坂東蛍子、星のように閃く
日常の何気ない物事が、ある時ある機会に別の価値をさし示すことがある。例えば、土産屋で売られているステンドグラスが教会に置かれたり、笑顔が沈みゆく船の上で浮かべられたりした時にだ。そういう可能性を考慮するならば、坂東蛍子が就寝前に天蓋付きのベッドの上に寝そべってクロスワードパズルを解いているこの光景も、いつか何処かで違った意味を持つ日が来るのかもしれない。家が廃墟になったり、学校をサボったり、そんな時に。
「“花を抱えた神経質、だーれだ?”・・・うーん」
季節は夏に差し掛かり、坂東蛍子も今やすっかり高校二年生の肩書が体に馴染んできたが、就寝前にリラックスのための一工夫を入れないと寝付けないという幼い頃からの性癖(この件に関して蛍子は陰謀論を唱えている)は一向に治らないままであった。彼女は往々にしてその小休止を大好きな黒兎のぬいぐるみとの歓談で済ませていたが、時節や気分によっては別の方法をとる場合もあった。しかし歓談にせよ読書にせよ、その定められた快眠法は、空が晴れていようが、心が曇っていようが、必ず毎夜就寝前に実行される。そうすることでようやく彼女は、古代の失われた文字のように観念の世界へと深く身を埋めることが出来るわけである。
そんな蛍子が今専らのトレンドとして熱を上げて執心しているのが「クロスワードパズル」なのである。
初めは雑誌の懸賞に記載されていた小さな課題を、暇潰し目的でこなしていた彼女であったが、今となっては専門の雑誌を購入する程の熱の入りようであった。見開きのクロスワードパズルの問題を、寝る前に一頁分こなす。そうすることで彼女は良い塩梅に眠りの扉を叩くことが出来るのだ。しかし当然ながら問題というものは不均一なものなので、日によっては意外な苦戦を強いられ、早い就寝のための行為が夜更かしの種に化けてしまう時もあった。そう、まさに今日のような問題の時にである。
「美化委員の子ってこと?三文字でいたかなぁ」
彼女は文武両道の比類なき俊英として街中にその名を轟かせていたが、誰もが羨むその脳も角度によっては鉱物のように柔軟さが失われており、妙なところで躓いたりする。そのため、ブルーモスクのタイルの数を暗算で概算して導いた次に、クラスの美化委員のあだ名を本気で思い出そうとしたりしてしまうのである。ミステリーには強いが謎かけには弱い。それが坂東蛍子という少女なのだ。
蛍子はドアの近くで突然小さなものがぶつかる音がして、何事かと目を向けた。彼女の期待に反し、そこには泥棒も妖精も母の影すら無かったが、その代わり、ドアのすぐ脇の本棚の上に、筆立てに使っている小さなガラスの筒と、ささやかな閃きが転がっていた。
「そっか!かびんだ!」
ロレーヌはひとまず、蛍子がベッドの天蓋の向こうから弧を描いて投擲されたガムの包み紙に気付かなかったことに安堵した。そしてその後すぐに、絶交関係にある親友の家に忍び込み、天から友の日課の手助けをしてしまう結城満の大胆さに改めて恐れ慄いた――結城満という少女に関しては詳しい説明は避けようと思う。諸事情で自分から絶交したは良いが、寂しいので密かに親友の部屋を掃除したりして過ごしている人物と理解してくれれば良い。ただのおせっかいやきだ。ロレーヌがただの意思を持ったぬいぐるみであるのと同じぐらい、有り触れた存在なのである――。
「よし、これで最後ね」
満も満だが、蛍子も蛍子だ、とロレーヌは思った。夕飯を食べるために一階へ下りて、二階へ上がってくるまでの間に、部屋の換気が済まされていたり、制服にアイロンがかけられていたり、小物入れが小奇麗に片付いていたりすることに一度ぐらい気付いても良いのではないのだろうか。坂東蛍子は天才だが、何処か抜けている。その点、満は「抜けているが、何処か天才」とでも言うべき人物なので、ある意味両者は納得の相性なのかもしれない。兎のぬいぐるみは主人の隣で仰向けに寝かされた姿勢のまま、天蓋裏の少女に向けて皮肉と懊悩の入り混じった複雑な笑みを浮かべた。
「“昔裸が許されるために必要だった二つのもの。一つになったら踏みつけられるもの”?え、ええ?」
坂東蛍子は問題文を読み終わると、狸の置物のようなキョトンとした顔になり、少し耳を赤くして声を裏返した。
「六文字・・・裸って・・・あ、愛と・・・勇気?」
天蓋の向こうで結城満が頭を打った音が僅かに聞こえ、ロレーヌは冷や汗をかいた。
「・・・マ、ママに訊けば分かるかな・・・」
一通り想像力を働かせた挙句、狼狽して足をばたつかせながら耳たぶを抓っていた坂東蛍子は、再びドアの近くで物が落ちる音を聞き取り、そちらに目を向けた。絨毯とドアの隙間に出来たフローリングスペースの上には、何故か紙を捻って作られた輪が二つ落ちていた。蛍子は何故そんな奇妙なものが落ちているんだろう、と考えた。ちり紙で出来てるように見えるけど、昔私が作ったのが棚から落ちたのかな。でも全然記憶に無い――
「・・・あ!フローリング!」
蛍子は突然脳裏に浮かび上がった言葉に驚愕し、感激した後で、ジワジワと腹を立てた。
「風呂と結婚指輪ってこと!?そんなの分かるわけ無いじゃない!作ったヤツは何考えてるのかしら!」
まったくである。
「勝手に進めたら流石の蛍子も勘づくぞ」
「分かってるわよ。書き込んだりしないってば」
蛍子が深い眠りの向こうへ去っていった夜の只中で、ベッドの脇に腰を下ろした結城満はクロスワードパズルの頁をそっと捲った。
「・・・一応言っておくけど、アタシだって自分が危ないことしたのは分かってるのよ」
パズルを解きながら、満はベッドの上から呆れ顔で見下ろしているロレーヌに静かに声をかけた。
「でもさ、アタシにとってはとても大事なことだったの。蛍子が解けない問題って、不思議とアタシは解けるのよね。全部スラスラ解けちゃうの。それがなんか嬉しいんだ。蛍子の足りないもの、アタシは埋められるんだって実感がわくからね。そういうの、距離が出来ちゃったアタシには凄く有り難いし、大事なの」
まぁ、理解してもらえないだろうけど、と満はポツリと呟き、解答作業に戻った。ロレーヌは黙したままカーテンの隙間から覗く星空を見上げた。星々はそのどれもが宇宙の真ん中で、誰かを探すようにゆっくりと移動している。しかしそれらが手を取り合うことは決して無い。巡り合ったらぶつかって砕けてしまうからだ。だから星は、せめてもの慰めとして光を放って互いを励まし合っている――そんな風にロレーヌの目には映るのだった。まるで蛍子と満のようだ、と黒兎は思った。
しかし彼女達は星とは違って巡り合っても砕けたりはしない。何せ繋ぐ手があるのだから。ロレーヌは互いを思いやって互いから距離を置いている二人の関係に、今夜もやきもきしながらそんな愚痴を星に語るのだった。
「あぁ、これだけ解けない。難しすぎ」
どれだ、とロレーヌが満の肩の後ろから雑誌を覗きこんだ。
「これこれ。“絶縁体が絶縁状態を保てなくなる電界の強度を示す”」
「ぜつえんたいりょく」
結城満が慌てて後ろを振り返った。ベッドの中の坂東蛍子は、先程と変わらず健全な寝顔で安らかな寝息を立てていた。心臓の辺りを撫でながら安堵のため息をついている満に、ロレーヌは肩を竦め、笑い声を押し殺しながら言った。
「確かに、足りないものを埋められるようだ」
【結城満前回登場回】
尾を飲み込む―http://ncode.syosetu.com/n4350ca/
【ロレーヌ前回登場回】
親友の面影を見る―http://ncode.syosetu.com/n8432bz/