に全般を付けているあたり、天才と呼ばざるを得ない。
そんな先生がどうしてこんな田舎町で病院の院長として外科医なんかをやっているかと言うと。それはまた簡単な話で、麻木先生は、医者である以前に、研究者でもあるからだった。
あれだけの分野に精通しているのだからそれも当然と言えるだろう。むしろ、研究がしたいが為に、各分野に精通したと言えるかもしれない。だからこそ、麻木先生には、各分野の専門家を雇い研究チームを組む、なんてことをしなくとも、場所と設備と金さえ用意できれば、一人で、自分のしたい研究に取り組む能力があった。
そして、場所と、設備を用意した。きっと資金だってまだまだあるのだろう。
なんの研究をしているのかは知らない。知ったところで僕には理解できないだろうけれど……今問題にするべきはそんなことではなく、僕が、曳いてはこの町の住人の多くが、麻木先生の素性を知っているということだ。それはつまり、天才科学者がこの病院に居ることを、誰もが知り得ると言うことだ。
誰もが……。
例えば。
「強盗? とか?……いや、そんな生易しい感じはしなかったなぁ……もっと、ヒトを殺して生きてる。みたいな目だった」
病室の窓から外へ出て、筒状になったプラスチック製の雨どいを伝い上の階へ。
相変わらず、月は雲の底に沈んでいる。この状況で雨なんかに降られれば冗談で済まない。片腕はギプスでほとんど役に立たないし、手を滑らせれば、十五メートルは先のコンクリートと接触事故だ。今度は、骨一本で済むほど、僕の身体は頑丈じゃない。季節も季節だし、せめて雪でも積もっていれば少しはクッションになってくれるのだろうけど。今更降って来ても、それこそ手を滑らせる原因に……と言うか、僕の死因になりかねない。
下を見ると、地面までの距離が、今日一人で過ごした時間よりも長く感じた。高い所が怖い。ということはないのだが、やはり僕も危険は怖いらしい。
上を見ると、三階の窓は、すぐそこまで来ていた。
始まったばかりの冬に、ひゅるひゅると背を突かれながら、なんとか窓の外枠に手を掛けた。僕の記憶が正しければ、ここは凛五の部屋のはずだ。流石に鍵は開いていないだろうけど、まだ室内は明るいみたいだし、中から開けてもらえるだろう。
そう楽観して窓から顔を覗かせた時だった。
またしても合った。
今回は、僕の方が覗く側だけれど。どういうわけか、偶然窓を開けた凛五と。
目が合った。
「きゃぁぁ――――」
「馬鹿っ。でかい声出すな」
「まぁぁもふふふがうふ」
ギプスの先から出た手で無理矢理口を押さえたらよく分からない生き物になった。
「おい凛五、遊んでる場合じゃないぞ」
「こんなところで登り棒してるりょうくんに言われたくはないよっ!」
「僕だってこんなことしたくはなかったよ」
「じゃあなんでこんなことしてるのさ」
「そんなの決まっているじゃないか」
現在、この病院内には、強盗……と言っていいのかは分からないが、少なくとも危険な人物が忍び込んでいる。彼らの目的は金か、それとも麻木先生の研究成果かは定かではないところだけど。三階まで来るのも時間の問題だろう。そうなれば、先生と、凛五も危ない。
「真上の階にパジャマ姿で無防備な凛五が寝ていると思ったからだよ」
「変態さんかっ! 落ちろ!」
怪我人な上に極限登り棒状態の僕に拳を振り上げる凛五。降り下ろす凛五。避ける僕。また振り上げる凛五。
「待て待て待て落ち着いてその振り上げた拳を下ろして口をつぐめ。僕が変態なのだとしたら、それはもう充分に堕ちてるよ」
「注文の多いりょうくん。そんな下らない駄洒落が遺言でいいのかな?」
「お前さては僕を地獄に墜とす気だな」
「いい加減にしろっ」
同感だ。こんな下らない話をいろんな意味でスリル満点なこの状況でしている場合ではない。
「じゃあ、いい加減に状況説明をしよう。すごいのと目が合ったから逃げるぞ」
「いい加減の解釈が噛み合ってないし、何言ってるか分からないんだけど……」
「だろうね……」
伝わる訳が無かった。
はたり、とシャツの肩に浸みが落ちた。
下らない会話を挿んでいるうちに、本当に雨が降って来てしまったらしい。
とりあえず、取り急ぎのことだけ伝えよう。
「寒いから中に入れてくれないかな?」
「ほんとに何しに来たの……?」
……雨宿り、かな。




