壱
「御目覚めの時刻に御座います、透子様。」
執事が主を起こす。
朝、七時。空は晴れ渡り、木木聳え立つ高台で、木の葉に埋まるように建つ屋敷に、朝陽が真っ直ぐ差し込む。数えるのも億劫な程の部屋の中で、最も日当たりの良いこの部屋の…、否、今やこの屋敷そのものの主である透子は、執事の声に瞼を上げた。
そしてそのまま、天蓋付きの寝台から、部屋のカーテンを開けて回る執事を眺める。
「御加減は如何ですか、透子様。」
「悪くない。」
無愛想ではないが、感情の起伏の殆どない透子は、抑揚のない、それでいて透明感高く、歳の割に低めの声で答えた。
「皇前。」
透子が執事を呼ぶ。
「はい。」
執事が振り返ると、透子は「『南』が動いている」と言って天井を見上げた。
「それでは、急いで御仕度をしませんと。」
「うん。」
皇前は透子に歩み寄り、上半身を起こしてやると、衣裳部屋からワンピースを取り、手早く透子を着換えさせた。イヴニングドレスを捲り上げて脱がせ、ワンピースを頭から被せる。背中の釦を留め、抱き上げてスカートを直してやり、そのまま抱え上げて窓辺の椅子に連れて行く。総て、執事が行う。透子はされるがまま、殆ど身動きしない。
透子が何もしないのは、二年前に事故に遭い、下半身不随になったからだ。唯一動く上半身も、儚いほど華奢で、物を持つ事は出来ても、自分の体を支える事は出来ない。何をするにも、ほぼ人の助けなしには出来ない躰。
不自由な躰と、事故に因り両親も死に精神的な闇を抱えた透子は、現在執事と数名の侍女と共に、この巨大な屋敷で暮らしている。
代々受け継ぐ広大な土地と屋敷と、辺り一帯の土地を保有するという権力、両親、その両親たちが築き上げ、貯えて来た巨額の遺産を、必要なだけ使い、生きる。だが、一六歳という若さで、しかも女というそれだけの理由で、独りその財を受け継ぐ事を阻まれた。欲に溺れた親族が強引に代理人を申し出たのだ。世間もが透子を妬む様に親族に同調し、喧騒を好まぬ透子は、呆れ気味に親族を代理人、及び自身の身元引受人、財産管理人に宛がい、親族から生活費や必要費を受給する事で生きる道を選んだ。
それでも額面では何不自由ない暮らしが出来、屋敷の中の事、行動までは監視が来なかった事もあり、代理人が秘密裏に財産を食い散らかしている事に目を瞑れば、わりかしと気儘に、平穏に暮らせてはいるのだった。
窓辺の椅子は、透子が佐久間家の血に脈々と受け継がれるその力を、惜しみなく発揮出来る特別な椅子だ。
椅子自体には何の仕掛けもないが、大きな窓から見える外界と空の景色が、透子の心を外に連れ出してくれるのだ。
それが、透子の調子を上げる。
椅子に下ろされた透子は、鼻で大きな深呼吸をした。まるで、窓から差し込む朝陽を匂いでも嗅ぐように。そして静かに目を閉じると、体を弛緩させる。皇前はその体が椅子から転げ落ちないよう、見守るだけである。
透子の力。
それは、人の夢を視る事が出来る不思議なものだ。人が見ている夢の中に入り込み、その夢を通じて人に影響を与える事が出来る。
佐久間ではこれを、『夢見』の力と言う。
佐久間家に受け継がれるそれは、言葉で語るには聊か奇妙で信じ難い。
詐欺師などと言う言葉で蔑まれぬ様、佐久間家はこの力を滅多な事では口外しなかった。故に知る者は、国内の政治家の一部と、財閥、企業のトップクラスの人物、それらに影響力のある民間人数名だけである。
日本では確認される限り弥生時代には既に類似する呪いが確認されており、古来、政に多大な影響を及ぼしていた。故に、『夢見』の存在は易々と口にして好いものではなく、記録としても残存するものは限られている。
懐疑的な能力でこそあれ、ひとたびその能力に頼った者は、直ちにそれを信じる事になる。
"夢の中に、夢見の姿を確認する"からだ―。
そして、この力を受け継いでいる血筋がもうひとつ存在する。
それが通称『南』と呼ばれる一族、南正覚家である。
佐久間と南正覚は敵対関係にある。